第1章 如月なづなの場合
都会の喧騒の中、あたしは寝不足のままバスに乗った。
昨日の夜遅くまで学術会に向けて資料の最終調整をしていたあたしには、そこまで分厚くもないレポートしか入っていないはずの鞄がやけに重く感じられた。
体が重い。それとは真逆に心は地に足つかずといった感じで、ふわふわしている。
夏空の下、夏に出会ったあの子が死んで一週間。
蝉も雲もあの時と全く同じまま、ずっとこのまま、夏のままでいるみたいだ。
そうだったらいいのに。あの子に呪われるように、捕らわれていたい。
忘れたくない。あたしのせいで死んだあの子に、あたしの全部あげるから、また生きて欲しい。
千夏。
あたしとあの子は小学生の頃に出会った。あたしは不登校気味で、あの子は転校してきたばっかで。久しぶりに登校したあの日、あの子は方言をからかわれて、いじめられていた。
その頃のあたしは自分の中のくだらない正義ってヤツを振りかざして生きてたから、その時も正義感であの子を助けた。
「オイあんたら、あたしの前で何やってんだよ」
いじめてたやつらは、「ヤバッ如月だよ」とか言いながら逃げていった。
「けっ、腰抜けが」と悪態をついて、あたしはその場から去ろうとした。
「あっ、あの!」
関西訛りのある、でも可愛らしくよく通る声。振り返るとさきほどまでいじめられていた少女がいた。
ボサボサにされているけれど綺麗な長い黒髪。白くて小さな顔。整った顔のパーツ。どれも綺麗で、紙で隠れた目を見たい、と思った。この子の素顔を見たい、と。
「…来いよ。髪くらいは整えられる」
天然パーマを矯正する気もなく、ただ大人への反抗の印に金に染めた自分の髪の毛。それでも手入れくらいはしている。こんなにサラサラな髪なら、小さな櫛一つで十分整えられる、と思った。
人気のない使われなくなった廊下の前で、携帯用の櫛を使って少女の髪を整える。
「あ、あんたさ、名前、なんてーの?」
綺麗な髪だなあと思いながら、どうにも持たない間を繋ごうとしてみる。いわゆる不良の自分がこんなことでどもるなんて、と今となってはなけなしのプライドがもどかしさを生む。
「美山千夏、言います。美しい山に、千の夏で」
「…いい名前じゃん。あんたらしい」
「あ、ありがとう、ございます」
照れてはにかんだようだけれど、後ろからじゃ見えない。悔しいな、と思って前に回る。
「んじゃ次は前髪やるよ」
「はい…なお、あなたの、お名前は…?」
きっといじめられたことで恥ずかしさと怖さがあるのだろう、と思った。なるべく訛りを抑えようとしていて、そのいじらしさがかわいい。
「如月なづな。二月の昔の名前と同じ如月と、つにてんてんつけたひらがなのなづな」
自己紹介をこんなにも優しい、穏やかな気持ちでしたことがあっただろうか。いつも緊張してて、心のどこかでバカにしたり、敵対心があったりしていたものなのに。
これが、この子なんだ。優しくて、傷付きやすくて、でもそれを堪えようとしちゃうんだろうな。
無性に守ってあげたくなった。一人で辛いこと、怖いこと、全部堪えてきたんなら、あたしと同じだ。でもこの子は優しい心をずっと持ってる。
「…あんたさ、今度いじめられたりしたら、あたしんとこ来なよ。これでも周りから怖がられてっから」
「はい…転校して、初めての友達です…ふふっ」
「はぁ!?」
「ひゃ!えと、友達じゃ、ないですか?」
「いや友達でいいけど、あんた転校生なの?」
「はい、さすがに気づいてると思って」
「あー、あたしあんまガッコ来ないから…」
作業の手を止めて自分の髪をガシガシと掻く。どうにもそういう自分の内情を言うのは照れ臭い。
