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【ホラー集】輪郭が溶ける

教育実習にて

作者: 山石尾花

 先輩、ここです。こっちです!

 いえいえ、遅れてごめんだなんて。こちらこそ、お忙しいのに急に連絡差し上げたりしてすみませんでした。

 飲み物、何にされますか? とりあえず、ビール? じゃあ、私はカルーアミルクで。

 ビール飲めよ、って無理ですよ~。だって甘いお酒しか飲めないんですもん。

 すいませ~ん、注文お願いします! ビールとカルーアミルク、あと本日のおつまみ盛り合わせ一つ。はい、以上で。



 ……私ね、ちょうど久しぶりに実家に帰ってきてたんです。お盆ですし、両親にも顔見せなきゃだし、お墓参りにも行かなきゃな、なんて。

 それで、確か先輩はS市役所でお勤めしてたはずだなぁ、って思い出して。手が勝手にお誘いメールを送信しちゃってました。もっと早く連絡よこせって……あははっ、怒らないでくださいよ~。


 会うのは何年ぶりになるんですかね? ……ああ、三年前。時間が経つのは早いなぁ。

 私はN県の小学校で子供たちからしごかれまくってますよ。私なんか鈍臭い新米教師なのにみんな本当によくしてくれます。忙しいですけれど楽しいですよ。

 N大のサークル仲間とも、いまだにたまに飲み会開いて愚痴り合ったりしてます。たまに先輩の話も話題に上がってきてます。……何話してるかって……そんなの内緒ですよ~。

 

 こっちに帰ってくる予定ですか?

 そうですね、年に一回くらいは両親に会いに……え、違う? 仕事の予定、ですか。

 う~ん、当分はN県で働くつもりです。S市の小学校に勤める気は今はありません。ううん、今だけじゃなくて、多分、ずっと。

 確かに、大学時代はよく言ってました。地元に帰って教師になるんだ、母校の小学校で働きたいんだって。でも……本当はなるべくここには帰ってきたくないんです。両親と仲が悪いとか、地元に居場所がないとか、そんなんじゃないんです。


 あの、笑わないで聞いてくれますか? 絶対、ですよ?

 教育実習先がS小学校だったんです。ええ、私の母校です。

 そこで……ちょっと怖い体験をしてしまって……。



 *****



 実は昔、霊感があったんです。と言っても、そんな大したものじゃありません。

 あの場所はよくない気配がするとか、怪談話をしていたら気分が悪くなったりするとか、そんな程度のものでした。

 子供にはよくあるって言うじゃないですか。大人には見えないものが見えたり、ちょっと超能力が使えたり。多分、私の霊感もそういった一時的なものだったんだと思います。その証拠に、中学校に上がる頃には、霊的なものは何も感じなくなっていましたから。

 そうですね、一番力が強かったのは幼稚園から小学生の頃でしょうか。

 小学校の音楽室はなぜか生臭くて……給食室のワゴン倉庫の前はなぜか肌寒くて……。ところどころ、近寄りがたい場所はありましたけれども、学校生活を脅かすほどのものはなく、厄介な体質の割には平和に過ごせていました。


 そんな私にも、唯一はっきり見える霊がいたんです。

 男の子の幽霊でした。


 初めて彼に会ったのは小学校の入学式の時です。

 新入生の私たちは用意されたパイプ椅子に座って、ちょっぴりお兄さんお姉さんになった気分にひたっていました。

 そんな中、彼は新入生の中に混じって、校長先生の話に耳を傾けていたんです。みんなが冬服の制服を着ている中、なぜか彼は半袖でした。

 もちろん、パイプ椅子は人数分しか用意されていません。彼だけが、ぽつーん……と。広い体育館の真ん中で、微動だにせず立っていました。

 私は先生に言いました。椅子のないお友だちがいますって。

 先生は首を傾げていましたが、みんな座ってるから大丈夫だよ、と優しく言ってくれました。きっと、一体この子は何を言ってるんだろうって思ってたんでしょうね。そりゃそうですよね、私にしか見えていなかったんですから。

