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不死騎  作者: 槙原勇一郎
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侵入者

「さて、状況を整理しましょう」


 話を仕切り始めたのは一足先にアメルダムに戻っていたカレル・パレルケレンネである。現在、アメルダムにいる護国騎士隊の幹部では最高位で、本部での責任者となっている。

 ヤンとシモンはアメルダムについた足で護国騎士隊本部に訪れ、すぐにカイパー博士とマウリッツの居館の調査に向かい、戻ってきたばかりだだった。ウィレムの悪名高い方針で、夜半に行われる会議はワインを片手に行われることが通例となっていた。この時もそのしきたりに従っている。良い考えを出すには酒が必要と言うのが持論であった。


「まず、フリップ側国境周辺三州の状況ですが・・・」

「第一第二部隊がザーンを中心に展開し、主要な街道を監視しております。今日の正午までには配置は完了しているかと思われます。ファン・バステン将軍が自ら指揮を執られておりますので、心配はないかと」


カレルの言葉にシモンが答えた。


「次に、伝書鳩を使い各州の主要都市に臭気結界を張るように通達しております。周辺地域の町や村も含め、保安兵団の指示で実施に移されているはずです」

「ただ、フィリップ側国境周辺については、気休めにしかならないかもしれませんね」


口を挟んだのはヤンである。


「どういうことでしょうか?」


カレルが聞き返した。


「敵側の戦力は今や吸血鬼や不死鬼だけではないかもしれません。もちろん、警戒を強めているわけですから、夜盗と変わらないような武装集団が村を襲ったところで成功はしないでしょうが、吸血鬼との組み合わせで襲撃すれば話が変わります。人間の工作部隊が事前に臭気結界を無効にする、たとえば家々に火を放つとか、奇襲をかけて香炉を破壊してしまうとかした後で吸血鬼部隊に襲撃されれば防ぐ手立てはありません」

「では、どうすればよいと思われますか?」

「防御策を講じることは必要ですが、それだけでは駄目だということです。敵がそうした手段で村を襲い、力を蓄える前にこちらから仕掛け、状況をこちらの主導で作ることが必要です」

「ふむ。それには現状をよく把握する必要がありますな。まず、わかっていることをもう少し整理してから、対抗手段を検討するとしましょう」


グラスのワインを回し、ランプの光を反射する様を楽しみながら、カレルが言った。老練の上、頑固で生真面目と言われる初老の騎士も、どうやら若年の上司に人格的影響を受けてしまっているらしい。昔からのお堅い名門出の騎士であれば目くじらを立てそうな風景であるが、現在の護国騎士団にとっては当たり前のものであった。


「カイパー博士の居館での調査では、博士の消息はつかめませんでした。エッシャー先生によれば、何者かに連れ去れた可能性が高いとのことです」

「いえ、あの時はそう考えましたが、今はそう思っていません。博士が自分の意思で姿を消した可能性が高くなりました。ほぼ間違いないでしょう」


シモンの言葉をヤンが否定した。シモンは今回は驚かなかった。ヤンとはまだ丸一日しか付き合っていないが、この男の頭の回転の速さにはずいぶん慣れてきたようだ。前言を撤回することにもまったく躊躇がない。その時点で得られた情報から推測できることを口にしているだけなのだ。


「これは、博士の部屋に置いてあった彼の日記です。普段は肌身離さず持ち歩いていたものですので、これを置いていったのなら、自分の意思ではないと考えていたのですが・・・」

「何か見つけたのですか?」

「十三日前、日記が書かれている最後のページの・・・ここです。」


ヤンが開いて指し示したのは、日記の最後の一文字の後に打たれたピリオドである。


「よく見ると、ここだ他の文字と色が違うのがわかると思います。他は黒ですが、このピリオドだけよく見ると紫です」


そう言いながら、ヤンは懐に手を突っ込み、手のひらサイズの小さな丸いビンと、傷の治療などに使う医療用の綿を取り出した。


「これはこの、ピリオドに使われている液体と同じものです。これを綿に付けて・・・最後の次のページを軽く湿らせると・・・。」


ヤンが話しながらそのとおりにすると、何も書かれていないページが薄い紫色に染まる。紫色の中に他の部分よりも若干赤みが強く濃い部分が現れ、それが次第に文字になっていった。


「透明の液体であっても、ある薬品と混ぜることで、発色することがあります。これはそれを利用したトリックですね。つまり、博士は私が部屋に来ることを予想して置手紙をしていったのです。やはり文字は博士が考案した速記文字ですので、私が読み上げましょう」


