よばれる
かれこれ、もう二時間は待たされている。男は苛立ちを押さえられずにいた。
ある日、高血圧のため通っている病院の主治医から紹介状を渡された。
それを持って県立病院行くように言われたのだ。
どこか悪いのか、と尋ねても、医者は困ったような顔をするだけで答えなかった。
こんなに待たされるとは思っていなかった。
待合室を見渡す。並べられたソファーは満席だ。
スピーカーから小さく雑音が漏れた。
『十三番の番号札をお持ちの方、診察室にお入りください』
女の無機質な声が番号を告げる。男の番号は四十五番だ。
うんざりとため息をつく。
そのため息に反応して、横に座る女が舌打ちをした。
男はその女を睨み、わざとらしく大きなため息をつく。
待合室はぎすぎすとした空気に満たされている。誰もが不満げだ。
窓のないどこか薄暗い部屋。空調もあまり効いていない。
半袖のTシャツにうっすらと汗がにじむ。
男は白い四人掛けのソファーに大きく足を広げて座る。
傍らに置いたナップザックから、文庫本がはみ出している。
ブックカバーの上から、汚い字で『罪過』と書かれている。
妻が勝手に入れたのか。全く興味が湧かない。
男は、乱雑に本をカバンにしまった。
手に握ったスマートフォン。受付がちらりとこちらを見る。
病院でスマートフォンを開けるのは非常識かもしれない。
だが、そんなことも気にしていられないほど暇なのだ。
受付も注意してこない。黙認だ。
男は、スマートフォンに視線を移した。
つまらないニュースばかり並ぶ。
だが、この退屈な時間をつぶすためだ。
男は、上から順にニュースを読んでいった。
ガタン、という音で目が覚めた。
手に持っていたスマートフォンが床に落ちたのだ。
男はそれを拾い上げる。眠っていたらしい。
待合室の時計が目に入る。
あれからもう、一時間は経っているようだ。
横に座る女は消えていた。
ソファーの空席も目立ってきた。
『三十番の番号札をお持ちの方、診察室にお入りください』
男は手元の番号をもう一度見る。
現在三十番。男の番号は四十五番。
まだ、十五人分も待たなければならない。
男は堪えきれず、受付に向かう。
「おい、どうしてこんなに時間がかかるんだ。これだったらいつまでたっても呼ばれない」
受付の女は答えた。
「もうすぐ呼ばれますから」
男はあからさまに舌打ちをして席に戻った。
受付の女の顔が気に入らない。妻の顔に似ているのだ。
妻はいつもつまらない見え透いた言い訳をする。
受付の女の顔は、その時の妻と同じ顔だった。
スマートフォンを見るのも飽きた。
男は辺りを見渡す。
プラスチックの白い本棚があった。
そこには、死後の世界、お別れの言葉、などといった病院には似つかわしくない本が並べてあった。
男は不愉快に思い、本を手に取らなかった。
さらに待つこと三十分。
『四十番の番号札をお持ちの方、診察室にお入りください』
男は妙なことに気づいた。
診察室に入った患者が出てこない。
診察が終わったら、普通その部屋から出てくるはずだ。
四十番の番号札を持った男が診察室に消える。
一人、また減った。
男は落ち着きなくあたりを見渡す。
白い壁に貼られている紙が目に入る。
そこには明朝体の黒い文字がプリントされた三枚の紙があった。
『謝りたいことは謝りましょう』
『反省は今この場でもできます』
そして、最後の一枚。
『あなたの罪は何ですか』
男は息を呑んだ。
じっとりと脂汗が浮かぶ。
ナップザックから、妻が入れたであろう本が覗いている。
タイトルは『罪過』。
男は壁の紙から意識を逸らしたくて、その本を開いた。
「ひっ」
男は小さく悲鳴を上げた。
本は手書きの赤い字に埋め尽くされていた。
本のタイトル通り、罪が記されている。
男がこの人生で犯してきた罪が。
幼い頃、興味本位で行った万引き。中学生の頃のいじめ。大学時代に行った恐喝。妻に振るう暴力。
そこには男の罪が詳らかに記されていた。
誰にも言ったことがない。知られているはずがない。
そんなものまで、文庫本の頁いっぱいに書き連ねられている。
『四十四番の番号札をお持ちの方、診察室にお入りください』
また、一人消える。
男は落ち着きなくあたりを見渡す。
壁に貼られた紙が目に入る。
『あなたの罪は何ですか』
その紙の次があることに男は気づいてしまう。
『罪を贖え』
その横にも紙。
『罪を贖え』
その横にも。
『罪を贖え』
気付けば紙は壁一面に張り巡らされていた。
異常な状況に、男は必死に入り口を目指す。
だが、受付の女がそれを止める。
「もうすぐ、呼ばれますから」
受付の女を振り切り、扉に向かった。
だが、扉には鍵がなく硬く閉ざされていた。
誰もいない待合室。
男は何とか逃げ出そうと、辺りを見渡す。
窓がない。壁を叩く。壁は硬い。
本棚が目に入る。死後の世界。お別れの言葉。
男はスマートフォンを握り、電話をかけた。
つながった。妻の声だ。
それは地獄から這い上がる蜘蛛の糸に思えた。
「助けてくれ!おかしいんだ!病室から出られないんだ」
電話の向こうで妻が言った。
『罪を贖え』
その声は確かに妻のものだった。
だが―
『罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え罪を贖え』
その声はだんだんと調子っぱずれになっていった。
男はスマートフォンを地面に叩きつけた。
体中から汗が噴き出す。
「ここから出せ!」
男はカウンター越しに、受付の女につかみかかる。
「おい、早くここから出せ!扉の鍵を開けろ!」
「もうすぐ呼ばれますから」
女は笑顔で言った。
男はカウンターを飛び越え、女に殴り掛かる。
「扉の鍵は何処だ!どこに隠し持ってるんだ!」
それでも女は繰り返す。
「もうすぐ呼ばれますから」
男は女を殴った。蹴った。踏みつけた。
地面に転がる女。
それでも、女は笑顔で言った。
「もうすぐ呼ばれますから」
今すぐその口を塞ぎたかった。
男は女に馬乗りになりその首を絞めた。
女は言葉を紡がなくなった。
荒い息を吐きながら男は立ち上がる。
壁一面の紙がかさかさと音を立てた。
顔を上げる。
黒かった文字が一斉に赤に染まった。
『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』『罪を贖え』
男は半狂乱になって、開かない扉に縋る。
「やめてくれ!俺が悪かった!反省している!反省しているから!!」
男は喚き散らす。
わずかな雑音がスピーカーから漏れた。
男は涙と鼻水で汚れた顔を恐怖に引きつらせる。
無機質な女の声が告げた。
『四十五番の番号札をお持ちの方、診察室にお入りください』
終わり
病院でなかなか呼ばれない時はいらいらしますし、不安にもなりますよね。
でも、そのまま帰るわけにはいかなくて結局待つしかない。
そんな時は、顔を上げてみてください。
壁に紙が貼ってあるかもしれません。
「あなたの罪はなんですか」
閲覧いただきありがとうございました。