 その時、分かったんです。あぁ、あの子はオバケなんだな……って。

 

 式の後、彼は私の教室にやって来ました。

 ここでもやっぱり人数分しか机はなくて。彼は教室の後ろの方で静かに立っていました。彼が幽霊だと分かったので、今度は椅子が足りないなんて言いませんでしたよ。

 

 一年生、二年生、三年生……そして六年生。

 彼も同じように進級しました。六年間、私と彼は同じクラスでした。

 私は子供から少女に成長しましたが、彼はずっと子供のまま。入学式の時から何も変わっていませんでした。

 

 ……そうですね、最初はとても彼のことが怖かったですよ。クラス替えをしても、決まって私のクラスにいますし。もしかしたら、取り憑かれちゃったのかな、なんてことも考えました。

 なるべく目を合わさないように、知らんぷりして過ごそう……そう思っていました。

 でも、彼は私に何も危害を加えることはありませんでした。私だけじゃありません。他の誰にも悪さをしたりしなかったんです。

 それどころか、授業中に面白い話で沸き立っている時なんかは、ニコニコと優しい笑みを浮かべていました。大口を開けて笑ったりはしませんでしたが、クラスが楽しい雰囲気に包まれると、彼もどことなく楽しそうなんですよね。バカ話で盛り上がっている輪の中にひっそりと立ち、一緒になって話を聞いていた、なんてこともありました。

 彼は悪いオバケじゃないのかもしれない。ただ私たちと学校生活を送りたいのかもしれない。

 そう言えば、いつまでたっても一年生の姿のままだし……もしかしたら、学校生活を送れずに死んでしまった子なのかな、なんて想像したりもしました。

 そうすると……不思議ですよね。あれほど怖かった彼のことを、何とも思わなくなってきたのです。それどころか、クラスの一員であるとさえ思うようになっていました。


 卒業式の日。長いようで短かった六年間が終わろうとしていました。

 私たちは教室でお互いに別れを惜しんでいました。地元の中学に進学するメンバーばかりではありません。私も地元の中学ではなく、隣町にある中高一貫の学校への入学が決まっていました。

 彼は相変わらず教室の隅で立ち尽くしています。心なしか、寂しそうにも見えました。

 そんな中、最後の「帰りの会」の時間になり、担任教師がある提案をしたんです。一人ずつ壇上に立ち、みんなの前で一言発表して欲しいと。将来の夢でも、今後の抱負でも、中学でやりたいことでも……とにかく何でもいいとのことでした。

 最後なんですもん、反対する人なんているわけありません。みんな、出席番号順に前に進み出て、涙ながらに発表していきます。

 そして、私の番がやって来ました。言うことはすでに決まっていました。

 小学生にしては珍しく、もうその時には将来の夢があったんです。漠然としたものではなく、はっきりとした夢が。

 S小学校での学校生活はとても楽しいものでした。だから、私も大きくなったらS小学校の先生になりたいと思っていたんです。

 私はみんなの前で宣言しました。私は必ずこの学校に帰ってきて、学校一いい先生になります……って。

 先生も友だちもみんな、拍手してくれました。彼もいつものように微笑みながら手を叩いてくれていました。


 中学生になったのを境に、私の霊感は消えてしまいました。

 学校や外出先で嫌な気配を感じることもなくなり、自分が霊感を持っていたということを忘れてしまうくらい。

 小学校時代、あれほど気になっていた彼のことも、頭の隅へと追いやられ…………ついには思い出すことさえなくなってしまいました。



 私は憧れの教師になるため、N大学に進学しました。

 N大学での学生生活も本当に楽しかった……。ゼミの教授はとても面白い人でしたし、友だちにも恵まれ……ええ、もちろん先輩にも恵まれましたよ。順風満帆な人生ってこういうことなのかな、なんて思ってみたり。

