空回り
そして、翌日。
カミルは、ロスヴィータから無理やり侵入させられた邸宅──もといコルネリウスが所有する屋敷に足を運んでいた。
通されたのは、応接間である。
栗皮色を基調としたカーペットが敷かれ、壁際を中心に年季を匂わせるオーク素材の調度品が並べられていた。天井には、発光する貴石を複数の腕木で支えた照明が据え付けられている。その貴石には、輝きを放つ聖術が施されているのだろう。
カミルは上質なソファに腰かけながら、フィーネの訪れを待っていた。
そんななか、脇からソーサーに乗せられた紅茶のカップが差し出される。
灰茶色の髪を持つ少女が顔を覗かせてきた。
その少女が身に付けていたのは、いわゆるメイド服だ。鎖骨が見えるほどに首元が開かれ、膝丈の黒いワンピースを着用している。上からフリルがあしらわれたエプロンドレスを重ね、シロツメクサの花冠のようなヘッドギアをつけていた。歳はカミルと同等ほどか。
「よ、ようこそお越しくださいました! こちらロミルダ地方で採れた茶葉で淹れた紅茶でございます!」
多少ぎこちないが、溌剌な挨拶だった。外向き用かもしれないが、笑顔も気持ちがいい。
「あ、ありがとうございます。えっと……」
「グ、グレータと申します! 敬語は不要です。気軽にグレータと呼び捨てにしてくださいませ!」
「あ、君が──」
コルネリウスの話に登場した、フィーネの専属女中を務める者とは彼女のことだったようだ。
「そっか、ならお言葉に甘えさせてもらおうかな。グレータと呼ばせてもらうよ」
「はいっ!」
グレータが可愛らしく首を傾ける。
カミルは差し出された紅茶を啜ろうとした。だが、カップの縁が唇に触れる直前に手を止める。グレータから向けられた、強烈な視線を感じたからだ。
「えっと、あの……?」
カミルは訝しげな視線を送り返す。
「はっ……た、ただいまフィーネ様をお呼びしますね!」
グレータは慌てたように一礼してから、応接間を後にした。
カミルは呆気に取られる。
自分は物珍しい客だったのだろうか。コルネリウスの仕事仲間や取引相手は壮年の人間がほとんどだろうから、若い訪問客は稀だったのかもしれない。
「ま、なんでもいいか。今は……」
カミルは気を引き締め、コルネリウスの屋敷に訪れたわけの再確認を始めた。
まず、フィーネのことが知りたい。フィーネのことを知るには、彼女からの自己開示が必要だった。自己開示を促すためには、心の壁を壊さなければならない。フィーネが守る、心の領域に踏み入る必要があった。
だが、道のりは険しそうだ。
なぜなら、カミルは三つの問題を抱えていたからである。
第一に、カミルは窓から侵入してきた不審者だという誤解を受けている。印象は最悪だった。だが、これに関しては誠心誠意謝るしかないだろう。カミルは、敵が攻めてきたなどと突拍子もない嘘もついてしまっている。これ以上、不誠実な真似は避けるべきだ。
第二に、カミルとフィーネは接点が少なすぎる。フィーネは屋敷の外には出ないため、顔を合わせるには屋敷に邪魔するしかなかった。だが執拗な訪問をすれば、フィーネも顔をしかめてしまうだろう。不自然にならないよう頻度は抑えるしかない。
第三に、これが最も致命的だった。仲を深めることにおいて、カミルには大事な素養が欠けている。
しかし、ここまで来て尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。
もうやるしかないのだ。カミルは両頬を手で叩き、自分を叱咤激励した。
「そういえば……」
ふと疑問が湧く。
フィーネは他者に壁を作っているらしい。その一方で、他者との繋がりに飢えているともいう。
どうして、そんなちぐはぐな状態になっているのだろうか。きっかけになるような出来事が過去にあったのか。はたまた生まれつきの性質なのか。
疑問を覚えるなか、ふいに扉が、コンコン、と叩かれた。
「失礼します」
澄んだ声が響く。
扉の隙間から、絹糸のようになめらかな銀髪が顔を覗かせた。
人形のように小ぶりな顔、ミルクのようにきめ細かい肌、卵のようにくりんとした瞳──フィーネ・ラングハイムが姿を現す。
心臓が跳ねた。はじめて顔を見たわけでもないのに、その可憐さに声を失いかけてしまう。だが、すぐに我を取り戻した。
カミルはソファから立ち上がる。まず、することは決まっていた。
「あ、えっと、昨夜は悪かった……!」
