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約束は、幾千の夜を超えて

作者: つかさ こうじ

 淡い“恋”、あえかな“恋のようなもの”の思い出は、きっとあなたにもあるはず。

 これほどコミュニケーションツールが発達していなかったあの頃のそれは、それゆえにどこまでも鮮やかで、せつないのではないでしょうか。

 この物語を、“愛”の意味を知る前に出逢ってしまったすべての“恋”と、果たされなかった約束に捧げます。

 果たされることのなかった約束は、いつになれば“過去”に属するものになるのだろう…そんな問いに、答えることができる人間がいるのだろうか。

 “永遠”を生きることのない人間が、およそそれについて完全な形で語ろうと試みるようなものなのかもしれない。

 ひとは皆、果たされなかった約束をひと知れず抱えて生きているのだろうか。

 そんなことが可能なのか、僕には如何とも判じがたい。



 いついかなる世でも約束には神聖な意味合いが濃くあってしかるべきだと、僕は思う。

 様々なコミュニケーションツールが発達した現代社会では、その意味合いにいくぶん変化が生じているのか、簡単に交わされてはすぐに忘れ去られてしまう約束が増えたようにも思える。

 ひとつの人生において出会うにはけっして少ないとはいえない数のそれらを見てきて、なにか社会における価値の転換のようなものを感じる。

 そうした社会の集団的価値観の変化速度とパーソナルな価値観のそれにはいささかのズレが生じるのか、どんな約束にせよきちんと向き合わないと気がすまない自分がいるのもまた事実だ。

 そんな一方的な努力とはうらはらに、僕の周りにはあきれるほどの果たされなかった約束が降り積もっている。

 それらは、嘘とはまた違うし、真実を隠すこととも、また少し違う。


 

 ある意味では、僕は“過去”に生き続けていた。ある約束とともに。

 忘れ去られたわけではない。仕方のない理由によって“過去”のある時点で凍りついてしまった、あの約束。

 時が止まったかにも思えなくもない二〇年、それは僕にとっても短い時間ではない。

 あれから幾人かの女性が僕の上を通り過ぎていったが、約束は、いまでも僕にとって変わらずに大切なそれであり、忘れてしまうことなんてできそうになかった。

 携帯電話もメールも身近でなかった時代に一緒に過ごした時間を…僕は…。


 

 窓からベランダを見やると、時折風が強く吹き、細かな雨が音もなく手すりを濡らし続けていた。

 このところのおかしな天候は不穏な空気を連れてくる。

 思い立ってスマートフォンを手にとると東京で暮らしているキコに、様子をたずねるメールを送る。秋の最初の台風が首都圏に接近していたからだ。

 LINEはあまり好きではない。

 僕はインストールすらしておらず、いまだにメールか、アドレスを知らない最近の友人なら別のアプリで連絡を取る。

 好きではない理由は、それがひととひとを繋ぐツールのように見えて、人間関係を破壊してしまうことを思い知った、ちょっとした出来事があったからだ。今となってはどうでもいいことのようにも思えるが。

 携帯やスマートフォンがなくとも、こころを通わせることができた時代は、確固としてあった。

 いや、ミヤビだったから通じ合えたのかもしれない。

 彼女なら、いまの、このデジタルな世の中をどんなふうに生きるのだろうか。


 

 平日、水曜日の午後。

 メールを送信してしまうとすることがなくなった。

 段階をおって暗くなる画面をしばし眺める。けれど、人生にはそんな省電モードは存在しない。前に進むほかないのだ。果たされなかった約束にどれだけ足を取られようとも。

 僕はひとり、ため息をつくとパソコンを立ち上げ、書きかけの文章を綴り始めた。想いをより正確に言葉にのせるには、声に出して話すよりもキーボードに指を走らせるほうが楽だ。三年とすこし前から僕はそうなってしまった。

 どれくらいの時間そうしていただろう。もう一行たりとも進まなくなり、不自由なほうの右脚が痺れてきた。窓の外に目をやると、雨も風も止んでいることに気がついた。木屋町の街灯が妖しく僕を呼んでいた。


 

 そのショットバーは、先斗町と木屋町をつなぐ路地のひとつにあった。いちげんさんには見つけにくいかもしれない。六席ばかりのウォールナット材の一枚板カウンターはマスターのこだわりだ。カウンターの向こう側の壁には天井まで、酒瓶が控えめな照明から命を得て厳かに輝いている。いちど聞いたことがあるのだが、ボトラーズウィスキーだけで二○○本はくだらないらしい。常連客を大切にしているということもあるのだろうが、ひとりで店をまわしているものだから、団体客がドアを開けるとことわってしまう、そんな店だ。


 

 僕はアルコールそのものよりもバーという空間が好きだった。美味しい酒を、美しいグラスと共に楽しみ、紫煙を燻らす。もっとも、最近は加熱式タバコだが…。いろいろと面倒が増えてきたので、それも次のオリンピックまでにはやめてしまおうと考えている。

 BGMには静かなジャズ。なにか話したければ話せばいいし、話したくなければ、黙って視線を落としていればいい。そんな独特の時間の流れに身をゆだねるのが好きだった。

 もちろん、大抵のバーには入り口のドアがひとつしかないように、そんな時間を幾ら重ねたところで、何処にも行けはしない。すこしばかり酔い、すこしばかり財布が軽くなるだけだ。僕だって、バーという場所に何かを捨てに行くことはある。けれどいつも、幾らかかたちを変えた同じものを持って帰る羽目になる。


 

 それでいいのだ。

 僕はそれ以上の現実を、バーには求めない。

 現実は、現実なのだ。


 

 ただ、その日は違った。

 脚のみならず、右半身がすこし不自由な僕には重く感じられる扉を引き開けるとマスターの困ったような視線と僕のそれとが合った。

「こんばんは」

「あ、コウジさん。いらっしゃいませ」

 見ると、僕がいつもひとりで座るカウンターの左側には先客がいた。ふたりづれの女性。僕から見て手前の女性は長いストレートの黒髪に、明るい黄色のレトロなワンピース。足元はサンダル。もうひとりは緩くカールさせたやや茶色のロングヘア、肘をカウンターについてタバコを燻らせている。柔らかなこの店の照明では、その、抜けるような白い横顔が周囲から浮き上がって見えた。冷房が効いた店内だというのに、トップスはクリーム色のキャミソール一枚だ。おまけにふたりとも若い。女の子と言ってもいいくらいだ。

 僕はカウンターの右端に座った。先客とは座席ふたつほど空けて。

「いかがいたしましょう」マスターが声をかけてくる。僕が入ってきて幾らかほっとした様子だ。

「モーレンジをロックで」

「かしこまりました」


 

 僕はシングルモルトが好きだったが、そんなに詳しいほうではなかった。一○銘柄あげてみよ、と言われたって苦労するくらいだ。どこのバーにでもひとりはいるやたら詳しい常連客のようにはなれなかったし、なりたいとも思わない。ただ、その香りの華やかさとなめらかな舌触りが気に入ってグレンモーレンジを好んでいただけだ。


 

 マスターが丸氷をバカラのグラスに程よい高さから落とし入れる。店内に響く心地よいその音が、僕という乱入者を店内の壁を飾るパブミラーや様々なデザインのラベルをこちらに向けて並んだ酒瓶、きらきらと照明を反射する磨き上げられたグラスのひとつひとつに同化させ、ふたりの女性客の緊張感はいくぶんか和らいだようだった。ワンショットぶん注がれた琥珀色の液体が、氷とグラスの隙間を満たしていく。ステアされるがまま香りがひらき、いつもの、変わらないそれが微かに店内に広がる。そして、美しいグラスとチェイサーが僕の前にそっと置かれる。

「うち、もう行かなあかんわ。終電やで、チカはどうすんの?」僕に近いほう、ワンピースの女の子がもうひとりに言う。

「今夜はありがと、ヒロ。先に帰って…うちなら大丈夫。まだ帰りたくないねん」“チカ”とよばれた女の子は、左手に持ったタバコを灰皿に丁寧に押し付けて消しながら言った。

「ほんまに大丈夫?」ヒロが心配げに聞く。

「大丈夫。これ以上深酒せぇへんし、ここやったら安全」

「そう…そしたらヤマノさん、よろしくお願いしますね、チカのこと」

「大丈夫ですよ。じゃあ、お会計で?」

「お願い」

 ヒロとよばれた女の子はチェックを済ませると立ち上がり、オールドコーチだろうか?フォレストグリーンの革のクラッチバッグを持つと、ワンピースの裾をひるがえしながら立ち上がり、出て行きしなに僕に“お先です”と声をかけた。やはり僕よりも随分若そうだったが、こんな静かなバーにも通いなれた雰囲気が感じられた。

 マスターがお見送りのためにドアを出ると、僕とチカが、静かな音量のチェット・ベイカーをBGMに、ふたり取り残される。先に沈黙を破ったのは彼女だった。

「こんばんは」

「こんばんは」

「いつもひとりで来られるんですか?」

「ええ。チカさん、でしたっけ」彼女は新しいタバコに火を点けながら頷く。僕もカウンターの端に重ねてある灰皿を勝手にとり、加熱式タバコをセットする。

「そうです。チカヨっていうんですけど、友達はみんなチカってよびます」

「チカヨさんは、いつもは?」

「チカ、でいいですよ。私もひとりが多いかな?今日は無理やりヒロを呼び出して話し相手になってもらってたんです」チカのマスカラが少し滲んでいた。泣いていたのだろうか?

 扉が開いてマスターが戻ってきた。

「ヤマノさん、お酒、なくなっちゃった」彼女は何を飲んでいたのだろう、ロングカクテルらしいグラスを上げて見せた。

「今夜は飲みすぎじゃない?チカちゃん」

「いいじゃない、たまには」

「じゃあ、どうします?」

「んーと、コウジさんだっけ…の飲んでるお酒、なんていうの?」

「グレンモーレンジですけど…」

「そのお酒がいい。とってもいい香りだから」

「大丈夫ですか?ウィスキーなんて普段飲まないじゃ…」

「いいの、もう少し酔いたい。ロックでね」

「わかりました」マスターは手早くそれを作ると、チカの前のカウンターに置いた。彼女はまた、丁寧にタバコを消すと、琥珀色の液体を口に含む。

「美味しい」グラスを置いて言う。

「好きな味…」チカはほのかな笑顔で僕に軽く会釈して、自分のグラスに手を添えながら愛おしげに見やる。

 僕はそのまなざしを見た瞬間、どんなわけか彼女を好ましく思った。切れ長の目。薄めの上唇に比べてふっくらとした下唇。すっきりとした鼻筋。とびきりの美人とは言えない顔立ちだが、なにか僕のこころに訴えかける可愛らしさがそこにはあった。

「コウジさんはいつもこれ?」こちらを向いてチカが言う。

「うん、大抵は。ほかのウィスキーも飲むけどね。ここでの一杯目はモーレンジだね」

「ふぅん、コウジさん、お酒強いんだ」

「強くはないと思うよ。ただ、酔って騒ぐことがないだけで」

「コウジさん、いつも静かですよね」グラスを洗いながらマスターが言う。

「今日はここが二軒目だから、もう結構酔ってるよ」

「えー、全然素面に見える。ね、隣、行っていいですか?」チカがこちらに笑顔を向ける。

「もちろん、姫」これは僕の酔った時の数少ない癖だった。好ましい飲み相手がいるときにはその女性を“姫”とよぶ。もちろん女性限定だが。

 チカは椅子の背にかけていたキャンパス地のトートバッグを持って立ち上がった。カウンターと椅子に隠れて見えなかったのだが、細身のジーンズとウェッジソールのサンダルを身につけていた。女性にしては背が高い。僕とたいして変わらないくらいだろう。

 チカは僕の左隣の椅子に移ってきた。マスターが彼女のグラスを移動する。

「もう遅いけど、大丈夫なん?」

「もう電車はないけど、いいの。ちょっと仕事でショックなことがあって…」彼女は髪をかき上げながら言った。そのしぐさと共に、優しいシトラス系の香りが僕の鼻をくすぐった。腕時計はしていなかったが、右の手首に細い金のチェーンブレスレットをつけていた。装身具はどうやらそれだけのようだ。

「チカ、でいいのかな?チカはどんな仕事してるの?」

「介護職。高齢者介護」

「ふぅん、大変そうな仕事やなぁ」

「コウジさんは?」

「今現在、失業中。ちょっと前に交通事故に遭っちゃって、少し身体が不自由やねん。高次脳機能障害とも診断されてて…それで解雇されたねん」

「えっ、解雇ってひどない?」

「仕方がないよ。それが世の中」僕は肩をすくめると、そう言った。それが世の中。そう思わないとやっていられない現実がある。

「ずっと、アパレルでデザインとか、企画とか、生産管理の仕事をしてたねん。そやけど、この先どういう仕事ができるかわからへんし、もう売り上げ、とか数字には追われたくないなぁ、って。だからリハビリに通いながら小説を書いてる」

「小説?どんな小説なん?」

「恋愛小説」僕はグラスから一口飲み干し、答えた。

「へぇー、どんなんやろ?読んでみたいなぁ」そこで会話が終わりそうだったので、僕は話題を変えることにした。

「仕事でショックなことがあったって、どうしたん?」

 チカはグラスを傾ける。

「また聴いてね。今夜はまだあんまり話したくないの。ヤマノさん、お酒なくなっちゃった」

「チカちゃん、ほんとに大丈夫?」グラスを磨く手を止めてマスターが聞く。

「大丈夫。ねぇ、コウジさん?」僕は話を振られて少し困ったが、平日のこんな時間だ。もう今夜は他の客も来ないだろうし、何故かもうすこし、チカと一緒にいたかった。

「大丈夫じゃないの?今夜は俺が最後までつきあうよ」僕の言葉に黙って頷いたマスターは、新たなグラスに二杯目のグレンモーレンジを注ぐとチカの前のグラスと入れ替えるようにして置いた。最初のグラスの氷はほとんど溶けていない。

「コウジさん、どんな服をつくってたの?」

「ジーンズとか、カジュアル全般」

「へぇ。そういう学校行ってたん?」

「いや、普通の大学を出て就職したから、たたき上げ。ミシンすら踏めないし、パターンも起こせへん」

「パターンって何?」

「あっ、ごめん。洋服の設計図みたいなもんかな?」

「ふぅん」

「こんな話、退屈とちゃう?」

「全然。私、高校出てすぐに今の職場に就職しちゃったから、他のお仕事の話を聞くのは新鮮」


 

 それから何を話したのだろう…僕の学生時代や就職した東京の企業でかかわった大きなプロジェクトの話だったろうか。もちろん“約束”のことは黙っていた。チカは次から次へ質問を投げかけ、僕はなるべく面白く話すようにつとめた。チカがその夜、どこまで本気で僕の話を聞いていたのかはわからない。