 そのおかげで、私は教師になるという目標に向かって、何の迷いもなく突き進むことができました。


 そして……大学三年生の九月。

 私は教育実習のため、母校のS小学校に一ヶ月間勉強しに行くことになったんです。



 おろし立てのスーツを着て、子供たちの前に立つのは……想像以上に緊張しました。私が配属されたのは、三年生のクラスでした。

 実習一日目、担任の先生から、子供たちに自己紹介をするように促されました。私ははいと大きく返事をし、黒板にチョークで自分の名前をゆっくりと書きました。お世辞にも上手な文字とは言えませんが、子供たちが読みやすいよう、精一杯丁寧に書いたつもりです。

 それから私は振り返って、ハキハキと自分の名前を読み上げました。教員を目指した理由を語りながら、クラスの子供たちの顔を一人一人見つめます。私にもこんな時があったんだなぁと、感慨深いものがありました。

 その時、私の視界に見覚えのある顔が飛び込んできたのです。少し顔色は悪いですが、ニコニコと穏やかな表情で立っていたのは……そう、小学生の時、ずっと同じクラスにいた幽霊の彼でした。

 私は一瞬息をのみました。言葉が途切れ、背中に嫌な汗が伝います。

 失くしたはずの霊感が戻ってきたのでしょうか。いえ、 違います……。だって、音楽室や給食室からは、昔感じたような嫌な気配を感じませんでしたし。なぜかは私にも分かりませんが、彼の姿だけはこの目ではっきりと見て取ることができたんです。

 ですが、ここで妙な態度を取って、子供たちに変に思われたくはありませんでした。不意のことで動揺したものの、彼は危害を加えるような幽霊ではないことは、私が一番よく知っていました。私はぐらついた心を立て直し、再び笑顔を作りました。

 

 実習が本格的に始まり、先生方の授業を見学するかたわら、私は彼のことが気になって仕方ありませんでした。

 彼はずっとこの学校にいたんだろうか。未だにさまよっているんだろうか。

 ダメだ、実習に集中しなければ、とその度に思うのですが、彼のことが頭から離れません。いくつもの疑問符が浮かび、積もり積もっていくんです。

 彼の名前は? 彼はいつ、なぜ死んでしまったの? 何かこの小学校に心残りがあるんだろうか?

 これ以上考えてはいけない。関わりを持とうとしてはいけない。冷静な私が頭の中で警鐘を鳴らしました。いくら敵意のない霊だからといって、いつまでもそうだとは限りません。何かがきっかけで、彼が悪い霊となって暴走してしまう可能性も否定できません。

 ですが、一度火のついた好奇心はなかなか消えてはくれませんでした。どんなに握りつぶしても、手の中でぶすぶすと燻り続け、また小さく燃え始めるんです。

 私は彼のことを知ろうと決意しました。できるなら、彼を成仏させてあげたいと……そんな身の程知らずなことまで考えていたんです。無知って恐ろしいですよね。


 ある日、一日のカリキュラムが済んだ後、私は学校の図書室へと向かいました。

 小さなテーブルと本棚の並ぶ図書室。並んでいる本が新しくなっていることを除けば、私が小学生だった頃と何も変わっていません。

 奥の方にある学校資料のコーナーで、学校の年報を探しました。毎年一冊、四月から翌年の三月までの出来事を記した本を発行しているそうなんです。

 その近辺には、子供たちが興味を示すような本は一切置いてありません。誰もよりつかないせいで、本の上には薄っすらと埃が積もっていました。戦前からある小学校でしたが、図書館で保管されている年報は一九八〇年以降のものだけでした。それ以前のものは、職員室の書庫にしまわれているのかもしれません。

 私は一番古いものから順に手に取り、ページを繰りました。校長の挨拶から始まり……新入生の集合写真が載っているページは真ん中より少し後ろにありました。しばらく収穫らしい収穫はありませんでしたが、思っていたよりも早く、彼の姿を見つけたんです。


