妄想学園農林畜産科1
夏の世の、虫の声すら響かぬ夜の学園。
耳鳴りが聞こえそうなほどの静寂の中、満月の光に照らされてた教室の机の上を細く引き伸ばされた影が通り過ぎる。
蠢く影は机の凹凸によって細切れにされながら、青く照らされた廊下を音もなく通り抜け、やがて隣の棟へとつづく渡り廊下に消えていった。
取り残されたのは、息をすることすら躊躇われるほどの"静"。
やがて訪れる"動"を予感させる、それは不吉なまでの"静"であった。
教室の並ぶ普通科の校舎を抜けた怪しい影法師は、学園の離れに近い場所、用務員室とプレートの掲げられた場所で足を止める。
どうやらその人物の目的地は、この用務員室であったようだ。
「電子鍵か……」
静寂を破り、聞こえてきたのはまだ年若い少年の声。
ドアの傍らに設置されている電子パネルを見つめるその人物の声色には、どこか見下したような響きがあった。
暗がりに佇むそのシルエットは、男とも女とも判別の付かない中性的なシルエットをしている。
「電子鍵がセキュリティーと見せかけて、本命は別の場所に設置したアナログ式の錠前。 さらにその二つと連動するアラームか。 うまく隠してあるけど、この程度じゃね」
少年が電子鍵のパネルを横にずらすと、そこに鍵穴が現れる。
「せっかくの三段構えのセキュリティーも、パネルをずらした後があっては台無しだと思わないかい?」
誰に語るわけでもなく呟くと、少年はマスターキーを差し込んでメインのかぎをあっさりはずし、さらにニッパーで鍵に取り付けられたアラームの電源コードを切断した。
完全にセキュリティーが沈黙したことを確認すると、彼は誰もいない室内にその一歩を踏み出した。
「噂じゃ難攻不落って話だったけど、思ったほどじゃないな」
嘲笑うその横顔を、窓から差し込んだ月の光が蒼く照らし、茶色に染められた髪がその歩みに揺れてかすかにそよぐ。
ボーイッシュな美少女――その人物を見た者がいたならば、10人中9人はそう思うだろう。
男にしては細身の体は、肩幅も広くなく、腰もきゅっと締まっていて男独特の角ばった骨格を目立たなくさせていた。
「しかし、なんだろうね、この部屋は。 はっきり言って趣味に走りすぎだよ」
肩をすくめながら入り込んだ室内には、なぜか専門的なキッチンが用意されていた。
何も知らずに入った者がいれば、おそらくどこかの料理屋の厨房だと勘違いするに違いない。
「これで課題は達成か。 むしろうちの部活の内容にしてはレベル低かったような気がするんだけど」
語りながら懐から取り出したのは、一枚のカードプレート。
そこには『ご馳走様でした by怪盗部』と記されている。
そう、この学園には怪盗部と言う非公式の部活が存在しており、彼はその奇妙な部活の構成員であった。
彼らの活動目的は、あくまでもお洒落に盗みを楽しむこと。
誰かに致命的な被害を発生させる事は厳禁であり、あくまでも趣味であり続けることが彼らのルールであった。
「悪いけど、遊びじゃないんだ。 用務員さん、あんたの夜食のプリン、盗ませてもらう」
眦を吊り上げながら、少年は手袋を両手にはめなおし、懐から定期入れを取り出す。
そこには少年とそっくりな顔をした一人の少女が映りこんでいた。
怪盗部は、定期的に『ミッション』と銘打った課題を部員に課する。
いったいどこから出ているのかわからないほど懸賞金をつけて。
彼が怪盗部に所属するその理由、それは実の妹の病にあった。
別に死の病というわけではないが、生まれつきの不治の病。
……その名を"買い物病"と言う。
彼女の財布に宵越しの文字は無い。
「ったく、あれほどガスと電気の金は手をつけるなといっておいたのに……」
彼が銀行から落としておいた生活費は、いつの間にかブランド物のバッグに変身していた。
しかも足りない分は怪盗部の先輩たちに借り入れまでしてだ。
その結果、少年は危険すぎて誰も手をつけないような高額の懸賞の付いたミッションに手を出す事になったのだ。
「いったい、どれだけ俺に迷惑書ければすむとおもってんだ、あの馬鹿は」
そういいつつも、しっかり身を粉にして働く彼は、立派なシスコンであった。
そして今回、この少年が引き受けた課題……それは、難攻不落の用務員室から夜食の手作りプリンを盗むこと。
口に出すのもはばかられ、別名を『ヘスペリデスの黄金の林檎』といわれるほどの、今まで数多くの部員が挫折を味わってきた最高難易度のミッションである。
「しかし、ほんとにここは用務員室? なんか、仕事間違えてるよね」
この学園の用務員が、実はとんでもない食道楽で、自分の美食を追及するために用務員室にこのような設備を取り揃えている。
これは学園の誰もが知っている話なので、この少年もさほど驚く事もなかった。
そう呟く彼の向かう先には、用務員室の名に相応しからぬ業務用の巨大な冷蔵庫が鎮座している。
その冷蔵庫に手をつけようとして、その瞬間に少年はビクっと体を震わせて飛びのいた。
抜け落ちた髪の毛が一本、その取っ手に触れた瞬間……
じゅっ
白い煙と嫌な匂いを放ちながら、髪の毛は一瞬で消し炭になった。
そう、いまさらながらに思い出す。
一見して厨房のように見えるここには、大手銀行も真っ青なセキュリティーを誇る魔窟なのだ。
「こんなところに高圧電流って、殺す気かよ! ま、見え見えだけどね」
少年は手にゴムの手袋をはめ、観音開きの分厚いドアをゆっくりと開く。
「さて、そろそろお暇しようか」
その向こうには、食材で一杯になった棚が立ち並び、その一角にドンブリサイズの大きなプリンがふてぶてしくも居座っていた。
「え……」
そのプリンを手に取り、怪盗カードを置きなおそうとしたその瞬間、視界がグラリとゆがみ、体に激しい衝撃が走る。
自分が倒れた事に気付いたときには、すでに指一本動かせない状態になっていた。
――やられた。 この冷蔵庫はダミーだ。
手から零れ落ちたプリンが、プリンにあるまじき弾力性でもって目の前をコロコロと転がってゆく。
おおよそ冷蔵庫の中には麻痺性の神経ガスが充満していたに違いない。
わざと中途半端に高度な罠を仕掛け、慢心させたところに最後に大仕掛けの罠で一気に捕らえる。
ガスに意識を刈り取られながらも、むしろ詐術の領域に近いそのやり口に、少年はもはや感動すらしていた。
やがて目の前が真っ白に染まり始め、彼は意識を失いはじめる。
ああ……これはまた妹に怒られるな。
心地よい脱力感の中、家で留守番をしている双子の妹を思い出す。
自分がミッションに失敗したと知ったら、彼女は自分と瓜二つな顔で烈火のごとく怒るだろう。
そして死ぬほど泣くだろう。
いったいどんな顔して謝ればいいのやら。
でも、ことの原因はお前だからな!
誰にも届かぬ叫びを胸に、少年は息を引き取っ……否。
意識を失った。
……改めて申し上げるが、これはただの学園物の物語である。