 僕達は杯を重ね、僕はオーバンに切り替えた。

「コウジさん、ちょっと味見させて」いいよ、とグラスを渡してやると、少々危なっかしい手つきでグラスを持って口をつける。「これも美味しい…ヤマノさん…」

「チカちゃん、もうやめとき」

「えー、ヤマノさんの意地悪…」

「幾らなんでも飲みすぎですってば」マスターが彼女のチェイサーを注ぎ足す。

「そういえば、ちょっと酔ったかな?」左手首のミニサブに目をやると、もう夜中の三時過ぎ、チカは少し眠たげだった。かくいう僕も。

「チカ、家は何処なの?」

「教えなぁい。だって教えたらタクシーにでも乗せちゃう気でしょ?」

「まぁ、そうやな」

「そんなの嫌…今日は帰りたくないの。でも酔っ払っちゃったから…」

「どっかでコーヒーでも飲む?」

「んー、鴨川行きたい。コウジさんつきあって」

「いいけど、そんなに早く歩けないよ。ほら、事故のせいで」


 

 まとめて会計しようとするとチカは遠慮してきた。それなら…と、それぞれにチェックをすますと店を出た。見送りに出たマスターに手を振ると、チカは僕の前に立って先斗町を北へと、三条方面に歩き出した。もう酔客も絶えてひとけがない。チカは思ったよりもしっかり歩いたが、時折ふらついたので僕はあわてて彼女の右腕をつかんだ。彼女は立ち止まると左肩に下げたトートバッグの位置を直し、僕の左手を握ってきた。そのひんやりとした手の感触は幾分か僕の酔いを醒ましたのだが、手を引かれるがまま、また歩き出す。先斗町を抜けると右に曲がり、そこから鴨川におりた。もう、床の灯りも消え、薄暗がりが広がっている。昼間の熱気は嘘のように消え去り、涼やかな風が川面を渡ってくる。夏の終わりの空気だ。僕とチカは少し北、三条大橋をくぐって御池通との中間辺りに並んで腰をおろした。

「歩かせちゃってごめんね。痛むの?」チカが聞いてくる。

「いや、痛みはないよ。右膝と足首が上手く動かないだけ。それより、歩くペースあわせてくれてありがとう」風が、僕のまとったレーヨンのハワイアンシャツを揺らし、チカの髪をなでる。彼女は髪をなおしながら言った。「こちらこそ、つきあってくれてありがとうね。なんや初めて逢った気がせぇへんわ」

「俺も」

「どうしてやと思う?」

「さぁ…共通点といったら、独り飲みすることくらいだし…ひょっとしたらどこかのバーですれ違ってるかもしれへんね」

「コウジ、あっ、コウジってよんでいい?」

「いいよ。チカってよんでいい?」

「もちろん…っていうか、さっきからそうよんでるじゃない」チカは思わず引き込まれるような笑顔をこちらに向ける。

「ねぇ、コウジって幾つなの?」

「幾つにみえる?」

「んー、三十二」

「嬉しいね、そんなに若くみえる?こんな格好してるからかな」僕は生成りのショートパンツに白のワークブーツ、シャーベットオレンジのTシャツ、白地に牡丹の花をあしらったハワイアンシャツにヴィンテージのセーラーハットという服装だった。

「ほんとは幾つなの?」

「この夏で四十三になったとこだよ」

「えー、うそぉ。全然みえへんよ」

「嬉しいね、ありがとう。きいてかまわなければ、チカは?」

「二十二。今度の九月三日で二十三」

「まだまだ若いね…って、誕生日、来週やん」と応じながらも胸が騒いでしまう。二十三歳。あの日の僕達と同じ時間を、チカは生きている。

「そう、来週。若くはないよ…この仕事してると、老けるの速いんだ。いろんなひとの人生見ちゃうから」

「そうなんだ…。んー、もしよければだけど、チカの誕生日、一緒にお祝いしたいな」

「ほんとに?いーやー、嬉しいな。今年の誕生日は空いてたんだ」

「じゃ、そうしよう」

「うん。約束ね」その、深い意味はなく口にされた“約束”という言葉は、僕の胸を重く打った。

「ねぇ、タバコ吸っていい?」

「もちろん」僕はたすきがけにしていたニュースペーパーバッグから携帯灰皿を取り出すとチカに差し出した。

「ありがとう」彼女がマッチで火を点けると、しばしの沈黙が僕達をつつんだ。それは決して不自然でも不愉快でもなく、ただそれとなく僕達を取り囲んだだけだった。


 

「ねぇ、チカ?」

「なぁに?」

「俺の歳、知っててもこうしてた?」

 チカがこちらを向いて微笑む。

「コウジ、歳のことなんて気にしてるの?」

「それは気にするて。いくらバーカウンターで出逢ったっていうても、二〇歳も離れてるんやで。それなのに手をつないだり、こんなとこで肩寄せあったり…」

「気にせぇへんわ。年齢なんて関係ないもん…」チカは僕の左肩に頭をもたせかける。

「おいおい、酔ってるやろ?」

「うん。眠くなってきちゃった」

「俺の部屋に来る?近いけど」

 チカは身体を起こし、暗い川面を眺めながら少し考えて言った。

「いいの?こんな酔っ払いの女、迷惑じゃない?」

「かまへんよ」

「じゃ、すこし眠らさしてもらおうかな…ほんとはお泊り禁止なんやけど」

「実家?」

「そう。前の彼氏とつきあってたときにね、夜勤って言ってドライブしてたらお兄ちゃんに見られちゃってさ。それ以来お泊り禁止やねん」

「おいおい、大丈夫かな」

「大丈夫。ヒロと一緒に朝まで飲んだことにしとくから」

 僕達は立ち上がると、御池通の橋のほうに歩き出した。チカはまた、僕の左手をそっと握った。


 

 僕の部屋は木屋町御池にある古い三階建てのアパートともマンションともつかない建物の一室だった。おまけに隣も向かいもいわゆるラブホテルだ。その筋に入ろうとするとチカが僕の手を引き、立ち止まって言った。

「えっ?まさかラブホに行くんちゃうよね?」

「違うよ。俺のアパートはこの筋にあるねん」

「へぇ、こんなとこにアパートなんてあるんやぁ。まぁ、コウジとならラブホでもいいけど」

「こら、そんなこと、間違っても言うもんちゃうよ」

「そやかて、コウジのこと、信頼してるもん。一目見たときから」

「嬉しいけど、そんな簡単に男のことを信用したらあかんて」

「あっ、それ、なんかオジサンくさい」チカは笑った。彼女が声を立てて笑ったのは、今夜初めてかもしれない。


 

 オートロックを解除して三階までの階段をあがる。僕の部屋は角部屋だった。寝室とリビングの2K。ドアに鍵を差し込んだとき、チカが思い出したように言う。

「ねぇ、いまさらなんだけど」

「どうかした?」

「開けたとたんに怒った彼女さんとか奥さんとかに出くわすのはかなんで」

「大丈夫。独身やし、部屋には誰もおらん」

「ひとり暮らし、不便やない?その…」

「身体が不自由やと?」ドアを開けてチカを招き入れる。

「…そう」

「そうやね、料理とかせぇへんようになったし…」ブーツの紐をほどきながら天井から下がった和紙でできた照明を点ける。リモコンで調節して、ちょっと暗めにする。ちょうど、バータイムに入ったレストランがするように。

 リビングのローテーブルの前のソファに彼女を座らせ、エアコンをつけると、僕はキッチンに行き、聞いた。

「なんか飲む?」

「できれば、お水を」僕はふたつのグラスに冷えたミネラルウォーターを注ぐと、リビングに戻った。

「ありがとう…。本とDVD、めっちゃあるねんなぁ」チカはグラス半分ほどを一息に飲み干すと眠そうに伸びをした。

「昔から本と映画が好きでさ。眠い?」

「うん…」

「チカはベッドで寝たらええよ。俺はソファで寝るし」

「うん、ありがとう…恥ずかしいけど、化粧、落とさな…」チカはトートバッグから携帯用のメイク落しを取り出すと顔に当てた。すっぴんの彼女は、僕が思っていたよりもさらに透きとおった肌をしていた。薄いそばかすが、小さな鼻のあたりに散らばっている。それすらも、ひき込まれそうなクリーム色の肌を引き立てていた。

「シャワー、使う?」

「うーん、夕方浴びてきたから、コウジさえよければ、このまま寝てもかまへん?」

「俺も夕方浴びてから出かけた。ええよ、ちょっと眠りな」

 隣の寝室にチカを案内すると、僕はリビングに戻り、水を飲み干すとスエットのショートパンツに穿き替え、ハワイアンシャツを脱いでソファの背にかけると、横になった。

「ねぇ、コウジ…」しばらくすると寝室から声が聞こえた。

「チカ、どうかした?」

「このベッド、セミダブルでしょ?コウジも一緒に寝れるやん」

「いや、いくらなんでもそれは…」

「私は気にせぇへんよ。私、酔っちゃうと脱いじゃうけど、コウジが気にしないなら」

「脱いじゃう?」

「そう。いま裸」

「なおさらあかんやん…」

「おいでよ、私は気にしない…っていうか寂しいねん。手、握っててくれへんかなぁ?」

 下手したら自分の娘くらいの、しかも、裸の女の子とベッドに入る?

「コウジのこと、信用してるからさぁ。ソファなんかで寝たら、脚に悪いで…」僕がなおも躊躇しているとチカが言ってきた。

「なぁ、寂しいねんて…」僕はやれやれ、と首を振ると、寝室に移った。閉め忘れた遮光カーテンの隙間からは、木屋町の街灯の灯りが一条の光の筋となって、ベッドのそばに脱ぎ散らかされたチカの下着を、闇の中にほのかに浮かび上がらせていた。

 チカはタオルケットで首までをおおって僕のことを待っていた。薄いタオルケットに、くっきりと彼女の身体の線が見てとれる。すらりとした長い手足。

 僕のほうを見やると、彼女は右手を伸ばして「早くぅ」と小さな声で言った。僕がタオルケットの中にもぐりこむと、チカの心地よい体温が伝わってきた。

「コウジ、ありがとう」チカが僕のほうに寝返りを打ちながら、眠そうに言った。小ぶりな、柔らかい乳房が僕の左腕に押し付けられる。

「姫の仰せのとおりに」

「あっ、また姫ってよんだ」彼女は左手を僕の胸に置いた。

「癖やねん。酔ったら隣にいる女の子を姫ってよんじゃうんだ」

「それって、可愛いわよ。最初に聞いたとき、思わずキュンキュンしちゃった」

「四〇過ぎの男つかまえて、可愛いはないやろ?」

「そやかてコウジ、可愛いんやもん」そして僕に抱きつくと僕の頬に軽くキスをしていった。「今夜はありがとう。コウジ…」

「おやすみ、チカ」

「うん…おやすみ」彼女はもう寝息をたてていた。僕も、落ち着かないままにほどなく眠りの淵を越えた。


 

 僕たちはほぼ同時に目覚めた。

「おはよう」時間は八時半くらいだと、カーテンの隙間から差す日差しから見当をつけた。

「おはよう…あっ!私、また脱いじゃってる…」チカが言う。

「自分で脱いだんやで」

「わかってるけど、見た?」

「見てへんよ。昨日のこと、覚えてへんの?」

「んー、途切れ途切れには覚えてる。コウジ、だよね?ヤマノさんのとこで一緒になって…」

「それから鴨川行って、俺の部屋に来た」

「んー、そこのところはちゃんと覚えてる」

「でも、こんなことしたらあかんで。世の中にはつまらない男もたくさんおるから」

「でも、何もなかったんやろ?」

「何もない。ただ隣で眠っただけ」

「ならよし。ねぇ、バスタオルとドライヤー借りてもいい?」

「いいよ、シャワー、浴びといで」僕はベッドから抜け出すと、ベッドの下の引き出しから洗濯したてのバスタオルを出すと、チカのそばに置き、壁のほうを向いて座った。背後で彼女がバスタオルを身体に巻きつける気配がした。

「コウジってほんとに律儀ねぇ。ちょっとぐらいなら見てもいいわよ。ちょっとなら」チカはクスクス笑う。

「じゃ、そっち向くよ?」振り返った僕の目に、裸身をバスタオル一枚でくるんだチカの姿が飛び込んできた。ベッドの上に立っているせいで、長い手足が余計にすらりとして見えた。今朝まで僕の腕に押し付けられていた乳房は、小さくとも良いかたちをしていた。引き締まったウエストから張り出した腰は、僕にはなにかたくましい生命力のような、原始的ともいえる純粋な力を感じさせた。彼女は両手をその腰に当てると、言った。

「もう少し胸があるといいのに…ねぇ、コウジったら元カノと比べてる?」

「いんや。きれいだなって見とれてる。何かスポーツやってた?」

「バレーボール。ほんとはやりたくなかったんだけど、“お前、身長あるから”って、なかば無理やり…。コウジは?」彼女はタオルが落ちないように右手で押さえながら腰をおろした。

「やってたよ。三回以内で当てたら、今度食事おごってもいいよ」

「えー、ということはマイナーなんじゃない?」

「ノーヒントで」

「剣道?」

「おっ、いきなり近いね」

「えっ?近い?ということは…道具使うのね?」

「ノーヒントだってば」

「えーっと、あれ、あの…フェンシング?」

「正解。当てられちゃった…」

「えっ?ほんとにフェンシングやってたの?」チカはフェンシングをよく知らない人間がするように、右手を突き出してみせた。そのとたん、たくし込んだバスタオルの端がはらりとほどけ、胸がはだけそうになってあわてて押さえた。

「いーやー、セーフ。わたし、普通の女の子みたいに“キャッ”とか言えないの。ね?可愛くないやろ?」笑いながらチカが言う。

「ええんとちゃう?可愛いと思うよ」

「またぁ。コウジったら、誰にでもそんなこと言うんやろ?」チカはベッドからおりて下着を回収すると、リビングに通じる引き戸を開けてバスルームに向かう。その背中に、僕は言った。

「言わへんわ、誰にでも、なんてひどいなぁ」

 バスルームの扉を開ける音と共に、チカの笑い声が返ってきた。



 三年前、僕が遭った事故は、ひどいそれだった。通報を受けて現場に駆け付けた警察官が後日、検証のための再現実験をした際に“死亡事故にならなくて良かったですね”と、当事者である僕に言ったくらいなのだ。夜道を歩行中に、後ろから来た自動車にはねとばされた僕は、骨一本折らなかった代わりに、頭部を強打していた。外傷性くも膜下出血、ついで硬膜下血腫。除去手術を受けたが、右半身が幾分不自由になり、発話能力にも影響が残った。複雑な会話はできず、文字を綴るほうが自分の想うところを幾らかは正確に言葉にのせることができる。チカに言ったように高次脳機能障害とも診断されている。

 事故の記憶はない。当時なんとなく同棲していた恋人とスマートフォンで話しながら歩いていたようだが、それも含めて。僕はチカにも話したようにアパレル関係の仕事をしていたのだが、社内規則にのっとって“精神障害”という理由で解雇された。企画はたてることができても、複雑な業務を同時進行で行うことができなくなっていた。もちろん、不当労働行為にあたり、法廷で争えば勝てる話だったが、僕はそんな気力を奮い立たせることもできなかったし、勤務先の社長の方針めいたもの、というかビジネスセンスに疑問を抱くようになっていたところだった。いまさら会社にしがみつく気にもなれなかったので黙って解雇を受け入れた。

 恋人は、そんな僕をわりとあっさりと見限った。共通の友人には、“不自由な身体がみっともない”と話していたようだ。僕の何度目かの入院中に荷物をまとめて出て行き、“四年半ありがとう”という短いメールがきただけだった。数日後、合鍵がレターパックで届いた。

