杉の下にも3年
アラームで目が覚める。目を開けると、日光で照らされた寝室が眠そうな雰囲気で私を見つめている。大きく伸びをして、あくびとともに深呼吸。特に理由もなく携帯電話の電源を押す。分かり切った時刻を見て、体を起こし、洗面所に向かう。
「おはようございます」
「あぁ、いたのか」
「『おはようございます』でしょ。全く…。
何食べます?」
「フレンチトースト。あとベーコンエッグ」
「飲み物は?」
「樹液」
「そんなものありません」
口腔洗浄液で口をゆすぎ、頭をボリボリかく。耳の中がごそごそするので綿棒で掃除を試みるが、結局取れずあきらめる。
「雨井、右耳がボソボソいう」
「なんか憑りついたんじゃないですか~?」
「困ってる」
「はいはい」
耳の中でパキッと音が鳴り、下を向けて頭を小突くと耳垢と髪の毛が出てきた。
「おぉ」
「髪切った方がいいんじゃないですか?」
「いいんだよ、面倒くさい。それに、もうあと何か月もすれば寒い季節になるじゃないか」
「毎年そう言ってません?」
机で朝食を待つ。待っている間、テレビでニュースを流す。ニュースを聞きながら、携帯で今日の天気を見る。
一つ断っておくが、朝食はいつもいつも雨井が準備しているわけではない。居ない時もあるので、その時は自分で用意をしている。雨井がいる時はお願いしているが、それは雨井が「あなた自分で作ると食生活が偏りますから、私がいるときは私が作ります」と申し出てきたからだ。こちらとしては楽できるのならそれに越したことはない。
「おはよう、エジソン。あぁ、おはよう、キュリー」
犬たちは朝から驚くほど元気に近寄ってくる。この二匹は夫婦で、大体いつも朝一番に私を迎えてくれる。二人が迎えてから、ほかの犬たちが来るのが日課だ。
猫は…
「ニャー」
「あぁ、おはよう、漱石。今日は機嫌はどうだ」
全くの無表情で漱石は立ち去る。うちの猫たちは私には無関心だ。だが別段それでいい。私だって、ほかの種に興味を抱くなんて考えられないからだ。
「昼から曇り、にわか雨か…」
「洗濯は明日ですね」
「いや、少し溜まっているから、タオルとか下着類だけ洗って、浴室で干す」
「さようですか」
洗濯機を捜査している間に、雨井が机に朝食を並べる。私のを出し終えた後、猫たちと犬たちの食事を床に置く。
「さぁ、いただきましょう」
「いただきます」
ここは不思議と彼らは私の合図を待って食べ始めるのだ。
…とまぁ、見ての通り、私はすっかり人間の生活になり、すっかり人間になっていた。携帯電話も、はじめは何が何だかとんと見当がつかない代物だったが、今となっては暇さえあればいじるようになった。世間様ではこういうのを「依存症」というらしいが、それはいっちょ前に人間になった証拠だと、雨井は以前言っていた。
朝食は高校卒業まではずーっとトーストとベーコンエッグだった。大学になったある朝、雨井が偶にはとオムレツを作り出し、そこから雨井が料理にドはまりした時期があった。その頃には私もある程度料理ができるようになっていたので、フレンチトーストは私が雨井に教えた料理の一つだ。ただ、そんなフレンチトーストは、家庭科の授業で音綟から教えてもらったものだが…。
「それで?今日からでしょ?杉下さん」
「あぁ。今日の8:30からだ」
「大丈夫なんですか?人と共同作業なんて、したことないじゃないですか」
「大学ではやってただろ」
「それは勉強です。しかもその大半は同世代とだったでしょ?
年下の女子とうまく話せるんですかと私は聞いてるんですよ」
「剛田だって店で年下の女を雇っていただろ、剛田にできて私にできない道理はない」
「そんなこと言うと剛田さんが可哀想でしょ!」
「ちなみに、彼女もう来てますよ」
思わず飲んでたお茶を吹きこぼす。
「どうしてだ?! 8時半って言ったろ!?」
「知りませんよそんなこと」
時計を見ると、時刻はまだ6時半。私が家を出るまでまだあと30分はかかる。
「来てるのか?!ついてるのか学校に?!」
「あっ、そうではなく、もう家を出発されているってことです」
「にしたって早すぎるだろ、彼女は学校から30分の所に下宿しているんだろ?
7時過ぎには着くじゃないか!」
「ですねー」
慌てて朝食を掻き込み、出発の準備をする。
この国の人間はいつもそうだ。どうしてか「○○時に集合」と言っても、その時刻の5分以上前、ひどいやつは30分以上前にはもうついていて、「ついたので待っています」とか言いやがる。こんなことをいうのは野暮かもしれないが、待たせている身にもなっていただきたい。『待たせている』という事実がこの身を急がせ、本来の時間の流れを無視して準備をするもんだから、忘れ物や身なりをチェックする暇も少なくなってしまうのだ。
英国圏に研究旅行に行った際は、時間通りに来るか少し遅れてくる。ヨーロッパにおいては逆に遅れてくるのがマナーなんじゃないかと思うほどだ。アジアに至っては来ない可能性だってある。“来ない”はさすがに論外だが、付き合わせる身としては、多少の遅れは許容するのが当然と思っていた。1~2分遅れただけで目くじら立てて怒り出すこの国の文化が、この嫌ほど早い集合の文化を作り上げたのだ。
「行ってくる!」
「は~い、行ってらっしゃい」
私はバイクにまたがり、大学へと急ぐ。
「あっ、おはようございます!本日から!
