老人と桜
中戸村に住んでいる西沢老人は今年で齢百歳。足腰はしっかりしているし、背は若者よりも真っ直ぐ。村の分校に三十余年務めたその頭は未だ黒々とした頭髪が呆けてもいない脳を覆っている。大した病どころか腹を下したこともない程の丈夫で、最近背が曲がり出した自らの教え子達を弛んでおると叱りつけるほどである。
しかし、どうも最近は調子が悪い。特に昨年の冬を越えた辺りから、久しくしていなかった咳やクシャミが止まらなくなった。もはや春先だというのに鼻水も止まらぬ。それに下痢や吐き気も酷いし、どうやら熱もあるようで頭もぼうっとする。食欲も全くない。自身の教え子がやっている診療所に何度も通うが、ようとして原因は知れない。村人達は声を潜め、老人にとうとう死期が迫ったのだと噂し合っていた。
もちろん、この話は西沢老人の耳にも入っていたが、昔のように叱りつけようという気にはなれなかった。今の今まで体を壊したことのない自身の不調に、一番死期を感じているのは老人自身であったからである。
春先の西沢老人は、庭に植えた桜を見ながら酒を飲むのが楽しみであったが、自らの死期を初めて感じたためであろうか、満開の花びらを見ると涙がポロポロとこぼれて仕方がない。ふと頭の中に、自身より先に逝った者たちのことが浮かんでは消えていく。共に戦地に行き、帰ることのできなかった友人達。自らの父母、兄弟。自身が教鞭を執った教え子達。そして最愛の妻。
老人は涙を流しながら、すでにこの世を去った妻と共に、庭に桜を植えた日のことを思い出した。何時だったか、まだ一緒になって間もない頃、二人で大桜を見に遠出したとき、その大樹に感動し、我が家にも桜を置きましょうと言ったのは妻である。近所の農家に苗を貰い、慣れない二人して泥だらけになりながら植えた桜の木は、あの町で見た美桜にはとうてい及ばなかったが、子に恵まれなかった二人にとって自らの息子であり娘であるような愛しい存在であった。寒い雪の降る晩にあいつが逝ったときも、窓から桜を見て泣いていたなぁと思うと、さらに自身の死を感じてしまい涙が止まらない。
いつの間にか老人は、妻と見たあの桜をもう一度見たいと思うようになった。桜で有名なその町でも、一番の桜。視界を埋めるほどの桃色を、死ぬ前にもう一度。それを土産に三途の川を渡りたい。そう考えるようになっていた。
ある日、老人は家の物を整理すると桜の町に向けて旅立った。滅多に乗らぬ長距離電車の中で旅雑誌を開くと、あの桜は今だ咲き誇っているようである。期待により気分が高揚したためか、いつもよりも症状は治まっていた。もしかするとちょっとした風邪であったのに、大げさに落ち込んでいたのが良くなかったのか。この分だと、桜を見れば自身の不調も治るのかもしれない。車中の老人はそう思った。そして「自分もずいぶんと気弱になったものだ。歳を取ると湿っぽくなってしまうらしいが、自分もそうであったとは」と呟くと、久々に蘇った食欲で駅弁当に舌鼓を打ち、目的の駅に着くまでの間ぐっすりと眠るのだった。
だが、それらはやはり一時的なものであった。いくら気分を高揚させようと、自身に這い寄る病魔は徐々に老人を蝕んでいたようである。駅に降りたときから、だんだんと症状はぶり返していき。宿に着いた時には、発作はより酷くなっていた。夕食には桜の花を彩りに使った郷土料理が出されたが、結局箸を付けずに返してしまった。風呂にも入らずに蒲団を敷き、早く寝入ってしまおうとするが、咳が酷くとても床につける状態ではない。昼間調子が良かっただけに、尚のこと自身の体の不調を感じる。老人の瞳からは、悔し涙が止めどなく流れる。
最早、明日までは持たぬかも知れぬ。止まらぬ咳に悩まされながら、老人はそう考えていた。このまま発作にのたうち回り、鼻汁と涙に顔を汚しながら、桜を見ることも出来ずにこの一室で冷たくなるのだろうか。ならばいっそ手遅れにならぬ内にあの大樹の元へ。そう思った老人は半死半生ながらも、既に日がとっぷりと暮れた町を桜目指して走った。その姿を嘲笑う者がいた、視界から外そうとする者がいた、訳知り顔で見つめる者がいた。しかし、そんな者たちのことなど見向きもせずに彼は走った。不思議と身体はいつものように軽く、途中でつまずくようなこともなかった。
老人が桜の元に付いたとき、幸いなことに周りには誰も居なかった。シンと静まった桜森の中、夜になりライトアップされた大樹に咲いた満開の花は、桃色の絨毯を作るような他樹の落花も手伝って、以前より美しく幻想的であった。それを見た老人の双眸からは涙が止めどなくあふれ出す。一歩一歩桜の元に近づくが、不思議と何の感慨もその胸中に浮かばなかった。ただ、無心に涙だけが流れている。既に目が見えぬ老人は、しかし手を伸ばして樹皮に触れる。別に温度など感じない、ただごつごつとした感触だけがあった。
「ああ、触れているのだ。あの桜に触れているのだ」
そう老人が呟くと、どこからか風が吹き、地に落ちた花びらを舞い上がらせた。
その時である。いままでと比べものにならぬ発作が老人を襲った。激しく咳き込む彼は、桃色の嵐の中、その場に崩れ落ちた。肺がズキリズキリと痛くなり、すでに息を吸うことが出来ない。どうやらここが自身の終点らしい。見えぬ眼に、微笑む妻の顔を見ながら、やがて老人は意識を失った。
老人が次に目を覚ましたのは町の病院、その一室であった。不思議と今まで彼を苦しめてきた胸の痛み、目のかゆみ、鼻の閉塞感は消えていた。彼の覚醒を見た看護師が、医者を連れてくる。自分は一体どうなったのか、そう訪ねる老人に、若い女の医者はこう説明した。
「危ないところでした。あなたは重度の花粉症だったのです。それも、珍しい桜花粉に対するアレルギーです。見たところ、今年初めて発症されたようですね。薬を投与しましたしもう大丈夫ですよ。桜の木にさえ近づかなければ発作を起こすこともありません」
5分大祭の前祭作品を投稿します。
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