パール
青山通りを歩いている。
頭の芯が疼くように痛いのは、お酒を飲みすぎたからだ。
身体がどこかふわふわして、地に足がつかないような感じがするのは、さっき裕彦と二回も愛し合ったからだ。
裕彦が、追ってきているのは知っている。
でも、いずみは振り向かなかった。
足をはやめる。
ゼネコンのビルを過ぎ、稲荷神社の手前で歩道橋を上る。階段の途中で片方のハイヒールの踵が折れた。足首を挫きそうになる。
いずみはハイヒールを脱いだ。裸足で残った階段を上る。歩道橋の半ばまであるいて、いずみは立ち止った。
息が切れた。
欄干に手をついて、眺めた。
吐く息が白く、凍りついたように流れていく。
赤坂見附の交差点が見える。
凍てついた空気の底に沈んでいる街は、まるで死んだように静かだった。
白っぽいコートが見える。小走りに向かってくる。
戸惑ったような、優しげないつもの表情が遠目にも見える。
いつもの裕彦の表情。
どこか酸っぱいような想いがこみ上げる。
(愛しい……でも、壊したい。あなたもあたしも)
携帯電話の着信音。
ハンドバックから携帯を抜く。着信表示を見る。
―― 瀬戸山純一
(瀬戸山ぁ、あいつ、なんだってこんな時間に! )
―― まずこの携帯をぶち壊してやりたい。
「はい沢木」
「沢木さん、瀬戸山です」
「どうした? 」
いずみは怒鳴りつけたい感情を飲み込む。
「明日のことを考えると、眠れなくて。これから睡眠薬を飲むんで、沢木さんにモーニングコールしてもらおうと思って」
くるくるといずみの頭は回転する。
明日の瀬戸山は「木10枠」、主役の西山と絡みがある。
西山はアイドルあがりだが、最近は演技派で通っている。現場に台本を持ち込まない、つまり、台詞を全部あたまに入れている、数少ない役者だ。
端役が遅刻して、あんな人を怒らせたら、瀬戸山を干すくらいじゃ済まない。
それにしても……
(モーニングコールをお願いしますだろ、この馬鹿野郎!)
いずみはぐっと、堪える。
「何時? 」
「13時にTMCなんで」
「成城ね。じゃあ10時、了解、おやすみ」
淡々とやり取りして、いずみは電話を切る。
顔を上げると、裕彦がいた。
「仕事? 」
いずみは応えない。
欄干にもたれた。コートの生地を通して鉄の冷たさが伝わる。
青山通り、さすがにこの時間はクルマもまばらだ。
視線を上げる。
正面に赤坂プリンスホテルが、まるで間抜けな巨人のように立ちはだかっていた。
さっきまで、あの灯かりのどこかにいたのだ。
情事を終えてまどろんでいる裕彦を残し、いずみは部屋を抜け出した。
裕彦が、追ってくるとは思わなかった。
でも、追ってきてほしい…。
心のどこかで、思ってた。
ホテルのエントランスを抜け、弁慶橋を渡るところで視野のすみっこに石段を駆け下りる男の姿をとらえた。
いつもそうだ。
あたしがこうしてほしいとき、あなたはいつも応えてくれる。
ヤスヒコ…。
それが、あたしの気持ちをここまで繋ぎとめてきた。
そしてあたしは、もうすぐ終わってしまう20代の大半を、この実りのない恋に費やしてしまった。
ビルディングに切り取られた空の片側が、深い群青いろに変ってきた。
もうじき朝がくる。
日曜日…… 家庭のある男たちが、家族と過ごす日。
家族のいない女は、ひとり憂鬱な時間を潰すか、女ともだちと馬鹿みたいに笑って過ごす。
付き合ってくれる女ともだちも、ひとり、またひとりと減っていく。
昨日の晩もまたひとり……。
大学を出で最初に就職した人材派遣会社時代の友人の結婚式。そこで先輩社員だった裕彦も二次回から参加した。
裕彦はサラリーマンを経て念願だった演劇学の研究者となり、大学の教員となった。いずみは裕彦に刺激され、大好きだった芝居にかかわっていける職業として、芸能プロダクションのマネージャーへの道を進んだのだ。
昨夜、いずみは、酔っぱらっていた。
三次会まで裕彦をひっぱり、挙句に
