走れ!
元気が良いことと。
――どんなことがあっても落ち込まないのは、違う。
全くもって違う。
「はぁ……」
今日の俺は、まさにそう言う感じ。
元気だけが取り得――と、自分で自覚してる分なんだか悲しいが――の俺にとって、周囲は何事かと俺に興味と好奇の目を向けてくる。いや、どちらかというと、恐ろしさが強いのかも知れないが。
「はぁ〜……」
俺の尋常ではない落ち込み。その理由は……というと。
知っている人は知っている。
「もー、ヤダ……」
そんな泣き言を吐く俺に、親友である藤林春明が、あえて明るく言う。
「そんな悲壮な顔しなくたって、歩けない訳じゃないんだからさ。元気出せよ、一途」
「でもっ! でもでもっ! 俺、走んないと死んじゃう……」
そう、俺がどっぷりと落ち込んでいる理由。それは。
――骨折の為、走れないということだった。
陸上部に所属している俺は、とにかく走るのが大好きの中の大好き。三度の飯より好き。そんな長距離ランナーの俺だから、落ち込みぶりも尋常じゃないという訳だ。
しかも……それに加えて、今はお正月。俺にとってはお正月よりも箱根駅伝。いつもなら録画して走りこみにでも行くのだが、今日は家で……というのも寂しいので、クラスの暇な奴らと、箱根駅伝鑑賞会。中には陸上部の人などほとんどいなく、みんな走りこみに行ってるのだと思うと、泣きたい気分にまでなった。
「くっそぉー……」
何度も何度も嘆く俺に、ようやく俺の憂鬱を理解した暇な奴らは哀れみの視線を向ける。まぁ、普段走ってばっかりいるから――ただヤンチャなだけかも知れないが――、みんなにとって俺=走りすぎ、元気すぎ、というイメージがあるかもしれない。
「…………」
もっとも、理由は他にある。
この足を骨折してしまった最たる原因が。
――俺ではないからだ。
「……悔しい」
小さくそう漏らすと、藤林が心配そうにこっちを見るのが目の端にちらついた。
駄目だ。親友に心配かけてばかりじゃ――駄目だろ。
「悔しいッ! 箱根をリアルタイムで見れるのは嬉しいけど、だからこそ悔しい! 俺も走りたい!」
藤林が、いくらか表情を和らげた。
きっと藤林は、あのことで俺が悔しがっているのではないかと心配したのだろう。実際、その通りだった。思わず本音がポロリと漏れてしまったが、それを無理矢理違う『悔しさ』とすりかえる。
俺が、本当に悔しいのは、走れないこと何かじゃない。もちろん、それもあるが。
――あいつに、落とされたことだ。
魂のどん底へ。
……落とされたことだった。
今でもリアルに思い浮かぶ。
陸上の練習中、真冬で雪が積もっているにも関わらず、無邪気に駆け回る部員達。ここ最近は中での練習が多かったから、部員達も意気揚揚として駆け回っている。
「ラスト三週!」
陸上担当の先生が叫ぶと同時に、部員達はスパートをかける。そして俺も、同様にスパートをかけようとした、その時だった。
「……痛っ……――」
右足に走った、激痛。
――何これ、もしかして痙攣?
