焦燥と前進
シモンは焦ってはいなかったが、ヤンと同様に自分を責めていた。敵のことを舐めていたとは言わないが、甘く見ていた部分があったのは確かであった。ヤン・エッシャーの明哲さと実績に安心しきっていたのだ。相手は十年前の獣の群れ同然の哀れな吸血鬼共とは違うということわかっていなかった。
十名ほどの部下を伴い、急ぎ足でヤンが宿泊するのに使う部屋に向かった。全員、抜剣させている。
ガシャンッ!
「キャーッ!」
部屋までの最後の角を曲がった時に、窓の割れる音と、女性の悲鳴が聞こえてきた。サスキアの声である。
「なぜ、サスキアさんがっ!?」
シモンは乱暴にドアを開け、飛び込むように部屋に入った。
奇妙な光景だった。部屋にはサスキアと先ほどの侵入者がいる。シモンたちの向かう部屋に先回りしていたのだ。だが、その侵入者は耳を押さえてうずくまっていた。サスキアがきょとんとした表情でこちらを見ている。
一瞬、シモンもあっけに取られながら、すばやくサスキアと侵入者の間に回りこんだ。マウリッツの薬やカイパー博士の日記は彼女の背後にある。
「く・・・こ、小娘・・・」
侵入者が発した声は女性のものだった。それも驚くべきことではあったが、なぜこの女が倒れているのかがわからない。
「わ、私、エッシャー先生のお荷物を整理しようと思って・・・そしたら、窓を割ってこの人が入ってきたんです・・・思わず悲鳴を上げたら・・・」
シモンは理解した。不死鬼の戦闘力に圧倒され忘れていたのだ。たとえ不死鬼であっても吸血鬼の変種でしかない。道具を使えばその弱点を補えるが、想定していない攻撃には対応できないのだ。
「少々、不快なことをしますが、お許しください」
シモンは、自分の剣を窓に向けた。そして、そっと切っ先をガラスに触れさせ、軽く引っかくように動かした。
キーキキーッ!
寒気がするような不快な音を立てる。サスキアも部下の騎士たちも思わず耳を押さえて、肩をすくめた。だが、侵入者の反応はもっと極端だった。狂ったようにもがき苦しみだしたのだ。まさしく発狂寸前で、頭を抑えて、強烈な頭痛に耐えるような様子であった。
吸血鬼は視覚、聴覚、嗅覚が常人よりも遥かに優れている。暗闇でも不自由なく行動でき、隠れ潜んでいる人間を迷うことなく発見して餌食にすることができた。しかし、人間の視力や聴力がそこまで強くないことには実は意味があるのだ。人間の体の構造では、それ以上、それらの感覚が発達したとしても不都合なのであった。臭気結界だけではない。こうした甲高い音も人間にとっては不快なだけでも、彼らにとっては、神経に直接ダメージを与えることになる。部屋に飛び込んだ瞬間に、侵入者が倒れこんでいたのは、サスキアの甲高い悲鳴がやはりダメージになったのである。至近で聴いたのならなおさらであろう。
数名の騎士が剣を構えて侵入者に近づいた。その瞬間、女は弾かれるように立ち上がり、シモンの部下何名かを突き飛ばして、割れた窓から外に飛び出した。三階から飛び降り、庭を数回跳ねるように移動して、塀を一息に飛び越した。そのまま闇にまぎれて消える。
「サスキアさん。お手柄ですね。あなたは声一つで強力な不死鬼を撃退してしまった」
「え?」
「吸血鬼は甲高い大きな音を聴くのが耐え難い苦痛なのです」
「はあ・・・え、あの・・・それは存じておりますけど・・・」
「あなたのおかげで勇気がわいてきましたよ。どんな強力な不死鬼とでも戦えるとね」
「ええ、あの・・・勇気がわいてきたとおっしゃるのならいいんですけど・・・。」
シモンは深刻な気持ちから脱することができた。もちろん、サスキアは不死鬼に襲い掛かられ、恐怖から思わず悲鳴を上げたに過ぎないが、そんなことでも不死鬼に計算違いを起こさせたのだ。不死鬼が危険極まりない、理性を保った吸血鬼で、どす黒い悪意を持っていたとしても、猛獣の体に人間の頭が乗っているだけに過ぎない。人間同様に考えることができるだけなのだ。ミスもするし、計算違いもある。
「あの、ヤン・・・いえ、エッシャー先生は?まさか今の人に・・・」
ファーストネームで呼んでしまったのは、まだ若干動揺しているためであろう。心情的には、親しい幼馴染のままなのを、ケジメをつけて『先生』と呼んでいるだけなのだ。