「ヤスヒコ、今夜は帰らないで、一緒にいて」
と我がままを言った。
裕彦は何も言わず、携帯電話でホテルを予約した。
奥さんには、何と言い訳したのだろう……。
いずみは思ってみる。
と、また携帯の着信音。
着信表示を見る。
―― 笹沢 希美子
プロダクションの看板役者、笹沢貴之の妻だ。
「はい、沢木です」
「…… 」
「もしもし、希美子さん? 」
笹沢希美子は元女優。顔だちがきれいなだけで、ちっとも売れなかった。
パラノイヤ傾向があり、今はどうしてだか、いずみと笹沢が不倫しているという妄想にとり憑かれている。
「…… いるんでしょ」
「えっ? 」
「―― 嘘ついても無駄だから、知ってるのよ私、ねえ、電話に出してよ笹沢を」
(―― 冗談じゃない。あたしは売り物の役者に手をつけるほど、餓えちゃいないよ。あんたの旦那が浮気してるのは間違いないだろうが、相手はあたしじゃないね )
と、のど元まで出かかったセリフを、引き戻すようにして、飲み込んだ。
「―― おっしゃっている意味がわかりませんが、希美子さん。笹沢さんとは金曜日の夜にお台場のCXで別れたきりです」
「…… もういいわ 」
電話が切られた。
(まったく、今日は何という日なんだろう)
顔を上げる。
裕彦が、心配そうな表情でのぞきこんでいた。
目が合うと、軽く微笑んでみせる。
大変だね、大丈夫、とでも言いたげな表情。
誠実で、優しい、いつもの表情。
―― とたんに、胸の奥の方から大きな感情が込み上げてきた。
いずみは手にしていた携帯電話を、裕彦の足もとに叩きつけた。
そして、両手を首のうしろに回し、ネックレスを外した。
本真珠のネックレス。
何年か前、裕彦が三重に出張した時のおみやげに貰った。
たぶん裕彦のプレゼントの中では、一番高額だ。
「なんでこんなもの、呉れるのよ。結婚式ぐらいにしか、していけないじゃない。あたしがこれをして、何人の友だちを見送ったと思ってるの? 」
(言いがかりだ。言いがかりだ。でも、半分は嘘で、…… もう半分は本当だ )
「あたしの番は、いつ来るのよ…… 」
(―― あたし、酷いこと言ってる。あたしは最低だ )
裕彦は、ひどく悲しそうな顔つきをしていた。
今にも泣きだすんじゃないかと思うほどに。
(―― どうして? どうしてあなたは、怒らないの)
心から切り離されたように、身体が動いていく。
いずみはネックレスを引きちぎった。
いずみの手から真珠が零れ落ちていく。
片手に握った真珠を、節分の豆のように、いずみは中空へ向かって投げつけた。
真珠はきらきらと輝く飛沫となって、青山通りに吸い込まれていく。
足もとの真珠を拾い集める。さらに投げようとしたところで、いずみは後ろから抱きつかれた。
「いずみ…… ごめん…… 」
裕彦の胸を背中に感じた。
裕彦の吐息を、首筋に感じた。
裕彦は、きっと泣いているのだ。
(ヤスヒコ …… あなたは、優しい。
ヤスヒコ …… あなたは、ずるい )
いずみは、ゆっくりと顔を上げる。
息を飲んだ。
赤坂プリンスの壁面に太陽が昇っていた。
太陽が、壁面に反射しているのだ。
金色の光りの帯が、幾条か差し込んでくる。
色を失っていた街が、輝き取り戻してそうとしている。
まぶしかった。
右手をひらく。
真珠がいくつか、入っている。
いずみは、ゆっくりと放り投げた。
真珠の粒は陽光を浴びて、その一瞬大きく煌めいて、消えた。
裕彦の手に、自分の手を合わせる。
(ごめんね、ヤスヒコ。もう少しだけ、あなたのところで休ませて。
…… そしたら、あたし、ひとりで歩いて行けるから)
いずみは、大きく息を吸った。
冷たく、新鮮な空気が身体じゅうに染み込んでいくような思いがした。
その空気を、いずみはおいしいと感じた。
まるで、生まれ変わったような気がした。
と、着信音がなる。
「よかった、壊れてなかったね」
裕彦が耳もとで、ささやくように言う。
いずみはようやく微笑んだ。
(了)