甘く切ない初恋/恋寄駅ノ片道切符
黄昏の空が茜色に染まる放課後、相原陽翔は、部活動生の声がグランドに響くのを横目に静まり返った教室の最後列の席で一人ペンを握りしめていた。窓から差し込む夕日が便箋を橙色に染める中、彼の視線は手元の紙に向けられている。便箋には、何度も書き直された文字たちがにじんでいた。
――好きです。君と出会ったあの日から。だけど、どうしても伝えられませんでした。
文字に込めた想いが重すぎるのか、陽翔は何度もため息をついた。心臓がざわつき、ペンを握る手が少し汗ばんでいる。
「結に、この気持ちを伝えるなんて、本当にできるのかな...」
白瀬結は陽翔のクラスメイトだ。穏やかな笑顔と誰にでも優しい振る舞いで、クラスの人気者である。一緒に話したことは数えるほどしかない。それでも、陽翔はいつの間にか彼女に心惹かれていた。
陽翔と結が最初に出会ったのは、小学三年生の春だった。陽翔はその年に転校してきたばかりで、新しい環境に馴染めずにいた。休み時間も一人で本を読んで過ごし、クラスメイトともなかなか話せなかった。
「ねえ、それ面白いの?」
ある日、陽翔が図書室の隅で読んでいた本を覗き込む影があった。顔を上げると、そこには明るい笑顔の結が立っていた。
「えっ、ああ...まあまあかな。」
「そっか! 私、本が好きなの。 ねぇ、次の休み時間もここにいる?好きな本とか教えてよ!」
結はそう言って、まるで当然のように陽翔の隣に座った。それからというもの、結は毎日のように陽翔のもとを訪れ、いろいろな話をした。本の話、家族の話、好きな食べ物の話。陽翔は次第に心を開き、結と一緒にいる時間が楽しいと感じるようになった。
しかし、中学に上がると二人の関係は少しずつ変わっていった。結は明るく社交的な性格もあって、クラスの中心的な存在になった。一方で陽翔は、相変わらず静かで目立たない存在だった。
休み時間になると、結はクラスメイトに囲まれて楽しそうに話していた。陽翔は遠くからそれを眺めることが増え、次第に声をかける機会も減っていった。
(話しかけようと思えばできる。でも、もう結は僕と一緒にいるより、みんなといるほうが楽しいんじゃないか...)
そんな思いが募り、陽翔は自分の気持ちを押し殺すようになった。
高校生になってからも、二人は同じクラスになったが、以前のように親しく話すことはなくなっていた。結は相変わらずクラスの人気者で、陽翔はそんな彼女を遠くから見つめるだけの日々を送っていた。
それでも、結の笑顔を見かけるたびに、陽翔の胸は苦しくなった。
それからというもの、結がクラスメイトの男子や男の先輩と話しているのを見るととても苦しく、嫉妬さえも覚えた。それに追い打ちをかけるように、クラスメイトが彼女がバレー部の美形の先輩に告白されたという話をしていたのを耳にし、胸がざわついた。もう苦しい思いをしたくないと考え手紙を書いて気持ちを伝えることにした。
最近ではSineを使って告白する人が増えているらしい。けれど、陽翔はあえて手紙を選んだ。
それには理由があった。
出会ってから一年目のある日のこと。いつものように静まり返った図書館で、結がふと話しかけてきた。
「ねぇ、陽翔くんは恋愛小説とか読む? おすすめの本があるんだけど」
「あまり読まないかな。でも、結ちゃんのおすすめなら読んでみたい」
彼女が選んだ何冊かの本には、それぞれ違った恋の物語が綴られていた。好きだった子が病気で亡くなる話、年上の先輩に恋をする女の子の話、図書館で出会ったクラスメイトとの恋物語……。内容は違えど、どれにも共通している点があった。それは、告白するのがすべて"男性"だったということ。
ウォークマンを通じて気持ちを伝えるもの、放課後の校舎裏で想いを告げるもの、さまざまな告白の形があった。
その中でも、結が一番熱を込めて語っていたのは、とある一冊の物語だった。
「この本の告白、すごく素敵だと思うの。こんなふうに、手紙で気持ちを伝えられたら…… きっと忘れられないよね」
恥ずかしそうに、それでもどこか憧れるような目で語っていた彼女の横顔を、陽翔は今でもはっきりと覚えている。
"結は、手紙での告白に憧れていた"。