 それが現実。

 何度か受けた術後の画像診断では、同年代にしては左脳の萎縮が進んでいるとはいえ、脳内に出血もなければ血腫もない。つまり客観的には完治している。後遺症との関係を立証できる根拠がないわけだ。保険はおりず、障害者手帳が交付されても、自分の生命保険すらもおりなかった。当然、加害者に対して裁判を起こすことになるわけだが、難しい裁判になりそうだった。障害年金は家賃にも満たない。幸い、と言っていいものか、父は出町柳のあたりに、まとまった面積の地面を月極の駐車場として僕に遺してくれていた。食べるには困らないだけの収入はあった。

 けれども、高次脳機能障害のうえに身体が不自由とくる。この先、自分にできる仕事があるのかさえもわからなかった。

 僕はリハビリの合間に、小説を書き始めた。

 もの書きになることは僕のずいぶん以前からの夢であり、いまはそれを目標に変えた。

 もう一度、陽のあたる場所への復帰を夢見て。



 シャワーを使い終わったチカに、そんな顛末を話して聞かせた。

「ごめんな、暗い話で」

 チカは濡れた髪をバスタオルで押さえながら静かに聞いてくれた。

「コウジ…大変なんやね…でも、凄いと思うな。普通だったら絶望しちゃって、なんにもできなくなると思う…それに比べれば私の話なんて…」

「そういえば、昨日、仕事でショックなことがあったって言うてたなぁ?」僕の問いに、髪を拭く手を止めたチカは、僕から視線をそらして、床に敷かれたラグの模様を目でなぞってから、言葉を選ぶように話し始めた。

「そう。夜勤やったんやけどね、受け持ちのおじぃちゃんが、朝の見回りの時に亡くなってたの。ほんの何時間か前に夕食を食べさせてあげたばっかりやったのに…もう冷たくなってて…そりゃ、仕事柄、いつかはそんなこともあるやろうと思てはいたけど、充分な覚悟にはなってなかったのよね」

「そうねんや…それは確かにショックやなぁ…」

「でね、昨日はヒロをよび出して飲んでたねん。少し泣いちゃった。ヤマノさんには居心地悪い思い、させちゃったかも」

「いいんだよ、ひとが飲みたくなる理由なんて、限りなく多種多様だと思うし、バーなんてそんな場所なんやし」

「コウジの場合は?」

「俺が飲む理由か…なんやろ、いままで考えたこともなかったわ。バーっていう空間自体が好きなんやと思うな。アルコール自体よりも」

「でも、強いし、好きなんやろ?お酒」

「好きやけど、強くはないよ。ただ、酔って騒ぐことがないだけで」

「私もお酒、好き。ねぇ、ドライヤーかけるの手伝ってくれない?」

「いいよ」僕は彼女の後ろに回り、ドライヤーをあて始めた。洗いたての髪から立ち上る暖かい香りが部屋に満ちる。「ありがとう、コウジ。あとは自分でできるわ」チカにドライヤーを手渡すと、僕はソファに戻った。その僕に彼女が言う。

「ねぇ、また遊びに来ていいかなぁ、ここに」

 僕はすこし驚いて答える。「もちろん」

「びっくりした?」

「うん、いささか」

「私、縁って信じるの。ひととひととの縁。昨日コウジに出逢って、なんだかそんな特別な感じがしたねん」

 僕はチカが髪を乾かすのを見ながらしばらく考えていたが、聞いてみた。

「チカ、友達多いやろ?それにモテるんとちゃう?」チカはそれを聞くとなかばふきだすように笑った。「なんでそんなふうに思うん?」

「人見知りしないし、それに可愛い」

「いーやー、可愛いなんて、本気で言ってんの?コウジったら、女の子になら誰にでも言うてるんとちゃう?」

「失礼な。滅多な事じゃ言わへんて。チカは可愛い。それに、俺が事故に遭ってから、ちゃんと向き合ってくれた数少ないひとやし」僕は真面目に答えた。事故に遭ってから出逢いはなかったわけではないが、僕の年齢と、いつ仕事に就けるかもわからない状況にいることを知ると、大抵の女性は距離をとりたがる。昔からの友人だってそうだった。幸いにして一部の人間だが、どうやらひとは、知り合いが急に障害を負ってしまうと、どう接していいのか戸惑うようなのだ。僕本人としては何も変わりないし、盆や正月に京都に帰ってきたら、これまで同様に声をかけてほしかったのだが、なかにはメールの返信すら途絶えてしまう奴だっていた。

 そう、それが現実。

 チカは髪を乾かし終わってドライヤーのスイッチを切ると、ローテーブルに置いた。モーター音が止んだ部屋は、いやに静かになったように感じた。

「なんか音楽かけよう」僕はそう言うとリモコンでオーディオの電源を入れ、適当にディスクを選んだ。ながれてきたのはエンヤだった。僕がパソコンのキーボードに向かう時のBGM。今の状況にふさわしいかどうかはわからなかったが、とりあえずよしとする。

「さっきの話だけど…」チカが口を開く。

「さっきの話だけど、友達は多くはないよ。高校時代のバレー部の何人かと、ボランティアのひとたち」

「ボランティア?」

「そう。高齢者介護施設だから、研修ってかたちでいろいろ手伝ってくれるひとたちがいるねん。大学生が多いかな」

「前の彼氏も?」

 チカは“ふふっ”と鼻で笑うと頷いた。「出逢い、ないから」

「休みも合わないし、夜勤とか多いし…コンパとか好きじゃないし…」

「今は、好きなひと、いないの?」僕は話のながれで聞いただけだったのだが、チカは僕の目を覗き込むといたずらっぽく言った。

「コウジ以外に?」



 僕は声が出なかった。

「…チカ、どういう意味で言ってるの?」

「ん?言葉のとおりにだよ。私、コウジのことが好きになりそう…てか、好きだよ」チカは僕の目から視線をそらさない。「つきあうとかつきあわないとかじゃなくて、コウジが好き」

 僕のほうが動揺して目をそらしてしまう。「あしながおじさん的な?」

「違うわよ!ちゃんと男性として」チカからバスタオルが飛んでくる。

「えーと…なんて言ったらいいかわかんないよ…」

「昨日逢ってからずっと紳士的だったし、そんな辛い目に遭ってるのに頑張ろうとしてるし…尊敬しちゃう。お洒落だしカッコいい。コウジは一目惚れとか、それに近いような事って、経験無いの?」

「あるけどさ…」

「じゃあ、私にはしてないのね?」

「いや、昨日、バーで逢ったときから可愛いなって思ってる。酔ったら脱いじゃうとかも好きだし、色白なところもタイプだよ」

「コウジのタイプって…ほかになんか条件ある?」

「化粧が上手なことかな」

「化粧?」

「そう、化粧が巧い女性って、自分を知ってると思うねん」

「…あ、そういうこと…じゃあ、私、今から化粧するから、見ててね」

「いや、そのあいだにシャワーかかってくるわ。その前に…よくすっぴん見せて」

「えー、恥ずかしいけど、ええよ」ふたりの顔が近づく…僕は思い切ってチカの頬にキスをしてやった。

「いーやー、キスされちゃったっ!」チカは頬を膨らませる。それがフリだってことはいくら鈍感な僕にもわかった。



 僕はシャワーを浴びるあいだに、昨夜からのことを考えていた。

 チカは確かに魅力的だった。その仕事から身についたのであろう大人びた要素と、まるで女子高生のような無邪気さのアンバランス具合に惹かれる自分を感じた。けれど…もちろん、好きになるのは構わない。恋に理由なんて必要じゃない…けれど…今の僕には“責任”を取ることができない。ましてや二〇歳そこそこの娘、未来ある女性に、この先結婚をして家庭を持ち、望むのならば子供を産み、育てるであろう女性にとっては、満足に身体も動かず、働くことができるかどうかさえわからない、小説を書くしか能のないこんな男がふさわしいとは思えなかった。さっきちらりと見た彼女の張り出した腰が脳裏によみがえる…そう、生命力に溢れたそれは、チカは魅力的ではあるけれども、僕以外の彼女にふさわしい男とつきあって、結婚するべきなのだ。そう、雄弁に物語っているように、僕には思えた。

 友達でいよう…頭では、その考えに納得した。

「ねぇ、コウジぃ?えらく長いシャワーやなぁ?」チカが脱衣所の扉の向こうから声をかけてくる…えぇい、どこまで無邪気なんだ…ひとの気持ちも知らないで…。まぁ、その無邪気さが彼女の魅力なんだけれども…。

「今出るよぉ」やっぱり友達でいよう…と、僕は自分のこころに蓋をしながら答えた。手早く服を身にまとう。今日は黒のショートパンツに、生成りのTシャツ、黒地にベージュのハイビスカスがあしらわれたハワイアンシャツだ。扉を開けると、すっかり支度を終えたチカがソファにかけて待っていた。そう…これで終わり…。僕はその時そう思った。



「もうっ、コウジったら!いったいどこをどう洗えばあんなに時間がかかるん?」僕が髪をふきながらソファの隣に腰をおろすと、チカが言った。また膨れて見せたが、目は、笑っている。

「ごめんごめん…ちょっと酔い覚まし…」

「ウソばっかり。そんなに私といんの、嫌?」

「そんなことないって!チカといると楽しいよ。でも…」

「でも、何よ?」

「さっきはごめんよ…その、キスのことだけど」

「なんでコウジが謝るん?わたし、嬉しかったんだから!」

「そう言ってくれて、俺も嬉しいよ…でも…」

「でも、何よ…急に口ごもったりして、どうしたのよ?」

「…友達やんなぁ?出逢いはいささか奇妙なスタートやけど…」

「ん?どうしたん、急に」

 彼女の顔を見ていると、さっきの決心がとろけていくのがわかった。

「なんでもない。帰らなあかんやろ?途中まで送っていくわ」僕は精一杯の強がりで言ったときに気付いていた。チカの化粧は薄いながら、それがとても巧いことに。



 聞いてみると、チカは四条大宮に住んでいた。

「そしたら、阪急やん」

「そう」

「近いやん。昨日、タクシーで帰れば…」

「だから帰りたくなかったんやってば!」セーラーハットをかぶった僕と、玄関で靴を履きながらそんなやり取りをする。事故に遭う前、夏場はビルケンシュトックのサンダル、が定番だったのだが、右の足首が不安定な今は夏でもレッドウイングのブーツだ。なにより歩きやすいし、もう慣れた。幸い、階段の上り下りにはさほど支障はない。

 階段を降りかけると、チカが僕の左手をとってくれた。

「大丈夫だよ、階段は苦じゃないから」

 チカはまた、頬を膨らませて言う。「えー、手をつなぐ口実なのに」

 僕は言葉に詰まった。チカのストレートな好意の表し方にいささかたじろぎながら、「ありがとう」というのが精一杯だった。



 午前中とはいえ、昨日降った雨のせいか空気はすこしばかり蒸し暑かった。にもかかわらずチカの右手はひんやりと心地よくも感じられて、四条木屋町の阪急乗り場への降り口に着いても離したくなかった。彼女が手を離して僕に向きなおるのが口惜しかった。

「えっと…コウジ、ありがと」と言うなりチカは僕の首に腕を廻すとキス。唇に。

 周囲に行きかうひとの目もいささか気にもなり、どぎまぎしたり、あっけにとられたりしている僕に手を振ると、チカは階段を降りて行った。階段を降りきると僕を見上げてもういちど手を振った彼女は角を曲がって見えなくなった。

 そして、僕は連絡先を交換しなかったことに思い至った。

 …彼女の誕生日を祝う約束…。



           *



「お互いさぁ、三○になっても独り身やったら、結婚せぇへんか?」

 バーカウンター。グラスの輝き。

 ミヤビの答えはノーでもイエスでもなかった。

 だから、ミヤビにとってそれは約束ですらなかったのかもしれない。

 けれど、僕にとってはその時点での人生をかけた、精一杯の約束だったのだ。



 あの飲み明かした夜は明けることなく、

 鮮やかに僕の胸を貫き続けている。

 僕のこころを凍てつかせている。



 チカと同じく二十三歳になる夏には、はるか先に思えた三〇歳。それすらも僕にとっては“過去”になってしまった。ミヤビにとっては未来、ずっと先に思えた不確かな未来のまま…。



 ひとは誰しも喪失感―こころにぽっかりとあいた空白とともに生きている。

 多かれ少なかれ。

 あなたが幸運な人生を歩んでいるのなら(あるいはそれに見合う努力をしたのなら)、それらは時が経つにつれ、埋められたように感じられることだろう。おおかたのひとがそう思っている。時間こそがそういった問題を解決してくれる唯一のものだと。けれど大抵の場合、それはあなたが別の大切な何かを手に入れたというだけで、その空白は確固としてそこに存在し続けているのだ。



 本当の意味で人生を生きるためには、そういった喪失感は放置されてはいけないと、こころの奥底で僕は感じる。

 少なくとも失ったものに見合うだけの代償が、僕達には用意されていなければならないと思うのだ。

 そうでなければ失うばかりの、意味のない空しい人生だ。



            *



 東京駅の、京都駅の新幹線ホーム…ミヤビとの思い出が詰まった旅路だった。西へと向かうのぞみの車窓を飛ぶように流れゆく景色も、僕のこころをとらえはしない。

 実家に荷物を置くのもそこそこに、ミヤビの実家に向かう。市バスで十五分ばかりの距離だ。そんなにも近くに僕達は暮らしていたのだ。

 暑い。

 普段なら煩いほどの蝉時雨もこの日ばかりは僕の耳には届かない。

 古くからの一戸建てが並ぶ、何の変哲もない住宅街。千本通から一筋入ったところにあるミヤビの実家のインターフォンに手をのばす。もちろん連絡はいれてある。迎えてくれたのは彼女の母親だった。ミヤビの両親は何度か試合の応援に来ていたから、顔を合わせたことはあった。

 ミヤビの遺影に目を奪われる。

 彼女のそれは成人式の写真だろうか?晴れ着姿のそれは、まだ幼さの残るふっくらとした顔だち、そして、満面の笑みだった。仏壇には見覚えのあるペンダントが供えられていた。ティファニーのビーンズ…。

 ミヤビの母親は冷たい麦茶を出してくれながら、ひとことだけ、言った。

「ミヤビ、あなたと結婚すればよかったのにね」

 僕は返す言葉を持たなかった。止まっていた時間が動き出したかのように、蝉時雨が身体を包むのを感じた。



 彼女は永遠に二十三歳のままだ。

 今思うと、ミヤビのことを何も知らない。

 いや、ひょっとすると知りすぎていたのかもしれない。

 世の中でいう、“恋愛”に発展するには。



 僕の高校は男子校だったが、一学年上から共学になった。中高大一貫校だったから、中学は男だけの世界で三年間を暮らした。共学になるまでは開校以来ひとりの女性教員すらいないという徹底ぶりだった。およそ男子校、女子校というものは、不自然なものだと思う。そこで暮らしてみればよくわかる。高校から大学へは学内進学試験があったが、中学から高校へはよほどのことがない限り自動的に進学できる。

