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【異世界恋愛】短編

夕暮れの庭に咲いた願い ~公爵令嬢が憧れた花のドレスと、一度きりの舞踏~

作者: ぱる子

 宮廷の大広間に音楽と笑い声が満ちている夜、あの華やかな舞踏会を窓越しに見るたび、わたしはいつも胸が締めつけられる。公爵家の令嬢として本来ならあの場所で輝いていなければならないのに、障がいのある脚が、わたしをその輪の中へと誘ってはくれない。多くの人の目がわたしに向かうとき、それは祝福よりも侮蔑(ぶべつ)の色を帯びる。ドレスに身を包んだ娘たちが優美にステップを踏むたび、少しだけうらやましいと思う自分がいる。だけれどいつしか、その想いは見ないふりをする癖として、自分の中で深く根を張っていた。


 名前はエリーゼ。公爵家に生まれたが、幼い頃の病で右脚に麻痺が残った。歩くことはできるが、人並みに長くは立っていられない。痛みで足を引きずることもあり、足首を固定する支えが必要だ。家族はわたしに優しい言葉をかけてくれたこともある。しかしそれは幼少の頃までで、成長するにつれ「公爵家の令嬢としてどう振る舞うべきか」を母も父も、そして周りの人々までもが口うるさく説き始めた。「公爵家のお荷物」と陰で(ささや)かれることさえあった。


 特に母は、わたしが歩く姿を見るといつも眉をしかめた。「エリーゼ、あなたは人前で歩くときはもっと背筋を伸ばしなさい。踊りに混ざらなくてもよいから、せめて恥ずかしくないように立ちなさいな」と、厳しく注意される。その度にわたしは、痛みを我慢して背筋を伸ばした。痛みと窮屈さで息が詰まりそうになっても、公爵家の名に泥を塗るわけにはいかないと必死だったのだ。


 しかしわたしの想いは誰にも届かない。周囲の華やかな笑いに飲まれながら、わたしはずっと窓際に押しやられたまま、「柱の飾り」のように見られていたのだ。豪奢(ごうしゃ)なシャンデリアの輝きが(まぶ)しすぎて、ときどき目が痛い。ドレスのすそを踏みそうになりながら歩く自分が、あまりにみじめに思えて、舞踏会が嫌いになった。


 とはいえ、公爵家という名の鳥籠の中にわたしを取り巻く世界は、あまりに小さい。そんな毎日に苦しむわたしを支えていたのは、屋敷の裏庭に広がる小さな庭園だった。周囲からは目立たない場所にあるが、草木が風にそよぎ、四季折々の花が彩りを添える。特にバラや小さな白い花たちは、わたしにとって唯一の友達のようなものだった。家族に見つからないように早朝や夕暮れにそっと庭園を訪れては、土を手にのせ、芽吹いたばかりの花の匂いをそっと()ぐ。繊細な茎を支えるように手を添えながら、「あなたは自由でいいね」と心の中で語りかける。


 本当は、あの大広間で踊ってみたいのだ。花のドレスを着て、誰かに手を差し伸べられてみたい。わたしがよろけても、しっかり支えて一緒にくるりと回ってくれる人がいたら……。そんな儚い夢を、花たちは笑わずに聞いてくれる。誰にも言えない気持ちを花に託すことが、わたしがわたしでいるための最後の砦だった。


 そんなある日のこと。わたしが庭園で花の手入れをしていると、屋敷の下働きをしている青年が、傷ついた小鳥を抱えて通りかかった。名はルカといっただろうか。細身だが筋肉質で、日に焼けた肌が印象的。いつもは厨房や洗濯場を忙しそうに駆け回っている姿をちらりと見かける程度だったが、そのときは珍しく手袋を外して、小鳥を優しく包んでいた。


