邪人
フィーネとふたたび顔を合わせてから、一週間が経つ。
「ぬあああぁ……」
ひんやりした空気が充満する書斎で、カミルは一人うなだれていた。
うなだれていたのは、まったく成果が伴っていなかったからだ。
この一週間、カミルは必死にフィーネと心の距離を縮めようとした。だが、結果は惨敗。『いま取りこんでますので』『それはグレータにお伝えいただけると』などと捨て台詞を吐かれ、まったく心の距離を縮めることができなかった。
さすがに疲労感が募っている。
だが、まだ一週間だ。諦めるほど心は折れていなかった。だから新たな作戦を練ろうとして、その際にコルネリウスから聞いた話をふと思い出す。
フィーネは読書が好きらしい。というところで、カミルは本をきっかけに仲良くなる作戦を立てた。そして、本の知識を仕入れるべく書斎へ訪れていたのだった。
いま手に取っていたのは、聖人イリスを讃える〈イリス教〉の聖書だ。
聖書の冒頭『創世譚』には、イリスと邪人という存在が争った〈聖邪大戦〉についての記述がある。
神が人間を統治するように命令した女が、聖人イリスだった。
イリスは統治者としての責務を果たそうとする。だが統治者として民を導くうちに、イリスは自分の欠陥に悩み出したらしい。イリスは人間的すぎた。度々湧き出る負の感情が統治者にあるまじき葛藤を抱かせたそうだ。
そこで完璧な統治者となるべく、イリスは負の感情八つを切り離した。
切り離した負の感情は人の形を取るようになる。それは〈邪人〉と呼ばれた。
邪人は己の出自を呪った。生まれながらに悪として迫害されたからだ。そんな邪人たちはイリスと敵対するようになり、これは戦争に発展する。それが、聖邪大戦と呼ばれるものだった。
イリスが聖術を扱えた一方、邪人は世界に蔓延る負の感情を用いて引き起こす〈邪術〉を扱えた。両者の衝突は、地形を変えてしまうほどに苛烈だったらしい。
イリスと邪人は、しばらく拮抗した戦いを見せる。だが、憎悪の感情を司るゲオルグがイリス側に寝返った。これで両者の均衡は崩れる。そして聖邪大戦はイリス側の勝利に終わり、邪人は世界を呪いながら死んでいったそうだ。
「これ、胡散臭い話だよなぁ……」
カミルは苦笑混じりに言う。
地形を変えるほどの戦いなんて本当にくり広げられたのか。だが、人間は実際にイリスが扱っていた聖術の恩恵を受けている。ならば、伝承にある壮絶な戦いも嘘ではないのかもしれない。
「てか、読書が好きってこういう本のことじゃないよな……」
カミルは聖書を閉じる。本棚にそれを戻し、ふたたび書斎を見回っていった。そうして、部屋の隅へ雑多に積み上げられた羊皮紙の束を発見する。
「あれ、これ……」
それは、コルネリウスが出席する参事会会議の議事録集だった。
埃を被っているので古そうではあるが、末端救済士のカミルには目を通すことなどできない代物であることには違いない。
レオノーレの知られざる情報を得られるかもしれない。憚る気持ちはありつつも、最後は誘惑に負けてしまった。カミルは議事録を手に取ってしまう。
しかし、目を通したのちに落胆した。
議事録に書かれていた内容は『首都クレンゲルが主導する国家法の改正』『両替商のレート高騰に対する是正策』などお堅いものばかりだったからだ。
眩暈がしそうになる。カミルが興味を持てるものはなさそうに思えた。
だがその矢先、とある内容について書かれた議事録に目を引かれる。
「〈叛逆の徒〉……」
その単語には覚えがあった。
邪人は聖邪大戦で敗北を喫し、命を落とす。だが、イリス側についた憎悪のゲオルグだけは世を去らず、生を全うすることを許された。伴侶を作り、子さえもなしたそうだ。そんなゲオルグの血を受け継ぐ者たちが蜂起し、組織したのが叛逆の徒だった。
叛逆の徒は世界を白紙に戻すことを目的に掲げ、邪術によって村や街の破壊行為をくり返していた。虐殺された人間は数え切れないほどいるらしい。
そんな叛逆の徒を壊滅に導いたのが、ロスヴィータだったそうだ。ローズレッドの前髪に隠された左眼には、義眼が嵌められている。左眼は彼らとの戦闘で失ったらしい。
カミルは議事録を読み進める。
議事録には、付属の資料が糸でくくりつけられていた。資料には、叛逆の徒の組織構成、構成員情報、活動推定地域、活動年表などが記載されている。その構成員情報を一読した直後、カミルは驚愕から目を開いたのだった。
「最も強い戦闘力を有しているのは、十歳前後の子ども……?」
俄には信じられない話だった。だが類稀なる邪術の才能をもって生まれれば、ありえない話ではないのか。十歳の子どもが血と臓物に溢れた戦場に赴き、無慈悲に人間の命を奪っていく──想像するだけでも身震いする。
「でも……」
なぜか不思議と、もう一つ湧く感情があった。
十歳の子どもでも、大量殺戮者である事実に変わりはない。許しを与えていい相手ではないだろう。
だが、十歳の子どもが本当に自分の意思で虐殺をくり返していたと言うのか。もし十歳の子どもが叛逆の徒の人間に強制され、非道に手を染めていたのだとしたら、そこには同情する余地がある気がした。
「いやいや、なんで俺はこんな気持ちになってるんだよ。ただの犯罪集団だろ……」
カミルは苦笑しながら言う。
そうして、羊皮紙の束を元の場所へ戻そうとした瞬間だった。
背後から声をかけられる。
「あ、あの」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ⁉」
カミルは驚愕から、書斎に反響するような声を上げてしまった。すると、真似するかのように背後に立っていた者も大声を上げる。
「きゃ、きゃああああああああああああああああああああああああっ⁉」
次の瞬間、ゴツーンッ! という鈍い音が響き渡り、大量の本がバサバサと落ちた。
カミルは怖々と振り返る。
すると、書籍の山に埋れながらひっくり返っている、メイド服を着た女性がいた。体勢的にスカートがまくられ、黒のガーターベルトが沈んだ肉感的な太ももが露わになっている。すこし屈めばショーツさえも視界に捉えられそうだったが、そこは自制が働いた。
翼のように広がった本が覆い被さり、顔は視認できない。
太ももを直視しないように位置を移動し、カミルは顔を隠す本を取る。そして露わになった顔を見つめながら、訝しげにこう尋ねたのだった。
「えっと、グレータ?」