だからこそ、陽翔は手紙を書くことを決めた。
けれど——
「手紙を書いたところで、渡せなかったら意味がないよな……」
そう呟いてまたため息をついた彼の手元で、まだ宛名を書いていない封筒が静かに揺れる。
書いた気持ちを言葉にすることはできても、それを渡す勇気がなければ、何も変わらない。
それでも。
(結ちゃんの好きな告白の形で、ちゃんと気持ちを伝えたい)
強くそう願いながら、陽翔はもう一度ペンを握りしめた。その瞬間、何かが教室の窓辺で動いた気がした。陽翔は顔を上げ、そこに一匹の三毛猫が座っているのを見つけた。夕日を反射して金色に輝く瞳が、陽翔をじっと見つめている。
「え?猫...?」
陽翔が思わず呟くと、猫は窓辺から音もなく消えた。驚いて窓の外を見下ろしても、そこには何もいない。だが、席に戻った陽翔は、机の上に見慣れない一枚の切符が置かれているのに気づいた。
「恋寄駅...? こんな駅、聞いたことないけど。」
陽翔は首をかしげながら切符を手に取った。その瞬間、教室の景色がゆっくりと揺れ始めた。陽翔は目を閉じる間もなく、気がつけば見知らぬ場所に立っていた。
陽翔は目の前の光景に言葉を失っていた。
ホームの先には古ぼけた駅舎があり、その上には朱色に染まる空が広がっている。まるで時間が止まってしまったかのように、あたりには人の気配がない。聞こえてくるのは、虫の声と、どこからか風に運ばれてくる草木のざわめきだけだった。
「ここ……どこなんだ?」
確かに机に座っていたはずなのに。突然、教室から消えて、気づけばこの駅に立っている。ありえない状況に、陽翔の背筋に冷たいものが走る。陽翔は夢を見ているのではないかと思った。だが、そこには確かに駅がある。
ホームに目をやると、ホームの端には錆びついた看板が立っており、「恋寄駅」と書かれている。
「ここが恋寄駅...?」
「おや、お客人かの?」
ふと耳に届いた声に、陽翔は肩を震わせた。
陽翔の少し後ろに、一人の女性が立っていた。赤い着物を纏い、どこか人形のような美しさを持つ女性だ。長い髪を結い上げ、静かに微笑んでいる。
彼女はゆったりとした動きでこちらへと歩み寄ってくる。着物の裾が風に揺れ、静かな微笑みを浮かべたまま、陽翔の前に立った。
「驚いておるようじゃな」
「え、あの……ここって……?」
「恋寄駅。ここは、恋という名の迷宮に迷いを抱えた者だけが訪れることのできる場所じゃ」
「恋の迷い……?」
陽翔は自分の手を見つめた。そこには、さっき机の上にあったはずの切符がまだ握られている。
「なぜ、僕がここに?」
「それはお主が、決めかねているからじゃろう? 伝えるべきか、秘めたままでいるべきか……その心が、この駅にお主を導いたのじゃよ」
「ぼ...ぼくはどうすればいいのでしょうか?」
「まあまあ、慌てるでない。わしの名はむすび。この駅の管理人じゃよ、ぬしの悩みを打ち明けてはくれぬか?」
むすびと名乗る女性は、まるで全てを見透かしているかのような口調だった。そして彼女は、陽翔の目を覗き込むようにして笑った。その表情に不思議と安心感を覚えた。
この人にならと思え、口からおのずから言葉が溢れた
「……結に、この手紙を渡せるのかどうか、それが怖くて……」
「怖いのは、断られることかの?」
「それもあるけど……もし、関係が壊れてしまったらって思うと……」
むすびは小さく頷くと、茜色の空を指差した。
「ほれ、あれを見てみるがよい」
陽翔がむすびの指差す方を見ると、空に一本の飛行機雲が伸びていた。夕焼けに染まった空を横切るその白い軌跡は濃く、まるで誰かの想いが空に刻まれているかのようだった。
「かつてな……ここで、ひとりの恋する者が、お主と同じように想いを伝えられずに泣いたのじゃよ。」
「え……?」
風に乗ったむすびの言葉は、どこか遠い記憶をなぞるような響きを帯びていた。その声の中に、かすかに誰かの名前が混ざった気がする。しかし、陽翔には聞き取れなかった。
「恋とは、不思議なものじゃな。」
むすびの声は、どこか遠い過去を懐かしむような響きを帯びていた。
