切実な想い
積み重なった本を脇にのけ、カミルはグレータを救う。
ふらふらと立ち上がってから、グレータは深々と頭を下げた。
「た、大変申し訳ございませんでした!」
「いや、俺も驚かせて……」
「レーヴェニッヒ様がお謝りになることではないんですっ! 出し抜けにお声がけした私に非がございますので。お詫びのしようもございません……」
グレータは沈んだ表情を見せる。後ろめたさを覚えているようだった。
だが、カミルは特に迷惑を被ったわけではない。だから咎めるなどはせず、その後ろめたさを拭うように言った。
「お詫びなんていらないよ。俺はただ驚いただけだし。それに、大変な目に遭ったのはグレータだろ? 本の山に押し潰されたんだ。怪我はなかったか?」
「レーヴェニッヒ様……」
グレータは顔を赤く染め、とろけるような眼差しを向けてきた。
「や、優しいな、やっぱり──」
その小声は耳に届かず、カミルは訊き返す。
「え?」
「い、いえなんでもございません! 運良く、怪我はありませんでした! ご心配ありがとうございます!」
グレータは取り繕うようにして告げた。
何か隠されたか。気になる。だが、いまはより気になっていることを先に尋ねようとした。
「それより、声をかけてきたってことは俺に用があったんだよな? 夕食の時間にはまだ早い気がするけど」
「えっと、はい。用があるにはあって、それはお伺いしたいことがあったからなのですが……人違いだったら恥ずかしいなとも思い……」
「人違い?」
「えっと、その、レーヴェニッヒ様、こんな記憶に心当たりはございませんか?」
胸の前で拳を握り、グレータは続ける。
「夕方、私がおつかいで頼まれた食材を買い終え、帰路に就いていたときのことでした。盛り出た石畳に気づかず、私は往来の真ん中で盛大に躓いてしまったんです。荷物はすべてひっくり返し、通行人から不憫な眼差しを向けられて……でもそんなときに、レーヴェニッヒ様に似た男性が荷物を拾うのを手伝ってくださったんですっ!」
「荷物を拾うのを、手伝って……」
記憶を辿る。夕陽が差す時間。メイドの装いをした女の子。道端にひっくり返された食材。与えられた情報から光景を想像し、検索をかけた。すると、思い出せる。
「あ、そういえば……」
二年前だろうか。確かに、カミルは道端であたふたしているメイド服の少女を助けた記憶がある。あれはグレータだったのか。
「や、やっぱりっ……レーヴェニッヒ様があのときの男性だったんですねっ!」
グレータが顔を綻ばせる。
カミルはそこで理解した。カミルが助けてくれた男性かどうかを見極めようとしていたから、グレータは応接間で強烈な視線を浴びせてきたのか。
上目遣いに変わって、グレータは言った。
「私、助けてくれた方に、レーヴェニッヒ様にずっと恩返しがしたかったんです。だから、よろしければ……レーヴェニッヒ様が取り組まれていることのお手伝いをさせていただけないでしょうか?」
「あれ、グレータもしかして……」
「はい。出張に向かわれる直前のコルネリウス様から伺いました。レーヴェニッヒ様がフィーネ様に歩み寄ろうとしていることを」
コルネリウスはグレータにも話を共有していたのか。それには驚かされる。
だが、恩返しという話はいささか大袈裟に思えた。
「グレータは真面目なんだな。そんなに律儀に考えなくてもいいって。俺はただちょちょっと拾うのを手伝っただけだし」
「いえ、お世話になった方に御恩をお返しするのは当然です! それに──」
その溌剌な雰囲気がふいに薄まる。
「私もフィーネ様には、もっといっぱい笑ってほしいから」
グレータは儚げな笑顔を浮かべた。
「フィーネ様を一番近くで見てきたのは私です。けれど、そんな私でも、フィーネ様が笑ったお姿は一度も見たことがないんです。食事も、コルネリウス様がする仕事のお手伝いも、読書も、すべて顔色一つ変えずにされておられます」