「その小鳥は……怪我をしているの?」

「ええ。ちょっと羽が折れているみたいで……」


 ルカは申し訳なさそうに眉を寄せた。


「でも、きっと良くなります。巣立ち直前の子ですし、少し休めば飛べるようになりますよ」


 その声音にわたしは不思議と安堵を覚えた。小鳥を見つめるルカの瞳は、優しさにあふれていたからだ。わたしのことなどまるで気にする風でもなく、自然な距離感で接してくれる。それまで召使いや下働きたちからは、おそるおそる敬意を示されるか、あるいは(さげす)むような視線を受けることが多かったので、そのあたたかみが肌にしみた。


 以来、わたしはルカを庭園で見かけるようになった。わたしが花に水をやっていると、彼は木陰で掃除用具を手入れしていたり、あるときは寒さで弱った花壇の補修を手伝っていたりする。庭師が足りないときなどに助っ人として駆り出されているらしい。


「お嬢様、最近は腰掛ける椅子が見当たりませんね。もしよろしければ、これをどうぞ。屋敷の倉庫に古いベンチがありましたので」


 そう言ってルカが運んできたのは、白く塗られた鉄製のベンチだった。あちこち()げてはいたが、それこそこの庭園に似合いそうな、素朴な美しさを持つベンチだった。わたしは思わず頬を(ほころ)ばせる。


「ありがとう。あなたが持ってきてくれたの?」

「ええ。掃除をして、多少は使えるようにしておきました。座り心地が悪かったらすぐ言ってくださいね」


 そう言い残して彼は再び裏方の仕事に戻っていった。わたしはそのベンチに腰掛け、右脚を少し伸ばしてみる。脚は冷たく、弱々しいけれど、少しだけ「大丈夫だよ」と言っているような気がした。そのとき初めて、庭園という自分だけの秘密の領域に、もう一人を招き入れてもいいかもしれないと思えた。


 ある夕暮れ、雨上がりの庭園でわたしはそっと咲き始めた花びらを指先でなぞっていた。花弁が開きかける瞬間の柔らかさが愛おしい。すると、背後から足音が聞こえる。振り返るとルカが、腰をかがめるようにしてわたしを覗き込んでいた。いつも無骨な彼が恥ずかしそうに微笑む。


「お嬢様の育てている花は、どれも元気ですね。こんなに見事に咲くのは初めて見ました」

「そう? ただ好きで水をやっているだけよ。特別なことなんて、何もしていないわ」

「ですが、お嬢様はどの花にも声をかけるみたいに触れるじゃないですか。花ってそういう些細(ささい)なことで、答えてくれると思います」


 その言葉にどきりとする。人に話しかけるように花を眺める自分を、ルカは知っていたのだ。そしてそれをおかしなことだと笑わない。わたしは気恥ずかしくなりながら、照れ隠しに目をそらしてしまった。


「……どうしてあなたは、そんなに優しいの?」


 言葉に詰まるわたしを見て、ルカは微笑を消し、少し真面目な顔になった。


「それは……お嬢様が、花に語りかけるように優しい人だからですよ。誰かが笑っていてくれたら、自分も嬉しい。そういう気持ちを知っているからじゃないでしょうか」


 まるで心の内をすべて見透かされているようで、胸が熱くなる。わたしはもう何も言えず、うなずくことしかできなかった。彼の柔らかな声とまっすぐな瞳に触れるたび、これまでの鬱屈とした気持ちがほぐれていくようだった。


 ――いつしか、わたしは一つの夢を彼に話していた。それはいつの日か、自分が育てた花をあしらったドレスを身にまとい、舞踏会――もしくは小さな宴でいいから、誰かと踊ること。もちろん正式な舞踏会で踊るのはもう諦めていたけれど、それでも自分の花とともに笑顔で立っていたい、と。脚が不自由でも、心から楽しめる「踊り」をしてみたいと思ったのだ。


 話しながら、自分はなんてバカな夢を語っているのだろう、と胸が痛む。きっと笑われる。けれどルカは最後まで黙って聞いてくれた。


「いいですね、そのドレス。きっとお嬢様によくお似合いだと思います」

「……馬鹿げていると思わないの?」

「いいえ。素敵な夢だと思いますよ。お嬢様がこの庭の花たちと一緒に踊る姿……想像するだけで、すごく綺麗じゃないですか」


 その瞬間、わたしの胸は張り裂けそうになった。家族さえ誰一人まともに耳を傾けてくれなかったわたしの夢を、彼は「素敵」だと言ってくれた。自分が許されたような気がして、うっすらと涙が浮かぶ。わたしは急いでそれを隠そうとしたが、ルカは気づかないふりをしてくれた。