「何年、何十年経とうが、その本質は変わらぬ。迷い、悩み、それでも前へ進もうとする者もおれば……時が止まったように、立ち止まり続ける者もおる。」
そう言って、むすびはじっと陽翔を見つめた。吸い込まれそうなほど黒く深い美しい瞳が、まるで心の奥底を覗き込むように問いかけてくる。
「お主は……どちらになりたい?」
陽翔は無意識に拳を握った。彼女の言葉の奥にあるものが、ただの他人事には思えなかった。まるで、それは過去からの問いかけのように、どこかでずっと待ち続けていた誰かの声のように聞こえた。
「……僕は……。」
陽翔は無意識に拳を握りしめた。胸の奥に生まれた感情が何なのかは、まだはっきりとは分からなかった。
だが、その瞬間、夕焼けの向こうに消えていく飛行機雲が、どこか儚く、そして切なく見えた。
陽翔はゆっくりと手の中の手紙を握りしめた。
「……僕は、前に進みたいです」
「よい返事じゃ。」
むすびは静かに微笑み、駅の奥に目を向ける。その先には、蒸気機関車がゆっくりとこちらへと近づいてきていた。
「ならば、乗るがよい。この先で、お主の答えが待っておる、恋とはの、勇気と共にあるものじゃ。伝えぬままでは後悔が残る。お主が書いたその手紙、きっと相手に届くはずじゃよ。」
陽翔は息をのみ、深く頷いた。
ホームがかすかに震え、今では走っているのを見かけないSLが静かにホームに滑り込んできた。
黒々とした車体には長い年月を経たような風格があり、正面のランプがぼんやりと夕闇を照らしている。車輪の軋む音が響き、白い蒸気がホームの隅々に広がっていく。
「さあ、お乗り。」
むすびの促す声に押されるように、陽翔はゆっくりと足を踏み出した。
黒塗りの扉の取っ手に手をかけ、力を込めると、重厚な扉が軋む音を立てて開いた。
車内は、思っていたよりも温かみがあった。
木製の床板が心地よくきしみ、天井には柔らかく揺れるランプが灯っている。
座席は深い緑色のビロード張りで、まるで教科書にのっていた大正時代の客車のような雰囲気だった。どこか懐かしいような、けれど見たことのない光景に、陽翔は静かに息をのむ。
車両内には誰の姿もなかった。
「他に乗客は……?」
思わず口にすると、その言葉は吸い込まれるように静寂の中に消えた。
陽翔はそっと奥の座席に腰を下ろした。体が沈み込むような感触に、緊張していた肩の力が少し抜ける。窓の外を眺めると、ホームの端に佇むむすびが、静かにこちらを見つめていた。
「行っておいで。お主の心の行き先へ。」
そう言うかのように微笑む
やがて汽笛が鳴り響いた。
シュウゥゥ……ゴトン。ゴトン。
車輪がゆっくりと動き出し、列車が前へと進み始める。
むすびの姿は次第に夕闇に溶けていった。
陽翔は窓の外を眺め、手のひらをじっと見つめた。
そこには、ずっと握りしめていた一通の手紙。
「本当に……伝えられるのかな。」
自分に言い聞かせるように呟く。
すると、ふいに気配を感じた。
「……!」
ハッとして振り向くと、少し離れた席に、一匹の三毛猫がちょこんと座っていた。
教室で見かけた猫だった。けれど先ほど見た猫とは違い尻尾が二本ある、たしか妖怪に猫又というものがいた気がする.、多分そのたぐいなのだろう。
その金色の瞳が陽翔をじっと見つめ、まるで「お前はどうする?」と問いかけるように揺らめいている。
陽翔はゴクリと喉を鳴らし、深く息を吸った。猫は静かに二本の尻尾を揺らしながら、相変わらず金色の瞳でこちらを見つめている。その瞳の奥には、まるで全てを見透かしているような、不思議な光が宿っていた。
「……君は?」
陽翔がそっと問いかけると、猫は小さく瞬きをした後、静かに前足を舐めた。答えが返ってくることを期待していたわけではなかったが、その何気ない仕草に、どこか安心感を覚える。
「ふうん、黙って見てるだけか……。」
そう呟きながら、陽翔は手元の手紙を見つめた。封をしたばかりの白い封筒が、車内の揺れに合わせてわずかに震えている。
「お前はどうする?」
先ほどの問いかけが、まるで自分自身の心の奥底から響いてくるようだった。
陽翔はそっと目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