そう言って、ワインで口を湿らせてから読み始めた。


「我が愛弟子ヤン・エッシャーへ。研究はすでに完成した。その成果をここに示す。任務に役立てるように。これも良い修行だと思いなさい・・・この後は、吸血鬼が必要とする血の量と、牛血から人血に代わるものを生成する方法が記されています」

「では、攫われたわけではないのですね」


シモンもワインを口に運びながら言う。


「はい。それどころか、どうやら私に宿題を出してどこかに行ってしまったようですね。マウリッツといい私に苦労を押し付けるのが大好きな人ですから・・・」

「まあ、エッシャー先生に苦労していただくことに関しては異論はありませんがね」


ニヤリとしながらカレル。ヤンはいつもの嫌な顔をしてみせた。


「で、医局長のお屋敷はいかがでしたか?」


一瞬、シモンがクスリと笑いかけた。普段は生真面目で謹直な若者なのだが、アルコールの力と思い出されたエピソードの滑稽さから忍び笑いがもれてしまったようだ。


「マウリッツも自分から姿を消していました。これは彼のメイドの証言と置手紙から明らかです。そして、やはり私に宿題を残していきました。こちらはちゃんと答えも用意されていましたが。吸血鬼を不死鬼に変えるための薬品の処方と、薬品そのものが置き土産です。また、それを奪うために現れた敵方の間抜けな密偵が最大の収穫ですね」

「最大の・・・ですかね?」


人の悪い笑みを浮かべて、シモンが言う。不謹慎とは程遠い男なので、カレルはやや驚いているが、酒をたしなみながらの打ち合わせなので、口うるさいことは言わない。


「最大の、です。他に何かありましたか?」


ヤンはシモンの笑みの意味をわかっていない。何かをわかっていないと言うこと自体が珍しい男なので、こういうやり取りにシモンは味を締めてしまったようだ。



トントンッ!



「どうぞ」


ノックに答えたのはカレルである。


「失礼いたします。ワインのお代わりと、おつまみをお持ちしました」


盆に追加のワインとチーズや干し肉を乗せて入ってきたのはサスキアであった。


「いやあ、サスキアさん。そんなことをさせてしまって申し訳ありません」


口元のいやらしい笑みを残したまま、シモンが愛想良く言う。これもきわめて珍しい。およそ社交性というものに掛け、パーティなどに連れて行くと、むっつりとした態度で年長の上司をハラハラさせるタイプの男なのだ。同年代のヤンと関わることで、人当たりが良くなったのならカレルには喜ばしいことであった。


「お気になさらないでくださいませ。マウリッツ様からエッシャー先生のお世話を言いつかってますし、騎士団本部は殿方ばかりですもの。お世話になる以上はこれぐらいのことはさせていただきませんと。あ、宿直の方の制服もお洗濯させていただきましたし、明日にはお部屋の掃除もしたいのですけれど。立ち入ってはいけないところもあるでしょうから、教えていただけませんか?」

「ああ、それでは、明日の朝食後にでも手の空いているものに案内させます」

「ありがとうございます。お二方も今日はこちらにお泊りですか?朝食も用意させていただきますので。嫌いなものがございましたらおっしゃってください」

「これはこれは大変気の利いたお嬢さんですな。良い嫁さんになることでしょう。何分、男所帯で食事などいつも店屋物を買い出しにいかせていたので、大変うれしいことです」


『嫁さん』のところで、シモンはニヤリとわらい、ヤンは危うくワインを吐き出しかけた。会釈をしてサスキアが部屋を出た後、カレルがぽつりと言う。


「なるほど。最大の収穫は別にあったみたいですな」


ヤンは咳払いをしてから、話を元に戻した。


「博士は吸血鬼に必要な、言うなれば糧食の量と製造方法、マウリッツは吸血鬼を人為的に不死鬼とするための処方と薬品を残していきました。これによって、吸血鬼を使う不逞の輩に対抗せよということでしょう。二人が今はどこにいるかはわかりませんが、まさか、私にすべてを押し付けて逃げているだけと言うことはないかと思います。考えがあって、何か敵を手玉に取るための行動をとっていることでしょうね」

「まあ、エッシャー先生を手玉に取る余裕もおありなわけですからね。スタンジェ局長には」


ヤンは茶化してばかりのシモンをジロリと見てから話を続けた。


「マウリッツの屋敷で捕らえた男ですが、敵の一味とは言え下っ端。と言うよりも、金を掴ませて、こちら側の小手調べに使われただけでしょう。それでも、多少は手がかりになる情報を引き出せるかもしれません」

