1 俺と魔王
目の前に、魔王が現れた。
燃えるように逆立ち、揺れる赤い髪。山のような巨大な身体に、黒々とした鎧とマントを身に着けた、人外の王。
金色の眼光が、その視線だけで敵を射殺さんと言わんばかりに向けられていた。
いよいよ倒すべき敵――最終目標を前に、おれは軽く舌なめずりして、手にした得物を持ち直す。
この日の為に、最高と言える状態にまで鍛え上げてきた。装備も手に入れられる最上級のものを揃え、体力も最大。仲間の士気も高い。
負ける要素など、一かけらも残さず潰し……この日、勇者は最強最大の敵に挑む。
「……よし、やってやるぞ」
ひんやりとした室内に、呟きが染み込む。それとは裏腹に、緊張と興奮に胸は高まっていた。
魔王は気取った台詞で何かを偉そうにしゃべっていたが、その余裕ぶりが逆におろかしい。
(お前に万に一つの勝ち目はないだと……? それはこっちの台詞だぜ)
知らず、口がにやける。いけない。ここは格好をつけて決める場面だ。
数ヶ月におよぶ旅の道のり、様々な出来事を思い返す。色々と苦難もあり、行き詰まって投げ出しそうにもなったが、間違いなく楽しかった時間だ。
魔王との戦いも、かれこれ十回は超えるだろう。
その度にコテンパンにやられ、それでもまた鍛え、相手の行動パターンを探るなど攻略の糸口を必死で見つけながら、とうとうここまで来た。
たぶん、これで負ければ後がない。
そうなれば、旅の終わりを迎えることなく、この夏は幕を閉じてしまうだろう。
そうして、魔王の長い台詞もようやく終ったところで、お互いに身構える。
ラストを飾るにふさわしい、もはや聴きなれた荘厳な音楽が流れだす。いよいよ戦いが始まろうと――
「おい! ゆー! また引きこもってんのか、お前は!」
ドカン、とリビングの扉が乱暴に開かれ、甲高い怒鳴り声がクーラーの効いたリビングに響き渡った。
「うげ」
突然の侵入者に、慌ててコントローラーを落っことしそうになる。
振り返ると、本物の魔王がそこにいた。
「勇者が家にひきこもってんじゃねえ。遊びになんないだろうが!」
ずかずかと魔王は足音を唸らせて近づいて来る。反射的に逃げ出そうとしたが、あっけなく回り込まれてしまい、首根っこをつかまれた。
「や、やめろー! 今日は暑いんだからいーじゃん! いいところなんだからほっといてくれよ!」
「ああん?」
魔王の手から逃れようと、両手と両足をばたつかせて必死に抵抗する。しかし、がっちりと首に腕を回されてしまい、とても抜け出せそうにはなかった。
テレビの中では、今まさに勇者と魔王の最終決戦が繰り広げられようと――操作待ちの状態で固まっているのだ。
けれど、テレビ画面をちらりと見た魔王は、まったく興味がなさそうに鼻を鳴らした。
「そんなんだから、いつまでたってもオレに勝てないんだぞ。ゲームの魔王なんかじゃなくて、現実のオレを攻略して見せろってんだ」
おれを引きずりながら魔王は床に置かれたゲーム機本体の前に歩いて行く。すごく嫌な予感がしてまた必死で暴れるのだが、大人しくしろと頭にげんこつを一発お見舞いされた。
そして、その予感は見事に的中する。
「ふんっ!」
「うわああああああああ!!!」
魔王はゲーム機の電源コードを、迷うことなく引き抜いた。見事なまでに一発だった。
テレビ画面は一瞬でぷつりと消え、勇者と魔王は決着をつけることなく、真っ暗な闇の中へとのみこまれてしまった。
「てめええ! セーブが消えたらどうすんだあああ!!」
「うるせーな。男のくせに細かいことを気にしてんじゃねーよ」
「お前は女のくせにガサツ過ぎるんだよおおお!!」
機械はもっとていねいに扱え!