「じゃあ、運命みたいですね。私がいじめられてるところに如月さんが来て、助けてくれた。ヒーローみたいです」
「あんまこっぱずかしいこと言うなよな…ほら、できた」
大きくて綺麗なアーモンド形の目がよく見えるようになった。そうしていると、まるでお姫様みたいで、思わず小町って呼びたくなる。
しばらく見惚れていたけど、そうしていると顔が綺麗ってだけじゃなく服にも目が行った。
ボロボロとまではいかないけど、古びて時代遅れのすごくシンプルなものだ。
あたしのは親から奪うように貰った金で自分で買ったヤツだし、少なくとも小綺麗でいはあると思う。自分にセンスがあるとは思っていないけれど、それでも千夏はなんだか違和感を覚える服装だった。
もしかして、貧乏だったりするのか。そんなに踏み込んだ話はまだできない。でも、友達。
千夏にとっては転校後はじめての友達でも、あたしにとっては人生ではじめての友達だ。いつか何か、千夏のためにできることをしてあげたい。
初めてそんな気持ちを持った。
その日から、あたしたちはよく一緒に行動するようになった。
行きたくはなかったけど、髪の色とか口調とか変えるように言わないことを条件に毎日学校に行って授業にも出た。
休み時間や登下校は一緒に行動して、千夏からいじめっ子を遠ざけるようにした。
だんだん千夏の訛りも消えていって、あたしの服を貸したりして、いじめはなくなった。
先生からは如月を更生させたとかって千夏の株が上がってた。あたしは更生なんてしてないけどな。
千夏があたしのことを「如月さん」じゃなくて「なづな先輩」って呼ぶようになった。あたしが四月生まれだって知った千夏が「じゃあ私は三月生まれなのでだいたい一年違うんですね!」とかいっていつの間にか定着していた。
あたしは相変わらず金髪で、荒っぽい口調のまま。でも、いじめっ子のいない学校に一緒に行こうって千夏と約束したから、千夏が受ける中学に合格できるようにと、苦手な勉強を頑張った。
二人とも、笑顔になれるようになった。愛想笑いでも、悪党がしそうな笑いでもなく、年相応の、心からの笑顔。
あたしと千夏は同じ中学に合格して、肩を組んで小学校を卒業した。
あたしと千夏はそれからもどんどん仲良くなって、親友を超えた、もっと深い唯一無二の仲になった。
中学も、高校も、例えクラスが変わったとしても一番は互いだった。
夏には互いの家にお泊りして、秋には新作の手作りスイーツを食べて、クリスマスプレゼントを交換して、初詣も一緒に行った。
春になれば何度だって互いの大切さを再確認して、「生まれてきてくれてありがとう」って誕生日を祝った。
大学も一緒になった。ルームシェアをして、本当の家族の何倍も幸せな家庭って言える仲になった。
色恋とかどうでもよくて、ただただ二人で一緒にいた。そこには友愛とも親愛とも言える情があったけど、それは恋愛の情ではなかった。
大学院で、研究をするようになった。千夏が「私は助手がいいです」って言うから、千夏はあたしのサポートになった。
一生に一度、巡り会えれば幸せな存在。多くの人は巡り会えず、妥協して生きていく存在。あたしと千夏はまさにそんな関係だった。
ある日、あたしたちは研究室のあるビルの屋上で昼食をとっていた。陽射しが適度に隠れた、夏の暑い日。都会なのに街路樹には蝉がたくさんいて、十階以上もあるビルの屋上にまで蝉の声が聞こえてきた。
「食後の一服、いかがですか?」
なんてスモーカーじゃない千夏が言うから驚いてそっちを見ると、タバコじゃなくて棒状のお菓子が差し出されている。
ふはっと笑って、じゃあ、遠慮なく貰おうかな」と受け取る。
「何味?」と問うと、「じゃがりこチーズ味」と帰ってくる。
