無能な青年
「ぐぎぎぎぎぎぎぎ……」
腹から絞り出すような声が響く。
レオノーレ。それは二重環状の城壁に囲まれ、城壁内には褪せたオレンジ色の屋根を持つ家屋が所狭しと並ぶ、ラニウス大陸南東に位置するゲルデ公国の都市である。
そんな都市の中央通り沿い。羽毛のように白い石畳で作られた教会の尖塔を、よじ登ろうとする者がいた。
カミル・レーヴェニッヒ。襟を立てたシャツの上に臍丈のベストを羽織り、無造作な印象を受ける黒髪を持つ青年である。
「じ、じっとしてろよ……あとすこしで助けてやるから……」
カミルは腕を伸ばしていた。尖塔の先端近くには、輪で取り囲んだような装飾が施されてある。いま、そこには一匹の動物が佇んでいた。
「にゃあ」
ふいに鳴き声が響く。
そう、佇んでいたのは雉の羽の色に似た虎模様の猫だった。どうやら、降りられなくなってしまったらしい。
「なんで、お前こんなところまで登っちゃったんだよ……」
文句を言いながらも、カミルは猫に腕を伸ばし続けた。あと指の関節二つ分、あと指の関節一つ分、と距離を縮めていき、ついに猫の毛に指が触れる。
その直後だった。カミルは間抜けな声を洩らす。
「んなっ⁉」
猫が唐突に身体を翻し、尖塔を駆け下りていったのだ。
「いや、お前自分で降りられるのかよ⁉ ──って、あれ?」
真下を眺めながら叫ぶやいなや、カミルはきょとんとした顔を作る。身体が傾くような感覚を味わったのだ。全身が強烈な重力で引っ張られる。
「やばっ……」
どうやら、声を張った拍子に足を滑らせてしまったらしい。石畳が敷き詰められた地面へ、カミルは真っ逆さまに落ちていった。
打撲で済むような高さではない。骨折だけなら幸運。運が悪ければ、死が待っているだろう。
カミルはしがみつく場所を探すため、必死に手を泳がせた。だが態勢が悪く、手は虚しくも空を切るだけ。そうこうしている間に、石畳は目前にまで迫っていた。
地面との衝突は避けられない。
「────っ」
カミルはすっと細い息を吞んだ。
そのとき、視界の隅に純白の光を捉える。それから金糸雀色の靄が身体に絡みつき、落下速度が緩まっていった。勢いは削ぎきれないものの、地面との衝突は尻餅をつく程度で済む。
カミルは目を瞬かせ、呟いた。
「聖、術……?」
世界に漂う正の感情を用いて発動させる超常的なチカラ──それが〈聖術〉である。
かつて、世界には神から人間の統治を命令された〈イリス〉という聖人がいたらしい。聖術は人間の統治に役立てるため、神がイリスだけに与えたチカラだったそうだ。
だが、イリスは死に際に世界の理を変える。ただの人間も正の感情に触れられるようにしたのだ。これにより、人間も聖術が扱えるようになったらしい。
聖術は行使される際、純白の光を発散させる。だから、察することができた。カミルは聖術によって救助されたのだろう。だが、聖術を使ったのは誰なのか。
不思議に思っていたとき、背後で足音が響く。助けてくれた者だろうか。
「あー、すいません。どなたかは知らないけど助かり──」
カミルは笑みを作り、礼を述べようとする。
だが、その者の顔を見た瞬間、礼を中断してしまった。
「──塔から落ちた人を助けてみれば、アンタだったわけ?」
目の前から軽蔑を孕んだような声が飛んでくる。
そこに立っていたのは、黄金色の髪を二つ結いにした少女──ユリア・ゲッフェルトだった。
肌に張りつくようなミニ丈のワンピースを身に着け、衣服と一体になったマントを風に靡かせている。身体のラインを強調するような衣服に目を引かれるが、一番目を引くのは日光を反射させて輝く胸元のバッジだった。
正方形のそれには、女性が光を抱き締めたような姿が描かれている。
そのバッジは、彼女が〈救済士〉であることの証明となっていた。
救済士とは、国家あるいは都市機能を保全し、管轄内で起きたトラブルを解決することを職分とする者を指す。具体的には、犯罪者の取り締まりなどが当てはまる〝治安維持〟と、盗賊の討伐などが当てはまる〝外敵排除〟──この二つが仕事だった。
