異世界へ
七月二十八日、時刻は夕方五時頃。
天気は晴れ。
ちょうど西の空が美しい茜色に染まっている。
「人多過ぎ」
男子高校生、深草志鏡は不機嫌に呟く。
すると右隣から凛と響く可愛らしい声が聞こえた。
「そうね。人混みは疲れるわ」
見知らぬ黒髪の美少女に話しかけられたようだ。
これが東京名物の【逆ナンパ】というやつか、などと士鏡は友人から聞かされていた話を思い出す。
「そうですね。俺は長野県から観光に来たのですが、東京は人口が多すぎて困っています」
「あなたも花火を見に来たのかしら?」
今日は花火大会が開催される日だった。
華やかな大勢の浴衣姿の人で路上は溢れている。
現在、士鏡たちは東京都の隅田川の川沿いを桜橋方面に向かって歩いていた。
「はい。あなたも花火を見に?」
「――さあ? どう思う?」
彼女はからかうように魅力的な顔付きで小首をかしげた。
「浴衣姿だし、花火を見に来たように見えます」
「ふふ、残念。ここにきた目的は花火じゃないわ」
「ではなんの目的でこの人混みの中を歩いているのですか?」
「あなたを見つけるためよ。私は異世界人、あなたに会うためにここに来たの」
「えっ」
よく見るとこの黒髪の美少女はどこかおかしい。
浴衣は上品で涼やかな藍色の生地だ。――普通だ。
浴衣の生地の上にはカラフルな椿模様があしらわれている。――普通だ。
帯は明媚な茜色だ。――普通だ
色白の素足には純白の鼻緒の下駄を履いている。――普通だ
腰には刀を帯刀している。――おかしい!
「その刀は異世界人のコスプレ?」
「ふふっ。バカ」
彼女は笑った。
士鏡は思わず息を呑んだ。
馬鹿にされたのに笑顔が可愛すぎて腹が立たない。
口元から耳元にかけてのシャープな頬のカーブは滑らかで美しい。優雅な曲線美を描いている。
はっきりとした目元は楽し気で、その青い瞳は綺麗に澄んでいる。
くすくすと笑うたびに揺れる身体は女性らしく膨らんでいる箇所も目立ちスタイルの良さが際立っている。
思わず見惚れて立ち止まってしまう。
可愛さなら確かに異世界人レベルだった。
自称異世界人も立ち止まる。
「私はあなたを狙っていました」
慣れた手つきで彼女は腰の鞘から日本刀を抜刀する。
構えも堂々としていてまるで本物の女サムライのようだ。
って、見惚れている場合ではない。
自分に向けられた剣先を見て士鏡は我に返る。
丁寧な言葉遣いはやめて簡潔に伝える。
「刀は腰に直して欲しい」
「いいえ」
自称異世界人の美少女は首を横に振った。
「私の正体を知ってしまったあなたを許すわけにはいきません」
「自分で勝手に私は異世界人ですと教えてきたんだろ」
「そうだけど」
少しバツの悪そうな表情になる。
「あー、えと、じゃあ私と一緒に異世界に来てください」
「じゃあってなんだよ。俺は異世界とか魔法とか信じてないから」
驚きの表情を返された。
「えっ。信じてないの?」
「ああ。ただ一つを除いて俺は非科学的なことは信じていない」
「異世界も魔法も本当にあるわよ」
「あるわけがない。今までの人生で一つの例外を除いて出会ったことがないからな」
「ふーん。一つは信じてるんだ。それは何?」
「吸血鬼の存在」
「あは、あはははは」
大笑いする美少女。その笑いに悪意はなく、心の底から楽しく笑っているように見えた。
何がそんなにおかしいのかと士鏡は冷静に尋ねる。
「なぜ笑うんだ」
「だって、私たちの暮らす異世界では吸血鬼なんて本の中、つまりフィクションの世界でしか存在しないわ。それなのに信じてる人がいるなんて。可笑しくて。あはは」
俺はその吸血鬼なんだが、という言葉を士鏡は飲み込む。
せっかく人間状態でいるのだから、わざわざ自分の正体を明かすことはない。
「吸血鬼がいないなんて、君の言う異世界は不思議なところなんだな」
吸血鬼である自分が行けば無双できてしまいそうな世界だ、と思った。
美少女は笑顔のまま首を傾ける。
「異世界に来てみる?」
「・・・・・・。そんなところが実際に存在するなら」
「ありがとう。私があなたを狙っていたのは異世界に来てもらうためだったから。実力行使をしなくて済んで良かったわ」
「俺を狙っていたってどういうこと?」
「狙っていた、ではわかりにくいかしら。じゃあ【探していた】と思ってくれても構わないわ」
「まだ意味がわからない」
「あとで」
彼女は不意に両手で印を結び始めた。
その一連の仕草はまるで本物のくノ一のようだった。
侍ではなく忍者? と思っている間に少女はもう手を止めている。
どうやら高速で印を結び終えたようだ。
クールな佇まいで立っている。
美少女の大きな目は感情を押し込めているようなミステリアスな青い瞳をしていた。
次の瞬間、彼女の足元から青い光があふれだした。
ファンタジー世界の魔法陣が崩れて輝き出したみたいな、そんな無秩序な光だった。
士鏡の足元にもその光が地面を伝ってやってくる。
彼女の長い黒髪は風もないのにふわりと逆立っている。
彼女の形の良い口元はきれいなカーブを描いて僅かに上方に引っ張られる。
笑った?
次の瞬間、視界は完全にブラックアウトした。
静寂と暗黒が訪れる。
数秒後、視界がパッと開ける。
柔らかい明かりが急に差し込んできたので驚く。
「うわ、眩しっ。 ――ん? 東京の街が消えた?」
周囲を見渡した。
ここはどこかの山の中腹のようだ。木々に囲まれた無人の大地が故郷の長野県を想起させる。
すぐ右隣から凛とした可愛い声が聞こえた。
「街だけじゃない。私の服も消えたわ。転移のときに間違って東京に置いてきたみたい」
隣に立つ彼女は確かに一糸まとわぬ生まれたときと同じ姿だった。だがその裸体にはどこか違和感を覚える。
「俺の服は残ってるけど」
「私の服だけ失敗して全部消えたの」
「嘘だな」
吸血鬼は最低だ。たとえ人間状態であろうと若い女性の健康的な裸を見てしまうと欲情して吸血したくなる。
それにも関わらず目の前の彼女に対して吸血衝動が湧いてこないということは、これはまがい物の裸ということになる。
「どうして?」
「威張れることじゃないが、生れつきそういうのを俺はわかるんだ」
「そう。さすが靴男ね」
満足そうに彼女は微笑む。
【靴男】という謎のワードは使われたが、どうやら称賛されたらしい。
「偽物でも恥ずかしいわ」
セリフとともに、彼女は照れた表情を浮かべる。
次の瞬間、まるで魔法が解けたかのように士鏡の目の前から露出した肌が消える。そして下から元々の浴衣が出現した。
「もしあなたが裸の私を見て私を襲っていたら不合格だった。でもあなたは合格よ。あなたを認めてあげます」
「何を?」
「ふふっ」
彼女はミスリアスに微笑んだあと、突然士鏡の右足のスニーカーを踏んできた。
「いてっ」
足を踏みつけている方の下駄が青白く輝いた。
足元には青い魔法陣が広がる。
【完結しました:11月15日】