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不死騎  作者: 槙原勇一郎
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医師たちの仕掛け

「ずいぶんと荒らされていますね。やはり吸血鬼に襲われたのでしょうか・・・」


アメルダムのヨアヒム・カイパーの部屋は雑然と散らかっていた。足の踏み場もないほど、書物が床にばら撒かれ、書きかけのメモなどがクシャクシャになって散乱していた。シモンがそう思ったもの無理もない。


「いや、師匠はとてもずぼらな人でしてね。彼の研究室などはいつもこんな感じです。医者がずぼらだと患者に不安を与えると、マウリッツと私はいつも言っていたのですがね」


机の上のやはり雑然と積み重なっているメモを確認しながらヤンは言った。質問をしたシモンはどうしていいものか、本や紙片を踏まないよう爪先立ちになりながら立ち尽くしている。


「ふむ、少なくともこの部屋から自分の意思で出て行ったということはありえませんね」

「なぜですか?」

「この研究日記です。博士は肌身離さず持っていました。トイレに行くときでさえ持ち歩いていたものです。十三日前で記録が終わっていますが・・・大したことは書いていませんね・・・」


資料から目を離さずにシモンの質問に答えたヤンは軽く咳払いをした。部屋には煙のように埃が舞っている。


「なるほど。博士は最近、吸血鬼が長期的に生存するために必要な血液の量と彼らの生命を支える成分を研究していたようです」

「なぜそんなことを?」

「博士も変わり者とは言え医者ですから。可能であれば伝染性吸血病患者にも周囲に害悪を与えずに生きてほしいと考えているのですよ。仮に現実的に確保可能な量、健康的な生活に影響のない範囲で健常者から血液を摂取し、それによって生きながらえることができるなら、それを可能にする仕組みを医局に作ればいいわけです。必要な成分がわかればあるいは、家畜の血液などからそれを生成できるかもしれない。理性が残っている不死鬼に限ってのことですが・・・」

「答えはでていたのでしょうか?」

「日記には書いてませんね。ですが、最後の日の記述ではもう少しでわかるようなことが書いてあります。吸血鬼の軍隊を作ろうとしている敵には喉から手が出るほどほしい情報でしょうね。ふむ・・・ほう・・・」


何かに気づいたようだが、それ以上は何も言わない。


「やはり、吸血鬼に襲われたのでしょうか?」


シモンは先ほどの質問を繰り返した。


「いえ、その可能性は低いでしょう。アメルダムのような都市部には夜間であっても、吸血鬼を連れ込むのは困難です。なにより、敵が意図を持って博士を狙うなら、殺害したり吸血鬼にしてしまう理由はありません。連れ去って、情報を得ようとするでしょうね」

「理性のある不死鬼であればそんなことも可能ですか?」

「いや、おそらく、博士が誘拐されたとすれば、実行犯は普通の人間です。理性ある不死鬼であっても、目立ちすぎます。昼間は外にまったく出られませんからね」

「つまり・・・不死鬼だけでなく、普通の人間も一味に加わっていると・・・」

「そうでしょうね。何より、不死鬼になったような者が、国家転覆なんてことを自分で考えたりすることは考えづらい。普通に考えてそんな余裕はないはずです。日々、血液を求めて行動しなければなりませんから。何らかの方法で、潤沢に血液を提供する方法持つ者が黒幕でしょう」


シモンは感心しきりだった。ヤンは医師としても武術家としても一角の人物であることはわかっていたが、推理力もたいしたものだ。頭の出来がそもそも違うのだろう。保安兵団の捜査隊にでも入れば、いくらでも手柄を立てられるのではないだろうか。


「さて、博士は一人暮らしですし、診療所を開いていると言っても、アメルダムでは中央医局や民間の財団が格安の診療所を設けているので、ほとんど患者が来ることはありません。まあ、元々町医者なんてまともにやる気はなかったですからね。中央医局で面倒な仕事に関わらずに研究に打ち込むための口実でしかなかったわけです。民衆のための医療に携わりたいなんてのは。人嫌いなので、近所づきあいもないでしょう。聞き取り調査をしても意味はないですね。ここではこれ以上何もでてきません。この日記だけ借りていきましょう。これさえあれば博士が何を考えていたかはほぼわかります。その辺に散らばったメモだの書物などを調べてもくたびれるだけです」





次に向かったのはマウリッツ・スタンジェの居館であった。すでに日は落ちている。そして、花の都といわれるこのアメルダムでも、ニンニクと香草の強い香りが立ち込めていた。明日には中央医局に向かう予定で、スタンジェ家を調査した後は護国騎士団の本部に泊まる予定だった。主不在のファン・バステン家の屋敷に泊まることもできるが、ヤンにその気はない。兄嫁のシルヴィアは喜んで迎えてくれるだろうが、それが返ってわずらわしく思えるのだ。