「いえ、先生は・・・軽症を負われましたが大丈夫です。あ、それより急がないと!スタンジェ局長の家で捕らえた男が、今の女のせいで吸血鬼化しようとしています。エッシャー先生の指示で道具と薬を取りに来たのです」
「私も行きます」
「え?だめです!完全に吸血鬼化するようなことがあれば襲ってくるかもしれない!危険です!」
「危険というならここも危険です。さっきの人がまた戻ってこない保障はありますか?私はマウリッツ様のお屋敷に参る前は、義姉が営む診療所で看護婦をしておりました。伝染性吸血病であろうと患者の治療をするのであれば、それをお手伝いすることはできます」
シモンは少し考えたが何せ時間がない。何より、彼女の言うことはもっともで、ある意味では一緒に来ることが一番安全と言える。とりあえず、承諾して部下たちに荷物を持たせ、急いで地下牢に向かうことにした。
「本部庁舎内にいる者は大広間に集合するよう通達を出しました。まもなく全員がそろうはずです」
「現在本部にいる者だけでなく、近隣にいて集まれる者はすべて集めてください。もう一つ、念のため完全武装している者も全員兜を取って顔を出させてください。見知らぬ顔の者がいたらすぐに声を上げさせるのです。他にも庁舎内に潜んでいる者がいない保障はありません。さあっ、早く!」
「はっ、承知しました」
ヤンの迫力に僅かに怯みを覚えながら、カレルはもう一度地下牢の外に向かって走り出した。まるで戦場にいるときのウィレムである。腹違いとは言え血筋というものだろうか。
「道具と薬を持ってきました!」
「すぐ回りに並べてください。それから熱湯を沸かして!急いで!手遅れになる!」
いつもとはまったく違う雰囲気のヤンにシモンもあっけにとられた。それは部下たちも同様で、彼らはすくみあがってしまった。だが、そうはならない者が一人だけいる。
「私は道具を消毒します!シモンさんは先生に白衣を着せてください。他の方はベッドを部屋の中央に運んで、患者をそこに寝かせましょう。大丈夫。この方にはまだ精神異常の兆候は出てはいません。血液を大量に失う吸血からの感染でないなら、症状が出るのに時間が掛かるはずです。暴れたりはしないでしょうから、慎重にお願いします」
テキパキと騎士たちを仕切り始める。サスキアは伝染性吸血病患者を見るのは初めてだが、文献ではいくらでも読んだことがあった。マウリッツの講義も受けており、並みの医者よりもずっと詳しいのだ。
「サスキア!何故ここに!いや、シモンさん!なぜ連れて来たのです!」
「貴方の部屋を片付けておられたのです。私が部屋に入ったときには、さっきの不死鬼が薬を狙って襲撃してきました。なんとか撃退できましたが」
「それはいいですが、なんでここまでサスキアを!危険じゃないかっ!」
誰もがこの物腰の柔らかい男が、これほどの剣幕でものを言うとは思っていなかった。シモンでさえ言葉に詰まる。が、いきり立つヤンの口に後ろから不意にマスクをつけさせた者がいる。サスキアであった。
「私が自分でここに来たのです。あなたのお手伝いをさせてもらうために。お話ししてませんでしたが、私の義姉カリス・クリステルはアメルダムで診療所を営んでおります。マウリッツ様のお屋敷に入る前は私もそこで看護婦として手伝っていたのです。何より私はマウリッツ様にエッシャー先生、あなたを頼むと言われています。少しでもお役に立てることがあるなら、いやと言われてもさせていただきますわ」
つい先ほどまで、怒気をみなぎらせていたヤンも、シモンや他の騎士たち同様に、ぽかんと口開けて呆けてしまった。サスキアは手術用に消毒された手袋を、突っ立って動かないヤンに手際よくつけさせ、白衣に腕を通させながら、シモンたちには聞こえない小さな声で耳元にささやく。
「ヤン、自分を責めるのも八つ当たりもおやめなさい。誰にだって失敗はあるし、まだやるべきことがあるのよ。患者を目の前にしたら、助けることだけを考えるのが本当の医師じゃなかったの?私はそういうあなたを手伝うために、ずっとこの日を待っていたのよ」
まるで子供をあやす母親のように、やさしい、しかし力のある声であった。