 ところが、その夢を知った家族は当然のように反対した。あるとき、母はわたしの着替えの最中に見慣れない花びらの欠片を見つけ、「まさか庭で遊んでいるのではないでしょうね」と険しい声をあげた。わたしはしどろもどろに言い訳を繰り返すが、母は厳しい目でわたしを見つめた。


「エリーゼ、もう庭に行くのはおやめなさい。あなたの脚が悪いのを知らぬ者はいないのですから、みだりに外をうろつくのは見苦しいわ。みんなの迷惑になるだけ」

「そんな……、あの庭はわたしにとって……」

「いいえ、決めました。あなたはこれから部屋で大人しくしていなさい。余計なことを考える暇があるなら、貴族の令嬢として読書や教養を身につけなさい。……いいわね?」


 母の言葉は冷たく鋭かった。その後、わたしは庭園に行くことを禁じられ、部屋から出るには必ず侍女を伴うよう命じられてしまう。自分だけの小さな世界が閉じられていく音を、わたしはきしきしと痛感した。あんなにも大事に育てた花たちは、誰が世話をするのだろう。今までだって庭師が手入れをすることもあったが、あの花たちはわたしにとって、わたしの大切な秘密のようなものだったのに……。


 それ以来、わたしは屋敷内の窓から庭を眺めるだけの日々を送る。そこに広がる緑や色彩はどこか遠い世界のようで、ひどく空虚だった。脚の痛みもいつもより増しているように思え、自分では手当もままならない。夜になっても眠れず、何度も夢にうなされる。舞踏会の人々の笑い声が耳にこびりついて離れなかった。


 そんなある日の夜更け。寝室に小さなノックの音がした。こんな時間に侍女が来るはずがない。一体誰……? 恐る恐るドアを開けると、そこにはルカがいた。薄暗い廊下の灯りの下、彼は小さな包みを抱えている。


「……ルカ? こんな夜中にどうしたの?」

「お嬢様、しっ、声を抑えて。見つかるとまずいです」


 そう言ってルカは部屋の中にするりと入り込み、ドアを静かに閉めた。わたしは心臓が早鐘を打つのを感じる。屋敷に仕える者が深夜に令嬢の部屋を訪れるなんて、一歩間違えば大事だ。しかし、彼の表情は真剣で、どこか焦っているようでもあった。


「実は……お嬢様の夢を、ほんの少しだけ手伝いたいと思いまして。見てください、これ」


 ルカが包みを広げると、そこにはピンクベージュの生地が折りたたまれていた。薄手で、上品な光沢がある。そしてところどころに刺繍の下描きのような模様が見える。わたしの胸は弾むように高鳴った。これは……もしやドレスの生地?


「あなた、まさか……?」

「ええ。わたしは元々、家業が仕立て屋なんです。家が傾いてしまって、今は下働きに出ているんですが……裁縫の腕だけは、昔から磨いてきました。この生地は少し傷があるので、貴族に卸すには不向きだと仕立て屋に置きっぱなしになっていたものを、分けてもらったんです。少し手を入れれば、十分使えます。……それで、お嬢様の花のドレスを作ろうかと」


 正直なところ、あまりに無謀な話だ。わたしのサイズに合わせて仕立てるためには、実際に何度も採寸しなければならないし、時間も手間もかかる。それに、公爵家の令嬢が身に着けるような豪華なレースや装飾を用意するには費用もいるだろう。だが、ルカはそんなことはどうでもいいというように、続けた。


「小さな刺繍なら、この生地の傷跡を隠せます。その刺繍を花のモチーフにして……お嬢様の育てていたあの庭園のイメージを映し込めたらって、思ったんです」


 わたしは言葉を失ってしまった。人目を忍んでまで夢を叶えようとしてくれる人がいる、という事実が、胸いっぱいに広がる。涙が出そうでたまらなかった。でもここで泣いては台無しだと、なんとか唇を噛んでこらえる。


