エピローグ 神様、世界の裏側で願う
頭上に広がるのは、無数の星屑が散らばる夜空。地面は雲。
雲には大きな穴が開き、その淵に女が佇んでいた。女の傍らには執事服を着こんだスケルトンと、巨大な天秤があった。
美しいプラチナブロンドの女は、桜色の唇を緩い笑みの形にして、穴を覗いている。
雲に開いた穴から見えるのは、地上の様子。
収穫したガジャ芋を手に、悦に入っている魔王サナト。
サナトの側できゃあきゃあ言っている子供たち。
微笑ましそうに見守るリベラ。
ふんと鼻を鳴らし、黙々と作業をする勇者マルス。
大きさで分けたガジャ芋をカゴに入れていくベス。
「やれやれ。思っていたものと形は違いますが、やっと平和が約束されましたな、女神アストライア」
女に並んで立っているスケルトンが、呟いた。
「思っていたものと? 全て貴方が仕組んだものではないのですか、魔神オセ」
「おやおや。なぜそう思われるのです」
骨しかないスケルトンなので表情は出ない。しかし面白がるような声の響きからして、もし肉があれば片眉を上げてニヤニヤと笑っているだろう。
「魔王が場所を決めずに転移魔法を行った時、あの町に導いたのはオセ、貴方でしょう?」
戦いに嫌気がさしていた魔王の転移先を、金のないベスという男の前に設定した。ベスから見れば絶好のカモに見える魔王を。
「まさか農業にあんなに興味を示すとは、予想外でございましたが」
口蓋が開き、カタカタとスケルトンの骨が鳴る。
「思っていたものと違うのは、本音でございますよ。私はただ魔王様に人間と触れ合わせるだけのつもりだったのです」
「随分と方針を変えたのですね」
静かな女神の問いに、ボウッとスケルトンの眼窩に紫色の光が灯った。紫の光は滲むように広がり、骨という骨を覆っていく。骨を覆った光は徐々に色合いを濃く、形を鮮明にしていった。
濃い紫は漆黒へ、骨には肉。がっしりとした体躯、鎧のような筋肉、金色の瞳、長い黒髪の男が獰猛な笑みを浮かべる。
「しょうがねぇだろがよォ。あいつは魔王の癖して『殺し』が出来ねぇんだからなァ!」
魔王は魔界で最強のものがなる。質の悪いことに、サナトは他の追随を許さないほど最強だった。
「ったくよォッ! ふざけてんじゃねぇぞォッ!! 魔王の癖によォッ。人間だけじゃねぇ、魔王に歯向かう魔物も魔族も、誰一人殺さず済ませやがってェッ!」
オオオオオオォッ。怒りと共にオセの体から紫色の光が立ち上った。
「……」
アストライアはオセから視線を外し、天秤を眺めた。善悪の天秤は、片方に傾いている。
――善の方へと。
「だったらさっさと魔王を引退しろっつってやってんのに、言う事聞きやがらねェッ。馬鹿みたいに何回も何回も人間界を侵略しているように見せかけちゃあ、勇者にわざと倒されやがって。方向転換するしかねぇじゃねぇかよォッ」
魔王とは、人間界を脅かすモノだ。
その昔。人間が鉄を手に入れ、道具や武器を持ち始めた時代。人間は争いや悪行を重ねるようになった。
人間は、人間同士の争いで血を流し合い、正義を訴えるアストライアの声にも耳を傾けなくなってしまった。神々は次々と人間を見限って去り、アストライア自身もどうにもならないと絶望しかけた頃。
血で染まった大地から、魔神オセが誕生した。
オセは悪徳に満ちた人間を魔族、魔物に創り変え、最強の存在を魔王とした。魔王は魔族と魔物を率い人間の敵として立ち塞がったのだ。
すると人間たちは人間同士の争いどころではなくなり、団結し、手を取り合って女神に願った。アストライアは人間の願いを聞き入れ、勇者という存在を創ったのだ。
以来、人の世が荒れては魔王が立ち、勇者が現れて討ち果たす。そうして平和を取り戻すようになった。
「ここ数百年、脅威にもならねぇうちに速攻で倒されやがるもんだから、人間どもはすっかり平和ボケだ。人間同士の争いもまた起こるって……予想だったんだがなァ」
オセの金色の瞳が、雲の下へ向けられる。
「すっかり目論見が外れちまったぜェ」
口をへの字に曲げ、不機嫌そうに雲の下を見るオセの目は、穏やかだった。
「ふふっ」
確かに、方向転換するしかなかったかもしれない。
しかし転換させるなら、方向は一つではなかったのだ。
「何がおかしいッ!?」
「いえ」
オセにぎろりと睨まれ、アストライアは首を横に振った。
魔王が畑仕事を始めるにあたって、星屑の粉を分けてくれと頼んできたのはオセだ。
転移先にわざわざ勇者の故郷を選んだのも。
畑をやりたければ、どうすればいいのかを魔王に教えたのも。
魔剣を取り戻す際に、人間の協力者を得ろと進言したのも。
人間と魔王の交渉の場をあれほど早く整えたのも。
マーヤーに魔王の畑の位置を教えたのも。
畑で癒され、人間と交流を深めたところで全て奪い去り、本当に絶望させてしまえば、サナトは今度こそ魔王を返上しただろう。
そうすればオセの思い描いた通り、新しい魔王が立ち、また世界を闇と混沌に落とすだろう。
しかしオセは違う選択肢を選んだ。
悪徳と絶望の沁み込んだ大地から産まれた魔神オセが。
オセの中に満ちていた憎しみと怒りも、長い年月をかけて薄れたのか。
魔族の中から、魔王サナトのようなイレギュラーが生まれたように。
魔王という驚異がなくとも、人間たちが争わなくなっていったように。
憎しみと怒り以外の感情がオセに生まれ、育っていったのかもしれない。
「星屑の粉を分けるにあたっての、見返りですが」
アストライアは、白くたおやかな手をオセに差し出した。
「何でも一つ、願いを聞く、だったなァ。アストライア」
にぃ、と牙を剥くように笑んで、オセがアストライアの手を取った。
アストライアは人間が愛しい。正しさと悪徳と。両方を併せ持つ人間が。
正義から産まれた己も、悪徳から産まれたオセも、両方が愛しい。
「オセ。わたくしと……」
アストライアは願う。
正義の女神アストライアの中に、正義や善だけでなく、違う感情が生まれ、育っているように――。
オセもまた、正義から産まれたアストライアを、愛しく感じてくれていると信じて。
これにて完結です。
読んで下さった方々、最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました!
あなたの存在が、作者の力になりました。
感謝いたします。