肩をつつかれてなんだと思うと、じゃがりこを咥えた千夏が先っぽを手で覆いタバコに火をつけるような動作をしている。
私はまだにやけた顔のまま傍に置いてあるカップからじゃがりこを一本取って咥えて、千夏のじゃがりこの先に近づける。
「…シガーキスじゃなくてジャガーキスか?」
なんて言うと、千夏は「ジャガーはネコ科のヒョウみたいなやつじゃありません?」と笑う。
座っていたベンチから立ち上がって、屋上の柵にもたれかかる。咥えたまんまのじゃがりこがだんだん柔らかくなって、口の中で味が染み出す。
「その柵、根本が悪くなってるそうですから、あんまり体重かけない方がいいですよ」
そうかと思ってじゃがりこを食べきって、「わかってんなら忠告するよりも直すとか張り紙貼るとかしねーのかよここの研究員はよー」と愚痴を垂れる。
陽射しが出てきて空に軽く目をやると、真っ青な空に見事な入道雲が浮かんでいて、ああ、夏だなぁって思った。
瞬間、かなり強い風が吹いて、あたしはよろけた。背中に柵が当たる。
あ。
メキッって嫌な音がする。世界がスローモーションみたいになって見えて、あたしの身体は宙に投げ出された。
ひゅ、と息が詰まった。千夏が走ってくる。まるで映画のワンシーンだ。
千夏の手が伸びて、あたしの手首を引っ張った。信じられないくらいの速さで、千夏が走ってきたのだ。一瞬、千夏をヒーローみたいだって思った。あたしのすぐ横を、引っ張った反動で千夏が通り過ぎていくまでは。
「ちなつっ…」
振り向くのと同時に、目の前を彼女の黒髪が流れていく。
180度回転してしりもちをつきながら、千夏が青空に飛ぶのを見ていた。
白い肌が日を浴びて輝いている。髪も光を反射して光っている。優しい目をして見つめてくる。その目は今までにないくらい、美しかった。
「…よかった…」
そう言いながら、千夏はあたしの視界から消えていった。
ほんの一瞬、あたしは怖かったのか、驚いていたのか、動けなかった。我に返ると、すぐに屋上を飛び出した。昼食の弁当箱なんて置いたままだ。
膝が震えて、止まったらもう動けなくなりそうで、エレベーターなんて使う余裕なくて、あたしはほとんど段を踏まずに階段を駆け下りた。
ビルの外に出て、でき始めた人混みの方へ走っていく。黒髪が、赤色に濡れていた。
あれから一週間。千夏の遺族と警察に説明して、すぐプレゼンの資料作りを始めた。もうほとんどできていたけど、何回も見直して、練習をして、寝る間も惜しんでレポートを書いた。
何かしていないと、押し潰されそうだった。半身を失ったみたいで、空虚だった。
プレゼンの当日、寝不足のままバスを待った。
世界は色褪せていて。音が遠くから聞こえるみたいで。夏蝉すら死んだまま鳴いているようで。街路樹は影を作ることなく蜃気楼のように揺れて。
眠いはずなのに、寝れない日々が続いた。悪夢を見そうで、怖かったのかも知れない。
ようやく来たバスに乗り込んで、一番後ろの席に座った。冷房が強すぎるほどに聞いていて、汗が急速に冷えていく。心地いいのか、悪いのか。
眠くなっても寝れない。目を閉じたり開けたりを繰り返しながら、プレゼンのことを考えようとする。何か考えていないと、千夏のことを考えてしまう。
突然、急ブレーキの高音が響く。衝撃と悲鳴が、あたしを思考の波から現実に押し戻す。
事故だ。バスの車体の前方三分の二は、完全に大破している。爆発が起こる。炎が上がる。窓を割って外に出ようとする人がいる。すぐに近くまで火の手が来る。
逃げる気は起きない。寝不足の鈍い思考回路が、火の向こうを見つめる。
ああ、ここで死ぬのか。
レポートに火が付く。
千夏。死んだらあたしも、あんたのところに行けるかな。