「けれど……家族に知られたら、あなたまで……」

「大丈夫。さすがに大っぴらにはできませんけど、夜とか、仕事がない合間とか、時間を見つけて少しずつ進めます。お嬢様には、仮縫いのときだけ、また夜にこっそり部屋を訪ねます」


 なんという無茶な計画だろう。それでもルカの瞳は真剣で、(かす)かな灯りを受けて力強く輝いている。きっと彼は本気だ。本気で、わたしの夢を共に見ようとしてくれている。その優しさと勇気に、わたしは心の底から救われる思いだった。誰にも言えず胸にしまいこんでいた「花のドレス」という儚い夢。それが形となって、今まさに目の前に生まれようとしているのだ。


「……ありがとう、ルカ。わたし、あなたを信じるわ。もし完成したら、そのときは……一緒に踊ってくれる?」

「もちろんですよ。お嬢様の夢が叶うなら、ぜひ」


 そっと握った彼の手は、少し荒れていて。でも、とても温かかった。


 それからのわたしの日常は、張り詰めた緊張の連続だった。家族は相変わらずわたしを庭園に行かせまいとし、執拗に部屋を見張っている。侍女も厳しく、少しでも不審な動きを見せるとすぐ報告しそうだ。そんな中、夜遅くにほんのわずかな時間だけルカが部屋を訪れては、ドレスの仮縫いを進めてくれる。


 彼は器用だった。手際よくわたしの体のラインを測り、生地に印をつける。針を持つ指先が器用に動く様子は見ていて飽きなかった。わたしが生地を持って立ってみると、まるで花びらをまとったように、優しくしなやかに身体を包んでくれる。まだ飾りや刺繍はほとんど入っていない段階にもかかわらず、その優美なシルエットにわたしは何度も胸を震わせた。


「このあたりに花の刺繍を。腰のラインには、もう少し濃い色のモチーフを……そう、庭園のバラなんかどうかな。……お嬢様、どうですか?」

「うん……素敵だと思う。わたし、こんなに綺麗なドレスを着られるなんて、想像もしなかった」


 ルカは満足そうに微笑み、針山から針を取り出しては、さくさくと生地に仮止めをしていく。わたしは夜中に少しの間だけ脚の痛みを忘れ、息をのむような幸福感に浸った。いつか完成するその日を思うと、眠れない夜も悪くないと思えた。


 ――しかし、幸せな時間は長くは続かない。ある日、父が急にわたしの部屋にやってきた。母の言いつけに反抗的な態度を見せていることを咎めに来たのだ。もっともらしい言葉で、「お前が下手に目立つと公爵家の評判を落とす」と告げる父の顔は厳しく、話し合いの余地などなかった。わたしはその場では黙って耐えるしかない。


 さらに追い打ちをかけるように、近々開催される宮廷の大舞踏会の話が聞こえてくる。公爵家としては必ず参加しなければならないが、わたしはどうせ部屋から出されないだろう。そう思うと苦しくてならなかった。いつかあんな場所で踊れたら……と夢見ていたのに、その想いは胸に閉じ込められたままだ。


 そしてルカはと言えば、夜中の仮縫いを続けていたが、その表情は以前より険しく、疲れを隠せない様子だった。わたしの部屋に来るまでにも、侍女や門番の目をかいくぐらなければならないだろうし、彼自身の仕事量も増やされているという。時折、わたしは「無理しないで、わたしの夢は忘れて……」と何度も言いかけた。けれど、彼は首を振る。


「お嬢様が本当に諦めたいと思っているなら、わたしだってここまでしません。でも、まだ諦めていないんでしょう?」

「……うん」

「なら、最後までやりましょう」


 その言葉は真っすぐで、どこまでも優しかった。わたしは何度でも涙ぐんでしまう。いつしかわたしの胸の奥には、ルカを信じたい、という想いがはっきりと宿っていた。彼となら、夢の一欠片を形にできるかもしれない。たとえほんの瞬間でも、わたしは花のドレスをまとい、誰かの前で笑うことができるかもしれないのだ。


