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昔々あるところに、お爺さんとお婆さん、そして犬のジョナサン・プッチャーマンが住んでいました。
ジョナサンの名前は生まれたときからこの名前でしたが、自分にこんな名前を付けたのが誰かは知りませんでした。
ジョナサンはお爺さんとお婆さんに、自分のことをプッチャーマンと呼ばせたがっていました。
しかし、犬の意思を汲み取れないうえに外の国の言葉に明るくないお爺さんとお婆さんは、ジョナサンのことをポチと呼んでいました。
お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に、ジョナサンは縄張りへお散歩に。そうして三人は毎日をつつましく暮らしていました。
しかしそんな慎ましくも幸せな毎日は、ある事件を機にあまりにもあっさりと終わりを迎えてしまうのです。
ある日のことでした。いつもなら柴を背負って帰ってくるはずのお爺さんが、その日はあまりにも大きな木を抱えて帰って来たではありませんか。
「これを売れば生活に余裕が出るはずだで。お婆さんにも綺麗なべべを買ってやれる」
誇らしげにそう言いながら帰って来たお爺さんでしたが、そのときお爺さんの腰から不吉な音がしたのです。
ごきっ、と余分な物など何一つない静かな家に、嫌な音が鳴り響きました。
さあっと顔から血の気が引き、お爺さんはへなへなとその場に崩れ落ちます。その様子を見たお婆さんが慌ててお爺さんに駆け寄りましたが、そのころにはお爺さんは痛みのあまり気絶していました。
さてそこからが大変でした。
お爺さんは酷いぎっくり腰。結核などと違い命に別状はないことが幸いでしたが、布団から起き上がることすらままなりません。
そしてこの一家は、お爺さんの芝刈りによって生計を立てていましたから、お爺さんが動かなくなってしまった今現在、収入はなくなってしまっていました。
お婆さんは何とかしてお金を作ろうと苦心していましたが、今まで洗濯炊事と家事を完璧にこなしてきたお婆さん。それは逆に、商いなど直接お金を作るような仕事はしたことがないことを示していました。
健康でこそありますが、お婆さんもなかなかの老齢。体力は全盛期のように無尽蔵ではありません。
お爺さんの真似をして芝刈りをしようにも体力が続かず、手内職をしようにも目がかすんで細かい作業はなかなか進みません。
家にあるものを売ってしのごうとしても、元々質素な生活を送ってきたものですから売れるようなものがありませんでした。
こうなってしまうと真っ先に困るのはジョナサンです。
ジョナサンは犬ですが馬鹿ではありません。この現状で切り捨てられるならまず自分だろうと予測はついていました。
今も、無くなることこそありませんが、餌の量と質は日を追うごとに下がり減っていきます。
このままでは飢えてしまう。それに自分を養っていたらお爺さんとお婆さんまでも潰れてしまうかもしれない。
自分が生きていけなくなること。そしてそれ以上にお爺さんとお婆さんの負担となることを恐れたジョナサンは、自分で餌を探すべく町へとおりていきました。
さあ、降りてきたはいいものの、ジョナサンはお金を持っていません。
頭のいいジョナサンは、物は金と交換であることを知っていました。
どこぞの野良犬のように奪って逃げるか?盗みを働くか?いいや私は紳士なのだ。そんなことはしないと、やたら意識の高いジョナサンは空腹と戦いつつも自分を律していました。
ですがそんな強がりも、三日で底をついたのです。
ジョナサンは此処でようやく、お婆さんよりも自分の方が働いて報酬を得るのが難しい事に気が付きました。
そう、ジョナサンは変なところで頭が抜けているのです。
まず犬を雇用したがる人間はまずいない。野犬に襲われた子供を守ってやったこともありますが、報酬どころか自分も野犬と勘違いされ蹴られておしまいでした。
時折礼を述べるものもいますが、口頭だけか撫でて終わり。金どころか食い物すらろくにありつけないのです。
ジョナサンは困りました。大いに困りました!