一つの記憶がある。病で母親を失ったヤンはその時から医師を志していた。往診に来た医者は臨終を間近にした母を診察しながら、ヤンに向かって治療代の話をはじめたのである。母親はすでに手遅れではあったが、最善を尽くしたとも言いがたかった。その話を、孤児院で一緒になったサスキアだけには何度か話したことがある。いつも、この話をした後、サスキアは無神経な医師の態度については何も言わず、ヤンが医師になるなら自分は看護婦になって手伝うと言い、うれしそうに笑顔を浮かべていたのだ。母親を診た医師への恨みではく、あるべき医師の姿を目指して前向きに生きることができたのは、サスキアのその笑顔のおかげであったかもしれない。
蘇って来た記憶によって、ヤンの中の焦りと苛立ちがどこかに消えていった。
「シモンさん。患者をベッドに載せて部屋の中央に運んでください。それから君は明かりをもっと持ってきて患者を照らすように。そっちの君は氷を持ってくるように。あとは、若くて健康な三人を選んで、このビーカー一杯分の血液をいただきます。採血は・・・できるかい?」
最後の一言は、背伸びをしてヤンの額の傷を処置しているサスキアに向けてのものだった。
「はい。瀉血針の扱いは大丈夫です。そこの方と、あなたは少し顔色が悪いでの無理ですね。そちらのお二方にお願いします」
シモンと部下たちも動き始めた。この状況にあって気丈なサスキアの態度と、ヤンの落ち着いた指示よって、騎士たちも落ち着きを取り戻した。
「・・・せ、先生・・・俺は・・・獣になるのか?吸血鬼に・・・」
「自然発生的な不死鬼は感染の時点で、常人には耐えられないほどの苦痛を感じる。君はそこまで苦しんでいない。進行が遅いだけで、通常の吸血鬼なる時の経過だ」
聞き取りづらい声で話すロビーにヤンは答えた。
「だが、まだ諦めるのは早い。さっき君が盗もうとした薬がある。理性も思考も失わせたりはしない」
「そうか・・・せめて頭の中だけは人間でいられるってことか・・・」
「カイパー博士が残してくれた研究成果もある。人間の血を吸わなくても、必要なエネルギーを補給できる。私が研究した筋力増大を抑える薬もあるから、血の飢えもそうそう頻繁には来ない。他の症状も抑える方法を必ず見つけてみせる。諦めるな!」
「・・・先生・・・あ、あんた・・・すげぇな・・・」
「悪いが麻酔している暇がない。痛覚は鈍り始めているとは思うが、まだ痛むかもしれない。我慢してくれよ」
「ああ・・・い、痛いのぐらいは・・・我慢す、するさ・・・」
ヤンはまず注射器を使って、ロビーの首筋から体内にマウリッツの薬を注入した。呼吸が安定し始め、声帯を制御しきれず聞き取りづらかったロビーの声が元に戻り始める。次に両腕と両足にヤンがケテル村から持ってきた薬を注射した。吸血鬼の筋力増大を抑え、エネルギーの際限ない消費を止める効果がある。そうしておいてから、以前の手術で縫合された痕のの近くをメスで切り開いた。
ヤンの額に浮かんだ汗をサスキアがハンカチでぬぐう。
ヤンは切り開いたところから、ピンセットを突っ込んで、豚の腸のような素材で作られた小さな袋を取り出した。一部が破けて中のものが漏れている。腹腔内を塩水で洗浄して残っていた液体を洗い流し、折れてずれたアバラをつなぎ直してから、傷を縫合、石膏を使ったギブスでわき腹を覆った。包帯を巻いたところで手術は終わる。
「まだ血の飢えは来てないと思うがこれを飲んでくれ。エネルギーが補給されて、数日は新たに摂取する必要はなくなるはずだ。その間にカイパー博士の処方から、君の食事になる薬物を用意しておくから」
ヤンは若い騎士三名から採決した血の入ったビーカーをサスキアに渡した。慎重にロビーの口に血液を流し込む。今や不死鬼となってしまった盗賊の目に涙がこぼれた。
「過剰なエネルギー摂取のせいで、眠くなるはずだ。ここで寝ていてほしい。地下から出れば、臭気結界で苦しむことになる」
「わかった。とりあえず、眠らせてもらう・・・。普通に目覚めることはできるかな・・」
「諦めるな!きっと直してみせる!」
「・・・あんた・・・いい医者だな・・・」
ヤンの付けている血のついた手袋を取るのを手伝いながら、サスキアがうなずいてみせた。
だが、ヤンの仕事は終わりではない。これから集まっている騎士たちに説明しなければいけないことがある。監視のために四名の騎士を残し、他の者は集合場所に向かった。その途中の廊下で、サスキアと並んで歩きながら、他の者には聞こえない声で話しかける。
「サスキア・・・さっきはすまない。いや、ありがとう。君のおかげだ・・・」