「そうですね。まあ、拷問に掛ける必要もなさそうです。なにやらすっかり降参している様子でしたから。エッシャー先生が何かされたのですかな?」

「お近づきの印に奢ってやっただけですよ。遠慮されてしまいましたがね。それで気を良くしたようで」


シモンは先ほどとは幾分違った笑みを浮かべた。


「さて、寝る前にその男の顔を見ておきましょうか。まずは敵の目的を確認する必要があります」




ヤン、カレル、シモンの三人が地下牢に現れたとき、スタンジェ邸に忍び込んだ男は食事を終えたところだった。護国騎士団本部の地下牢は滅多に使われることはない。国家転覆を狙う反逆者など早々現れるものではないし、外国の間者などもそうだ。せいぜい、隊内で問題を起こした者への懲罰に使われるぐらいである。そのため、囚人用の食事も臨時で用意したので、近所の市場から買ってきた店屋物である。囚人の食事としてはずいぶんまともであるし、ヤンたちの夕食に出たサシキアの料理に比べればずいぶんみすぼらしい。牢の前で見張りをしていた騎士に食器を下げさせて、ヤンが話しかける。


「ふむ。俺のご馳走は断ったのにな・・・」


ヤンの言葉にシモンがクツクツとわらう。男はそっぽを向いて何もしゃべらない。


「が、そろそろ正直に話す気になったんじゃないか?ここは保安兵団ではない。護国騎士団だ。身柄を拘束した者に対する処置は超法規的に行うことができる。とりあえず、言いたくなければいいが、不便なんで名前を聞いておこうか。偽名でもこの際かまわんよ」

「ロビー・マルダー」

「ロビー・・・亡霊(ファントム)・ロビー?」

「そう呼ばれることもある」

「カレルさん。ご存知なんですか?」

「ええ。保安兵団がやっきになって追っている盗賊ですよ」

「ほう・・・」


ヤンが感心したように言う。サスキアが一人でいただけとは言え、マウリッツの屋敷におそらく数度にわたって侵入してきたのは中々の腕である。マウリッツは医術以外にカラクリの趣味があるから、玄関から案内を請わずに入ろうと思えば、さまざまな防犯装置の相手をせねばならない。名うての盗賊と言うのなら納得がいく。


「変わった男でしてね。大貴族や、文武の高官、高位の聖職者の屋敷ばかりを狙うんですよ。それもいくらでも盗むものはあるのに、せいぜい宝石を一つか二つだけ。なのにわざわざ置手紙を置いていくわけですな。警備の不備をわざわざ教えるような」

「ふん!身分が高いくせにトンマな警備兵を配置しただけで、万全とかタカをくくっているお偉いさんを見ると、ついつい忠告してやりたくなるのさ!」

「わざわざ痕跡は残すが、警備の隙をどうしてか完全に把握できているようで、一度も発見されたことがないんですよ。おそらく、置手紙がなければ、盗まれたことにも気付かないでしょうな。痕跡はいくらでもあるのに姿が見えないというので、保安兵をずいぶんと悩ましているそうです」

「それで、亡霊か・・・。で、亡霊が吸血鬼の手先になったわけだ。マウリッツの家はトンマな警備兵はいないが、いろいろと仕掛けがあって、侵入するのは大変だったろう?」

「手先になったわけじゃねぇ。今回だけの臨時雇いさ」

「では、なぜ、今回に限って他人の命令で動き、ポリシーを捨てて、マウリッツの家に忍び込んだ?警備に不備のある屋敷に入り込むのがお前の趣味だろう?」


ロビーは突然服をめくって腹を見せた。わき腹に縫合された傷跡がある。


「ちゃんとした医者が縫合したあとだな。素人ではこう綺麗にはいかない」

「原因はこれだ」

「説明してもらおうか」


ロビーは椅子に足を組んでリラックスした姿勢になってから話し始めた。腹をくくった様だ。


「一月ほど前のことだ。俺はこの街のはずれにあるファン・ダルファー家の屋敷に忍び込んだ」

「ファン・ダルファー候の邸宅に?公国筆頭侯爵家にか!」


驚いたのはカレルである。テオ・ファン・ダルファーは十年前の戦争時に公国政府の首班たる国務卿の地位にあった人物である。伝染性吸血病の大流行に対し、なんら有効な手立てを打てず、ヨアヒム・カイパーが宮廷に解決策を持ち込むまで何もできなかったことから、その責任を取って退いた人物である。だが、今でも公国随一の資産と権力を持つ最大の貴族であることには変わりない。