 それは一九八四年のものでした。希望に満ちた笑顔溢れる子供たちの中、彼も誇らしげに笑っていました。

 新しい制服に身を包んだ彼。この先に広がる未来を、一点の曇りのない未来を信じている……そんな表情でした。ですが、私は彼を待ち受けている非情な現実を知っています。その笑顔を見ているのはいたたまれないものがありました。

 本来であれば、六年後の卒業写真に彼は写っているはずでした。でも、彼の姿はその年の年報にもう一度現れたんです。それは巻末にある訃報欄でした。

 楕円形の穴から、彼は笑いかけています。入学式の写真はフルカラーでしたが、訃報欄の写真はモノクロです。画像も粗く、顔の細かなところは潰れて見えました。

 同年七月二十一日、彼ーー笹沼ささぬまただしくんーーは交通事故に巻き込まれ、還らぬ人になったというのです。


 私はそのまま、駅前にある県立図書館に寄り道しました。まっすぐ家に帰る気になれなくて。年報には事故だったとしか記載されておらず、詳細などは分からないままでした。

 私は事故翌日の新聞を探すことにしたんです。日付が分かっていたので、すぐに見つけることができました。

 地方欄の片隅に、事故のことが小さく載っていました。ここには忠くんの写真はありませんでした。

 夕方、祖母の家から一人で帰宅途中、大通りを走っていたトラックが歩道に突っ込んできたそうです。忠くん以外にも歩行者がいたそうですが、みんな擦り傷程度の怪我で済んだとのこと。亡くなったのは忠くんとトラックの運転手だけでした。

 忠くんが亡くなった原因は、火傷だったそうです。検死解剖の結果、トラックにはねられたことが直接の原因ではありませんでした。事故直後、トラックから漏れたガソリンが引火した、と記事にはありました。忠くんはトラックに体を挟まれ逃げることができす、生きながら炎にのまれたんです。


 怖かったでしょうね……お母さん助けて、って……。

 お母さんのご飯を楽しみにしながら……お父さんと何して遊ぼうかって考えながら……。

 たった一瞬でそれが消えてしまったんですから。忠くんを襲ったのは痛みと熱と、例えようもない恐怖だと思うと、私は涙を堪えることができませんでした。

 忠くんは叶わなかった学校生活を送るために、あのS小学校に留まり続けているんだ……って。

 私が小学校に入学したのは一九九六年。忠くんが亡くなってからちょうど十二年後です。

 そして、教育実習で再びここに帰ってきたのが二〇十一年。忠くんは三年生のクラスにいました。


 ……そうなんです。忠くんは何度も六年間の学校生活を繰り返していたんです。

 思えば、卒業式の時、忠くんは会場にいませんでした。教室にはいたのに……。

 入学はできても卒業はできない、そういうことなのかもしれません。


 偉そうに忠くんを救うなんて決意していた私でしたが、何から手をつけていいのか見当もつきませんでした。忠くんと接触する機会すらなくて。

 意外と教育実習生ってモテるんですよ、子供たちに。休み時間になれば私のところにみんなが集まってきて、遊ぼうだのお話ししようだのと大騒ぎです。私を取り巻く輪の中には、いつも忠くんがいましたが、他の子供たちの手前、こちらから忠くんと関わり合いを持つことはできませんでした。

 時間はあっという間に過ぎていきます。とうとう教育実習の最終日になりました。


 まだ暑さの残る土曜日でした。

 午前中に授業が終わる日でしたので、午後からはお世話になった先生方への挨拶回り、最後のレポート提出、それから荷物をまとめて帰る、という段取りになっていました。

 子供たちはわんわん泣きながら見送ってくれました。プレゼントにと手渡された色紙には、子供たちが一言ずつメッセージを寄せてくれています。色とりどりのペンで書かれた可愛らしい文字を見ていると、私もじんわりと目頭が熱くなります。