 全生徒数のうちどれくらいの比率だったかは思い出せないが、もちろん、男女とも高校入試を経て入学してくる生徒もいる。当然女子は一○○%“外部生”だった。ひとクラス五○人弱のうち、女子生徒は一○人以下だった。

 僕は中学時代、運動らしき運動もしていなかったが、何を思ったのかフェンシング部に入部した。生来の負けず嫌いで、なんにせよ他人の後塵を拝することを好まなかったから、大抵の人間が高校から始めるスポーツだったということが魅力的に思えたのかもしれない。練習はきつかったが生まれついて身体能力には恵まれていたから、僕はすぐにその競技に馴染んだ。

 おなじ新入部員のなかに、ミヤビはいた。

 彼女は小柄で、髪はセミロング、ふっくらとした丸顔の、よく笑う娘だった。無邪気で奔放、そして、天真爛漫をよそおっていたけれど、その裏にはしっかりとした芯があった。

 朝、通学の電車も大抵同じだったし、帰りももちろん練習があったから一緒に帰宅した。他のチームメイトも一緒だったけれど。



 あっという間に二年が経った。練習づけの日々。地元での試合、厳しい夏合宿、遠征での試合…。先輩達が引退して僕達の代になった。もと男子校だったせいで同じ京都の女子校とも伝統的に仲がよく、合同練習もたびたび企画された。僕や中学時代からの同級生はようやく男子校の呪縛から解き放たれ、周りに異性がいるという状況に慣れつつあった。チームメイトの中にはその女子高の後輩とつきあう者もあらわれたが、僕は特段羨ましいとは思わなかった。まだ僕だけが男子校の名残を引きずっていたせいで女の子の気持ちに鈍感だったせいもある。たとえば高校二年のバレンタインの時期にその女子高の後輩からチョコを渡されたことがある。その時には、“うちのチームメイトが○○さん(僕のチームメイト)のことが好きなんですけど、一対一は気まずいからダブルデートしてくれはりませんか?”という口実を真に受けてしまったのだ。僕は文字通りの“義理チョコ”と勘違いしてしまい、その娘の本当の気持ちに気づかずにいた。

 一年後、同じ女の子からまた誘われてチョコを渡され、そのとき初めて、ようやくその娘の気持ちに気づいた。試合や合同練習で顔をあわすとはいえ“一年間も想い続けてくれるなんて、どんな娘なんやろう?”という気持ちでつきあってみることにしたが、彼女には僕のこころを震わせる“何か”がなかった。僕の部屋で交わした一度きりのキスだけが淡い思い出として残っているだけだ。

 僕から別れを告げた、数少ない女の子だ。



「フェンシングはスピード、タイミング、ディスタンス(距離感)、そのみっつの基本技術の上にタクティクス(戦術)がある。要するに女の子口説くのと同じことや。お前らもたまには河原町あたりで女の子に声かけてこい」ユニークなコーチの、そんなユニークな指導もあってか、僕達の高校は近畿でも有数の強豪校だった。

 そのコーチの教えを実践したわけではなかったが、僕には吹奏楽部でホルンを吹いている彼女ができた。が、いかんせん部活の休みが合わない。必然的に遊ぶ相手はチームメイトになる。とりわけミヤビとは練習がない日にはよく街に出かけた。何が、というわけではないが気が合ったのだ。ビリヤードやボーリングをしたり、ウィンドウショッピングを楽しんだり、あるいはお気に入りの喫茶店で、コーヒー一杯でずいぶんな時間ねばりながらおしゃべりに興じた。

 僕とミヤビがいつも一緒にいることが原因ではなかったが、そのホルン吹きの彼女とは二ヶ月あまりで別れることとなった。一方的にふられたのだ。ほとんど初めての失恋経験。僕は打ちのめされた。女子生徒が少ないがために学内での恋愛沙汰はすぐに学校中に広まってしまう。そのときもミヤビはそれまでと同じように接してくれた。



 二週間後、和歌山で大きな試合があった。決勝トーナメントに残りさえすれば、近畿代表として海外遠征に行くことができる試合だった。僕は失恋の痛手癒えぬまま出場した。試合が始まってしばらくのあいだ“無心”で相手選手に相対したせいだったろう、なんとか(と、いうよりも知らぬ間に)何回戦かの予選リーグを勝ち抜き、トーナメントまで勝ち進んだ。もちろん、その時の僕の心情を考えれば遠征なんていう“おまけのご褒美”はどうでもいいことだった。途中までは。

 僕は決してクレバーな競技者ではなかった。ただ、剣を持って相手選手に対峙しているときだけは、絶対にやられるものか、と思う。なんというか、生存本能に身をゆだねて剣を構えるタイプだった。そういうときの自分が好きだったし、僕をそういう気持ちに駆り立ててくれる、この競技に心底ほれ込んでもいた。この日は、気持ちと僕の身体能力、そして、いつも以上に研ぎ澄まされた洞察力が完全に合致していた。いわゆる“ゾーンにはいる”という状態だ。本当に優れたスポーツ選手は、この“ゾーン”を自在に作り出せる人間だと僕は思っている。その日の僕にはそれができたのだ。

 女子の試合も並行して進んでいた。僕達のチームに女子はひとりだったから、僕は自分の試合の合間もずっとミヤビについていた。冗談をとばしてリラックスさせ、ときにはアドバイスをおくる。ミヤビが勝ち進むにつれ、彼女とふたりで遠征に参加できる可能性が高くなってきた。ミヤビと遠征に行けたなら、言うことはない。まだ話すことはたくさんあったし、共通の体験もしたかった。途中からそんな思いが頭をよぎり、僕は決勝トーナメントにおいては“無心”ではなくなっていたのだろう、“ゾーン”は霧散し、あっさりと負けた。

 結局ミヤビは準決勝リーグで涙をのみ、僕だけが代表チームのジャージをまとった。

 失恋の痛手のおかげで実力以上の力を発揮して選ばれてしまった僕は、遠征では当然、代表チームの足をひとりで引っ張ることになってしまった。



 かたわらにミヤビのいない異国の空は蒼かった。

 あるいは、そう思えただけかもしれない。

 ミヤビのいない、初めての遠征。そして、試合。

 剣を持ってピスト(フェンシングにおける試合コートのようなもの)の上で相手選手と礼を交わす所作をし、マスクをかぶって構え、審判の「アレ(始めの意)!」の声がかかっても、いつも背中に聞こえる彼女の声援がない。

 中世から続く、決闘にルーツを持つこの競技は孤独なスポーツだ。ピストの上ではひとりきり。この代表チームのチームメイトだって帰国してチームが解散してしまえば、すぐに全員ライバルに戻る。

 乾燥したカリフォルニア、一転して湿度の高いハワイと、難しい体調管理に気を使いながら過酷な日程で転戦が続く。孤独な時間を過ごしながら、いつしか僕の中でミヤビという存在がなにか変化したように思った。一〇日間に及んだ遠征が終わり、帰国便の中ではしゃぐチームメイトをよそ目に、僕はミヤビのことだけを考えていた。

 僕は、彼女へのお土産にバナナリパブリックのカジュアルジャケットを選んでいた。



 遠征から戻った僕はミヤビにそのお土産を手渡した。よっぽど気に入ったのか、よく着ていてくれた。そんなこともあって学内では僕とミヤビがつきあっているものとして扱われるようになったのだが、学内のそんな噂は双方とも微塵も負担には感じていなかった。言いたい奴には言わせておけばいい、そんなふうにいつも一緒に行動した。

 仲の良い友達。なんでも話すことのできる友達。親友。思えば、ミヤビだって男子ばかりの部活で、心許せる友達のひとりくらいほしかったろう。その相手がたまたま僕だったというだけかもしれなかったが。

 ただ、男と女であったことが後に話を幾分ややこしくさせることになる。

 およそ、恋愛感情抜きで男女の友情は成り立つものなのだろうか?

 僕にはいまだわからない。

 あの、一緒に過ごした七年間を、どれほど詳細に記憶を辿ってみても、僕にはわからない。

 ほかの誰との関係とも違った、僕とミヤビのそれ。

 僕がいま、こころに抱く彼女の面影には恋愛の名残が微かに感じられる。

 あの頃のようにふたりきりでグラスを傾けることがもしも叶うなら、彼女は何を想うのだろう。



 インターハイがあり、国体があった。僕はそのどちらも代表選手だった。ミヤビは惜しくも代表にはなれなかった。後輩への引継ぎが済んで秋が深まりだすころに僕達は引退した。それまでは少なくとも週六日は練習だったし、それも夜遅く、練習場に守衛が来て帰宅するよう促されるまで練習に明け暮れた二年半だった。

 急に暇になった僕とミヤビは、学内進学試験までの数ヶ月間、一緒に羽根を伸ばすことになる。彼女はその歳で木屋町や先斗町のバーにしばしば出入りしていて、そんな店のひとつに僕を連れて行ってくれたのだ。

 ミヤビがそんな店に行くようになったのは、バーテンダーとつきあっていたからだった。もちろん、年上の男だ。どれほど真剣なつきあいだったのか、僕は知らない。ただ、飲みに出るのも、映画を観るのも、水族館に行くのも、僕と過ごす時間のほうが圧倒的に多かったことを考えると、それほど深刻な関係ではなかったのだろう。

 ほんとによく飲み歩いた。そして、ほろ酔いのデートの最後にはキス。

 でも、手をつないで歩いたり、つきあおうという言葉を口にしたりすることはお互いになかった。

 最終便を待つバス停で、夜の鴨川で、いつも最後にはどちらからともなく抱き合って口づけを交わした。

 僕達のどちらかが、その想いを言葉にのせるという決定的な一歩を踏み出せば、ふたりの関係はまた違う展開になっていたのかもしれない。

 けれども何故かふたりともにそんな気持ちを行動に移すことはなかった。たぶん、そのときはそのままの関係が心地よかったのだ。あるいは、お互いが何時かそれぞれの人生から欠けてしまうことに気づかないほどに若かったのだろう。

 僕が、勇気をふりしぼるべきだったのかもしれない。

 僕達は何処へも行けなかった。結果的には。そこには淡い恋愛めいたものの残滓が決定的に残ることになった。永遠に。

 おそらくは“愛”という言葉の意味を理解する前に出逢ってしまったことが、ふたりを結び付けなかったのだ。



 短い、“ハネムーン期間”のような数ヶ月が終わり、学内進学試験をパスした僕達はそれぞれ違う学部に進学した。彼女はフェンシングを続けたが、僕は足首の靭帯を痛めていたこともあったし、あの選抜試合以来“ゾーン”にはいれない自分自身にいらだちも感じ、また、この競技における自分の限界も感じて、そこで剣を置くことにした。練習づけの日々にいささかうんざりしていたこともあったし、違う世界が見たかったということもある。

 半年ばかりの求愛期間を経て、僕には同じ基礎クラスにエミという恋人ができた。短大からの編入生で、ひとつ年上だった。彼女はひとり暮らしだったから、僕は自宅にも帰らず、半同棲のような学生生活を送った。

 大学に入ってからの友達も増えた。一番仲がよかったのは基礎クラスが同じだったキコという女の子だった。もちろんキコにも恋人がいた。最初は講義の合間に談話室でおしゃべりする程度だったのが、そのうちに彼女の部屋にちょくちょく遊びに行く間柄になった。キコは可愛く、天真爛漫で明るかったから、クラスの人気者だった。僕は特段彼女に惹かれたわけではなかったが、何故か彼女のほうから僕に気を許してくれて、仲良くなったのだ。キコに想いを寄せている男は多かったから、僕たちの仲がよいのは、ほとんどふたりだけの秘密に近かった。もちろん、ミヤビには話していたけれど。あともうひとり、フミがいた。色白の物静かな美人。彼女は違う学部だったが、僕の学部の談話室によく顔を出した。そのうちに自然と話すようになって、音楽や読書の趣味が一致することを発見した。フミにももちろん恋人はいたけれど、体育会のボート部だったために(練習は琵琶湖で行われていた)あまり一緒に時間を過ごすことができず、学生生活をもてあましていた。エミがいないときにはふたりで学食に行って、差し向かいで食事しながらCDの貸し借りをした。

 男友達はそんなに増えなかった。そこにはフェンシングという孤独な個人競技が、決定的な影を落としていた。同性は皆ライバルという妙な思い込みが確固として僕の中にあるせいで、どうしても気を許すことができなかったのだ。ときおりコンパにも呼ばれはしたけれど、いつも数あわせのためであって、エミもいた僕は適当な頃合をみて帰っていた。

 興味のある講義はしっかりと聴いたし、成績も良かった。それ以外の講義はまぁまぁの成績だったが、僕はひとつも単位を落とさなかった。



 高校時代ほどの頻度ではないにせよ大学生活に馴染むとともにミヤビと逢う機会も増えた。もちろんエミの許可を得てのことだし、エミとつきあうようになってからは、別れ際の口づけを交わしたことはなかった。高校時代に苦楽を共にした仲のいい友達、ただそれだけだった。

 大学生活は本当の意味で自由だった。僕とミヤビがどれほど頻繁に一緒にいようが、キャンパスで噂になることはない。そんな気楽さで、よく飲みに出かけていた。

 ある晩、西木屋町の比較的カジュアルなショットバーに、僕達はいた。この店は木屋町や先斗町の酔客の隠れ家的な場所というコンセプトで始まったらしい。学生はまずいないし、騒がしくもない。早い時間帯なら大抵ふたりきりで話すことができたから、僕達は好んで通っていた。その店は変わったカウンター席だけのバーで、四角い店内の中央にコの字型のカウンターがふたつ、向き合っている造りだった。いわばバーテンダーがあたかも舞台に立つ役者のようにカウンターの中に立ち、客はカウンター越しにその演技を観る、というふうな不思議な感覚のレイアウトだった。

「トッシィ、卒業したらどうすんの?進路、決めてる?」間接照明だけのほの暗い店内でミヤビが言った。僕はいささか珍しいその苗字から、友人、とくに女性からは“トッシィ”とよばれることが多かった。ミヤビもまた(実をいうとエミもまた)そう、僕のことを呼んでいた。ミヤビは同じチームメイトの男子を“君”づけで呼んだが、僕のことだけはその名で呼んでいた。

「ほんとはもの書きになりたいんやけど…まぁ、普通に就職するんやろうな。ミヤビは?」

「うちは昔から警官になりたかったんやけど、身長が足りひんねん」ミヤビはとても小柄だった。それでよくフェンシングを続けたものだと思う。僕も特に大柄なほうではなく、どちらかといえば小柄なほうだったから、その競技における身長差による有利不利は試合のたびに痛感していたのだ。

「警官になって、何がしたかったん?」

 ミヤビはグラスから一口飲んで言う。「駐車違反の取締り。あの、チョークでなんか書くやつ、一度でいいからやってみたかってん」

「ふぅん、夢にはいろんなものがあるもんやなぁ」

「まぁ、でも将来的にはどうしても子供、産みたいし、それが夢かなぁ」

「なるほどなぁ」子供にかこまれているミヤビを想像するのは難くなかったが、子供とは、そんなふうに漠然と産み育てるものだろうか…?