「ふんっ!何度も入ったことがあるが、警備はちっとも改善されてないぜ。あんまりにもみっともないんで、俺が置手紙を置いても内密にしているんだろうな。他にもいくらでもいるぜ。大貴族だろうと政府の高官だろうと将軍だろうと、間抜けなやつは学習能力がないのさ」

「ま、そのへんはわかるが、とりあえず先に進めてくれ」

「ああ。仕事は相変わらず楽だった。前回とまったく同じ経路で侵入できたからな。ところが、屋敷の外に出たところで急に腹が痛くなった。もう、耐え切れないような激痛で、思わずそこにうずくまっちまった。そこに通りかかった医者に、誰のものかは知らんが、ファン・ダルファー邸よりは小さい屋敷に運び込まれた」

「なるほど。あの辺りは名家の屋敷が密集しているからな」

「ああ、それでそのなにやら偉そうな医者が俺を見てくれた。メガネを掛けて、本人が一番不健康そうに見えるひょろ長くやせた男だった。名前は名乗らなかったな」


ルワーズでは医者はどのような事情であっても、名前を名乗ってから治療を行うのが慣習である。誰によって治療されるのかを事前に知る権利が患者にはあると言うことになっているからだ。


「で、そいつが、俺は盲腸炎ですぐに手術が必要だと言った。確かに激烈な腹痛だったんで、手術には了承した。麻酔で眠らされ、二、三時間ほど寝て起きたときにはこうなっていた」


わき腹の傷を指して言う。


「眼が覚めたときにはさっきの医者はもういなかった。妙に色っぽいねえちゃんが一人いただけだ。一応看護人の服装をしていたが、まあ、まったくらしくなかったね。目つきがちょっと妙だった。なんていうか、感情がないと言うか、無愛想ってのとはちょっと違うな。まあ、ともかくその女が言いやがった。俺の体に毒が入っていると。毒の入った袋が破けるまでに取り除けば助かるが、それをしてほしければ、言うことを聞けとね。マウリッツ・スタンジェの屋敷に忍び込んで、その研究成果を盗んでこいって命令だったわけだ。隠匿している吸血鬼に関する研究成果を盗め、成功すれば大金を渡すとも」

「なんでそんなものをほしがるのか、理由は聞かなかったのか?」

「知らんね。まあ、やつらは医局長が伝染性吸血病の治療方法を公開せずに隠匿していて、それによって利益を得ようとしているとか何とか言ってたが。そんなもの信じるほど俺も馬鹿じゃないさ。ところで、こっちの先生はそんな命令に従わなくても、手術してくれるんだろ?」

「ふむ。まあ、先に手術を受けた屋敷の位置を教えてもらおう」


カレルがファン・ダルファー家周辺の詳細な地図を持ってこさせて、確認させた。


「空家だな。元々は・・・たしか、国務卿ファン・レオニー閣下のお住まいじゃなかったかな?就任後は公館に移られたが、確かこの屋敷に住んでいたはずだ」


国務卿ベルト・ファン・レオニーはテオ・ファン・ダルファーの後任としてその任に当たっている人物である。戦争と伝染病の流行から国家を立て直すのに手堅い功績を挙げている。


「うーん・・・ファン・レオニー閣下が敵の一味というのはちょっと考えずらいですね・・・。元の屋敷で今は無人なのならなおさらです。ファン・ダルファー候についてはどうですか?」


ヤンがたずねた。護国騎士団の任務には国内の不満分子の動性を把握することが含まれる。国務卿を退いたいきさつからすれば、逆恨みをしていてもおかしくはない。が、国政の頂点にいたほどの人物が、これほどの暴挙に出るというのは想像しがたい。


「まあ、確かに現在の境遇に納得されているかどうかと言えば微妙でしょうが、だからと言ってこんな暴力的な陰謀を巡らす方でもないですね。やるなら、もっと政治家らしいやり方でやるでしょう。特別妙な動きをしている様子はありませんな」


カレルが答えると同時に一人の騎士が牢に入ってきた。顔が完全に隠れるフルヘルムを被っている。これは一見異様なことではあるが、護国騎士団本部全体に緊急体制が敷かれているので、警備担当者の一部は完全武装になっている。特に不信には思わなかった。


「何かあったか?」


シモンが問いただした瞬間、騎士がロビーのわき腹、ちょうど縫合された傷の辺りを拳で強く殴った。アバラが折れる音が聞こえるほど強烈な一撃である。


「ぐっ・・・!」

「な、何をするっ!?」


ロビーのうめき声とカレルの叫び声が重なった。さらにそれと同時にシモンが腰の剣を抜いて切りかかった。カレルはそのことにも驚き、唖然として身動きもできない。


ガッ!