 普段なら、授業が終われば一目散に家に帰る子供たちでしたが、この日はみんななかなか帰ろうとしません。いつまでたっても教室から出て行こうとしないんです。予定がどんどんずれてしまいましたが、そんなことは一向に気になりませんでした。

 先生、絶対帰ってきてね、約束だよ。その言葉を聞けただけで、胸が一杯になりました。ここで実習ができてよかった……と心底思いました。

 私は子供たちに約束しました。必ず帰ってくるからね、その時はまたみんなで遊ぼうね、って。

 帰ろうとしない子供たちを、担任教師がうまく言いくるめて追い出します。そうしてやっと私は自分の最後の片付けに取りかかることができました。


 職員室の荷物をまとめ終わり、本当に帰ろうと思った時でした。私は忘れ物をしていたことに気付いたんです。大学に提出する予定の実習日誌を教室に置いてきてしまったんです。それがなければ実習修了にはなりません。私は慌てて職員室を飛び出しました。

 日が傾き、教室は夕陽でオレンジがかっています。実習日誌は教卓の上に置いてありました。

 私はそれを手に取り、ぎゅっと胸に抱きしめると、ほっと一息つきました。




 その時、ギッ……と音がしたんです。


 私はハッと顔をあげました。

 そこには……ニコニコと微笑む忠くんがいました。


 忠くんは窓際の一番後ろの席に座っていました。さっきの音は椅子が軋んだ音だったのかもしれません。まるで、これから授業が始まるんだとばかりに姿勢を正しています。

 その時、私はこう思ったんです。これが忠くんを救う、最初で最後のチャンスかもしれない。

 交通事故で短い命を終えた忠くん。できることなら、生まれ変わって新たな人生を歩んで欲しい。そこでたくさんの人たちと出会い、別れ、成長していって欲しい。

 私は思い切って忠くんに声をかけたんです。

 

 ――笹沼、忠くんだよね?


 忠くんの表情が一瞬こわばりました。きっと名前を呼ばれたのが久しぶりだったからなんでしょう。ドギマギとうろたえた様子で目を見開いていました。


 ――私のこと覚えてるかな。私、小学生の時、忠くんと同じクラスだったんだよ


 忠くんは小さく頷きました。どうやら私のことを覚えていてくれたようです。ほんの少しだけ、嬉しくなりました。そして……忠くんはゆらりと立ち上がったんです。

 夕陽に照らされた忠くんの足元から、長ぁい影が伸びていました。幽霊には影がない、とはよく言いますが、忠くんには影がありました。なんて言ったらいいんでしょうか……影があることがかえって不気味で。

 ゆら……ゆら……ゆら……と忠くんは私に近づいてきました。

 私に白い手を伸ばしながら、ニコニコと……。


 急に、私は忠くんが怖ろしくなりました。その笑顔に背筋が凍ったんです!

 もしかしたら、私はとんでもないことをしてしまったのかもしれない。直感ですが、なぜだかそう思ったんです。

 静かに、音もなく、忠くんは迫ってきます。 

 その笑顔は、始めは微かなものだったのに。笑っているのか無表情なのか、見分けがつかない程度だったのに……。

 近づくにつれ、ニタァッと口元が歪んでいくんです。忠くんが今まで見せたことのない不自然な笑顔が、どうしようもなく不気味だった……!


 救うなんて、なんておこがましいことを考えていたんだろう。どうして分かり合えるだなんてうぬぼれてしまったんだろう……!

 ここから逃げなきゃ。忠くんの手の届かないところへ、学校の外へ今すぐ逃げなきゃ!

 けれども、逃げたくても、体が言うことを聞きません。腰のあたりから力が抜けて、私はその場にへたり込んでしまいました。

 バシバシバシと膝をグーで叩いても、痛みさえ感じません。それ以上に恐怖が勝っていました。いくら念じても、ピクリとも動かないんです。

 お願い、私の足。動いて、動いて、動いて、動いてよっ!