マジ切れしたが、魔王は大口を開けて笑っている。憎たらしくてたまらないが、この女には逆らえず、次第に怒りはしおしおと力をなくしていった。
「うぅ……おれの夏休みの記録がああああ……」
「おいおい、泣くなよ。ほら、アメちゃんやるから」
半ズボンのポケットから、魔王がごそごそと透明の袋に入った薄いピンク色のアメを取り出す。
そんなものいるか。
せめてもの抵抗で顔をそらしたけれど、魔王はお構いなしに「仲直りのしるしだ」と無理矢理おれの口にアメを突っ込んでくるのだった。
甘くて安っぽい、イチゴ味のアメだ。
「そんじゃ、遊びにいこーぜ」
「いや、そんじゃ、じゃねーよ! だいたい……鍵はかけてたんだぞ……! ふほーしんにゅうだ!」
「何言ってんだ。おばちゃんからは、ちゃんと鍵を預かってるんだから合法なんだよ!」
「ぐ……だいたい、おれじゃなくても他のやつと遊べばいーだろ!」
「ああ、遊んだぜ」
「え?」
「けど、やつらは全滅した」
「なん、だと……」
ライオンみたいなどうもうな笑みを浮かべて、魔王は言った。
「だから、みんなお前を待ってんだぜ。オレを倒せるのは、お前だけだってなー」
嘘つけ。おれが魔王に勝ったことなど、ただの一度もない。
それを自分の口から言うのはいやだったので言わなかったが、おれの目を見た魔王に頭の中は伝わったみたいだった。
「昨日がダメでも今日勝てるかもしれねーだろ。なんだかんだで、最後まで付き合ってくれるのはお前しかいねーもん」
「うわあああ! いやだああああ!!」
これから待ち受ける地獄を思い、絶叫を上げる。しかし、おれを魔の手から救い出してくれるものは、誰もいないのだった――
◆
「……最悪だ」
少し寝不足のぼうっとした頭を引きずりながら、朝の通学路をとぼとぼと歩く。
冬の寒空の下、裸になった街路樹が道行く厚着の人々を恨めしそうに見下ろしていた。
いや、恨めしそうな目をしているのは、まさに俺なのかもしれないが……。
欠伸を噛み殺しながら、吐息を一つ。
夢ってやつは、本当に突然にわけのわからないものを見せてくる。
それも、とびっきりの悪夢をだ。
よりにもよって、子供の頃の夢を見るとは思わなかった。
あれは幼い日……小学校の低学年くらいか。まだ俺が鼻たれ小僧で、幼馴染がスカートよりも半ズボンの似合う女の子だった頃の記憶である。
思い出しただけでも身震いするのは、冷たい風に煽られたせいだけではないはずだ。
そんなわけで、いつもよりも早い目覚めの最悪な気分は、まだ尾を引いている。
今朝はアレと顔を合わせたくがないために、せっかくなのでそのまま時間を前倒して家を出た。
まだ登校時間的には余裕があるため、学生の姿はまばらである。
早起きは三文の得――悪夢により強制的に目覚めさせられたわけだが――、ともかく、少しは気分を切り替えるべきだな。
「――おい! ユウ! お前、オレを置いて一人で行ってんじゃねーよ!」
と、思った矢先に、野獣の声がした。
「うげ」
反射的に漏れた呟きに既視感を覚える。振り返ると目の前が一瞬暗くなり、顔面を凄まじい衝撃が襲った。
「ぐぇっ!!」
踏んづけられた蛙のような奇妙な声が口から飛び出し、意識が飛びそうになる。
しかし、奥歯を噛んで両足を踏ん張り、なんとか踏み止まることに成功した。
「ってえな! いきなり何しやがるッ!」
「お……おぉ、悪い悪い。いきなり振り返るとは思わなかったもんでよ。タイミングが悪かったな」
切れ気味に怒鳴ったが、心のこもらない謝罪しか返ってこなかった。今、俺を殴った凶器である通学鞄を肩に担ぎ直し、化け物は涼しい顔で腰に手を当てていた。
仁王立ちである。どう考えても、出会い頭に人をぶん殴ったことを謝罪する奴の態度じゃない。
「あのな……呼ばれたら普通、振り返るだろうが!」
「まあまあ、謝ったんだからいーじゃねえか。つーか、お前。さっきからオレのことをかなり失礼な風に見てねえか?」
ぎくりと心臓が跳ね上がる。だから野獣だというのだ。
野生の勘、恐るべし。
とはいえ、見た目だけを言うならば、こいつを野獣だの化け物だのと言う奴はいないだろう。
紺色のセーラー服に身を包む、俺と同じ中学生。
背中に流れるさらさらの黒髪。整った細い眉に、少しつり上がった二重の瞳。すっと伸びた鼻の下には、うっすらと赤味を帯びた形の良い唇。