 ――そして、ついにそのときがやってきた。あの大舞踏会の日の夕暮れ。父や母、兄弟たちは皆、宮廷へ赴き、屋敷には最低限の使用人と下働きしか残っていなかった。さすがにこうも人が少なくなると、わたしを厳しく見張る者もいない。ルカがこの隙を突いたのだろう。彼は用意していたドレスを大きな包みごと抱えて、わたしを裏庭の庭園へと連れ出してくれた。


 数か月ぶりに踏みしめる庭園の小道。わたしの花たちはどうなっているだろう――胸が高鳴ると同時に、あの頃の幸せだった記憶がよみがえり、泣きそうになる。夕日に染まる庭園は、かつてよりも少しだけ荒れて見えた。しかし、それでも健気に花を咲かせている場所がある。わたしが種をまいた白い小花、バラの茂みにはつぼみが幾つもついていた。ルカが密かに手入れをしてくれていたのだろう。


 その一角に腰を下ろして、わたしはドレスを受け取る。ルカは少し照れくさそうに言った。


「急ぎで仕上げたので、細部はまだ荒いですが……わたしが作れる精一杯です」


 広げてみたドレスは、まさに花そのものだった。ふんわりと広がるスカートの裾には、淡い色彩の刺繍が散りばめられている。ところどころには、バラの花びらの形を模した布があしらわれ、上半身のコルセットには繊細な刺繍糸で蔦が絡むように飾りが施されていた。一見すると派手さはないが、その落ち着いた優雅さと細やかな工夫が、わたしの大切にしてきた庭園のイメージと重なる。


「綺麗……嘘みたい、こんな素敵なドレス……」

「お嬢様に似合うかどうか、少し不安でした。けど、もしよろしければ、袖を通してみてください」


 わたしは頷き、彼の手を借りてドレスを身にまとう。正直、脚の痛みはある。けれど今日ばかりはそれも忘れたいと思った。ルカがスカートの後ろを結んでくれるたび、胸がどきどきと高鳴る。鏡はない。けれど、まるで庭園そのものに抱かれているような錯覚さえ覚えた。長い袖には、小花を象ったボタンが幾つも並んでいる。手首がゆるやかに絞られ、ふわりと風をはらむシルエット。そのすべてがわたしの憧れを形にしたようだった。


 そしてルカは、一歩引いてわたしを見つめる。少し驚いたような表情をしたあと、はにかむように笑った。


「……とても綺麗です。まるで、本当に庭園の花が人の姿を借りたみたい」

「そんな……わたしなんて……」

「いいえ、胸を張って。今日くらい、誰の目も気にすることはない。ここはお嬢様の庭園ですから」


 そう言って、ルカが手を差し伸べる。わたしは左手をゆっくりと彼の掌に重ねた。すると、ふっと風が吹いて、花弁の香りが頬をかすめる。ゆるやかな夕暮れの光がわたしたちを包み込み、遠くから小鳥の声が聴こえた気がした。


「踊りましょうか?」

「うん……」


 わたしはルカの肩にそっと手を添える。右脚はぎこちなく、完全にステップを踏むのは無理だ。それでも彼がゆっくりリードしてくれる。ひとつ、ふたつ、ステップを踏むごとに、心臓がドキドキと弾むのがわかった。遠い昔、パーティで誰にも相手にされず、壁際で眺めていたダンスを、今こうして踊っている。不格好かもしれない。でも、これがわたしの夢だったのだ。


 わずかに痛みが走ったとき、ルカは気づいたように動きを緩める。「大丈夫ですか?」と小声で問いかける。その優しさにわたしは笑みを返しながら、必死で立ち続けた。足元を見ると、自分を嘲笑した人々の目などどこにもない。ここには、夕日の色に染まる花たちと、優しい彼の腕だけがある。