よぉろしくどうぞお願いどうぞぉ~~!」
「杉下君・・・・・・・ハチッ…八時半って・・・言ってなかったっけ・・・?」
「あっ、はいっ!」
「いまっ・・・・・・・・まだ7時・・・・・」
「はいっ!早めに来た方が良いかと思いまして!
良かったです。岩崎教授は7時出勤なんですね」
「チガッ・・・・ちがう・・・、君の勤務初日だから・・・
いろいろ準備しようと思って早めに来たら・・・もう着いてるんだもの・・・」
「あぁ~…もしかしてそれで…」
「うん、息切れ・・・」
「まぁ、ひとまずいったん入ろうか」と、言葉に出せたらよかったのだが、息切れしすぎて話せなかった私は、手招きで杉下君に研究室に入るように促す。すると、何を思ったか「いえいえ」と遠慮して入らない。ちがう、私は「入れ」と言っているのだ。疲れで若干イライラしていた私は、なぜだかペコッと会釈をして先に研究室に入った。
「では教授!まず私は何をしましょうか!?」
そうしきりに聞いてくる杉下君は、まるで散歩を待つエジソンのようだった。
「わかった、わかったから、いったん座ろう。ゆっくり業務について説明するから」
私はいったん杉下君を着席させ、備蓄してある豆乳を温める。
「へぇ・・・教授は夏でもホット派なんですね・・・」
「体質的にお腹が弱くてな。昼間くらいになると改善されるんだけど、午前や就寝前は詰めたものを飲むと30分以内に下してしまうんだよ」
「あっ、分かります。私も朝冷たい牛乳飲むとお腹痛くなります」
「・・・それは冷たい牛乳だからじゃないのか? マグカップに移して30秒ほど温めると、
常温に近い温度になるから飲みやすいぞ」
温まった豆乳に黄な粉をまぶし、黒蜜を上から少々かける。自分一人分というのも冷たいので、杉下君の分も用意し、彼女の目の前に置く。
「ありがとうございます」
「それで・・・だ。じゃあ、やってもらうお仕事の内容、一日の流れをざっくり説明するから、
まずはゆっくり聞いてくれ。質問は最後にまとめて聞こう」
ゆっくりと業務内容・・・というよりは、手伝ってほしいことを伝えた。講義で使用する資料のプリントアウト、学生の出席確認、資料の配布補助、AV機器操作などなど。杉下君はふむふむと真剣にメモを取ってくれていたが、正直なところ、メモを取るほどの大きな仕事はまだ任せられない。
一通り手伝ってほしいことを告げて、質問はないか尋ねると、杉下君は無表情で「ん~」といったまま動かなくなる。日本人あるあるだが、行間を読みすぎるのか、シャイなのか、優秀なのか、こういう時質問があるのは、100人中一人か二人くらいだ。
「まぁ、実際にやってみないと分からない部分なんて出てこないから、まずは私が指示する内容を手伝ってくれたらそれでいい」
「わかりました」
「あと・・・業務というほどのことではないのだけど・・・」
「なんですか?」
「杉下君も参考資料をどんどん購入してくれ。私とは違う目線で、民俗学や人文学の資料集めをしてほしいんだ」
「私が・・・ですか?」
「あぁ。私がカバーできる民俗学の本には限界があってね、どうも異国の本はなかなか手が出にくいんだ。そこで、無限母語話者である君の興味をそそる本を、どうか探して購入してほしい」
そう告げると私は杉下君のパソコンを操作して、書物用の購入サイトのページを開く。
「ここのネット通販には私のクレジットカードの情報がすでに登録されているから、好きなだけ本を買ってくれてかまわない」
「えっ、でもお金・・・」
「大丈夫、すべて経費で落とす」
「・・・おぉ」
「まぁ、そんなところで、一限目の講義の準備をしよう。今日は私が準備をするから、まずはどんなことをしているか見て学んでくれ。要所要所で作業の詳細は説明するけど、分からない部分があればその場で質問してくれ。私の手を止めることなんて気にしないように。分かったかい?」
「はい!」
時計の針はいつの間にか1限目の30分前を指していた。「では、始めようか」と言葉を吐きながら、私は準備を進める。
講義でプロジェクターに映し出す資料の確認。今日の参考書の内容確認。追加資料の確認と出力。そして各種機材の準備。
「杉下君、この資料をそこのコピー機で35部刷ってくれ」
「わかりました。ホッチキス止めしますか?」
「時間が許せばお願いできると嬉しい」
「大丈夫ですよ。間に合わせます」
いつもは一人でやっていることを、誰かと一緒にやるというのは非常に難しいことだ。自分が動き、移動し、作業をする場所に人がいる。ぶつかりそうになったり、避けないといけなかったり、煩わしいことこの上ない。
しかし、いつも一人でやっていたことを、誰かと一緒にやるというのは、存外楽しいものだ。寂しいと感じていたわけではないが、ほんの少しだけ、研究室に賑わいが増えたような気がした。




