紅薔薇
「あー、ったく……」
オイゲンと解散し、カミルは帰路に就いている。
チョロチョロと水が流れる音が響く、小川沿いの道を歩いていた。
「オイゲンの野郎……」
カミルは背中を丸めながら、愚痴をこぼす。
オイゲンの熟女趣味には困ったものだった。普段は落ち着いた好青年なのに、どうして熟女の話になると人格が変わってしまうのか。顔と根の性格が良いだけに、残念な気持ちが抑えられなかった。
苦い顔になる。だが最後、その顔は笑みで綻んだ。
「ははっ」
カミルは星が瞬く夜空を見上げ、過去に思いを馳せていく。
二、三年前まではそうだったか。実は、カミルには他者に対して恐怖を抱いている時期があった。悪意や敵意を向けられているような強迫観念がある時期があったのだ。
その時期は人とは距離を置き、友達も必要とはしなかった。
なぜ、そんな感情を抱いていたかは見当もつかない。きっかけとなるような体験をした記憶もなかった──いや、きっかけとなるような体験をしていても、記憶を遡れないと言ったほうが正確か。
カミルは部分的に記憶を失っていた。
五年前である。レオノーレから離れた山麓で土砂災害が起きたそうだ。その現場で積み重なった土砂から発見された少年がいた。それが、カミルだったそうだ。
カミルは頭を強打していたせいで、記憶喪失となっていた。
親や兄弟など、知人だと名乗り出てくる者は一人もいなかったらしい。というところで、過去を手繰る糸は何一つ残されていなかった。だから、なぜ他者に恐怖を抱いていたかは見当もつかなかったのだ。
そして、この恐怖にカミルは長く苦しめられることになった。
だが、そんなカミルへ強引に近づこうとする男が現れたことで状況は変わる。
その男こそが、オイゲンだった。
もちろん、最初は警戒した。だが、会話を交わしていくうちに一緒に過ごす時間に安らぎを覚えるようになる。最後にはオイゲンとは他愛もない話で騒げる関係にまでなれた。恐怖も強迫観念も和らいでいった。オイゲンがいなければ、カミルはもっと色褪せた人生を送っていたことだろう。
「……」
冷気を含んだ夜風に心地よさを覚える。
悪くない気分だった。だからか、無意識に懐へ手が伸びる。カミルは均等な間隔で孔が開いた角のようなものを取り出した。
それは〝ゲムスホルン〟という笛だった。
ゲムスホルンとは、数年前にレオノーレの雑貨屋で出会った。安値で叩き売られていたので、つい購入してしまったのである。すぐ飽きてしまうだろうと考えていたが、意外にも傾倒してしまった。
ゲムスホルンに口を寄せ、息を吹き込む。牧歌的な音色が響いた。控えめながらも芯のある音色が心を癒す。
静かな場所でゲムスホルンを吹くこと、オイゲンと馬鹿話で騒ぐこと──この二つが、カミルが何よりも大好きな時間だった。
ゲムスホルンを吹き鳴らしているうちに、カミルは自宅に辿り着く。
ユリアに因縁をつけられて萎えた心も、レオノーレを駆け回って疲弊した身体も、すっかり元通りになっていた。
カミルは頬を緩ませながら、自宅の扉を開く。
その瞬間のことだった。激しいアルコール臭が鼻を刺す。
「ぶぐっ⁉」
カミルは溺れたような声を洩らしてしまった。
「おーカミル、邪魔してるぞー」
たわんだような声が聞こえてくる。
部屋の奥に視線を向けた。そこには、左眼を隠すようにローズレッドの前髪を下ろす女性が、酒瓶を掲げながらソファに腰掛けていたのだった。
ロスヴィータ・シュナーベル。
レオノーレ支部で救済士を務めている者の一人だった。
年齢は二十代半ば。肩を露出させたブラウスを身に着け、ショートパンツをブラウスの裾から覗かせている。大きめの黒コートを緩めに羽織り、なんとも情欲を誘うような装いだった。シャープな目つきの美人であり、その手の趣味の人間にはたまらない顔の造形だろう。だが彼女をよく知る人間からすれば、そんな魅力はないにも等しい。
「んだよー、遅かったじゃん。あたしのこと放っとおいてどこで油売ってたんだ?」
「いや、家に来るだなんて一言も──って臭っ⁉」
さらに濃縮されたアルコールの香りが鼻を刺した。カミルはへろへろとした足取りで距離を取り、ロスヴィータに鋭い視線を浴びせる。
ロスヴィータは酒癖が悪かった。普段から無遠慮な気質を持つ人間ではあったが、酒はその無遠慮を加速させる。ひどい時は一人では手に負えないほどだった。
だが、人は見かけによらないとはこのことか。
救済士は経歴や実績によって、下位から順に〈水星級〉〈金星級〉〈火星級〉〈木星級〉〈土星級〉〈天王星級〉〈海王星級〉〈冥王星級〉という八階級に分類される。あくまで傾向の話だろうが、与えられた等級が高いほど、その救済士が有する戦闘力も高いとされていた。
その最も高位である冥王星級にいる救済士の一人が、ロスヴィータだ。
冥王星級救済士は異名が与えられることも多く、ロスヴィータはその髪色から〈紅薔薇〉という名をつけられていた。偉大な功績も数々残している。ゲルデ公国最強だと謳う人間も少なくない。それがこんな酒乱だなんて信じられるだろうか。
「おい、飲んだくれ……とりあえず酒瓶置け、それと水飲め水……」
「あーん? なんだ恩人に向かってその口の利き方は」
ヘッドロックをお見舞いされ、頭にぐりぐりと拳を突き当てられる。
カミルは怯むように全身を硬直させた。どうにも恩人という言葉を口にされると弱い。
五年前、孤児になったカミルはとある人間に引き取られる。
それがロスヴィータだった。彼女はカミルを自宅に置いてくれ、姉のような存在として面倒を見てくれ、救済士という仕事も紹介してくれる。酒癖の悪さには辟易しながらも、それらに関しては感謝していた。
去年、カミルはロスヴィータの自宅を出たわけだが、ロスヴィータは酒飲みの話し相手に飢えているらしい。だからか、このように酒瓶を携えながら自宅に突撃してくることはしばしばあった。
カミルは拘束を逃れる。それから鎧戸を開放し、換気を行った。
「あーもう、俺はレオノーレを走り回って疲れてんだ。酒飲み相手なら今度なってやるから今日は帰れ……」
外に追い出そうとすると、ロスヴィータは年甲斐もなく頬を膨らませる。
「いいじゃねーかケチ。カミルのために面白い話たくさん持ってきたのによー」
「面白い話……?」
カミルは眉根を寄せた。
この前振りをされたことはしばしばある。だが、その話が面白かった試しは一度もなかった。そもそも、自分からハードルを上げるのはやめてほしい。期待することなく、カミルは耳を傾ける。
「んー例えばな。あ、そうそう! パーゼマン夫妻が育ててるアイリスに花が咲いたらしいんだよ。アイリスってすげー綺麗な紫色の花つけるらしいんだよなー」
「……」
「あーあと、太っちょで有名なマルコががダイエットに成功したそうだぞ。驚異の十五キロ減だそうだ! いやーもうあれは別人だな」
「……」
案の定だ。面白い話とやらは主婦の立ち話の域を出なかった。だが、ロスヴィータはカミルの退屈には気づいていないようだ。
「あーあとなー」
お喋りは止まらない。仕方がないので、カミルは話を右から左に聞き流そうとした。そんななか、その事実は告げられる。
「お前、救済士協会解雇になったそうだぞ」