 やがて曲が終わるように、ルカはわたしを支えながら静かに身体を止めた。胸の奥が甘く痛む。その一瞬のために、これまでどんな屈辱にも耐えてきたのだとしたら、報われたと思えるくらいに幸せだった。けれど、わたしの目には涙が浮かんでくる。どうしようもなく溢れてしまう。それは苦しさとか悲しさというよりも、夢が形になる瞬間に訪れた、切ないほどの歓びだった。


「ありがとう……ルカ。こんなに幸せな気持ち、初めて……」

「エリーゼ様……」


 わたしは彼の胸に額を寄せるようにして、思わず涙をこぼす。ルカは優しくわたしの背中を支えてくれた。頬に感じる彼の体温が温かい。その瞬間、わたしは思う――この人と出会わなかったら、わたしは一生、窓辺からあの華やかな舞踏会をうらやむだけで終わっていたかもしれない。誰に憧れを打ち明けることもなく、嘲笑だけを浴びて終わっていたかもしれないのだ。


「……ねえ、いつか、もっと上手に踊れるようになったら……舞踏会ではなくてもいい。一緒に、こうして踊ってくれる?」

「もちろんです。わたしがあなたの足になって、いつまででも踊りましょう」


 ルカの言葉に、わたしは笑みを浮かべる。夕陽に照らされる庭園は、一面オレンジ色の光を帯び、花たちも輝いているように見えた。ずっと離れていた間にたまった寂しさが、嘘のようにどこかへ溶けていく。


 しかし、その幸福は長くは続かなかった。庭の門のほうから、慌ただしい足音が聞こえてきたのだ。振り返ると、そこには侍女と屋敷の番兵が険しい顔をして立っている。その背後には、舞踏会を途中で抜け出したのだろう、見覚えのある家族の姿――父と母の姿さえある。


「エリーゼ、まさかとは思ったが……お前、庭にいたのか! そんなみっともない格好をして……なんという恥さらし!」


 父が怒声を上げる。母の顔色も真っ青になっていた。彼らがこんなに早く戻ってくるとは、思いもよらなかった。ルカはわたしを(かば)うように立ちふさがるが、番兵に腕をつかまれ、すぐに引き離されてしまう。


「この男がエリーゼをそそのかしたのですね? なんと無礼な! 下働きの身分でありながら、公爵家の令嬢にこんな真似を……」

「待って、違うわ! わたしがお願いしたの。彼を責めないで!」


 わたしは必死で叫ぶが、父は聞く耳を持たない。母の目には冷たい嫌悪感だけが浮かんでいる。心臓が壊れそうなくらい高鳴り、呼吸もままならない。


「いいか、エリーゼ。お前は脚が不自由だということをわきまえろ。見苦しい姿を見せて、公爵家の名誉を汚すな。……この者はすぐに追放処分にする。お前も部屋から出ることは許さない。わかったな!」

「そんな……やめて……!」


 必死に懇願するわたしの声など、父には届かない。ルカは抵抗するが、番兵に強い力で押さえつけられ、手首を縛られてしまう。まるで逃げられないようにするかのように、彼は地面に膝をつかされていた。わたしは腰を抜かしそうになりながら、その光景を見つめることしかできない。ドレスの裾が汚れ、スカートの生地が悲鳴を上げるようにひきずられる感触があった。


「お嬢様……」


 ルカが、わたしの名を呼ぶ声。それは涙がこぼれそうなほど悲しげだった。わたしはそれに応えたいのに、何もできない。脚が(ふる)え、うまく立っていられずに倒れ込んでしまう。冷たい土の感触が広がる。わたしは地面に頬をつけたまま、父や母に必死で目を向けるが、彼らは無情にもルカを連れて行かせようとした。


「お願い、待って……! ルカを連れて行かないで……! わたしのせいなの、全部……!」


 声が上ずり、涙がこぼれる。かつて舞踏会で味わった屈辱とは比べ物にならないほどの絶望感が押し寄せる。誰よりも優しく、わたしの夢を叶えてくれた人が奪われるなんて、あまりにも酷い。