ああ、間違いなくこいつは美少女だ。
美少女に成長した。
「そんなことねえよ」
「ほんとかよ。信用ならねーぜ」
獲物に狙いを定めるかのごとく目を細めてきたが、「まあいいか」と野獣様は言うと、がしっと肩を組んできた。
「で、なんでオレを置いて行ったのか理由を聞かせろや」
鼻先に触れるように黒髪がふわりと揺れ、甘い石鹸のような匂いが香る。耳元でささやかれ、一瞬背筋が震えた。
「ちけーよ! 離れろ!」
本能的におれは叫び、慌てて腕を振り払った。
「今朝は、目覚めが悪かっただけだよ。んで、たまたま早く出ようと思っただけだ」
「……ふーん、悪い夢でも見たのか?」
こいつはただじゃれる口実が欲しかっただけなのだろう。俺が理由を言うと、少しつまらなそうな顔をしながら訊ねてきた。
「悪夢だよ。お前の夢だ」
「は?」
皮肉を込めたつもりだったが、大して効果は得られなかった。何を言われているのか分からないといった風に、目をぱちくりとさせている。
「ほほう」
だが、その直後に見せたいやらしい笑みに、余計なことを言ってしまったと激しく後悔した。
「そいつは景気がいいなー。どんな夢だ? おいおい、まさかエロい夢じゃねーだろうな? 困るぜ青少年。欲求不満はよー」
これみよがしに育った胸を強調するように前屈みになり、にやけた顔で迫ってくる。
こうなるとこいつはしつこい。すごくしつこい。
「違うわボケ! 子供の頃の夢だよ!」
「なんだ、ガキの頃の話か。それならオレもたまに見るぜ。オレを崇め奉るユウの姿が、目に浮かぶようだぜ」
「思い出を都合の良い風に捏造してんじゃねえよ!」
「あっはっは、わかったわかった」
美少女に似合わぬ――性格には合っているという意味だ――豪放な笑い声をあげて、野獣はおれの背中をバシバシと無遠慮に叩いた。
「もう肩は組まねーから、照れてないで一緒に学校行こうぜ」
「……ちっ、しゃーねえな」
ここで絡まれ続けると、せっかく早く出たというのに遅刻してしまう。隣に並ぶ幼馴染を横目に溜息を吐き、結局いつも通りの朝の通学路を歩くのだった。
◆
俺の幼馴染――緒林眞子。
傍若無人、厚顔無恥、我が物顔の眼中人無し、天上天下唯我独尊。
通称、魔王。
俺がまだ舌足らずの子供の頃である。マコがなまってマオ……魔王になった。
もちろん、そのアダナが俺とこいつの間で定着したのは、ただそれだけという、そんな単純な話ではない。
俺と魔王は家が隣同士である。それは今も変わらない。
両親が共働きで一人っ子な俺は、いわゆる鍵っ子だった。
幸い家はそこそこに裕福であり、ゲーム機とか、一人で遊ぶ分には両親から買い与えられた玩具で困ることはなかった。
だが、魔王は事あるごとに俺を外へと連れ出した。
腕を引かれ、無理矢理に連行される。それが俺と魔王の、ある意味お約束の日常だった。
春――桜舞い散る木の下で。
夏――蝉の大合唱が響き渡る夏の大空の下で。
秋――紅葉彩る並木の下で。
冬――白銀に染まる公園の広場の下で。
ロケーションは様々ではあったが、魔王によって俺は虐げられてきた。
鬼ごっこ、かくれんぼ、缶けり、かけっこ、ドッジボール、相撲、雪合戦、プラスチックのバットを使ったちゃんばら……等々。
勝負で勝てた試しは、ただの一度もない。
魔王に課せられた日暮れの門限までボコボコにされた挙句、「また明日なー」と颯爽と隣家に手を大きく振って引っ込んでいくのが別れの挨拶。
両親の帰りが遅いときは、魔王の居城(奴の家だ)に拉致され、一緒に夕飯を食べたり風呂に入れさせられたりもしたっけか。
いい加減にしろとも、もう付き合うのは嫌だと喚いても、奴は言うことを聞いてはくれない。
「魔王を倒すのが勇者のつとめだろうが。オレを倒すのは、ゆーなんだぞ!」
俺の本名は勇なのだが、勇者の勇ということで、この方ユウと呼ばれ続けている。
昔は魔王に対抗して勇者などとも呼ばれていたが、さすがに呼ぶ方も呼ばれる方も罰ゲーム過ぎるのでなくなった。それは魔王も同じである。
それはともかくとして、俺と魔王の関係を一言で表すなら、家がお隣さんの幼馴染というわけだ。
そんな俺たちも、中学二年。今は十二月に入ったばかり。
思春期真っ只中の、冬だった。