シモンの横殴りの一撃がフルヘルムを直撃し、その勢いで騎士の頭から吹っ飛び、石の壁に当たってけたたましい音を立てる。


兜が脱げた騎士は奇妙な顔をしていた。いや、顔は見えていない。大きな色つきのメガネのようなものを付け、顔の下半分は布で覆われている。呼吸に合わせて、口を覆う布の一部が膨らんだり縮んだりを繰り返していた。


「不死鬼だな!?」


ヤンはそう言いながら身構えた。今は丸腰である。ヤンは剣は学ばず、短槍を使う武術に長けているが、多少は素手での格闘術も心得ている。しかし、相手が不死鬼となれば、通用するかどうか自信はない。


「・・・」


シモンとヤンが男の前に立ちはだかった。いや、女かもしれない。顔が完全に隠れており、体は鎧を着ているので、性別の判別すらできないのだ。異形の敵はシモンの力任せの一撃をまともに受けたにもかかわらず、まったくダメージを受けた様子がない。普通の人間ならありえないことであった。


敵はチラリとロビーの様子を見た。口から少量の血を吐き出し、ビクビクと痙攣している。それを確認すると、鎧をきているにも関わらず驚異的な速さでヤンに襲い掛かった。どちらも武器は持っていない。力任せに爪で引っかくように手を振り下ろしてきた。


ドォォッ!


ヤンは僅かに横に動いて一撃を交わしたのだが、勢いあまった一撃が石畳の床を叩き、何枚かを破壊した。人間離れした力であることは疑いない。次の瞬間、ヤンは床にたたきつけられた腕を捕まえ、体の向きをすばやく変えて相手を投げ飛ばした。


タンッ!


壁に向かって投げつけたはずが、空中で姿勢を変え、壁に足をついて衝撃を吸収する。床に下りた瞬間、体制を崩したヤンに見せかけの攻撃を浴びせた。カレルやシモンが反応できないでいるうちに兜を拾い、牢の外へ駆け出していった。一瞬後には窓の割れる音が聞こえ、罵声が響き渡った。


「そいつを追え!」

「追ってはいけません!」


カレルの指示をヤンが取り消した。


「こちらに備えのない以上、並みの騎士では何人いようと被害者が増えるだけです。顔に付けていたマスクはおそらく臭気結界の影響を受けないためのもの。理性のある、それにおそらくは何らかの戦闘訓練を受けている不死鬼の工作員です。怪我人ならまだしも、吸血鬼が増やされては、対応のしようがありません」


ヤンの額から血が流れていた。最初の一撃を避け切れていなかったのだ。


「至急、現在本部内にいる人間をすべて一箇所に集めてください」

「わかりました・・・」


答えたカレルはすぐに指示を出しに行こうとしかけて、すぐに足を止めた。ロビーを介抱しようとしているシモンの様子が気にかかったのだ。


「ヤンさん・・・これは・・・」

「ちっ・・・やはりか・・・。すぐにマウリッツの残した薬と私の道具箱を持ってきてください!」


倒れて動けなくなっていたロビーが、奇妙な動きでのたうち始めた。アバラが確実に折れているのだから、そのような動きをすれば激痛がはしるはずである。だが動きにはまったくそうした様子はない。獣のようなうめき声をあげる。


「いや、敵は我々があの薬を取りに行くところをつけて、持ち去ろうとする可能性がある。シモンさん、お願いします。何名かをつれて、樽ごと持ってきてください。決して隙をみせないように」

「わかりました」


シモンは抜き身の剣を持ったまま部屋を出て行った。カレルも屋敷の者全員を大広間に集めるために出て行った。唇を噛み、爪が食い込むほど硬く拳を握りながら、獣に変わろうとしているロビー・マルダーをじっと見て、独り言を言った。


「うかつだった。結界を張るだけで安心していたのは私だ・・・。相手が臭気対策をしてくる可能性に対応してなかったなんて・・・」

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