まず、最悪な印象を回復させなければならない。そのために必要なことは謝罪だった。
恐怖はある。もし挽回が見込めないほどに評価が地に堕ちていたとしたら、その際は万事休すだからだ。友達になるなんて夢のまた夢である。
カミルは腰を曲げたまま、フィーネの出方を窺った。
やがて、フィーネは口を開く。
「頭を上げてください。お兄様から話は聞いております」
その声はさほど重くない。
「昨夜の件は事故だったようですね。悪質な悪戯に巻きこまれただけで、あなたには一切の非がないと。お兄様が嘘をつくとは思えませんから、私もこれ以上糾弾するつもりはありません。あなたがとっさに嘘をつかれたことも穏便に計らいましょう」
フィーネはさらさらと銀髪を揺らし、向かい側のソファに腰かけた。
カミルは呆気に取られる。
存外にも物腰柔らかな態度だ。土下座する覚悟までできていたが、コルネリウスが便宜を図ってくれたということか。だとすれば、ナイスフォロー、ナイス助け船である。
「こちらの話も聞きました。あなたは本当に救済士だったようですね。そして、お兄様から任務を依頼されていたことも伺いました。活発化する反体制組織から機密書類を守るために、屋敷に住み込みで警護を行うようにと」
「えっと……」
その話には身に覚えがなく、固まった。
カミルは解雇された身だ。依頼が来るような状況ではない。そもそも、機密書類保護なんて聖術が使える者に回される依頼だろう。カミルがいまだ在籍中だったとしても、引き受けられるものではなかった。
だが、遅れて事情を察する。またもや、コルネリウスが便宜を図ってくれたのではないか。カミルも接点が少なすぎる問題に不安を抱いていた。だから、自然に距離を縮められるような環境を整えてくれたのではないか。
「……何か間違いでもありましたか?」
「あ、いや! なんでもない!」
コルネリウスが便宜を図ってくれたなら便乗しない手はない。
「そうなんだ! 実は任務でさ!」
カミルは作り笑いで誤魔化し、話を認めた。
事は順調に進んでいる。
コルネリウスの便宜により、第一と第二の問題は難なく解決できた。あとはフィーネと距離を縮めることだけに集中すればいい。心が軽くなる。昂揚も溢れてきた。
だが、そんな昂揚も束の間だった。フィーネが瞳から光を消す。
「お忙しいなか、ご苦労様です。それでは、よろしくお願いします」
それは、ひどく他人行儀な口調だった。
「え……」
カミルは圧倒されたようにソファに深く座り直す。
漠然と理解した。これがコルネリウスが語っていた、心の壁か。他人を寄せつけない雰囲気が溢れんばかりに滲み出ていた。
フィーネは衣擦れの音さえなく立つ。そのまま踵を返し、部屋を後にしようとした。
カミルは焦燥感に襲われる。不審者だという誤解は解けた。フィーネとの接点を増やすこともできた。だが、仲良くなれたとは言いがたい。
「ま、待ってくれ!」
気付けば、カミルは衝動的に呼び止めていた。
だが、言葉に詰まる。何を言えばいい。どんな言葉を掛ければいい。
頭が真っ白に染まり、心臓の鼓動は急かすように早さを増していった。
無理もない。カミルが友達と呼べるのはオイゲンだけ。オイゲンだって、どう友達になったのかは記憶が曖昧だった。
カミルには友達の作り方が分からないのだ。
これこそ致命的な欠落。カミルが抱える第三の問題だった。
だが、呼び止めたなら沈黙は許されない。気が利いた、カミル・レーヴェニッヒという人間に興味を持ってもらえるような言葉を紡ぐ必要があった。
熱が出るほどに頭を回転させる。挙げ句、溢れたのはこんな言葉だった。
「きょ、今日着てるワンピース、か、可愛いな!」
時間が止まったような錯覚を味わう。
かつて、オイゲンからゲムスホルンの腕を褒められたことがあった。意味もなく告げた言葉だったかもしれないが、そのときはとても嬉しい気持ちに包まれたことを覚えている。だから有効だと考えて、この褒め言葉を贈った。だが、こんな結果をまさか招いてしまうとは。
理解に苦しむように、フィーネは眉を寄せる。カミルも頬を引きつらせた。
考えてみれば当然だ。褒め言葉を贈るにも、タイミングが意味不明すぎる。
「──そうですか、どうも」
フィーネは簡素な礼を告げ、応接間を後にした。もう一度呼び止める気はさすがに起きない。
応接間に取り残されたカミルは、一人ぽかんと口を開けていた。