その光景は想像に難くない。
「フィーネ様のお気持ちをすべて察することはできません。寂しい毎日だと決めつけることもできません。けど、それが普通だとは思えないから。私はフィーネ様の笑顔を見てみたいんです。私も歳は近いですが、メイドという立場では限界がありました。だから、レーヴェニッヒ様に想いを託させていただきたい。勝手ながら、そう思っているのです」
「グレータ……」
カミルは切実な想いを感じ取りながら、グレータを見つめる。
逸るような気持ちがあった。その想いにはすこしでも応えたいと思ったのだ。また、この提案はいまのカミルにとって、これ以上なくありがたい申し出だった。
「そうか。なら、お言葉に甘えてグレータに相談に乗ってもらおうかな」
「はい! 全力でお力添えをさせていただきますっ!」
「ありがとう。じゃあ──」
カミルは現状を説明していった。会話のきっかけに読書という話題を使えないかと考え、書斎に訪れていたことを告げる。
すると、グレータは難色を示した。
「そうですね。申し訳ありませんが、あまりオススメできる方法とは……」
「うーん、やっぱそうか……」
「フィーネ様は、いわゆる本の虫です。この書斎にある本はほとんど読み尽くしていると思います。ここにある『ガーデニア姫物語』なんかはもしかしたら百回以上読んでるかもしれません」
「書斎の本ほとんど……? ひゃ、ひゃく……?」
「レーヴェニッヒ様が普段から本を読まれないなら、知識の浅さを見抜かれて失望なんて展開になる危険性もあるかと……」
「そ、そうだよな……」
やはり、読書をきっかけにする方法は断念すべきなようだ。カミルは肩を落とす。
だが、落胆していても状況は好転しない。カミルは頭を真っ白な状態に戻し、すべてをゼロから考え直そうとした。
そのとき、フィーネに抱いていた疑問がふと蘇ってくる。グレータなら、何か知っているかもしれない。
「フィーネは寂しい思いをしている……でも、他者に壁を作っている……こんなちぐはぐなことになってるのはどうしてなんだろう? 何か理由がある気がするんだけど、グレータは知ってるか?」
カミルは何気なく問いかけた。すると、グレータは視線を泳がせる。
「え……」
「あれ、もしかして訊いちゃいけないこと訊いちゃったか……?」
「い、いえ、そういうわけでは……!」
グレータは首をぶんぶんと左右に振った。
「その、私も数年前からお勤めを始めた身で、その件に関しては存じておらず……」
「そうだったか、なら……」
カミルは唸る。
「会話すらまともにできてないからな。きっかけに読書が使えそうだっただけで、フィーネが興味を示してくれるなら読書みたいな趣味じゃなくても」
「あ、それなら──」
何か気付いたように、グレータは瞳を開いた。
「レーヴェニッヒ様は、〝ダリオル〟というお菓子をご存知ですか? 卵と牛乳でつくったクリームを入れて窯で焼いたタルトです。おそらく、フィーネ様はダリオルがお好きで……」
「お、本当か?」
「はい、ご本人から直接聞いたわけではないのですが……ただお部屋に差し入れると、ダリオルだけは必ず残さず召し上がって、差し入れた翌日に残りを訊かれたことも……」
グレータがくれた情報に、カミルは顔を明るくした。
間違いない。それは好物に対する行動だろう。ダリオルをきっかけにフィーネを引き留めることができるかもしれない。悪意や敵意がないことも示せそうだ。試す価値はある。
「グレータ。ダリオルの作り方は分かるか? 手作りをしてみたいんだ」
「はい! 存じておりますよ。ダリオル作りはお屋敷の厨房でよろしいでしょうか? 厨房は私からシェフにお借りできるよう頼んでおきますね!」
「あぁ、ありがとう!」
やはり、フィーネを間近で見てきた者のアドバイスは助かる。
カミルは軽く頷いてから、グレータとともに早い足取りで厨房へ向かっていった。