兄
「……んぁ」
ゆっくりと目蓋を開く。
いまだ朧ろげな視界には、梁が垂直に何本も交差した天井が映っていた。
後頭部には綿のような柔らかい感触がある。それは枕だろう。カミルはベッドに横たわっていた。そして甘さとスパイシーさを兼ね備えた、覚えがある薬草の香りを嗅いだことから、自分がどこで寝ているかを察する。
ここは、救済士協会レオノーレ支部の医務室だ。
カミルは小首を捻った。
記憶が混濁している。どうしてレオノーレ支部の医務室で眠りこけていたのか。カミルが身体を起こすと、隣から聞き慣れた声が飛んできた。
「おー、目ぇ覚ましたか」
そこには本を片手で開き、木椅子に腰かけるロスヴィータがいた。瞬間、記憶が秩序を取り戻す。
カミルはロスヴィータから依頼を任され、フィーネという少女がいる部屋に侵入させられたのだ。挙げ句、不審者の疑惑をかけられる。それから逃走を試みるが、目論見は失敗。木に飛び移ろうとするが、枝を掴み損ね、頭を地面に強打してしまった。
カミルはロスヴィータに回収してもらったようである。医務室に運んでくれたのも彼女だろう。軽傷ではすまない怪我を負ったはずだが、身体に痛む場所はない。ロスヴィータが聖術で傷を癒やしてくれたからか。
だとしても、感謝する気にはなれなかった。なぜなら、怪我する原因を作った張本人がロスヴィータだからである。
「ロスヴィータぁ……?」
カミルは空気を焦がすような怒気を放つ。
「わーったわーった。悪かったって」
ロスヴィータは肩を竦めた。さすがに罪悪感を覚えているらしい。
「まー、そうカリカリするなよ。あたしの胸でも揉むか? 五揉みくらいなら許してやるからさ」
胸を強調するように、ロスヴィータは背中を反らした。カミルは、その豊満なふたつの丘に視線を釘付けにされる。
ロスヴィータは姉のような存在だ。一糸まとわぬ姿を目撃したことは数えきれない。
だが、意識するなというのは難儀な話だった。ロスヴィータは美人なだけではなく、女性らしい凹凸がある扇情的な体型を有している。完全に姉として認識するには、五年という同居期間は短すぎた。
照れると同時に、怒る気は失せる。カミルは溜息を洩らしながら、口を動かした。
「それより、どういうことなんだよ。フィーネって子と友達になれってのは」
「それはだな、あー」
「なんだよ、まだ隠すつもりか?」
「いーや、違うって。さすがにそこまで意地悪はしないさ」
「だったら……」
「そろそろ来る時間な気がするんだよな。どーせ経緯を話すんだったら、《《アイツ》》も一緒のほうが都合がいいかなと思ってさ」
「アイツ?」
カミルが疑問符を浮かべた直後だった。廊下から声が響く。
「──ロス、ここかい?」
「おー、噂をすればだな。コル、こっちだぞー」
ロスヴィータが促すように言うと、扉がおもむろに開く。まばゆい金髪を持つ男性が姿を現した。
縁のない眼鏡をかけ、胸に白い花を飾ったコートジャケットを羽織った男性だった。パンツも脚がすっきり見える細身のもので、人と会うことを意識したフォーマルな服装である。
その男性はすでに疲弊したような表情を浮かべていた。
「話を聞いたときは耳を疑ったよ。首都から帰ってきたばかりでヘトヘトなのに、どうして君はこう……」
「善は急げってやつだよ。どっちにしろ切り込むなら早いほうがいいだろ?」
「本当に善かどうかは議論の余地があると思うけどね……」
ロスヴィータは涼しい顔で、男性は悄然とした様子で会話を交わす。会話からは二人の親密さが滲み出ていた。カミルが置いてけぼり感を味わっていると、男性が申し訳なさそうな顔を作る。
「あぁ、すまないカミルくん。挨拶がまだだったね」
男性はカミルを知っているようだった。彼は咳払いを挟み、告げる。
「僕はコルネリウス・ラングハイム。レオノーレで商人をやっている人間だよ」
「ラングハイム……」
その名前には聞き覚えがあった。
レオノーレには、毛織物の流通を牛耳る大規模な組織がある。
それが〈ラングハイム商会〉だ。コルネリウスは、ラングハイム商会の長を務める人間の名前だったはず。ラングハイム商会がゲルデ公国に広く影響力を持っていることもあり、コルネリウスは市政を担う参事会のメンバーに選出されているとも聞いていた。
カミルが持っていた、彼に関する知識はそれだけではない。
聞くところによると、ロスヴィータもかつては孤児だったようだ。そのロスヴィータを拾ったのが、ハルトムート・ラングハイム──コルネリウスの父親だったらしい。二人は同じ屋敷で幼少時代を一緒に過ごしたはず。ならば、お互いを〝ロス〟や〝コル〟と呼び合う間柄であることにも納得がいった。
そんなコルネリウスが、なぜここにやってきたのか。
カミルがきょとんとしていると、コルネリウスはロスヴィータに呆れたような視線を向けた。
「ロス、もしかして経緯も説明せずにカミルくんを巻き込んだのかい?」
「その方が話が早いと思ってなー」
「本当にキミは小さい頃から変わらないな……」
コルネリウスは溜息を吐いてから、木椅子に腰掛けた。そのまま、カミルに目線を向ける。
「大変な目に遭わせてすまなかったね。僕も寝耳に水なところがあるんだけど……ちゃんと経緯は説明するよ」
「はい、ありがとうございます……」
「さて、どこから話そうか。逆にロスヴィータからはどこまで聞いてるかな?」
「フィーネって子と友達になってほしいって話だけ……」
「あぁ、本当にほとんど聞かされてなかったんだね。しかも、歪な形でしか……」
コルネリウスは辟易するように、額を押さえていた。
「うん、そうだね……ざっくり説明するなら概要はこうかな。僕とロスはとある少女を気に掛けていた。その少女のため、カミルくんが力を貸してくれると嬉しかった。その少女の名がフィーネ。フィーネ・ラングハイムだよ」
「ラングハイムってことは……」
頭に推測が浮かぶ。
「そう、フィーネは僕の妹だ」
推測と事実は一致していた。
「なら、なぜ僕がフィーネを気に掛けているのか。妹だから気に掛けるのは当然なんだけど、だったら僕たちがどのように気に掛けているか。それを知ってもらうために……そうだな、フィーネがどんな毎日を過ごしているかって話を聞いてもらうことにしよう」
遠くを見るような目になりながら、コルネリウスは続けた。
「フィーネは朝八時くらいに目を覚ましてる。朝食を食べ、身だしなみを整え、正午までは僕の仕事の手伝いをしてもらっている。ラングハイム商会の出納記録を一部まとめてもらってるんだ。昼食後は読書だね。フィーネは僕に似て本の虫だから。夕方までは本を読み耽って、そこからは夕食だ。夕食後は簡単に入浴を済まして就寝だね。フィーネはこんな毎日を送っているよ」
「えっと……」
フィーネの日常を急に語った意図は読めないが、問題はなさそうに思える。だが、より俯瞰的に捉えることで湧く違和感があった。
「これは、毎日ですか?」