 歯の根も合わず、カチカチカチと情けない音が口から漏れだします。下腹部のあたりがヒクヒクと痙攣し、股の辺りがじわりと温かくなりました。恥ずかしいんですが……失禁してしまったんです。スカートにしみが広がり、木の床に水たまりができました。

 私がみっともなく怯えている間にも、忠くんはどんどん近づいてきます。一歩、また一歩……。

 カサカサと手足を懸命に動かして、忠くんから逃げようと後退りました。段差のある教壇からグラリとずり落ち、肘と肩を痛めました。が、そんなこと言っている場合じゃありません。

 ドンと背中が扉にぶつかりました。ああ……やっと出口だ、早く出なきゃ、離れなきゃ!

 私は扉の取っ手に手を伸ばしました。あと少し、あと少しで手が届くのに……恐怖で体はクタクタに脱力し、なかなか届かないんです。カリカリカリカリ……と爪で扉をひっかきました。

 来ないで、来ないで、来ないで、来ないで……!

 ですが、とうとう忠くんは私に追いついてしまったんです。伸びた影がすぅっと私の体を覆い隠しました。

 

 クスクス……クスクス……


 声を出して笑ったことのない忠くんが、肩を揺らして笑っています。

 背後にいる忠くんの顔を見てはいけない。目を合わせてはいけない。

 それなのに、私は、振り返ってしまったんです。


 キャハハハッ……ハハハハハッ……!


 忠くんの口は、耳元まで裂けるんじゃないかというくらい大きく開きました。忠くんの目は糸のように細まっていました。笑い声がビリビリと窓ガラスを震わせました。

 私はたまらず耳を塞ぎました。やめて……もうやめて、お願いだから!

 忠くんの声はかすれていました。高めのその声はとても耳障りで、鼓膜をザラザラと撫でるようで……。

 忠くんが口を開いた途端、何とも言い難い臭いが教室に立ち込めました。そのポッカリと開いた口は墨で塗りつぶしたように真っ黒でした。

 血の気の失せた灰色の歯茎がてらてらと鈍く照っています。そこには歯はほとんどなく、欠けて焦げた歯らしきものが一、二本のぞいている程度でした。

 歯は事故の衝撃で砕け散ってしまったのでしょうか……それとも業火に焼かれて燃えかすも残らなかったのでしょうか。子供の歯は柔らかいですから、残っていなくても不思議ではありません。

 

 ――ゆみせんせい……ゆみちゃん……


 もわぁととてつもない臭気が鼻から頭へ抜けていきました。肉の生焼けた臭いと、つんと鼻につく臭い。頭の芯がしびれ、くらくらとめまいがします。最初は何の臭いか分かりませんでした。ですが、忠くんがどのように亡くなったのかを思い出し、ピンときました。

 揮発したガソリンの臭いだったんです。


 ――かえってきてくれるって、やくそく。まもってくれたんだね……。


 何を言ってるの……? 話をしたのだって初めてなのに、そんな約束なんてした覚えないわよ……!

 そう思い、精一杯反論しようとしましたが、金魚のようにパクパクと口を動かすだけ。声なんてでません。私はブンブンと首を横に振りました。

 

 ――また、やくそくしてくれた。かならずかえってくるって。


 あ……! と私は両手で口元をおおいました。

 小学六年生の卒業式の日、私がクラス全員の前で宣言したことを思い出したんです。そして、この日も子供たちに……。必ず帰ってきて、この学校の先生になると約束したばかり……。