「トッシィは就職って、業界決めてんの?」

 僕は一口、グラスに口をつけて答える。

「文字、というか、文章に関わる仕事はしたいし、マスコミとか出版関係やな」僕は中学時代から活字中毒だったのだ。

「難しいんちゃうの?マスコミって」

「とは聞くけど、こればっかりはやってみぃひんとわからへん。年明けから企業訪問とか、セミナーに行きだすわ」

「そっかぁ、うちはまだすこし部活もあるし、無理やなぁ。どんな感じか教えてな」

「もちろん」



 僕達は団塊ジュニア世代だったし、バブルもはじけていたせいで、就職活動はそれなりに厳しいものだった。“それなりに”という表現を使うにはわけがある。僕はそれほど厳しさを感じず、むしろ就職活動の忙しさを楽しんだからだ。東京の大手出版社は一社、惜しいところまで選考に残ったけれど、不採用。そこでマスコミ・出版関係の採用活動は終わってしまったので、僕は一般企業のうちで衣食住を扱う企業にターゲットを絞った。目に見えて手で触れられるものを扱う自分しか想像がつかなかったからだ。

 早々に大阪のアパレル企業から内定をもらったが僕は活動を続け、東京の大手ジーンズメーカーの広告部門での内定を勝ち得た。僕はその時点で就職活動を終えた。

 エミはずいぶん苦戦したが、大阪の小さな広告代理店に職を得た。遠距離恋愛になるわけだが、僕達はそれがどんなだか想像できなかった。

 ミヤビは部活のコネもあったのだろう、大手保険会社に決まった。

 キコは東京のIT関連企業だった。



 それぞれの進路が決まって、やがて冬がやってきた。

 そんなある日、学部の談話室でエミが口を開いた。

「昨日の夜、バイト帰りにつけられて襲われたの」彼女はスナックでアルバイトをしていた。

「え?」

「なんか、原付で走ってるときから、横に同じ車がずっといるなぁと思ってたんだけど、西大路曲がったら消えたから気のせいかと思って…そしたら、アパートの駐輪所で原付降りたとたんに腕摑まれて…」

「それはずっとつけられてたんやって。それで?」今、目の前に無事にいるにしても心配だった。

「大声出したら逃げてったけど…」

「無事やったからよかったけども、それにしても心配やなぁ。夜のバイト、辞めるわけにはいかへんの?」僕はそういう店に行かなかったから、余計に自分の彼女が夜の仕事をしているのが好きではなく、ことあるごとに反対してきたのだが、時給がいいから、とエミは頑として聞き入れなかった。

「卒業まであと少しだから、続けるわ」

 僕はそれでも心配した。その夜、僕はとんでもない光景を目にすることとなる。



 僕は、とりあえずひと晩だけでも迎えに行くために夜中の一時半ごろに自宅を出た。ずいぶんと冷え込む夜だったが、原付で。

 “つけられた”というのが気にくわなかった。金閣寺の近く、エミのアパートの向かい側の少し離れた場所に原付を停めると、僕は凍えながら彼女の帰宅を待った。確かにその辺りは暗い。もし誰かに見られていたのなら、どうみても僕が不審者だったろう。一○分か一五分か経って、エミのアパートの前に黒っぽい車が停まった。今日は用心してタクシーで帰ってきたんだな…僕は安心した。降りてきたのは彼女だった。僕は仕事用の格好をしたエミを見たことがなかった。ブルーのドレス姿で、髪型も化粧も違う。僕はそのとき声をかけられなかった。僕の知らない彼女がそこにはいたからだ。車は、走り去るかと思いきや、エミを降ろすとアパートを少し行き過ぎた路肩に駐車した。何故に?よく見るとそれはタクシーではなかった。若い男が運転席から降りるとエミのほうに歩いていき、ふたりは連れ立ってアパートに入っていった。互いの手を取り合って。

 僕は最初どういうことなのか意味がわからなかった。浮気…徐々にその事実が僕の脳裏に染み込んできた。僕とつきあった四年近くの間に、こんな夜が幾夜あったのだろう?怒り…哀しみ…寒空の下で、いろんな感情がないまぜになって僕を襲った。エミのアパートの裏にある公衆電話に原付で移動する。部屋の灯かりはともっていない。彼女の部屋の番号をダイヤルする…応答はない。もう一度アパートの正面に戻ってみる。車は停まったままだ。僕の疑念は、確信に変わった。



 半ば茫然自失として自宅に戻り、ろくに眠れない夜を過ごした僕は、気持ちの整理もつかぬまま、翌日の昼ごろまで待ってエミに電話をかけた。とりあえず彼女がなんと言うのか聞きたかった。僕はまだ自分を誤魔化していたのかもしれない。何かの間違いであってくれと。

 ワンコール…ツーコール…十回目の呼び出し音で受話器が取られた。

「はい」いくらか眠たげな声だ。

「もしもし?」

「トッシィ?ごめん、寝てたの」

「起こしてごめんな。そやけど、ちょっと話があるねん」

「話って?」

「昨日の晩、見た」

 居心地の悪い沈黙が続いたあと、エミが先に口を開いた。

「見たって、何を?」

「誰?あの男」再び沈黙。

「トッシィ、いたの?」

「ああ。心配やったから迎えに行ったねん」

「あ、あのひとはうちのママの弟さん。ママにおとついの事話したら、危ないからってわざわざ弟さんを呼び出してくれて、それで送ってもらったの」

「そやけど、部屋に入れたやろ?」

「だって悪いじゃない、お礼にコーヒーを出したのよ」

「じゃ、電話は?なんで出ぇへんかったん?」

「疲れててすぐ寝たから」

「でも、しばらく経っても車、停まったままやったで?」

「弟さん、うちのアパートの向かいのマンションに住んでるの」

 エミのアパートの近くで、あの車を見かけたことはない。僕はつのる哀しさよりも、平然と嘘を重ねる彼女が、だんだんと腹立たしく感じるようになってきた。

「そうか。そしたら、手ぇ、つないでたのもエミなりの“お礼”なわけや。もうええわ…ありがとうな…エミがいてくれたおかげで、楽しい学生生活やった」

 僕はコードレスフォンの通話終了ボタンを押すと、その子機を力一杯ベッドに投げつけた。そして、ひとしきり泣いた。



 エミと過ごした三年とすこし、それは僕の学生生活そのものだった。それを失った僕はしばらくのあいだ漂流した。もちろん、比喩的な意味合いにおいて。

 僕を現実世界につなぎとめてくれる存在は、ミヤビのほかにいなかった。エミを直接知るキコにもそれは無理だった。

 ミヤビはその時期、部活の先輩とつきあっていたのだが、相手はすでに社会人だったから僕と過ごす時間は充分にあった。

 木屋町のいつものバーで、涙ながらにエミのことを話すとミヤビは黙って聞いてくれた。

「鴨川、行こうさ」ミヤビはそう言うと、席を立った。



 ふたりで鴨川の河原に座るのは実に久しぶりだった。コートに包まった僕達は、鴨川の右岸、三条よりも少し北側の静かな辺りに腰をおろした。二月にしては暖かい夜だった。僕達は肩を寄せ合いながらしばし無言で夜の川面を眺めた。思えば高校時代には何度もあったシチュエーションだ。

「トッシィ、春になったら東京へ行っちゃうんやなぁ」いつもは明るく無邪気なミヤビが、いくぶんしんみりと言った。

「そうなるやろな。まぁ、二年くらいは大阪で営業研修かもしれん。いきなり広告なんか作れるとは思われへんし…」

「そっかぁ」

「ミヤビは?」

「うちは京都に配属されると思う。基本、女子社員はみんな地元やから」

「ミヤビのおらへん生活なんか想像もつかへんわ」

「うちもかな…。トッシィがいいひんやなんて…」

「そやけど、とおからず先輩と結婚するんやろ?」

 彼女はすこしの間、無言だった。「わからへん…むこうは仕事で生活が不規則やし、あのひとの子供を産む、っていうのがいまいち想像しにくいねん」

 僕はすこし考えて言った。「わかる気はする」

 ミヤビがこちらを向いて言う。「でも、トッシィ、応援してくれてたやん?うちと先輩のこと。お似合いやって」

「お似合いはお似合いやと思う。今でも。でもその、つきあうのと結婚はまた別かもしれへん」

「そうなん?」ミヤビはまた、川面に映る川端通の街灯の光を見やる。その横顔を見ていると、彼女と過ごした七年間の出来事が胸に去来した。きつかった練習。試合や遠征。一緒に見た映画や、飲み歩いた夜。そして、たくさんのキス。そのどれもを僕はありありと思い出すことができた。

「そやけど…」ミヤビは言葉を継ぐ。「うちと先輩、お似合いやって言ってくれてたやん?なんで今頃になってそういうこと言うのん?」

 僕はこの時初めて、ミヤビとの避けられない別離を感じとっていたのかもしれない。彼女を離したくなかった。誰のものにもなってほしくなかった。今、この瞬間が永遠に続けばいい、そう願った。そんな想いを言葉にすれば物事は違う進展を見せたのかもしれなかったが、僕にはそのひとことがどうしても形作れなかった。何故かはわからなかったけれど。あるいは、鴨川の流れのせいかもしれない。千二百年前に御所を造営するために流れを変えられてしまったそれは、僕達ふたりを映し、そして、よどむことなく流れ続けていた。それは止められない時間のようだった。僕達はもう七年近くもこういう関係だった。つかず離れず。成長の痛みを知り、共に手をたずさえて歩いてきた。それが、あと数ヶ月で終わってしまうのかもしれない。

「トッシィ」しばらくしてミヤビが僕の左手をとって言う。

「もう一軒行かへん?」

「もう結構遅いけど、大丈夫なん?」

「大丈夫やで。他のひととやったらあれこれ言われるけど、トッシィと飲みに行くって言ってあるから」

「先輩に?家に?」

「家に。いちいち彼氏に報告なんてせぇへんわぁ、友達と飲みに行くくらい」

 そう、友達。

 僕がさっき言えなかった想いは、彼女のその言葉の選択で、余計に素直な言葉にのせることができなくなってしまった。僕達は立ち上がると、河原を南へさがって三条大橋をくぐり、先斗町に入っていった。



 ミヤビと踏む石畳。

 僕も彼女も先斗町が好きだった。木屋町ほどざわついていないし、ふたりきりであれやこれや話しながら静かに杯を重ねて時間を過ごすにはふさわしかった。

 三条から歩くと、なかほどより少し四条寄りに目指す店はあった。先斗町のショットバーに、何故失われた大陸の名前が冠されているのかはわからない。

 そこはふたりがちょっと特別な時に行く場所だった。ただ飲むのではなく、いわゆるデートの最後に。

 奥に長く、夏場には河原に床も出せるつくりになっているその店は、僕達のお気に入りだった。入り口に近い、カウンターのいつもの場所に座る。僕が右側で、ミヤビが端っこ。僕はヴァラライカを、彼女はギムレットを注文する。振られるシェィカーの輝きが、いつもと違うように感じた。“今夜は特別な夜なんや”、そう、僕は強く感じた。

 なにに乾杯したのかはわからない。それぞれのグラスを前に、僕達をしばしの沈黙が包む。



「なぁ、ミヤビ?」

「なにぃ?」

「なんで俺ら、つきあわへんかったんやろ?」

 ミヤビはその柔らかな乳白色のカクテルを一口飲み干しながら僕の言葉を考えているように見えた。あるいは彼女の中にはその問いに対する答えなんてずっと以前から確固として存在し、僕を傷つけないために考えているふりをしていただけだったのかもしれない。照明の具合で、ミヤビのカクテルグラスは淡い黄色の輝きをはなっているようにも見えた。

「友達、やったからとちゃうかなぁ?最初から」

「友達…」

「そら、トッシィみたいなひとがいいなぁって思ってた時期もあった」僕は初めて語られるその事実に耳を傾けた。「あとは…タイミング?」

「いつも一緒やったもんなぁ」

「そう。高校のときさぁ、『メンフィス・ベル』観に行ったやん?あの、最後までどきどきする映画」

「行ったなぁ」

「あのとき、ムラナカさんに見られててさぁ、うちら。ユリのほう」同学年にムラナカという女の子は二人いた。

「トッシィさぁ、ムラナカさんともデートしたやろ?」確かにユリとは一度だけ遊びに出かけたことがあった。選択科目の席が近かったせいで仲良くなり、なんとなく誘ってみたのだ。僕は頷く。「そういえば、した」

「でね、ムラナカさんにその話聞いて、“トッシィとミヤちゃん、つきあってんの?”って言われたことがあってさぁ」ミヤビはグラスを持ち上げ、口をつけずにまた置いた。

「そのときかなぁ、トッシィとうちは友達なんや、ってあらためて意識したねん。トッシィはどうなん?」

 僕はグラスに口をつけた。ミヤビとの七年間を、心地よいほのかなカクテルの香りをかぎながら思い起こす。一緒に過ごした時間。そして、数々の口づけを。

「最初から好きやったかな?たぶん」

「たぶん?」彼女は笑う。

「女の子としても好きやったけど、それ以前に友達やった。ほら、他のチームメイトって、ライバルやん?」フェンシングは競技人口がさほど多くないせいと、僕達の学校はそれなりの強豪校だったから同性のチームメイトは全て優勝を争うライバルだった。

「そやからなんていうか…こころを許すことができて、いっつも一番近くに居てくれる存在、それがミヤビやったような気がする。上手く言えへんのやけど」それが、僕に表現できる精一杯だった。

「それに、女の子にどう接したらええのか、ようわかってなかったねん。ほら、男子校で三年間も暮らしたあとやん?」

「そっかぁ、そやなぁ。そしたら今は?」

「今もわかってへんかもしれへんなぁ。もしかしたら永遠にわからへんかも」

 ミヤビはつきだしの山葵の入った焼き菓子を口にする。僕はその菓子が苦手だった。

「今はあんなに女の子に囲まれてるやん。キコちゃんやったっけ?」

「友達やで、友達。浮気ひとつしてへん」

「そやけど、デートくらいしてるんやろ?」

「昼間、たまに食事に行くくらい。でも、ミヤビと過ごす時間のほうがずっと多いし、俺にとっては大事な時間やで」



「いっぺんさぁ、通学の電車で、痴漢に遭いそうになったことを防いだことがあったねん」

「え?なにそれ?」彼女に話していないことだった。

「なんかさ、高校のとき深草の手前で、その怪しい男に気がついてん。名前は忘れたけど、うちの学校の女の子がさぁ、困った顔してるのに気ぃついたわけ。その日はやけに混んでて、ミヤビが同じ車両に乗ってたことにも気がついてなかった」

「それで?」

「深草で電車が停まって、その子が足早に降りたねん。そのとき、どことなく挙動不審な男がさ、その子にぴったりくっついてたのがわかったねん。これは痴漢やな、って思たんやけど、その男も降りよった。それからミヤビのほうに近寄って行きよってん。階段の下まで。そこでミヤビとその男の間に身体割り込ませて睨みつけてやったら、その男、あわてて引き返して電車に滑り込みよったわ」

「それは痴漢かもねぇ…そんなことあったん?」

「そう。確か高校三年やったと思うわ。俺がキモトと別れた頃やったし」

「キモトさん…って懐かしいなぁ。ほらぁ、トッシィ、結構彼女いたやん?」

「いいひん時期のほうが長かったで」

「そやけど、デートした子は結構いるんとちゃうん?」

「まぁ、な」

「そういうのって、女子も少なかったし、すぐに話、まわってきたねんで。学校から出てもフェンシングの女子、みんな仲良かったから筒抜けやったし。京都だけでは飽き足らんと、和歌山の子まで手ぇ出してたやろ?」

