満月と星空
旅行をすることが大好きな、仲の良い夫婦がいました。子どもたちは大きくなり結婚し、孫も随分と大きくなりました。忙しい日々を過ごしていて、いつの間にか歳をとり、旅行にも行かなくなりました。
中年を過ぎた頃からいくつか小さいものも大きいものも病気をして、だんだんと身体は弱り、いつしか暑いところに行くことが辛くなり、寒いところに行くことが苦しくなり、飛行機は辛抱の乗り物となりました。
「たまには旅行にでも行きたいですねぇ、おとうさん。」
奥さんが言いました。でも分かっていました。もう歳をとって、旅行なんてなかなかできるものではありません。若いころは海に潜ったり山に登ったりアクティブに過ごしました。美しい草原を歩いたり、美術品を鑑賞したり、それはそれはたくさんの経験を、二人で旅行をしながらしてきたのです。そんなことは過去のこと。分かっていました。
「そうだねぇ、かあさんがそう言うなら・・・」
ご主人はしばし考えました。
もう飛行機は色々な意味で大変なので、乗ることはなさそうですが、もっと簡単な旅行なら行けるのではないかと。・・・じゃあ、列車はどうだろう?
きっと、年齢的にも最後の旅行になりそうです。だったら、ちょっと奮発して、豪華列車に乗ろうと、二人で決めました。奥さんはとても喜びました。
夫婦は無理のない距離を身体と相談しながら、ぴったりの列車の旅を見つけました。初めて乗る豪華寝台列車です。
列車に乗り込む時から、わくわくしました。専属のスチュワードが二人を笑顔で迎え、キャビンへ案内してくれました。
「おとうさん、まあ、素敵な部屋ね!」
奥さんは部屋に入るとまるで若返ったかのようにくるっとまわりました。
「おや、本当に。ホテルみたいだねぇ、かあさん。」
スチュワードに列車の配置、キャビンのこと、スケジュールなどを教えてもらっていると列車はゆっくりと動き出しました。列車の旅の始まりです。
二人はしばらく部屋でくつろぎました。列車の軽い心地よい音を聞いているとなんだか少し眠たくなるような気がします。
「おとうさん、ちょっと探検しませんか?」
「探検?ふふふ。」
奥さんがまるで若い人のように言うので、ご主人は微笑みました。そして二人で列車内を探検しに行きました。
二人は展望車に行きました。お客さんたちが楽しそうに会話をしています。若い人もいました。開放的なパノラマカーになっていて、続く線路も遠い景色も、空も見えました。
「やあ、これは良い眺めだね。もうこんなところまで来ているんだね。」
ご主人は感心して言いました。列車と風景は実に合っています。初夏の小麦畑が若い緑の波を作ってそよいでいるのが、とても美しく光っていました。
しばらくすると夕食の時間となりました。見るものがあって二人は退屈しませんでしたが、やはり食事は別です。これを楽しみにしていました。着飾ってダイニングへ行きました。
外はまだ明るい陽が出ていましたが、ダイニングは明かりが灯り、キラキラと輝いています。そこに美味しくて美しい料理が次々と出されました。
「あなた、これ、美味しいわよ。」
「ああ、美味しいな。こっちも美味しいよ、お前。」
「まあ、これどうやって作るのかしら。」
景色は夕暮れになり、車窓を駆け抜けていきます。素晴らしい食事の時間でした。
「あなた、ラウンジで美味しいワインが飲めるんですって。」
食事の後、部屋に戻った奥さんがご主人に言いました。
「どれ、それでは行ってみようか。」
二人はラウンジに行き、ゆったりと座れるソファに腰かけました。ラウンジも天井まで窓ガラスになっていて、まるで星の中にいるようでした。
「お前、何を飲むかい?」
「あなたと同じにするわ。」
二人は美味しいワインを飲みながらくつろぎました。生演奏のピアノが静かに流れていました。
ふと、ご主人は演奏を聞きながら、その旋律を口ずさみました。
それを聞いた奥さんは、あ、と気づき、微笑むと、彼女も歌い出しました。
♪Quand il me prend dans ses bras(彼がわたしを腕に抱きしめて)
Il me parle tout bas (そっとささやくとき)
Je vois la vie en rose (私の人生はバラ色になるの)♪
「ふふ、懐かしいわね、ジャン。」二人が若かった頃に流行った、二人の大好きな曲でした。「歌も星空もあの頃と同じね。」
「そうだなぁ。マリー、君はあの頃と全然変わらないよ。」ご主人は微笑みました。
「あなたもよ、ジャン。」
二人がともに歩いてきた道は、バラ色の人生。
今、星空に包まれながら、二人はバラ色の人生を思い起こし、そっと手をつなぐのでした。
※作中の詩はシャンソン、La vie en Roseの一節です。