基本的に、救済士は聖術を用いることで任務に当たる。一般市民は生活の快適性を向上させられる低位聖術しか使用が認められていなかったが、救済士は中位または高位の聖術も使用が許されるようになっていたのだ。
そして、カミルもそんな救済士の一人だった。ユリアは、救済士協会レオノーレ支部の扉を一緒に叩いた同期である。
だが、カミルは救済士だと胸を張って言えない理由があった。
「同期として恥ずかしいんだけど。聖術が使えないのはいいわよ。けど、私の仕事を増やしてるのはどういうつもり?」
ユリアは、苛立った雰囲気を漂わせる。
そう、カミルは聖術を扱えないのだ。
基本、聖術の適性が皆無ということはありえないらしい。誰しも、何かしらの聖術が扱えるそうだ。だが、カミルは聖術の〝せ〟の字も習得することができなかった。
聖術が使えないこと自体が問題というわけではない。それはむしろ、問題の原因と言うべきか。
救済士の職務は、聖術が使えないとまるで話にならないのだ。罪人を捕えることはおろか、盗賊を討つことなどできるはずがない。実際、カミルは求められた成果をまったく出せていなかった。
それでも、四年ほど救済士を続けられてはいる。それはなぜか。
ひとことで言うなら、救済士協会レオノーレ支部の温情だった。無慈悲に追い出すのは可哀想だからと同情を受けたのだ。
だが、盗賊や邪教徒と戦うような任務は託せない。だから、カミルは市民のお悩みレベルの問題を解決する救済士として活動していた。猫の救出も『逃げた猫を探してくれ』と市民から依頼があったからだ。
カミルは物憂さを覚えながら、改めて礼を述べる。
「あー、悪かったって。助けてくれてありがとな」
「アンタね……私が欲しいのは感謝なんかじゃないんだけど」
ユリアは素直に礼を受け取ることなく、溜息を洩らした。
「感謝なんて当たり前でしょ。欲しいのは、そうね……約束かしら。二度と醜態を晒さないように日頃から注意して生きますっていう約束が欲しいの」
「お前な……」
カミルは顔を引きつらせた。
「そこまで責めなくてもよくないか……? 教会の塔から落ちたのも事故なんだし……」
「そうなの、事故だから仕方ないわね──なんて話になると思う? 事故が起きるなら事故が起こらないように普段から注意を張り巡らせなさいって話よ」
「いや、俺も注意してるつもりで……」
「だから、その注意が足りないって言ってるんじゃない。そもそも、自覚も足りないのよ。アンタは救済士なの。アンタが失態を犯せば、救済士の名誉が傷つくことになるの。いい加減、それを理解しなさいよ」
ユリアは不機嫌そうに腕を組んだ。
「…………」
カミルは顔に面倒さを滲ませる。
ユリアと顔を合わせると、いつもこうだった。カミルはユリアから嫌われている。因縁をつけられることは日常茶飯事だ。
だが、それも仕方ないのかもしれない、と思う。
ユリアは、救済士という誉れ高い職業に就いたことに誇りを持っているようだった。
だが、カミルに救済士の誇りなどない。一年間努力しても聖術が使えなかった時点で、誇りなど彼方に消え去ってしまった。
おそらく、そこが嫌われている原因だろう。
「返す言葉はないわけ? ふんっ──」
ユリアは突き放すように捨て台詞を吐く。一方、カミルは黙り込む。最後はいつも、このように事態が収まることがほとんどだった。
カミルは溜息をつく。ユリアと会話を交わしていた時間は数分にも満たない。だが、日の出から日の入りまで肉体労働をしていたような疲労感が押し寄せてきた。
「──ま、でも」
カミルは背筋を正す。
ユリアが落下を阻止してくれなければ、大怪我をしていた。命の危険があったかもしれない。そこには素直に感謝を述べるべきだろう。
「結果、プラマイゼロってことで」
カミルは自分に言い聞かせるように呟く。
そうして、任務を再開しようとした。飼い猫は尖塔から降りていった。ならば、あとは飼い猫を捕まえ、依頼をくれた市民の元に送り届ければ任務達成だ。
首を回し、飼い猫を探した──が、しばらくして固まる。
口角をぴくぴくと動かしながら、カミルは震える声でこう呟いたのだった。
「────────────────おい、あの猫どこいった?」