ガタン、ゴトン――。
列車はゆっくりとしたリズムで進み続け、車窓の外には夕焼けが広がっていた。茜色の空に染まった田園風景が、ゆっくりと流れていく。その美しさに、思わず目を奪われる。
「こんな景色、見たことないな……。」
どこまでも続く夕暮れの中、陽翔はそっと手紙を握りしめた。今なら、ほんの少しだけ、勇気が出せるかもしれない。
そんな気がした。
列車は静かに、けれど確実に、夕闇の中を進んでいく。
心の中で手紙の内容を何度も確認しながら、陽翔は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
そんなとき、ふいに列車が減速し始めた。ガタン、ゴトンと一定のリズムだった揺れが、わずかに緩やかになる。窓の外を見ると、どこか幻想的な雰囲気の駅が近づいていた。
ホームの柱には古びた駅名標がかかっている。そこには、筆で書かれたような柔らかな文字で――
「玉の緒」
と記されていた。
陽翔は目を細めた。「玉の緒?」そんな名前の駅も、聞いたことがない。
そのとき、不意に隣の席の三毛猫が小さく鳴いた。「ニャア」。まるで「ここで降りるんだよ」とでも言うかのように。
「ここで……?」
陽翔が戸惑う間にも、列車はゆっくりと停車する。ドアが静かに開き、冷えた空気が流れ込んできた。ホームには誰の姿もなく、夜の闇が染め上げている。
陽翔は迷った。ここで降りるべきなのか?しかし、なぜか胸の奥に「行かなくてはならない」という確信めいたものが芽生えていた。
「……行ってみるか。」
彼は立ち上がり、慎重に一歩を踏み出す。すると、猫は小さく尻尾を揺らしながら、その後を見送るように目を細めた。目の前に広がっていたのは、まるで夢の中のような光景だった。
ホームの周りには静かな森が広がり、その木々の間をふわり、ふわりと幾つもの淡い光が漂っている。
「ホタル……?」
思わず呟くと、その光の一つが陽翔の目の前をかすめ、ゆっくりと宙を舞った。あたりは柔らかな光に包まれ、まるで夜空に星が舞い降りたかのようだった。
駅名標を見ると、そこにはやはり「玉の緒」と書かれている。
耳を澄ますと、遠くで川のせせらぎが聞こえる。風がそよぎ、どこからともなく甘い金木犀の香りが漂ってきた。空を見上げるときれいな満月がこちらを除いている。
ホームの端に足を進めると、小さな石畳の道が森の奥へと続いている。道の両脇には苔むした灯籠が並び、そこにもちらほらとホタルがとまっていた。
「ここは……どこなんだろう……」
不思議なほど心が落ち着く場所だった。初めて訪れたはずなのに、懐かしさがこみ上げる。まるで昔の記憶の中に迷い込んだような感覚に、陽翔はしばし足を止めた。
そのとき、背後で列車の汽笛が静かに鳴る音がした。振り向くと、三毛猫が窓越しにこちらをじっと見つめている。
「……行けってことか。」
お礼を告げるように小さく笑って、陽翔はゆっくりと森の小道へと足を踏み入れた。ホタルの光に導かれながら。
ふっと空気が変わった気がした。風が頬を撫でた
この先に、何かが待っている――そんな予感を胸に抱きながら。
気がつくと教室にいた。
どれほど時間がたったのだろうか。あたりはすっかり暗くなり、窓の外には夜の帳が降りていた。
静まり返った教室には、時折、廊下を歩く教師の足音が響くだけだった。
「――下校時刻になりました。まだ校内に残っている生徒は、速やかに帰宅してください。」
スピーカーから流れる無機質な放送と「蛍の光」が、静寂をさらに際立たせる。
陽翔はぼんやりとした頭で状況を整理しようとしたが、夢か現実か、その境目が曖昧だった。
机の上には、しっかりと折りたたまれた手紙が残っている。震える指先でそれを掴み、ゆっくりと胸に押し当てた。
「……夢、だったのか?いや、それとも――。( ] )
窓の外をふと見ると、校庭の隅で何かが動いた気がした。目を凝らすと、そこには影がひとつ。
先程の三毛猫だろうか、それとも部活動生だろうか
胸の鼓動が、さっきまでの旅の余韻と共に高鳴っていく。
机の上に手をつき、深く息を吐く。
「……やっぱり、ちゃんと書き直そう。」
結に手紙を渡すと決めたものの、このままではダメな気がした。