時折ジョナサンに食い物を恵んでくれる人間もいましたが、その程度で腹が満たされるはずもなく。
ある日、ジョナサンは空腹で朦朧となりながら、ふらふら右に左に揺れながら町を歩いていました。
そんなジョナサンの鼻に、何とも美味しそうなにおいが飛び込んで来たではありませんか。
長いこと何も食べていないジョナサンは、誘蛾灯に惹かれる虫のようにその匂いの方へ誘われて歩いて行きました。
このにおいは何だろう。美味しそうだ。そう思いながら歩いていたジョナサンは、何かとぶつかってしまいました。
しくじった。そう思いながら頭を振り意識をはっきりさせたジョナサンの目に、ここではずいぶん珍しい姿をした人間が映りました。
随分立派な陣羽織に旗、服も綺麗なもので、腰には刀まで携えていました。
それだけでも大分珍しいのですが、トドメのように陣羽織や旗には何とも立派な桃の絵柄が。
普通刀を持っている侍やらは、虎や龍と言った華々しくも猛々しい絵柄を好むもの。どうして桃なのか……。そう疑問に思い呆けていたジョナサンでしたが、彼の頭を一気に覚醒させるものがその珍妙な格好をした人間の腰についていました。
きび団子を入れた袋でした。ジョナサンを惹きつけたのもそれから発される匂いだったのでしょう。
珍妙な格好、しかし刀を持っているという事はなかなかに裕福な者のはず。
そう判断したジョナサンは、思わずこう口走っていました。
「桃太郎さん、桃太郎さん。お腰につけたきび団子、ひとつ私にくださいな」
そう口にしてから、ジョナサンは慌てて口をつぐみます。
犬の言葉で話したところで、一体誰に伝わるというのでしょう。今までだってそうでした。自分は野良犬ではない、お前を救ってやったのだと叫んだところで、相手にはただの吠え声にしか聞こえないのです。
私は馬鹿か。何の意味がある。自嘲しながらその場を去ろうとしたジョナサンに、桃太郎と呼ばれた人間はこう呼びかけました。
「いいよ。かわりに私の鬼退治についてきておくれ」
何を言われたのか、ジョナサンは一瞬理解できませんでした。なんという事でしょう。目の前にいるこの少年は、犬の言語を理解する事が出来たのです。
そのうえでジョナサンの願いを聞き入れ、あまつさえ対価さえ提示したのです。
これは夢なのか?混乱しているジョナサンの気持ちを知ってか知らずか、桃太郎はジョナサンの鼻先にきび団子を突き出したのです。
呆気に取られて見上げれば、ニコニコと邪気のない笑顔でジョナサンを見つめる年相応な少年の姿がありました。
ジョナサンは涙を浮かべながらそのきび団子に食らいつきました。
久々に食べるまともな食事。空洞しかない胃に入ったそれは確かな質量をもってジョナサンを満たしたのです。
その後は約束通り、ジョナサンは少年について行きました。
あまり離れるとお爺さんとお婆さんが心配だったのですが、今自分が戻ったところで何もできません。
それくらいならこの少年について行った方が自分は何かなせるだろうと、ジョナサンは後ろ髪を引かれる思いで桃太郎について行ったのです。
しかしそこからはトントン拍子でした。
途中で仲間になった猿は器用で門の開錠が出来る。雉は空から偵察が出来る。
ただの犬の自分に何が出来ましょう。ジョナサンはせめて戦いの際には役に立とうと意気込んでいたのですが、それすらできませんでした。
それはなぜでしょう、単純です。桃太郎がべらぼうに強かったのです。
剣豪とはこういう事かと、ジョナサンは内心舌を巻いていました。
少年が自分より何倍も大きい体の、棍棒を持った鬼をばっさばっさと切り倒していく様にジョナサンは恐怖すら覚えたほどでした。
それでも吠えたり噛みついたりと必死に戦いましたが、ぶっちゃけジョナサンは何もしていないのに近い状態で鬼が島は制圧できてしまったのです。
「皆のおかげだよ。家についたらもっとお礼を渡すから楽しみにしていて」
そう涼やかに笑う桃太郎は、先程の鬼気迫る気迫はどこへやら、どこにも居る好青年のようでした。
彼の後に続く彼を鬼ヶ島へ導いた仲間たち。ジョナサンはその輪に加わる資格が自分にはないと淡々と思っていました。
しょぼんと頭を落としながら、桃太郎と仲間、そして荷台の更に数歩後ろをとぼとぼ歩くジョナサン。
そんな彼の目の前に、チャリンチャリンと音を立てて黄金色のものが落ちてきたのです。
それはジョナサンが求めていたお金、大判小判でした。
ジョナサンは思わず、桃太郎に渡されて首に巻いていた桃柄の風呂敷を地面に広げてそれを搔き集めました。
どうにか首に小判の入った風呂敷をまき直し、ジョナサンは桃太郎の方に視線をやりました。
ジョナサンが歩みを止めたことに気づかず、楽しそうに喋りながら歩いている一行。言いようのない疎外感、そして不釣り合いともいえる自虐を覚えたジョナサンは、桃太郎たち戦友に一礼しそのまま走り去ってしまいました。