……最悪……。
とか思いながらも俺は、走ることをやめない。しかし、ペースが落ちたのは明らかだった。しかしもちろん、誰も声をかけてくれる人などいない。これは体力づくり。つまり種目に関係なく部員全員が走らされているからだ。
いや、万が一これが普段の練習で、種目別に別れて練習していたとしても。高飛びの選手だって、走り幅跳びの選手だって、砲丸投げの選手だって、トラックの外にいる俺に声をかけてはくれるかどうかは怪しいところだったが。少なくとも、異変に気付くのは明らかだろう。
「んー……三週いけっかな!」
何とも軽くそう自分で決め、出来る限り走ろうと努力した。精一杯努力したのだから、誰に、何人に越されたとしても、悔しくなんかないだろう。
「くっ……」
俺が痛みに耐えながらも走っていると。ふいに、後ろで軽快なリズムが聞こえた。
多分後輩だろう。一人だけとんでもなく速い奴がいるのだ。先輩を越してしまうほど速い俺に喰らいついて来れるほど。
ただ――ちょっぴり性格がひねくれているが。
ああ、嫌味の一つは言われるだろうな。そう思いながらも俺は、ペースアップ出来ずにいた。もちろん、痙攣のせいである。
「……」
しかし予想に反して、その後輩――江本はちらりとこちらを見てきただけだった。流石にスパートだからなのか、僅かに顔を歪めて、それでも精一杯の、言わば『表情の皮肉』を忘れず、にやりとこちらに嘲笑いかけることを忘れない。
しかし、そういうのを気にするタチではなかった為――タフ、というより、ただ、悪意とかそういう感情に鈍感なだけだろう――今までは何ともなかったが。
それは、これからもそうだろう。
だから、これだけだと思っていた。これだけだと油断していた。
まさか、思いも寄らなかったのだ。腐っていても同じ学校、同じ部活、同じ――仲間だと。
突然、視界がぐらっと揺れた。
片足が地面……というか、雪の上から離れている。
咄嗟に踏みとどまろうとしたが、遅かった。逆に、足を変な方向へ捻ってしまう結果となってしまった。
――押されたのだ。
これは完全に悪意。ただ触れただけでは、こんなにも力が加わるはずがない。
痙攣のせいもあり、呆気なく倒れてしまった。それを阻止しようとして、結局は。
……足を、骨折してしまう結果となったのだった。
多分、知らなかったのだろう。江本は、俺が痙攣をおこしていたことなんて。きっと江本は俺ならすぐさま体制を整えられると思って押したのだろう。
――骨折と知ったとき、江本はどんな表情をしたのだろうか。どんなことを思うのだろうか。どんなことを――悔やむのだろうか。
それを知りたいとは思わないし、謝罪を受け入れたいとも思わない。その代わり、これはある意味自分の失態だ。だから、江本に責任を押し付けようとも思わない。
「…………走りたい……」
そんな江本への、憎さ半分、悔しさ半分、そして走ることへの悔しさも半分。
「走りたいなぁ……」
いつも走っているからこそ、自分は走っているのが当たり前だと思い込んでしまうが。こうして突然継続してきた物を絶たれると、どうしようもなく寂しくなる。
包帯がぐるぐると巻かれている自分の足を見るたび、じわりと涙を浮かべてしまう。
――これでも本当に、中学生か?
次期部長と謳われている奴か?
とか、自分で疑ってしまうほどに、今、俺は情けなさの塊だった。
「なぁ、藤林ぃ」
「んー?」
「俺って、ムカツク奴に見える? 殴りたいほどムカツク奴に見える?」
そう、何気なく聞くと。
――藤林は急に表情を凍らせた。
何? 俺ってばちょっと、わかりやすすぎた?