「そこまでとは知らんかったけど、手ぇ出して、なんて聞こえが悪いなぁ。それにそれはその子が誘ってきたねん、近畿大会かなんかの試合のときに。海遊館行っただけ…食事したかも覚えてへんわぁ」

 ミヤビは今度は一口飲み干す。

「とにかく、結構一緒にいたやん、うちら」

「そうやな」

「周りからはつきあってるって思われてたねんで」

「それは薄々感じてた」

「だから、なんていうんかなぁ、トッシィの恋路というか、そういうのん、邪魔したくなくてさぁ。ほら、大学はいってもトッシィ、ずっと彼女と一緒やったし」

「そうなん?そしたら、今夜は?」

 ミヤビはグラスを弄ぶ。

「どうだろ?よくわかんない。ひょっとしたら酔ってるかも」ほんのり赤くなった頬に左手を当てながら彼女は笑う。

 僕はヴァラライカを飲み干して、コスモポリタンをオーダーした。

「もう少ししたら、離ればなれになるねんで」

 ミヤビもギムレットのグラスを空けて、ホワイトレディをオーダーする。

「そやねぇ…」

 僕達は新たなグラスがカウンターの上に出現し、空いたグラスが下げられるのを無言で見守った。

「こんな時間がずっと続いたらええのに」

「俺もそう思う」

 僕と彼女のこころが重なったことはこれまでにもあったかもしれないが、ふたりが言葉にするのはそれが初めてだった。

「海外遠征、ミヤビも行けたらよかったのに」

「そうやなぁ。そうしたら、もうひとつ思い出が増えてたのになぁ」

「あのときさぁ、決勝で雑念がわいたねん」

「雑念って?」

「いや、ミヤビと行きたいなぁ、遠征。って思て…」

「ちょっとぉ、それ、“雑念”ってひどない?」

「ごめん。でも試合中の身には雑念やろ?」

「まぁ、そうやけど。そやけど、ちょっと嬉しいなぁ。トッシィがそんなこと思てくれてたやなんて」ミヤビは自分のグラスの向こうを見やる。

「うちもな、トッシィが遠征に行ってるあいだ、よくトッシィのこと考えてた」

「そうなん?どんなふうに?」

「んー、内緒にしとくわ」

 僕達は笑ってグラスをちりんと鳴らすと、それぞれのカクテルを飲み干した。



 幾杯飲んだだろう。夜が、明けようとしていた。

 僕はラスティネイルを、ミヤビはグレンリベットをロックで傾けていた。

「逆に考えるとさぁ、ミヤビ?」

「なにぃ?」

「ずっとつきあってたんと違う?俺ら」

 ミヤビは少しのあいだ、無言でグラスを見つめる。そこに答えが浮かんでいるかのように。くるりと手首を返すと、氷がグラスを鳴らす。

「ある意味、そうかも…」

「言葉にしぃひんだけで」

「でも、言葉って大事やと思う」

 僕達はしばし無言でそれぞれのグラスを傾けた。そんな沈黙の中でふと、こころに浮かんだことがあった。心地よい酔いのさなかで僕はその思いつきを口に出した。

「なぁ、ミヤビ?」

「ん?」

「お互いさぁ、三○になっても独り身やったら、結婚せぇへんか?」

 ミヤビはしばらく黙っていたが、急に吹き出した。

「ちょっとぉ、なにそれ?」彼女は笑いながらも、右手を僕の左手に重ねて、僕の目を覗き込む。

「なんかそんな気がした。つきあうつきあわへんより、俺らにはふさわしいんとちゃう?」

 ミヤビは黙って考えていた。

「そんな約束、できるの?トッシィ…」

「できる」

 ミヤビは僕の手を握って言う。「八年後なんてわからへん、そういう事?」

「明日のことも…いや、もう今日か…そんなこともわからへんのやで。八年後なんてわからへんわ。剣持ってピストに立ってたあの頃に、こんな夜、想像ついた?」

「そうやなぁ…そうかもしれへんなぁ…」

「そろそろ行こか?」

「そうね…チェックを」

 僕達は手持無沙汰そうにすこし離れたところにいたバーテンダーを呼ぶと、会計を済ませて店を出た。



 手をつないでどこかの店を出るのは初めてだったかもしれない。「トッシィ…まだ帰りたないわ…」まだほの暗く、ひと通りの絶えた先斗町の石畳を踏みながら、ミヤビがぽつりと言う。

「俺も。も少し酔いが醒めるまでこうしてたいな」

「ええよ、そうしよ」

 ぶらぶら歩いていると東の空が白んでくるのが、見えなくとも感じられた。

 先斗町には小さなお社があって、その場所には建物が無く、そこからは直接鴨川と東山が見渡せた。僕達がたまたまそこにたどり着いたとき、東山の峰々から朝日が差し込んできた。僕達は手をつないだまま、しばしその光景に見入っていたが、やがてどちらからともなく抱き合い口づけを交わした。四年ぶりのキス。ミヤビの唇は記憶にあるそれよりも柔らかだった。

「八年後も覚えてる?」抱き合ったまま、僕は聞いた。

「もちろん」ミヤビはすこし潤んだ目で答える。そして笑いだした。

「なぁ、トッシィのあそこ、なんで硬くなってんの?」

 僕は少し赤くなったに違いない。

「それは…好きな女と一晩飲み明かして、抱き合ってキスしてるんやで、仕方ないわ」

「ふぅん、そういうもん?男のひとって」

「そういうもんやねん」



 僕達はその時、愛を交わすべきだったのかもしれない。



 フミは教員免許を取った。ささやかながらお祝いに、ということで、珍しく飲みに出かけることになった。彼女の恋人はやきもち妬きで、僕達が談話室や学食で逢うにとどめていたにもかかわらず、顔もあわせたことのない僕に嫉妬していた。だからキャンパス外で逢うのは初めてだった。

「よぉ彼氏OKしたなぁ」音楽ばかりでなく映画の趣味も合っていた僕達は祇園会館で二本立ての映画を観てから食事を済ませ、とっぷりと暮れた木屋町を歩いていた。

「ほら、相手がトッシィだから」

「それ、どういうこと?」僕の笑いは少し複雑だった。

「安全と思われてるらしいよ」

「まぁ、それは間違いないけど、ちょっと複雑な気分やなぁ、男としては」

「でね、どこまでだったら浮気じゃないの?って、いちおう確認しといた」

「そしたら、なんて?」

「んー、胸のひともみくらいやったら許したろって言ってた」フミは笑う。

 僕は笑って言う。「それなら安全やって。しぃひんよ、そんなこと」

「えっ?それは女として複雑」彼女は笑わずに言った。

 すっかり僕の行きつけになってしまった木屋町のショットバーに入った僕とフミは、今日観てきた映画について話をした。僕はショートカクテルを三杯ほど飲んだ。フミも同じくらい飲んだとき、突然彼女が言い出した。

「トッシィ…ホテル、行かない?」

「え?」

「女に二度も言わせる気?」僕は面食らった。そんなこと、今まで誰にも言われたことがなかったからだ。

 もちろん彼女も僕がエミとわかれたことは承知の上だ。僕はグラスに一口つける間に考える。

「今日は…やめとこ」

「どうして?」

「フミとは友達やろ?」

「そうよ。だから誘ってるの」

「俺は寝れへんよ。だって友達やもん」

「…ひょっとして、好きなひと、いる?」

 僕はミヤビのことを想った。三○歳の約束。こんな夜が幾夜あっても、僕は断り続けるんだろうか?

「あぁ、いる」



 ある日、ミヤビとキコを引き合わせることになった。

 どうしてそんなことになったのか、さだかではないのだが、キコがミヤビに逢いたがったのだと思う。僕とミヤビが高校時代から待ち合わせに使っている四条小橋の喫茶店で、僕たちはキコを迎えた。ふたりは気が合ったようで、先斗町のダイニングバーでの食事の間も、僕そっちのけでおしゃべりしていた。

 そのあと、同じく先斗町のショットバーにキコを初めて連れて行った。僕とミヤビ、いつもふたりで来る場所にキコがいるのはどことなく妙な感じだった。

「ふぅん、トッシィとミヤビさん、こんなとこで逢ってるんだ。いいなぁ」

「キコちゃんの彼氏はバーとかに連れてってくれはらへんの?」みやびが聞く。

「んー、お酒、私より弱いくらいだし、飲むとしても私の部屋か、居酒屋ばっかり。あんまり出かけたがらないひとだから」

「やっぱり相手がひとり暮らしだとそうなるやんなぁ」

「ミヤビと初めてここに来たの、いつやっけ」

「大学にあがる頃くらいとちゃう?」

 ミヤビは迷うことなくギムレットをオーダーする。僕もいつものヴァラライカを。キコはメニューをじっくり眺めたすえに、ジントニックをオーダーした。

「私、あんまりお酒知らないんだ」とキコ。

「うちもやって。ほら、部活の飲み会なんて居酒屋ばっかりやから」

「でも、ふたりしてそんなカクテルなんて恰好いいな。ミヤビちゃんは彼氏とも飲む?」

「バーにはあんまり行かへんかなぁ…」

「え~、そしたら、トッシィが彼氏みたいじゃん」キコが笑う。

「彼氏は彼氏、トッシィは…」

「なんやねん?」僕はミヤビに尋ねる。

「うーん…、トッシィ」

 僕達はひとしきり笑うと、出されたそれぞれのグラスを手に、乾杯した。



 キコは大学よりもずいぶん西に住んでいたから、僕とミヤビとはバス停が違った。キコをバス停まで送ったあと(あの、夜明けの口づけを交わしたお社の前は、お互い意識したのか通らなかった)、僕達は鴨川の河原に座って少し酔いを醒ますことにした。三月とはいえ肌寒い夜だった。僕は左手を伸ばしてミヤビの肩をそっと抱く。彼女は僕の顔を見て“ふふっ”と笑うと少し抵抗したが、それでも僕に身体をあずけてきた。

「キコちゃん、久しぶりに、また逢いたいって思えるひとやったわ」

「いい娘やろ?」

「うん。あの娘、モテるやろ?」

「基礎クラスでは人気あるなぁ」

「可愛いし、明るいし…なぁ?」ミヤビは少し身体を離して言う。

「なんでエミちゃん…やっけ?エミちゃんとつきあったん?トッシィとキコちゃん、お似合いやで」

「それは…エミに魅力を感じたからやし…それにキコは俺にとっては無邪気すぎるわ」

「無邪気…過ぎる、なんてことあるん?」ミヤビはまた、僕に身体をあずける。それは、ふたりにとっていつしかキスのサインと同じ意味になっていた。僕は彼女に口づけする。

「トッシィ…」

「ん?」

「キコちゃん、トッシィのこと、好きなんとちゃうかな?」

「ただの友達やって。まぁ、ミヤビ以外の一番の親友と言うてもええかもしれへんけど。なんでそう思うん?」

「直感。女の直感ってやつ?それに…ちょっとやきもちもはいってるかなぁ?」ミヤビは笑うと、またキスを求めてくる。僕はそれに応えながら、この夜が終わらなければいいと思っていた。



 学部ごとに行われる卒業式の日、キコと出席した僕は、大学の吹奏楽団が演奏するシベリウスのフィンランディア序曲になかば退屈しながら(この曲がはたして卒業式にふさわしいのかがわからなかったからだ)、ミヤビの抱き心地のよいしなやかな身体と、柔らかな唇のことを想っていた。



 キコがアパートを引き払う日が近づき、僕は手伝いに行った。僕はハウスクリーニング会社でアルバイトをしていたから、掃除の段取りは心得ていた。引越し清掃なんておてのものだ。女の子のひとり暮らしだ。さすがに荷造りまでは手伝えない。まる一日かけてそれぞれの分担を終えると、キコが言った。

「トッシィ、お礼にピザでも奢るよ。ワインでも買ってきて飲もうよ」

「ええの?疲れたやろうに…」

 キコは首を振って言う。「だって、仕事始まっちゃったら、これまでみたいに逢えないんだよ」

「そしたら、ご馳走になるわ」



 キコがデリバリーのピザ屋に電話で注文し、それを待つあいだにふたりで近所のコンビニまで歩き、これならまぁ、という白ワインを買ってきた。ピザを食べ終え、残ったワインを飲みながら、お互いの学生時代を振り返った。お互い恋人がいて、楽しんだ四年間。キコの恋人はふたつ年上で、すでに東京で彼女を待っているはずだった。

「じつはさ」突然、キコは切り出した。

「別れたんだぁ」

「えっ、いつ?」

「もう一年くらい経つかなぁ…」キコはグラスを弄ぶ。

「こんなこと、聞いてええんかわからへんけど…なんで?」

「先輩のこと、好きだったけど、遠距離恋愛には向かないひとだったの。すぐに向こうで彼女作っちゃって、別れてくれって言われちゃった」キコはワインを飲み干す。

 彼女のグラスを満たしてやりながら、僕は聞く。

「誰にも言うてへんかったん?」

「うん、今初めてトッシィに話した。ねぇ、横、行っていい?」僕は頷き、キコは僕の左隣に移ってきた。僕の肩に頭をもたせかける。

「…なんで俺にだけ、話してくれたん?」

「どうしてだかわからない?」気がつくと彼女に唇を奪われていた。僕はグラスを置いて、キコの肩に手をやり、そっと身体を離す。

「酔ってる?キコ?」

「少しばかり。でも、お酒の助けが必要なこともある」キコもグラスを置き、僕のほうに向きなおる。

「トッシィとは友達だけど、私、トッシィのことずっと好きだった」僕は何も言えずにキコの口元を見つめる。

「でも、トッシィにはエミちゃんがいた。ミヤビさんも」

「ミヤビは友達やで。親友」

「私は違うの?」キコは僕から少し目をそらす。

「親友、やな」僕は言う。

「抱いて」

「え?」

「抱いてほしいの。だって親友でしょ?でも、男と女である以上…」

「キコ…キコはそう思うん?」

「だって自然なことじゃない」紀子はまた唇を求めてくる。僕はされるがままになった。

「トッシィはいい男。いつだって私のこと、わかってくれた。ちゃんと私の気持ち、考えてくれてる」

「…そやけど、恋人にはなれへんよ」

「いいの。そんなことは。トッシィがいて、私がいる。いま、隣に」キコは僕の髪の中に手をいれ、弄る。

「親友でしょ?一夜の関係は約束じゃないわ。でも、親友は一生のもの。寝たからって壊れるものじゃないのよ」



 ほどなくして僕の研修は関東で行われるとの通知があり、東京に旅立つ日が来た。

 ミヤビは予想通り京都の営業所に配属されることになった。

 僕達は出逢って八年目を、これまでになく近い心理的な距離で、これまでになく遠い物理的な距離で迎えることになった。

 ミヤビは京都駅まで見送りに来てくれるという。この日も四条小橋の喫茶店で待ち合わせる。まだ新幹線の時間までしばらくあったから、鴨川の河原をふたりで散歩した。つかず離れず、少しばかりもの哀しい“友達”の距離で。その辺りにいた観光客に、ふたりの写真を撮ってもらう。四条通を烏丸の地下鉄の駅まで歩くあいだ、ふたりとも言葉少なだった。