自分の本当の気持ちを、もっと誠実に伝えなければいけない。
カバンに手紙をしまい、帰宅するために席を立つ。
外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
——結は、どんな気持ちでこの手紙を受け取るんだろう。
——迷惑だったら、どうしよう。
不安と期待が入り混じったまま、陽翔は家へと向かった。
家に帰ると、陽翔は真っ先に机に向かった。
部屋の明かりをつけ、カバンからくしゃくしゃになった手紙を取り出す。
机に肘をつきながら、何度も深呼吸をし、新しい便箋を取り出した。
けれど、ペンを持つ手は少し震えている。
「……何を書けばいいんだろう。」
書いては消し、また書いては消す。
思いを言葉にするのは、こんなにも難しいものなのか。
陽翔はふと机の隅に目をやった。
そこには、あの日図書館で読んで気に入ったものを買い集めた本が置いてある。もちろん結が進めてくれた本もある。陽翔はそこから一冊の本を取り出す。
結が「一番好き」と言っていた恋愛小説だ。
表紙を見ながらあの手紙の告白のシーンを、もう一度思い返す。
「……そうだ。」
陽翔はペンを握り直した。
背筋を伸ばし、真っ白な便箋に向き合う。
今度こそ、結に伝えたい言葉を書こう。
ありのままの気持ちを、丁寧に、一文字ずつ。
静かな夜、部屋にはペンが走る音だけが響いていた。
白瀬 結 へ(取り消し線)
この手紙を読んでいるころ、君はどんな表情をしているんだろう。驚いている? それとも困っているかな。急にこんな手紙を渡して、ごめん。
でも、どうしても伝えたかったんだ。
最初に結とちゃんと話したのは、小学生の時、図書館だったね。結がすすめてくれた本を手に取って、一緒に感想を話し合った日のことを、今でもはっきり覚えてる。あのとき、君が言っていたことも。
あれから、ずっと考えてた。もし、好きな人ができて、その人に想いを伝えるときが来たら、どうやって伝えたらいいんだろうって。何度も迷って、何度も諦めそうになった。でも、結局僕は、“手紙”という形で気持ちを伝えたいと思った。
結、あなたのことが好きです。
初めて会ったあのときから。日を追うにつれて、結のことしか考えられなくなり、いつの間にかずっと目で追うようになっていた。君の笑顔に救われたこともあったし、君が楽しそうに話す姿を見ているだけで、心が温かくなった。だけど同時に、君が誰かと話しているのを見ると、胸が苦しくなることもあった。
僕は、君の隣にいたい。
いつの日からかこう思うようになっていた。もしこの気持ちが結にとって迷惑だったら、ごめん。でも、何も伝えずに後悔するのは嫌だった。だから、こうして手紙を書きました。
もし、この想いに少しでも答えてくれるなら……あくる日も図書館であなたの返事を待っています。
相原 陽翔
「よしっ!」
翌日の放課後。陽翔は静かな図書館の一角で、一人、じっと本を開いたままページをめくることなく待っていた。
その本は、かつて結が「一番好き」だと言っていた恋愛小説だった。
告白のシーンは手紙だった。
何度も書き直された、不器用だけど真っ直ぐな想いのこもった手紙。
その言葉を受け取ったヒロインが、最後のページでそっと微笑む場面を、陽翔は何度も思い出していた。
——この告白をされたいなぁ。
——こんな恋がしてみたいなぁ。
あの時の結の言葉が、まるで昨日のことのように鮮明によみがえる。
だからこそ、陽翔は手紙を選んだのだ。
昼休みに結の靴箱へ入れた小さなメモ。
「渡したいものがあります。放課後、図書館で待っています。」
誰が書いたのか分からないように、筆跡を少し崩し、名前は書かずにそっと挟んでおいた。彼女は気づいたのだろうか? そもそも来てくれるのだろうか? 何度も頭の中でシミュレーションしたが、不安は消えないままだった。
時計の針が放課後の時間を指し、静まり返る図書館の扉がふわりと開いた。
陽翔は反射的に顔を上げる。
そこに立っていたのは――結だった。
彼女はゆっくりと図書館の中を見回し、やがて陽翔と目が合った。その瞬間、結の表情が一瞬強ばる。
(……気まずそう?)
