夢のかたち・2
ちょっと間が開いた上に短めです、すみません。
母が亡くなったころの、父の姿を覚えている。いつだって堂々としている偉大な父が、まるでそういう人形みたいに、呆然と涙を溢しながら何度も母の名前を呼んでいた。まだ幼かった俺には母の死がうまく理解できず、ただ、そんな父の姿を見るのが悲しかった。
父は、幼いころから許嫁だった母を心底愛していたのだという。母が亡くなってもうすぐ二十年になるけれど、後妻どころか妾の一人も取らなかった。俺に兄弟がいないことをとやかく言うものもいたそうだが、すべて突っぱねていたらしい。俺には従兄弟が三人できたので、結果的には俺に何かあっても大丈夫な状態にはなったけれど、そうでなくとも父は他に子を成すつもりはなかっただろうと乳母から聞いた。
この国には治癒魔法が存在する。だが、それも万能ではない。例えば、切れた腕をその瞬間に繋ぎ合わせることはできても、なくなった腕を新たに生やすことはできない。術者の魔力だけでなく、かけられる側の体力や、受け取れる魔力の容量にも効果は依存するため、発見が遅れた病や、そもそも体力や容量の少ない人間には効きづらいという面もある。
生まれつき体の弱かった母は、出産で体力を使い果たしてしまい、治癒魔法が効きづらかったのだという。父が国中の魔導士を呼び手を尽くしたが、帰らぬ人になってしまった。それをきちんと理解したころには、自分が母が命を落とすきっかけになってしまったのではとも思ったものだが、俺の周囲には誰一人としてそんなことを言うものはいなかった。もちろん、父も。
あの日、うす暗い部屋の中、項垂れて涙を溢して母を呼び続けていた父は、俺に気が付くと力なくその手を伸ばしてきた。子供でも突き飛ばせそうなほど弱い力で抱き寄せられて、長い時間そうしていたことを覚えている。いつの間にか眠ってしまった俺が次に目覚めたとき、父はもういつもの父で、その後も母が生きていたころと変わらずに、俺を愛してくれた。
俺にとって愛とは、広く分け与えるものだ。それは義務でもあるし、逃げ道でもあった。誰か一人を特別に想うことは、ほの暗い記憶と隣り合わせだからだ。
と、いうのに。
「……殿下」
「……」
「殿下」
「っあ、ああ、すまない。なんだったかな」
「手が止まってらっしゃいますよ」
はあ、とわざとらしいため息を溢したジョシュアが、休憩にしましょうと立ち上がった。メイドを呼んでお茶の用意をしてくれるらしい。手が止まっていると言われたのは今朝から数えて三回目なので、少々申し訳ない気がする。
「あなたが恋煩いをする日が来るなんて思いませんでした」
「こ……っ! こ、恋煩い、とかでは……うん」
ない、と言い切れなかった。さっさとメイドを下がらせた側近、乳兄弟でもあるジョシュアの言葉は、俺自身思っていたことだったからだ。父は進んで俺に縁談を持ってくることはなかったし、それに甘えて俺もこの歳までフラフラしていたわけだが、王族としていつかは身を固めなくてはと思っていた。それを苦だとも思わずに、きっと無難な相手と無難な関係を築くのだと。
なのに、こんなふうに一日中誰かのことで頭がいっぱいになるなんて。戦場に向かうその身が心配で落ち着かなくて、彼女のことが知りたくてそわそわして、何度も時計を見たり、逆になんにも目に入らずにぼうっとしたり。自分でもおかしいとわかっている。どくどくと、これまでの何倍も激しく血を巡らせるこの感情は、こんなにもままならないものなのか。
「聖女の一行が出発してから今日で三日ですか。そろそろ村に着くでしょうね」
「ああ」
どうか無事に戻りますように。祈ることしかできないこの身がもどかしい。
「戻ったら、食事にでも誘ってみてはいかがですか」
「ばか言え。……彼女には婚約者がいるだろう」
「オズワルドですか」
その名は有名だった。ここ何十年、あるいは何百年で最も優れた魔導士だというその男は、歴代最年少で宮廷魔導士のトップに立った。技術も魔力量も抜きんでていて、その上、人柄も良いという。いつも落ち着いた笑みを浮かべている彼とは俺も何度か話したことがあるが、たしかに謙虚で穏やか、親切な人物だった。同時に、なんとなく本心が読み切れないタイプでもあった。少なくとも俺の前で嘘を吐くようなことはなかったが、上手く躱されているだけという気もする、そんな人物だ。
「あなたがごねれば無理も通るでしょうに」
「できないよ」
「できますよ」
当たり前に自分の分の紅茶を啜るジョシュアが言うように、俺が望めば彼らの婚約を破棄することもできるだろう。そのあと自分がリリーの婚約者になることだって。できるできないでいえばできるけれど、やりたくはない。
「俺の気持ちは恋ではないかもしれないし」
「その有り様で?」
「うっ……、いや、その、なんというか……俺は彼女のことをよく知らない」
惹かれたのは、まっすぐな愛情と、それゆえの強さ。自信たっぷりの、笑顔。それらの理由のひとつも知らないままで、身勝手に婚約者と引き裂くことなどできはしない。彼女のことを知りたいとは思うけれど、知ることでむしろ嫌いになることだってあるかもしれないし。
「知ろうとすることくらいはいいと思うんですがね」
「いいんだよ」
いいんだ。知ることで嫌いになってしまうより、知ることでもっと好きになってしまう方が怖い。彼女を誰かから奪うことになるのも、いやだ。
「俺は臆病者みたいだ」
「……お優しいんだと思いますけどね。さて、仕事に戻りますよ」
「ジョシュアは厳しいなあ」
机の上にたくさんの書類が並ぶのを見て、この分だと失恋の痛みは感じずに済みそうだと思う。実らせたいと願ってしまう前に枯れてくれるほうが、きっと楽に生きられる。