 忠くんはこの小学校の生徒なのです。私が当時のクラスメイトや子供たちと交わした約束は、忠くんにとっても同じ約束をだったんです。

 そんなつもりじゃなかったのよ、と言おうとして、私は思いとどまりました。

 もしそんなことを言ってしまったら……? 約束を破られたと逆上してしまうかもしれない。最悪の場合、このまま殺されてしまうなんてことも……。

 涙なんて出ませんよ。恐怖で見開かれた私の目は、カラカラに乾いていました。目をつむるのも怖かったんです。瞼を閉じたその一瞬に、何が起こるか分からないんですもん。


 ――ねえ、やくそくだよ。ぼくはずっとゆみちゃんのともだちだからね……


 白い手が私の頬に触れました。幽霊ですから冷たいと思うでしょう? 忠くんの手は、とても熱かったんです。

 ヒッ……と私の喉から空気が漏れました。ブワリと全身の毛が逆立ちました。忠くんの顔はすぐ目の前にありました。

 どんな感触だったのかと聞かれても……よく思い出せないんです。その瞬間の忠くんの表情だけははっきり覚えています。

 ドロリと濁った両目、恍惚。


 私は意識を失いました。



 *****



 目が覚めた時、私はS市民病院にいました。教室で倒れているのを、担任教師が見つけたそうです。

 過労との診断を受けました。慣れない実習で気が張っていたんだろうと、みんなが気づかってくれました。S小学校の先生方が私のために計画してくださった送別会はキャンセルになってしまいました。

 本当は違う……過労なんかじゃない……。でも、誰にも言えませんでした。ええ、話したのは先輩が初めてです。

 

 あれ以来、母校には行っていません。近くに行くことさえできないんです。

 帰省するのも怖いんです。私が帰ってきたって思われないかと……そればかりが気がかりで。

 まあ、今のところ何にも起こってませんよ。忠くんの姿も見ていませんし。


 ……あの、先輩。今日は話聞いてくれてありがとうございました。なんだか少し肩の荷がおりた気がします。

 ずっと一人で抱え込んでいて、怖かったんです。

 私、何があってもあの小学校には帰りません。忠くんは私を待ち続けているでしょう。私が無傷で帰ってこられたのも、多分……忠くんとの約束があったからこそです。だからって私に何ができるんですか?

 子供たちの中には、忠くんが見える子がいるかもしれません。

 私、見える子がいて欲しいって思ってるんです。そうすれば、忠くんの矛先はその子に向かうでしょうから。私のことなんか忘れて、新しい友だちに執着してくれたらって。

 教師失格、って言わないでくださいね。

 そうじゃなきゃ、いつまでたっても忠くんの影に怯えていなければいけないもの……。


 

 えっと、なんだかごめんなさい。暗い話になっちゃって。

 あ、先輩、グラス空いてますよ。次は何にします? 芋焼酎……ロックで?

 先輩ったらザルなんですから。もう若くないんですよ、ほどほどにしないと……って痛いですよ! メニューで叩かないでください~。

 私も何かお酒注文しようかな。今日はぱぁ~っと飲みましょう、ぱぁ~っと!

 私のお酒、氷溶けて薄まっちゃいました。薄っすいカルーアミルクってマズイですよね。うわぁ、水っぽい。

 残しとけばいいじゃないかって……先輩、何言ってるんですか。もったいないです。全部飲みますって。


 んく……んく……んっ、ごほっ! と……溶けきってない氷が、口にっ。

 固っ! ええ〜、氷じゃない! ちょっと、やだ、もう。

 ぺっ、ぺっ。何これ、ゴミでも入ってたんですかね。白いプラスチックの破片?



 あ、違う……これって……。


 子供の…………歯…………。






 ――ねえ、やくそくだよ……

 

 


 

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[良い点] 先輩への語り口調で、物語に入り込みやすいです。 それでいて細かな描写がわかりやすく表現されていました。 [一言] 主人公の恐怖がリアルで、ラストでさらにゾクッとさせられました。生々しさのバ…
[一言] 読みました。面白かったです。  一見無害な忠くんが、声を掛けた途端に恐ろしいものへと変貌していく様子が怖かったです。ゆみ先生の反応もリアルでした。  忠くんは悪霊というわけでもなかったのか…
[一言] こんにちは。読ませていただきました。 大人しくて害のなさそうな幽霊の忠くん。豹変ぶりが本当に怖かったです。主人公の反応もリアリティがありました。 でもそもそも幽霊に良いも悪いも判らないのか…
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