「ヤン、何でも一人で抱え込んではだめ。カイパー先生も、マウリッツ様も必ずあなたの力になるために、どこかで闘っていらっしゃるに違いないわ。お二人のいない間は、できることは少ないけど、私があなたの力になります。嫌がっても、絶対ついていくんだから」
「いや、君はすごいよ。その・・・これからもよろしく・・・」
サスキアが十数年前の少女のころと同じ笑顔を見せた。
声を低めていても、背後の声に集中していたシモンには会話の内容がわかった。最後の一言のところだけ、一瞬噴出しそうになる。もうちょっと気の利いたことは言えないものか。しかし、この不死鬼との戦いにおいて、サスキアが果たす役割は実に大きいのではないかと思われた。要であるヤン・エッシャーの精神的負担を和らげることができるのは、この女性の存在だけだろうと思われたし、深刻になりがちな護国騎士団員にとっても心の支えとなるであろう。
「すでに聞いていることと思うが、この護国騎士団本部に不死鬼の工作員が現れた。一名、先に捕らえていた敵の工作員がその者の手によって吸血化させられたが、エッシャー先生の処置により、理性を保ち、吸血への渇望も抑えることに成功している。これから不死鬼対策を先生から説明してもらうからよく聞くように!」
カレルが緊張した口調で訓示した。手術から戻ったヤンの様子が変わっていることを不思議に思ったが、シモンに耳打ちされて納得する。サスキアと言う女性の強さに感心した様子であった。
「まず、全員通常装備の剣以外に、対吸血鬼用に用意されたラッパを持ち歩くことを義務付ける。今回は臭気結界を破られたが、音による攻撃で撃退できた。これにもいずれ対策を練ってくることだろうが、今はまだ有効なはずだ」
全員、引き締まった顔で背筋を伸ばして聞いている。医者の指示で動くなどというのは、本来不名誉に思う者も多いはずだが、ヤンの声はまるで将軍たるウィレムの声に等しく聞こえた。ヤンがウィレムの実弟であることを知らない者も、優れた資質を持つ指揮官としてヤンのことを認めたのである。
広間に集まっているのは、護国騎士団第三部隊の千名に加え、本部付で本来ウィレムの直轄である騎士団長親衛隊千名、それに保安兵団から出向してきている千名の兵士で合計三千を数える。当直以外の者もすぐ近くの独身寮か、近所の既婚者向け官舎に住んでいる者が多いので、ほぼ全員を集めることができた。元々緊急配備で、多くの者が宿直していたのだ。広間には入りきらないので庁舎前の広い屋外練兵場に集結している。
「これから、今晩のうちにファン・ダルファー邸、旧ファン・レオニー邸、公国中央医局庁舎の三箇所を制圧する。一時間後までに編成を終え、朝までには三箇所を完全に掌握せよ!」
どよめきが起こった。法的根拠があまりにも薄い暴挙である。無人で持ち主のいない旧ファン・レオニー邸はともかくとして、筆頭侯爵家たるファン・ダルファーの邸宅や公国政府直轄機関の一つである中央医局に乗り込もうというのは、あまりにも大胆すぎる話であった。
「エッシャー先生、それは無理というものです!許可が取れません!」
カレルが必死の説得を始めた。ウィレムの責任が問われ、部隊長クラスまで全員の辞表が必要になってもおかしくない話である。
「カレルさん。受身になっていては相手に対抗できません。これまでは相手を待ち受ける形でしたが、有利に事を運ぶためには、こちら側が状況をリードする必要があります。躊躇している暇はありません。ファン・ダルファー候は反乱に加担している可能性が高くなりました。有力者の支援なくして、護国騎士団本部に潜入するなどという大胆な工作は不可能でしょう。本部庁舎の見取り図も手に入れてなければ、地下牢のありかだってわかりません。ファン・ダルファー侯こそがその後援者の最有力候補になります。中央医局にもここ同様、工作員が潜入している可能性があります。マウリッツが姿を消した理由もおそらくそれでしょう。マウリッツの立場では密偵が誰かを調査している間に暗殺や拉致をされる可能性を考えて逃げることしかできませんでしたが、護国騎士団の実戦力があれば十分それが可能です」
カレルは沈黙するしかなかった。言っている事は筋が通っているが、あまりにもことが大きすぎる。
「もう一点、お願いがあります」