 すると、ルカが抵抗をやめて、弱々しい声で父に言った。


「どうか……お嬢様だけは、責めないでやってください。ドレスを仕立てたのはわたしです。お嬢様は何も悪くありません……」

「黙れ、身分を弁えぬ下働きが! 二度とこの屋敷に姿を現すな!」


 そのままルカは引きずられるようにして、番兵たちとともに庭の外へと連れていかれた。わたしは這いつくばるようにして、彼を追いかけようとするが、脚がもう動かない。涙と土でドレスはぐしゃぐしゃになり、花のモチーフはひきちぎられてしまった。


 ――こうして、わたしの唯一の味方だった彼は消えた。美しい夢の時間は、いとも簡単に砕かれる。わたしは地面に伏せたまま声をあげて泣いた。誰もわたしを助けてはくれない。夕焼け色に染まっていた庭園が、憎らしいほど赤い。まるで、わたしの心から流れ出した血が染め上げたかのようだった。


 それから幾日も、わたしは部屋に閉じ込められ、泣きはらした目で日々を過ごした。ルカが本当に追放されたかどうかを確かめる術もない。姿はどこにもなく、彼がわたしのために残してくれたドレスだけが、わたしの部屋の隅で無残に破れたまま横たわっていた。


 日に日に、心も身体も(むしば)まれていくようだった。脚の痛みは増し、立ち上がることすら辛い。何より、「もう二度と夢を見ることは許されないのだ」という思いがわたしを苛んだ。食事もあまり喉を通らなくなる。侍女たちは「またあの令嬢は気難しくなった」と陰口を叩くが、そんなことどうでもいい。ルカがいない世界など、まるで色彩を失ったようだ。


 ――そんなわたしのもとに、小さな包みが届けられたのは、ある静かな夕方のこと。侍女が淡々とした口調で、「荷物が届いております」と部屋に置いていった。不思議に思いながら開けてみると、中にはバラの花びらのように薄い、綺麗なピンクの布が丁寧に畳まれて入っていた。それは、ルカが仕立てたドレスと同じ生地の切れ端だった。そして、その布には短い手紙が添えられていた。


『エリーゼ様へ


 突然いなくなってしまって、すみません。

 あなたの夢を、最後まで見届けることができなくてごめんなさい。

 でも、わたしはあの庭園であなたと踊った時間を、一生忘れません。

 あなたが花のドレスをまとって見せた笑顔は、どんな宮廷の舞踏会よりも美しかった。

 たとえ離れても、あの瞬間があなたの心を支えますように。


 いつかまた会えることを祈っています。

 あなたがこの先も、花とともに笑えますように。


                ルカ』


 それだけの短い文面だった。けれど、わたしはこらえ切れずに涙を流した。わたしの夢を「素敵」だと言ってくれた人。わたしを花のドレスで踊らせてくれた人。もうここにはいない。でも、確かにこの布きれのように、わたしの心には彼との思い出が残っているのだ。


 ふと、破れたままのドレスに目をやる。思い切って体を引きずるようにして床に降り、ドレスを膝に抱えた。そこには、ルカが刺繍した(つた)のモチーフや、小花をかたどった飾りが、まだ息づいているかのように残っている。こんなにも美しいのに、誰にも認められなかった。彼が夜な夜な苦労して縫ってくれた優しさが、今でもはっきりと手のひらに伝わる。


 わたしはそっと、届いた布きれをドレスの破れた部分に当ててみた。大きさは足りないが、まるでピースがはまるような感触がする。ちょうど、バラのモチーフの近くが破れた部分に重なった。そうだ、わたしはあの日、確かに花のドレスで踊った。あれは夢なんかじゃない。ルカが届けてくれた奇跡だ。


 ――気づけば、わたしの目から涙がぽろぽろと落ちて止まらない。あふれる思いは悲しさか、後悔か、感謝か。どれもが混ざり合って、自分でも何の涙なのかわからなくなる。だけど、紛れもない事実として、わたしの身体はあの日、初めて「舞踏会ごっこ」ではなく、真実の踊りを体験したのだ。それは誰にも否定できないわたしの宝物。彼が残してくれた最後の温もり。