とか、反省したりする俺。
「……それは、人によると思うけど、少なくとも――少なくとも、俺は」
藤林は、答えに詰まりながらもしっかり答えてくれた。
「俺は、一途はそう言う奴に見えない。むしろ、嫌う奴の気が知れないくらいだ」
キッパリとそう言い切る藤林が、何だか頼もしく思えて。素直にその言葉を信じてみることにした。そりゃ、親友ってことで、多少はどこかで贔屓しているだろう。それでも親友の言葉を疑う要素はないし、素直に信じてみようと思わせられる響きが、その言葉にはあったから。
「……そっか。うん、アリガト」
「どーいたしまして」
誰に嫌われていても、頑張ってみよう。
どんなに走ることを妬まれても、走るしか俺に道はないから。
ふいに、呼び鈴がなる。
今日は確か、親は仕事。年明け早々大変だよなぁとか思いながら、俺はベッドからのっそりと起き上がり、まだ寝ぼけた思考で部屋を出、階段を降り、苦労して玄関まで辿り着いた。
結構な時間が掛かってしまったが、尋ね人はそこから動く気配がない辺り、俺の事情を知ってる人なんだろう。見舞いだろうか。
しかし、今日は部活があったはずなのだが――
「はい、どちら様……」
言いかけて、止まってしまった。
それが、予想もしない人だったから。
「……江本?」
相変わらず全然可愛げもなくむくれた顔をしていたが。
江本は睨みつけるように俺を見つめると、その表情と同じく、刺々しい声で一言。
「スンマセンでした」
――謝った。
「へっ? えっ? ……はぁ」
俺は思い切り動揺してしまって。というか、驚いてしまった。まさかまさか、本人の口からあろうことか謝罪の言葉が飛び出すとは思っていなかったのである。
「勘違いしないで下さいね。折角正月明けの一番最初の部活だってのに、先輩達が謝って来いってうるさいんスよ。だから仕方がなく謝りに来ました」
しかし、中身は相変わらず江本のままだ。
先輩に「謝れ」と迫られて来たにしては随分な態度に、俺は怒りよりも先に、笑ってしまった。
「……何ですか」
「や、江本らしいなぁって思ってさ」
俺はまだ笑みの残る表情で、優しく言った。
「江本は別に責任感じなくていいよ。だって、あれは俺の自己管理がなってなかったんだし。まさか痙攣おこすなんて、俺もビックリだし」
「……痙攣?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
江本は、僅かにバツの悪そうな顔をしたが、それも一瞬だった。それからいつものキツイ表情に戻り、不貞腐れた調子で言った。
「……そういう優しいトコ、俺大嫌いです」
「んー、ま、それは性分ってモンで。ゴメン、直せそうにない」
「…………」
江本は負けを認めたように――実際どうかは知らないが――ふっと笑い、頭を振った。
「ホント、あんたには負けるね」
本当は、そんなことを言えた立場ではないのだが。江本はこういうことをズケズケと言ってくる。もっとも、相手が俺でないと出来ない芸当だろう。
流石の江本でも、まだ命は惜しいし。
「じゃ、俺部活行きます」
「おーぅ、頑張れよ」
「あんたを骨折させた人に、『頑張れ』ですか?」
「だって、頑張って欲しいもん。お前は骨折すんなよー」
俺がひらひらと手を振りながらそう言うと、江本は何とも言いがたい表情をした。
「じゃ、お邪魔しました」
俺はドアの前から人の気配がなくなるまで、ずっと立っていた。
後ろ手にドアを閉めると、江本は溜め息をついた。
「時々、皮肉なんだか本心何だかわからなくなるな……」
自嘲するように言ってみたが。本心であることは明らかなので、それを認めるのが悔しく、江本は学校まで走ることにした。
言葉ではしっかり謝罪は出来なかったが。
これでいいのだ、と思った。
多分、あの人には全部お見通しだから。
「藤林ぃ〜、あと何日で怪我が完治するか、賭けようぜ!」
「いッ……いきなり何だよ?」
俺はいつになく上機嫌で親友に話し掛けた。
「何かさ、何となく嬉しくて」
わかったから。
江本がしっかり反省をしていると、わかったから。
ソレは偽善的な言葉の謝罪ではなく。そもそも謝る、といった形での証明ではなく。ひとつひとつの動作に表れる、悔やみ。
それは、少なくとも言葉よりは信じることは出来る。俺が欲しかったのは謝罪の言葉ではなく、まさしくそういうものだったのだ。
だから俺は、これからも走り続けるのだろう。
ずっとずっと。
――走り続けるのだろう。
「くだらねー、そんなの俺が知るわけないじゃん。病院に通ってる分、お前の方が明らかに有利だろ?」
「チェー。じゃ、何か奢ってよ!」
「何でそう言うことになるんだ……?」
俺は、これからも。
『セイシュン』の最中を、駆け抜けるのだろう。
古いです。今年の一月に書いたのを掘り起こしました。