ヤンはカレル以外の者には聞こえないように耳打ちをした。さらにカレルは驚愕する。
「護国騎士団を解散させるおつもりですか!?」
あまりのことに声を荒げてしまった。
「責任は私と・・・ファン・バステン家ですべて負います。兄は私にアメルダムにおける全権を委託しました。この決断も是とするはずです。それに、明日の朝には、国公陛下の前に私自身が説明にあがります。事は急を要するのです。事後承諾で動くしかありません」
先ほどとは違った迫力を持ってヤンはカレルを説得した。抗しがたい強い意志がそこには篭められていた。
「・・・わかりました。仰せのとおりにしましょう。部隊の編成はお任せください。各隊の指揮官はどうしますか?」
「旧ファン・レオニー邸はカレルさんにお願いします。ファン・ダルファー邸はシモンさん。中央医局は私が行きます。それから、本部庁舎には地下のロビー・マルダー氏を守る数名以外一人も残さないでください。あの地下であれば、内側から鍵を掛け、扉を徹底的にふさげば、不死鬼と言えども簡単に進入することはできません。庁舎全体はがら空きになりますから、守りようがありませんので、サスキアも連れて行きます」
「さ、サスキアさんも?」
「一緒に行くのが一番安全です。戦闘になる可能性が一番低い中央医局の制圧部隊に同行してもらいます。マウリッツの薬やカイパー博士の日記などの資料もすべて持っていきます」
驚くべき作戦であった。全戦力を敵方の三つの拠点に差し向け、本城をがら空きにして見せるのである。護国騎士団本部に工作員を潜入させた理由は、騎士団に混乱を起こすことと、ロビーを吸血鬼化させることで口をふさぐ事、そして、カイパー一門の伝染性吸血病研究の成果を盗むことにあった。ロビーの件をのぞけばすべて失敗に終わっている。そのロビーも、薬のお陰で不死鬼となれたから、口止めにはならなかった。護国騎士団はそう簡単に崩れないことを理解しただろうが、研究資料の奪取は諦めていないかもしれない。だが、それすら残っていない本部には用はないはずであった。何より自分たちの本拠地を制圧されては、本部に潜入したところで何にもならない。
「静まれ!責任はファン・バステン家が取る!私の本名はヤン・ファン・バステン。ウィレム・ファン・バステン将軍の実弟である。兄は私にアメルダムにおける指揮権を委託した!私の言葉をウィレムの言葉と思って聞け!」
ウィレムは相当型破りな人物であり、彼の突飛な行動には皆慣れている。ヤンの発言はまさしくウィレムと同じ迫力を持ったものであり、この異常な命令を実行する抵抗感が薄まっていくことを感じ始めた。
「よく言った!ヤン、成長したじゃないの!」
「義姉上!」
「お姉さま!」
ヤンとサスキアが同時に驚きの声を上げた。
突然、練武上に響き渡った女の声に対してである。本部敷地の門の前に、数名の騎士と共に二人の女性が立っていた。一人は法務官の制服を着た、大柄で気品を漂わせる美女で、ウィレムの妻、ヤンの義姉にあたるシルヴィア・ファン・バステン。もう一人は、ヤンは初対面だが、マウリッツの婚約者でサスキアの義姉であるカリス・クリステルである。カリスはブロンドの髪を後ろで一つにまとめ、女医が白衣の下に着る男装に近い動きやすい服装をしていた。こちらも長身で知性の高さが伺える、シルヴィアとは幾分違うタイプの美女である。
よく通る声で叫んだのはシルヴィアの方だった。騎士たちの大部分はこの騎士団長夫人のことをよく知っている。彼らにとって、彼女はウィレム本人と同様の存在であった。
「みんな!ヤンをウィレムと同じに考えなさい!型破りなことでも、必ずいい結果に結びつける人です!仮に何かあっても、ファン・バステン家が所領や爵位、財産も返上してでも責任を取ります!」
騎士団長夫人の言葉に、練武場にいる全員が奮い立ち、誰の号令もなしに敬礼をした。これで話は決まりである。
「義姉上、何故ここに?」
「何故って、そこのシモン君から使いが来たのよ。状況がこうなれば、あなたたち、不死鬼との戦いの中心にいる者は本人だけで出なく身内にも危険が迫る可能性がある。一箇所に集まっていた方が警護にも都合もいいからってね。無骨に見えてなかなか気がつくじゃない」
ヤンに向かって、シモンが片目をつむってみせた。これで体制は整った。ヤンが考えていた以上に理想的な形でである。