 もしかしたら、二度とあの庭園に立つことは許されないかもしれない。けれど、ルカが教えてくれたように、花はひとつの場所に縛られなくとも咲き誇るものだ。わたし自身も、いつかこの公爵家から飛び立ち、違う世界で花を咲かせることができるかもしれない。そこには、ルカがいるかもしれないし、いないかもしれない。それでも、わたしは彼と過ごした時間を胸に抱き続けるだろう。


「……ありがとう、ルカ」


 声に出してみると、枯れたはずの涙がまた(あふ)れ出す。わたしは破れたドレスを胸に抱きしめ、嗚咽(おえつ)を漏らす。誰かが外からドアをノックしても、気にすることはなかった。父や母の叱責も、今は遠い世界のようだ。わたしの中で、夢は決して終わってはいない。この手の中で息づく花のドレスが、その証なのだから。


 あの日、夕暮れの庭園で確かにわたしは踊った。彼の腕に支えられて、一歩、また一歩と、痛みさえ愛しく思えるほどの幸せを感じた。それはわたしにとって、生まれて初めての「本物の舞踏会」だった。輝くシャンデリアも、大勢の拍手もない。けれど、あのとき庭にあった花の香り、オレンジ色の光、そしてルカの温かな手のひら……それらすべてが、わたしの永遠の宝物。


 もう、声をあげて泣くことも、誰かに笑われることも怖くない。きっといつか、わたしはこの部屋を出て、もう一度庭に足を運ぶだろう。そこで花を育て、再びドレスを仕立てる。もし、そのときルカがわたしを見つけてくれたなら――今度は笑顔で、胸を張って踊りたい。そして、「公爵家の恥」ではなく、わたし自身として生きていると、世界に伝えたい。


 わたしの想いが、彼のもとにいつか届くことを願いながら、破れたドレスの裾をゆっくりと撫でた。まるで花びらを(いつく)しむように、そっと、そっと。夕暮れの庭で踊ったあの記憶は、わたしの人生にとって何よりも尊い、一瞬の輝きだったのだ。


 その日は、けれどわたしの部屋には夜のとばりが降りても灯りはなく、ただ静かに時が過ぎていく。わたしは闇の中で涙をこぼしながら、ルカの残してくれた布をぎゅっと握りしめた。その温もりを、心の奥底に焼き付けるように――わたしは何度も「ありがとう」とつぶやく。彼に届かなくてもいい。わたしは決してこの思いを忘れないから。いつかまた花を咲かせる、絶対に。


 ――そう信じるからこそ、わたしはこの涙を流せるのだ。かつて誰もが笑い、見向きもしなかったわたしの小さな夢を、ただ一人、本気で叶えてくれた人がいた。その事実こそが、わたしの明日を照らす光になる。花はいつか枯れても、また芽吹くように。わたしもまた、いつか笑顔で立ち上がってみせる。破れたドレスのかけらを縫い合わせながら、必ず。


 ドレスに添えられた花の刺繍は、今もわたしに語りかける――「あの日の夕暮れを、忘れないで」。それこそが、わたしの命の輝き。その思い出はきっと、どんな高価な宝石よりも(まばゆ)い光を放ち、わたしの未来を支えてくれるだろう。わたしは痛む脚をそっとさすりながら、深く息を吸い込んだ。悲しみの先にあるほんの小さな希望を、胸いっぱいに感じながら。


 そう、涙を拭いて顔を上げれば、きっとまた、あの夕暮れの庭園のやわらかな風を思い出せる。ルカの言葉を思い出せる。わたしがこの先どんなにみじめに見えても、その一瞬は確かに輝いていた。わたしはもう逃げない。花のドレスを着て踊るわたしこそが、本当のわたしだから。


 そして、遠い未来――まだ見ぬ場所で、もしもルカと再会できたなら。わたしはあのときのように手を差し伸べる。今度こそ、思いきり笑ってみせたい。そのときには、彼が刺繍で描いた花のように、誇り高く咲き誇っていたいのだ。例え脚が動かなくても、例え貴族の身分を捨てることになろうとも、わたしはわたしの舞踏会を胸の中に持ち続ける。枯れることのない花のように、永遠に。


(完)

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