「トッシィ…」

「ん?」

「寂しい…」

 僕はミヤビの右手をそっととって言う。

「お盆と正月には帰ってくるし、ミヤビも遊びにきたらええやん。今年も誕生日のお祝い、一緒にできるって、きっと」僕は八月十三日、ミヤビは三週間あとの九月三日が誕生日で、いつもそのあたりで一緒に誕生日祝いをしていた。いつからか、お互い恋人がいてもいなくても。

「そうやね…」

 地下鉄、二駅分の沈黙。

 車両は京都駅のホームに滑り込む。僕達は変わらず無言のまま、手をつないだままで八条口の階段をあがる。

 ミヤビはホームまで来てくれる。

 僕の乗る新幹線は次々発。ふたりで過ごせるのはあと一○分かそこらだ。

「ミヤビ」

「なに?」

「三○歳の約束やけど…」

 ようやく彼女が笑顔になる。「忘れてへんよ」「よかった」

 どちらからともなく、僕達は抱き合う。そしてキス。長い口づけになった。人目を気にすることもなく。

 無情にも、新幹線は遅れることなく到着した。僕達は引き剥がすようにして身体を離す。

 発車ベルが鳴る。

 乗り込んだ僕に、涙をためながらミヤビは精一杯の笑顔をつくり、手を振ってくれた。僕も涙をこらえながら手を振る。



 扉が、閉まった。

 新幹線は東へとゆっくりと動き出す。

 涙と笑顔が、同時に浮かべることができるものだなんてふたりとも知らなかった。



 研修は過酷だった。研修とはいってもそれは繁忙期の物流倉庫での下働きだった。休日出勤も多かったし、終電まで働く日々が続き、キコが予想したように自由な時間などほとんどなかった。その間、会社が借り上げたウィークリーマンションの一室から、週末が休みのときにはミヤビと長電話をした。彼女の研修は大企業らしく、きちんとしたものであるらしかった。

 そんなふうにしてあっという間に三ヶ月が経ち、僕の配属先が決まった。東京。広告部門ではなく、何故か企画生産部だった。まぁ、そのうちに配転希望を出せばええわ、くらいに考えた僕は、黙って辞令を受け取った。配属は三日後。それまでに部屋を探すよう言い渡された。まだまだ不案内な首都圏で、どうやって住む街なんか決められたろう。僕は研修地である越谷と本社の間で探すよりほかの手段を持たなかった。川口、が僕の選んだ街だった。その頃にはミヤビの研修も終わり、本配属地、京都営業所での実習が始まったようだった。



「ミヤビ、ごめん」ある週末の電話。

「え?」

「このお盆は帰れそうにないわ。休みも少ないし、まだ引っ越したばかりやし、なにかと…」

「そやろなぁ…そしたら、うちが行こうか?」

「かまへんの?なんにもできひんで」

「ええねん、トッシィがいたら。そのかわりなんか料理つくって。いっぺんトッシィの料理食べてみたい」

「そんなのでよければ、いくらでもつくるで」

「あと、どっか高いところに連れてって」

「えっ、高いとこ?」

「どこでもええねん。高い場所が好きやから」

「東京タワーとか?」

「んー、考えといて」



 東京駅。

 僕の誕生日。

 僕はミヤビを迎えに行った。空にかかる雲のせいか真夏にしては、その暑さは比較的ましに感じる日だったが、東京で過ごす夏は初めてだ。こんなものかもしれない。

 新幹線の扉が、圧搾された空気が開放される音と共に開くと、夏物のワンピースに身をつつんだ彼女がいた。ホームで抱き合う。車内の冷房のせいでミヤビの身体はひんやりとしていて心地よかった。そして、それはすぐに僕の体温と馴染む。

「トッシィ、誕生日おめでとう」

「ありがとう。ちょっと痩せた?」記憶にあるふっくらとした姿からは幾分細くなり、大人びたミヤビがそこにはいた。

「すこしね。別にダイエットしてたんわけちゃうんやけど」僕はミヤビの荷物を持って歩き出す。一泊分の荷物は、小さなボストンバッグひとつだけだった。その大きさと軽さが、僕にはどうしてか哀しく感じられた。



「いい感じに灼けてるなぁ。海にでも行ったん?」

「うぅん、うち、実はカヌー始めたねん。ちょっと前から」

「カヌー?琵琶湖?」

「シーカヤックちごて、ほんとのカヌー」その趣味は活動的なミヤビに似合っていた。

「おもしろい?」僕はミヤビが違う世界にいるんや…とその時初めて思った。

「おもしろいで。カヌーとキャンプばっかりしてた。意外?」

「そんなことないけど…それにおもしろそうやし。ただ…」

「ただ、なにぃ?」

「ミヤビが遠いとこにいるんやなぁって気がして、ちょっと哀しい」

「哀しい?」

「だって、七年間も一緒やったのに、ミヤビが新しいことを始めるのに一緒とちゃうなんて、なんか不自然に思えるわ」

 僕達はもう山手線のホームにいた。ミヤビは少し考えて言う。

「確かに。そやけど仕方ないやん、ある程度は。それよりも会社に可愛い娘、いる?」

「仕事ばっかりでそんな暇無いって。それにミヤビくらいに可愛い娘なんておるもんか」

「またまたぁ、トッシィったらそんなこと言うて。誰にでも言うてんのと違う?」

「そんなこと、あるわけないし」

 そんなことを話しながら僕達は池袋まで移動する。高いところ、そう、サンシャインビルだ。そこならミヤビのリクエストにも応えられるし、ふたりが好きな水族館もある。



 あいにくの曇り空のもと、展望階から東京の街を見下ろしているときにミヤビがぽつりと言った。

「別れたねん」

「え?」

「先輩と」

「そうねんや…」

「それだけ?」ミヤビがこちらへちらりと視線をなげて言う。

「うん…なんて言うか…」僕は発するべき言葉を見つけられなかった。霞む東京の街の向こう、僕達が七年間を過ごした西のほうを見やる。もちろん、京都の街なんて見えやしない。ミヤビが、長年恋慕った娘が恋人もおらず、ひとりの大人の女性として目の前にいる…。その事実に、僕は圧倒されていたのだ。

 僕達は飽きるまで東京の街を眺めてしまうと、水族館に移動した。ふたりで何度も行った海遊館ほどではなかったが、充分楽しいデートだった。僕はそのあいだ中、なんとなく現実感が持てなかった。ミヤビと、こうして東京にいることがなにか不思議な気分だったし、僕の半分は何年も前に海遊館でデートしたときの無邪気な、いまよりも少しふっくらとしたあの頃のミヤビと同じ時間の中にいたからだ。



「まだ俺の料理食べたい?」水族館を出るときにミヤビに聞いた。

「もちろんやで」

「せっかく東京に来たんやで、その、レストランとかに行ってちゃんとした食事したほうがようない?店とかあんまり知らんけど。まだ」

「うぅうん。トッシィがどんな暮らしをしてるんか興味あるねん」

「男のひとり暮らしやで。いまさら珍しいもんでもないやろ?」

「うーん、トッシィが、ってとこがポイントかな?」

「わかった。たいしたものはつくれへんけど、それでもええか?」

 僕達は埼京線経由で川口に移動した。



 僕のアパートは川口の外れ、ほとんど西川口に近いごみごみした場所にあった。近所の酒屋に寄り道して、ワインを買う。

「ふぅん、トッシィ、こんなとこに住んでるんや…」玄関を入りながら、ミヤビが言う。

「感想は?」僕も続いてあがる。

「トッシィのことやし、もっとおしゃれなとこに住んでるのかと思ってた」

「おしゃれなとこやなくてごめんて。でも三日間で探さなあかんかってん。右も左もわからへんのに」

「まぁ、仮の住まいということで」

 僕の部屋は三階建ての二階、角部屋ということだけは希望通りだったが、1Kとはいってもどこかの会社が社員寮として建てたものらしく、申し訳程度のキッチンがついているだけだった。自前の冷蔵庫さえ置けない。冷凍室なしの、小さな冷蔵庫が備え付けでついていた。

 僕はミヤビの荷物を置くと、料理に取りかかった。鳥肉の香草焼。手早くつくってしまうとワインを開け、ふたりで食卓を囲んだ。BGMには手持ちのジョージ・ウィンストンのCDの中から適当な一枚を選んでかけたが、彼にしてはアップテンポなその演奏は、久しぶりの再会を彩るにはすこしばかりそぐわなかったかもしれない。そういえばミヤビの音楽の趣味なんてほとんど知らないことに、いまさらながら気がついた。

 食事を終えると、壁を背に横並びになってシャルドネの残りを飲みながらお互いの仕事の話をした。ミヤビの仕事内容は、いまいちぴんとこなかった。僕が手に触れられるものを仕事にしようと決めていたせいもある。ミヤビと僕は違う世界にいるんだ…。そう、あらためて感じた。



「そうそう」仕事のことやチームメイトの消息…そんな、お互いの数カ月の生活を埋めるくらいの話題を提供し終わった頃、ミヤビは持ってきた荷物を探りながら言った。なにか長方形のケースを取り出す。「はい、誕生日プレゼント。おめでとう」

「えー、ええのに…ミヤビ、新幹線代も使ってるし、来てくれただけで充分素敵なプレゼントやって」

「いいからあけて」

「ちょっと待って」僕は用意していたミヤビへのプレゼントをベッドの下から取り出すと彼女の前に置いた。「ミヤビ、誕生日おめでとう。ちょっと早いけど」

「えー、うそー。ティファニーやん」その水色の紙袋を両手で持ち上げながらミヤビが目を輝かせる。「あけてみて。俺もあけるし」

 彼女の用意してくれたプレゼントはモンブランの万年筆、僕のそれは銀座に行ったときに選んだペンダントだった。ありきたりだったが、そんなものしか思いつけなかったのだ。

「ミヤビ、ありがとう」彼女は早速ペンダントをつけようと両手を首の後ろに伸ばしたので、僕が後ろに廻ってつけてやる。ほどよく日灼けしたミヤビの胸元に小さなビーンズが映える。

「トッシィ、ごめんね、なんか就職祝いみたいなプレゼントで色気なくて」

「いや、嬉しいよ、仕事でも使えそうやし、将来これで文章書くわ」

「うちもそう思って選んだねん」

「でもさぁ、あれやなぁ…」僕は書き味を試しながら言う。

「こうやってふたりでいると落ち着くなぁ。離れてるのが信じられへんわ」

「うちも」

 僕はミヤビの、幾分細くなった頬にキスをする。

「あれ?ほっぺだけ?」彼女はつけたペンダントをまだ片手で弄んでいる。

「まだそれほど酔ってへんし」僕は何故か照れくさかった。こうして大人の男と女として、ミヤビと向き合うことに慣れていなかったせいかもしれない。

「いいやん、たまには」

 僕達は抱き合って長い口づけを交わした。何度も、何度も。いつしか音楽が止まっていることにふたりとも気づきもしなかった。



 ワインを空けてしまうと交代でシャワーを使い、並んで歯を磨く。なんだか不思議な気分だった。ほんの数ヶ月前までは学生で、先斗町で飲んでいた。それがいまは、僕は右も左もわからない土地でひとり暮らしをしている。横にはパジャマに着替えたミヤビがいて、一緒に歯を磨いている。僕は移り変わる現実のスピードにどうしてもついていけなかった。

 ベッドに並んで横になる。部活の夏合宿の昼休み、チームメイト全員で雑魚寝したことはあったが、これはそんな経験とは全く違う。不可思議な緊張感がふたりを包む。

 左側のミヤビがそっと言う。

「なぁ、したい?」

「そりゃ…したいわ」

「でも、せぇへん。トッシィはしない。手を出さへん」

 僕は黙ってミヤビを抱き寄せてその薄い唇にキスをする。一瞬、ほんの一瞬だが、キコとの一夜が脳裏をよぎる。

「おやすみ、のキス?」というミヤビの言葉に、僕はしばし考える。

「まだ、こうしてるのが信じられへんねん」

「そう?」

「ミヤビは?」

「そうやなぁ、言われてみれば、ずいぶん遠いところに来ちゃった気がする。ふたりとも」

「やろ?そやからミヤビを抱くのが正しいことなんかようわからへんねん」

 彼女は、僕の頬にキスをする。唇ではなく。

「正しいとか正しくないとかってあるん?“友達”が邪魔してる?」

「そうかもしれへん」

 しばらくの間、僕達は無言でそれぞれの想いを馳せる。

「こんな映画、なかったっけ?」ミヤビが静かに沈黙を破る。

「『恋人たちの予感』、かな?」

「そう、それそれ。一緒に観に行ったっけ?」

「いや、行こうとは言うてたけど、結局見逃して、俺はレンタルで観た」

「そしたら、うちもそうかな。トッシィと観たいなぁ、あの映画」

「あるで」

「え?」

「テレビの録画やけど、あるよ」

「ほんと?観ようさぁ」

「今から?」

「嫌?あの映画、好きやない?」

「いや、大好きやで。観るたびにミヤビのこと思い出すけど」

「こんどはうちがそばにおるんやで、スペシャルやとは思わへん?」



 僕達は結局ベッドを出て、キッチンにあったグレンモーレンジをストレートで飲みながらヴィデオを観た。氷が欲しかったが冷凍庫がないのでしょうがない。その、メグ・ライアンとビリー・クリスタルのラヴコメディーを観終わってしまうと、ふたつのショットグラスはテーブルにそのままにもう一度ベッドに戻った。

「どうやった?」僕がたずねる。

「うーん、いろいろ考えたなぁ。まぁ、ただの映画といえばそれまでやけど。うちら、どうなんやろう?」

「ん?どういうこと?」

「友達、やんなぁ、恋人というよりは」

「そうかもしれへん。今はまだ」

「ふふん、今は。ほんまにそう思う?」

「実をいうと俺もようわからへん」

「ちょっと眠らへん?」ミヤビが言う。

「そうやな。ミヤビ、来てくれてほんまにありがとう」

 僕達は軽くキスをして、お互いの身体に腕を廻した。アルコールも手伝ったのだろうが、お互いへの信頼感がそうさせたのだろう、眠りはすぐにおとずれた。



 翌日は昼くらいに目が覚めた。遮光カーテンの隙間から射す光が、ミヤビの顔をやさしく照らしていた。楽しい夢でも見ているのか、微笑んでいるように、その顔は見えた。

 僕は彼女が目を覚ますことのないようにそっとベッドを抜け出すと、顔を洗い、シェービングフォームの缶を手に、ミヤビとの一夜を想った。果たして、それは僕が思い描いたとおりの一夜だったのだろうか?そもそも、何を期待していたのか、僕自身わからなかった。彼女を抱かなかったことには、どんな意味があるのだろう?あるいは、ミヤビにとって、期待したとおりの僕との一夜だったのだろうか?