まるで気まずさを隠すように、制服の袖をぎゅっと握りしめる。結はほんの少し足を止め、迷うように視線を彷徨わせていた。
陽翔は心臓が跳ねるのを感じながら、彼女が近づいてくるのをじっと待った。
結は深呼吸をして、一歩、また一歩とこちらへ歩み寄る。机越しに立ち止まり、どこか探るような目で陽翔を見つめた。結は視線を一瞬そらし、机の上にそっとカバンを置いた。その仕草はどこか慎重で、言葉を選んでいるようだった。
「……あのメモ、もしかして陽翔?」
いつもクラスで聞く声とは違い、静かな声、いや陽翔にとっては聞き馴染みのある声だ。
陽翔は緊張で喉が渇いているのを感じながら、小さく頷いた。
「えっと、その、これ読んでほしくて」
陽翔は書き直した手紙を渡した
「これ...手紙?読んで良い?」
陽翔はしっかりと頷いた。結の目線がそれに落ちた。
まるで陸に打ち上げられた魚のように心臓がなり続けている。
そして数分の沈黙が流れたあと、結が口を開いた。
「……うん、読んだよ。」
彼女の声は優しかったが、その表情からはまだ気持ちが読み取れなかった。陽翔は思わず膝の上で拳を握りしめる。
「それで……」
言葉を続けようとしたが、喉が詰まった。心臓が嫌になるほど大きく脈打っている。
結はそんな陽翔の様子をじっと見つめたあと、少し困ったように笑った。
「手紙……すごく真剣に書いてくれたんだね。」
「……っ」
「ありがとう。でも……」
結の言葉に、陽翔の胸がぎゅっと締めつけられる。
「...でも?」
言葉が出にくかった。正直ここから逃げ出したい、とさえ考えた。
「正直、びっくりしたの。そんな風に思ってくれてたなんて、全然気づいてなかったから……」
結の手がぎゅっとカバンのストラップを握る。その小さな動作が、彼女の心の中の揺れを物語っているようだった。
「嬉しいよ。でも……私、すぐに返事をするのは難しいかもしれない。」
陽翔はその言葉を静かに受け止めようとした。
「……うん。」
「少しだけ、時間をくれる?」
結の目が真っ直ぐに陽翔を見つめる。その瞳の奥には、適当な言葉を返したくないという真剣な思いが宿っていた。
陽翔は、少しの沈黙のあと、ゆっくりと笑った。
「……もちろん。待つよ。」
その言葉に、結もふっと息をつき、ほっとしたように微笑んだ。二人の顔は夕焼けの空に染められていた。
結は手紙をそっと撫でるようにしてから、静かに口を開いた。
「ねえ、陽翔。」
「うん?」
「どうして……手紙だったの?」
その問いに、陽翔の喉がぎゅっと締めつけられるような感覚がした。どうして手紙なのか——自分にはしっかりとした理由がある、けれどいざそれを言葉にしようとすると恥ずかしい。
「えっと……」
陽翔は息を整えて、少しだけ結の顔を見た。
「最近はさ、Sineとかで告白する人が多いじゃん?」
「うん。」
「でも……俺は、ちゃんと結に伝えたかったんだ。俺がどんなふうに思って、どれだけ大切に思ってるのか……手紙だったら、形として残るし、気持ちが伝わるかなって。」
結は陽翔の言葉に耳を傾けながら、少しだけ首を傾げる。
「……それだけ?」
その言葉に、陽翔は一瞬、息をのんだ。そして、ある記憶が胸の奥でそっと灯るのを感じた。
「……違う。僕……覚えてるんだ。図書館で結が言ってたこと。」
「図書館?」
「ほら、恋愛小説の話。好きだった子が病気で亡くなる話とか、図書館で出会ったクラスメイトとの話とか……。」
結の瞳がふわりと揺れる。
「僕、あんまり恋愛小説読まないけど、結がすすめてくれたから、ちゃんと読んだんだ。その中で、結が一番好きだって言ってた本……あれ、告白が手紙だったよね。」
結は驚いたように目を瞬かせる。
「そんなこと、覚えてたの……?」
「うん。結が『こんな告白がされたいなぁ、こんな恋がしてみたいなぁ』って言ってたの、すごく印象に残ってて。」
陽翔は恥ずかしさを紛らわすように、指先で机の端をなぞった。
「だから……僕は手紙で伝えようって決めた。結が好きだって言ってたやり方で、僕の気持ちを伝えたかったんだ。」
結は驚いたまま陽翔を見つめ、それからふっと目を細めて微笑んだ。
「……そんなふうに、考えてくれてたんだね。」
「……うん。」
結はもう一度、手紙をそっと見つめた。まるでそれが宝物でもあるかのように。
「ありがとう、陽翔くん。」
陽翔は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、結の笑顔を見つめていた。
二人の関係が、少しずつ変わり始めるのを感じながら――