 僕にはわからない。おそらくは永遠に。

 何故なら、その日から三週間後に、ミヤビの誕生日に、その生が突然断ち切られることになるからだ。



 ミヤビは午後遅くに目を覚ました。僕は食事を用意して、彼女が目覚めるのを待っていた。

「うーん…、トッシィ?」寝返りをうちながらミヤビが眠たげな声を出す。

「おはよう。よう眠ったなぁ」

「今何時…えっ、こんな時間?」枕元においた自分の腕時計を見て彼女は驚いたようだ。

「トッシィ、ごめんっ」

「ええって。気にするな。昨日は遅かったし、ふたりとも飲みすぎた」

「それにしても悪いやん。もう何処へも遊びに行けへんやん…」ミヤビはその夜の新幹線のチケットを取っていた。

「だから、ええって。なんか食べて、用意せな」ミヤビはもそもそとベッドからおりてきた。「うーん、一生の不覚…せっかくトッシィと一緒に過ごせる貴重な時間やったのにぃ…。起こしてくれてかまへんかったのにぃ」

 彼女は真剣に落ち込んでいた。僕はそれを見て笑って言った。

「また逢えるって。いつでも来ればええし、年末には京都、帰るしな」



 東京駅に着いたときも、ミヤビはまだ気にしていた。

「トッシィ、ほんまにごめんな。お兄ちゃんが姪っ子連れて帰ってくるから、一泊しかできひんくて」その家族仲はよく、結束も固かった。

「今度はゆっくりおいで。それまでに好きそうなバーとかも探しとくから」

 彼女の乗る新幹線の発車を告げるベルが鳴る。

「うん…」ミヤビと僕はかたく抱き合い、口づけを交わす。

 乗り込んでから、彼女は笑顔で言った。

「ほんまはさぁ、昨日してもええと思ってたねんで」大きくあいたワンピースの胸元に、真新しい、まだ彼女に馴染んでいないペンダントが煌く。



 扉が閉まり、僕がもう何を言ってもミヤビには聞こえない。

 僕は、言うべき言葉を見つけられなかったけれど。



 三週間後、事故があった。

 僕はミヤビの誕生日の夜にかけた電話でそれを知った。

 誕生日休暇をとっていたミヤビは、急流でカヌーの操作を誤った。

 岩にぶつかり意識を失った彼女は、ライフベストを着けていたにもかかわらず、そのまま川にのまれた。折からの雨で流れの勢いは増していて、カヌー仲間もミヤビを救うことはできなかった。

 溺死だったが、意識がなかったことは幸いだった。

 彼女は苦しまずに逝った。

 僕と、三○歳の約束を残して。

 その約束は、明け方の先斗町で交わしたキスと同じ時間に、今も留まったままだ。



 こんな終わり方、お別れなんてあるのだろうか?あの、誕生日の夜、僕はどうすればよかったのだろうか?ふたりの物語は、これからも続く、というよりも、あの夜が、ひとつなにかの始まりだったのではないのか?

 僕はそれ以来、グラスの向こう側にミヤビの面影をよく見る。何処にいても、何をしていてもミヤビのことを思い出す。あの笑顔、柔らかな身体と唇。

 僕の、永遠の想いびと。



 人生、あの時こうしていれば、結果は違ったかもしれないと思うことがままある。

 いや、結果なんて変わらないのかもしれない。

 ひとは、それを運命と呼ぶ。

 ミヤビの運命、そして、残された家族や、僕達の運命。



 “ミヤビ、俺らは生きなあかんねん、ミヤビのおらん、この世界で…”僕は何度も、そんなふうに自分に言い聞かせた。



 仕事はますます多忙を極めた。“鉄は熱いうちに打て”。企画生産部長の口癖で、新入社員の僕にもどんどん責任ある仕事がまわされるようになった。深夜まで残業し、週末は勉強会や会議。それでもミヤビの幻影は僕を捉えて離さなかったが、ふたりで過ごした七年間とはあまりに違う環境に埋没することで、幾分かは救われたのかもしれない。

 やがて初めての仕事納めがあり、休暇が始まったが、僕はその年末には帰省しなかった。もちろん、ミヤビの仏前に手を合わせたくはあったが、彼女のいない京都の街を歩きたくなかったからだ。ミヤビが、この世からいなくなってしまった現実にまだうまく馴染めていなかったからかもしれない。



 ひとりぼっちで迎える正月。

 母校が、ライスボウルに出場する。

 アメリカンフットボールの学生チャンピオンと社会人チャンピオンが日本一をかけて対戦する大きな試合だ。

 キコから久しぶりに連絡があり、観に行こうと誘ってくれた。彼女はそういうイベントを見逃しはしない。キコも忙しい毎日を送っているらしかったから、東京に出てきてから逢うことはおろか、連絡もほとんどとっていなかった。

 東京ドームのスタンドで、アメリカンフットボールの難解なルールに戸惑いながら母校を応援する。僕はミヤビの不在をこれまでになく感じていたが、左隣に座ったキコの存在に、こころ慰められてもいた。



 試合後、球場近くのスポーツバーに入った僕達はコーヒーを飲みながら話し込んだ。お互いの仕事のことを話し終わってしまうと、自然と学生時代の話題になった。まだ、昔話というには最近のことだ。もっとも、僕とキコには何十年も昔の話に感じられたのだが。

 バータイムに入って店の照明が少しばかり暗くなった。僕達はそれぞれジントニックをオーダーする。

「ミヤビさん、残念だったわね」それまで僕に気を使っていたのか、それとなく避けていた話題にようやくキコがふれた。

「そやな…」

「まだこれからだっていうのに…」

 僕は一口飲み干して言う。

「実は、誕生日、来てくれたねん」

「そうだったの?」

「あぁ。素敵な夜やったし、一生の思い出やわ」

「そのう…恋人の関係になった?」

「いや、抱かへんかった。俺とミヤビは、最後まで友達やった」

「そう」キコはグラスを弄びながら、しばし無言だった。キコの考えていることは、手に取るようにわかった。僕もキコも、ふたりの、あの一夜に想いを馳せていた。

「キコ…男と女って、なんやと思う?」それは極端に抽象的な質問だったが、彼女はちゃんと理解してくれた。

「なんだろう?永遠に答えの出ない問題だと思う。私達が男と女である以上」

「哀しいことやな」僕は言った。

「そんなことないよ。私はトッシィのこと、ちゃんとわかってる」

 僕はグラスに口をつけて少し考える。「寝たから?」

 キコは一口飲み干す。

「…“男と女は寝てみないとわからないこともある”、誰かが言ってたわ」

 僕はグラスを弄びながら考える。

「もし、それが本当なら、ミヤビと俺はわかりあえてへんかったのかもしれへん。七年間も一緒やったのに。ふたりのあいだには、ほんの少し…」僕は人差し指と親指で小さな隙間を作る。「ほんの少しの…なんていうんかなぁ、遠慮みたいなもんがあった」

「遠慮、かぁ…」

「緊張感、と言うてもええかもしれへん」

 キコは言うべき言葉を見つけられないようだった。僕達はしばらくのあいだ無言だったが、僕としてはどうしてもキコに聞いておきたいことがあった。それを口にすることは男と女のルールに抵触してしまうかもしれなかったが、僕とキコの仲だ、おそらく彼女はわかってくれるだろう。

「キコ」

「なに?」

「教えてくれへん?なんであの夜、俺と寝たん?」

 キコはグラスを弄びながら、ゆっくりと言葉を選んだ。「親友であるトッシィと、もっとわかりあいたかったから」

 僕はその言葉の意味をかみしめる。

「確かに、キコとはわかりあえてると思うわ。でも、あのとき寝たからとちゃう。寝てわかるもんなら、俺は他にもわかりあえてた女性がいるはずや。ミヤビとは寝えへんかった。そやけど、あの夜彼女を抱いたとしても、俺らは何処へも行けへんかったような気がするねん。なんでかはわからへんけど」

「だから余計に哀しい?」キコがそっと、尋ねる。

「かもしれへん」

 僕は一口、グラスから飲み干す。

「でも、キコが言ったみたいに、もっとわかりあえてた可能性もある。そのチャンスを逃してしもたことは後悔してる。あの夜、俺はミヤビを抱くべきやったんや。それに、約束もしてた…」

「約束って?」

「三○歳になっても独り身やったら、結婚しようって…」

「全ては運命…トッシィには酷すぎることかもしれないけど」

 はからずも僕の喉から嗚咽がもれた。胸の奥底から搾り出すように、それはもれた。そして、涙が流れ落ちて、止まらなくなった。キコが僕の肩にそっと手を廻す。その涙は、後悔の涙なのか、哀しみの涙なのか、僕自身わからなかった。

 僕の肩に廻されたキコの腕は暖かく、どこまでも優しかった。


 

 その年のお盆休みには帰省して、ミヤビの実家を訪ねた。脳裏に刻まれた、あの笑顔の遺影に万感の想いが胸をよぎる。そして、仏壇の片隅に供えられたペンダント。

 彼女の実家を辞しても、家にはまだ帰りたくはなかった。ひとり、自然と河原町方面へと市バスで出てしまった。祇園のバス停で降りた僕を、残暑が包み込む。

 まったくの無意識のままに祇園さんの石段をのぼる僕は、それが自分の身体のようには感じられなかった。ミヤビとふたりで幾度となくのぼった石段だ。山門の下で後ろを、なんとはなしに振り返る。そこから見える四条通の景色は、京の街を切り取る様々なファインダーのなかで僕がいちばん好きなそれのひとつだ。ミヤビもまた、その眺めが好きだった。罰当たりかもしれないが、この場所で口づけを交わしたことさえあった。僕は眩い夕陽に目を細めながら、夕闇に沈みつつある京都の街並みにしばらく見入っていた。ふと、引き戻されるように僕は石段をくだり、鴨川へと歩き始めた。


 

 陽が沈み、鴨川の右岸には、ところどころ、床の明かりに照らされた場所を避けるように、そう、かっての僕とミヤビのように、他のカップルとの間隔を適度に空けて肩を寄せ、座って語らう恋人達の姿があった。彼らの上を、かげろうがはかなげに舞う。

 いや、違う、と僕は思い直した。僕とミヤビは恋人であったことはなかった。傍から見ればそうであっても、僕達はそうではなかったのだ。

 三条まで上がり、そこから先斗町に入る。ミヤビと度々踏んだ石畳。すっかり日の暮れたその通りの両側には料理屋やバーの看板が輝きだした。ミヤビと幾度も見た、見慣れた光景。まだ早い時間だったから酔客は少なかったが、お盆休みということもあって観光客はそれなりに行き交っていた。僕はひとり、そのあいだを抜けながら、ミヤビと朝日を浴びながら抱き合ったお社の場所まで下がってきていた。月が、丸い月が東山の稜線にかかっていた。淡い月光を浴びながら、あれからまだ一年半も経っていないんだ…と思い当たる。あのときの、少し潤んだ瞳とおかしそうに笑うミヤビの笑顔を僕はまだ、まざまざと思い起こすことができた。

 ふたりで飲み明かして、三○歳の約束をした朝。ミヤビと過ごした七年間の思い出の中で、それは特別な出来事だった。いや、それは違う。今となっては彼女と過ごした全ての時間が特別だった。人生の光と影、その光の部分を、ミヤビの笑顔が照らし出していた。隅々まで。克明に。



 気がつくと、僕は先斗町の、座りなれたバーカウンターにいた。

「ギムレットを」僕はミヤビがいつも飲んでいたカクテルをオーダーする。

「今日はおひとりですか?」馴染みのバーテンダーが話しかけてくる。

「あぁ」

 僕は左側の席を自然と空けていた。

 そこに、もう彼女が座ることはない。

 友達としても、恋人としても。

 ミヤビは僕のこころに生き続けていた。目を閉じれば瞼の裏には笑顔が浮かぶ。あのとき、彼女を抱いていれば、あるいは恋人としての時間がすこしでもあったのなら、それは僕自身の中で消化できたのかもしれない。恋人としての時間がすこしでもあり、そして、別れがあったなら、ミヤビのいない世界に馴染めたのかもしれない。けれども、それはできない相談だ。


 

           *


 

 幾つかの出逢いがあり、同じ数だけの別れがあった。

 だからといってミヤビの“代わり”を探しているわけではなかった。

 彼女を失ったことでこころにぽっかりとあいた空白は、僕が一生背負うべきものだった。それは、僕の一部になりつつあった。

 いっそう仕事に打ち込むようになっていたこともあって、ミヤビの面影とともにひとり彷徨うには、東京が広すぎるという単純な事実に気づくのに長い年月がかかってしまった。

 僕はながらく勤めた会社にいさぎよく退職届を提出すると、京都に帰って職を得た。規模とやりがいはずいぶんと物足りなくなるがアパレルには違いない。



 キコはやがて東京で社内結婚し、幸せに暮らしている。ときおり連絡をとるが、あの一夜のことには、どちらも二度とふれることはない。

 フミにはあれ以来逢っていない。風の便りに、学生時代の恋人とは別の男と結婚したと聞いた。

 エミがどうしているかは、もちろん知らない。


 

           *


 

「私、縁って信じるの。ひととひととの縁。昨日コウジに出逢って、なんだかそんな特別な感じがしたねん」と、チカは言った。

 昨夜のチカと過ごした時間は、僕にとっても“特別な何か”、を感じさせるに充分だった。

 けれども、それが果たして彼女の言う“特別な感じ”、と重なるものなのかどうかはわからなかった。

 それから月が替わるまでの少しのあいだ、僕は誰に相談することなく、飲みにも出かけずにずっと考え続けていた。



 もう一度、逢いたい。

 そう想った。

 それだけは確かだった。

 月替わりのカレンダーをめくって三日目の夕刻、僕はシャワーを浴びて一番色の濃いストレートジーンズ、シャンブレーシャツにベージュのニットタイ、ステットソンのフェルトハットを合わせてローパーブーツを履くと、出かけた。

 先斗町を下り、よく知った重い木の扉を、思い切って引き開ける。

 連絡先を交換しなかったので、約束を果たす方法はこれしか思いつかなかったのだ。

 扉の向こう側に、彼女がいることには不思議な確信があった。



「チカ、誕生日おめでとう」



 透きとおる肌が引き立つ、あずき色のロングワンピースをまとった彼女は、記憶にあるよりもはるかに輝かしい笑顔で僕を出迎えてくれた。



 簡単なバーフードと幾杯かのグレンモーレンジ。なんの計画もなく、誕生日プレゼントすら用意していなかったのでお祝いはそれだけだったけれど、チカの笑顔に偽りはなかった。



 そして、このあいだよりもいくぶん涼しさを増した鴨川で語らい、チカは僕の部屋に来た。

 ソファの上で、どちらからともなく抱き合い、口づけを交わす。

「チカ、ずいぶん考えたんだけど、おつきあいしてもらえませんか?」

 彼女は僕の身体に廻した腕に少し力を込めると、僕の耳元でひとこと、囁いた。

「はい」



 彼女のそのシンプルな返事には、何かがあるべきところに収まったかのような感覚をもたらす響きが、あった。

 “そんな気がする”というだけのことかもしれないが、僕にとっては大きな意味を持つことだった。

 約束は、幾千の夜を超えて。

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― 新着の感想 ―
[一言] 高次脳障害で仕事をするのは大変です。(当事者としてそう思います)ごくごく一部には小説などを書いて、大金持ちになる人もいますけど・・・・・・・
2021/04/12 08:34 退会済み
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