「サスキアさん。スタンジェ医局長がいなくなる前の状況を教えてくださいますか?」


サスキアと呼ばれたメイドは、二十歳を超えたばかりだろうか、幾分顔立ちには幼さの残るが見た目よりは年上なのではないかと思われた。丁寧な口調で質問しているのはシモンである。中央医局長になってからのマウリッツとは直接会ったことはないので、ヤンはこの美しいメイドとは面識がなかった。


「マウリッツ様は夜遅くにご帰宅なさいました。遅くまで分析作業をされていたとか。いつもは、夕食をとられた後の数時間を地下の研究室で過ごされるのですが、その日に限っては疲れたとおっしゃって、少しお酒を召してからすぐにご就寝なさいました。その翌日、朝食の準備が出来たことをお知らせに参った時には、寝室にはいらっしゃらなかったのです・・・」


サスキアと呼ばれたメイドはなかなかしっかり者のようで口調もはっきりとしているが、寝不足なのか、目の下にクマが出ている。主が失踪して不安な毎日を過ごしているのだろう。


「その晩に何か気づいたことはありませんか?どんな小さなことでもいいのですが・・・」

「さあ、特には・・・」


そこで沈黙し、うつむいてしまった。


「サスキアさん。私はスタンジェ医局長の弟弟子に当たるヤンと申します」

「あ、はい・・・ええ、マウリッツ様から伺ったことがございます。大変優秀な方だと」


一瞬口ごもってからの返答だった。


「それは、恐れ入ります。悪い噂が含まれてなければいいですが。ところで・・・」


ここでヤンは間をおいて、サスキアが顔を上げるのを待った。相手の目を覗き込みながら言う。


「マウリッツの事がお好きなんですね」


さっと、サスキアは顔を赤らめた。


「そ、そんな・・・私なんて・・・、そ、尊敬申し上げておりますけど・・・」


しどろもどろになる娘に向かって畳み掛けるように続ける。


「マウリッツはもう四十前ですが、未だに独身。実家や周囲からは良家の令嬢との見合い話が持ちかけられていると聞いています。それをすべて無視しているとも。私は数年兄弟弟子というよりも、師弟に近い関係でおりましたが、彼の気持ちはだいたいわかるつもりです。あなたがいるから、彼は結婚を断り続けているのでしょうね」

「ヤンさん・・・?」


シモンはこの状況で兄弟子のゴシップを話題にする意味がわからなかった。不信に思いながら、何か考えがあるのだろうと思い、それ以上は何も言わない。


「彼はあなたを信頼している。誰が来ても本当のことは言わないだろうとね。でも、先ほどお話したように私は彼の弟弟子です。また、私の兄、ウィレム・ファン・バステンは彼の親友です。悪いようにはいたしません。本当のことを教えていただけませんか?」

「・・・・・・」


サスキアは沈黙してしまった。どうしていいかわからずに混乱しているのか、他に理由があるのかはわからない。


「彼には危険が迫っています。だからこそ姿を消したのだと思いますが、私は彼を助けたいのです。私を信用していただけませんか?失踪する直前、マウリッツは私の兄に、私をアメルダムまで呼ぶようにとの手紙を出していました。彼は私に用があるはずなんです」


子供あやすようにやさしい、それでいて拒絶を許さない口調であった。またもシモンは感心した。医師として多くの患者と向き合ってきたからであろうか。このような説得の仕方は無骨な自分にはできそうもない。


「・・・マウリッツ様は・・・ご自分から姿を隠しておられます。あの晩のお仕事の結果で、自分が危険にさらされることを確信されたとおっしゃってました。自分は恐れはしないが、私にも危険が及ぶからもしれないと・・・。どこに行かれたかは聞いておりません。本当です・・・」


口の中で呟くような小さな声だった。目に涙をためてはいるが、泣き崩れはしない。なるほど、なかなか気丈な女性であった。


「マウリッツならそうでしょう。あなたがそこまで知ってしまえば、やはり、危険が及ぶこともあります。いや、やはり、今の時点でもこの屋敷にいることは危険があります。護国騎士団に保護してもらいましょう。マウリッツも賛成するはずです」


ヤンがちらりとシモンを見ると無言でうなずき返した。


「では、サスキアさん。地下にあるという研究室に案内してください。おそらくあなたでさえ入ったことはないと思いますが」

「でも、鍵がありませんわ。誰も立ち入れないように、マウリッツ様だけが鍵をお持ちでしたの。どこにしまってあるのか・・・」


サスキアも落ち着きを取り戻したようだ。


「ふむ。いえ、なんとかなります。とりあえず、入り口まで案内してください」


不信な表情を浮かべながらサスキアは二人を地下室に案内した。


「こちらになります。頑丈な金属製の扉ですし、壊すことも難しいと思うのですけれど・・・」


とサスキアが言い掛けたときには、ヤンは手にメスを持っていた。


「な、何を・・・」


言いかけたのはシモンを無視して、ヤンは近づいてしゃがみこんだ。ドアノブに巻きついている牛皮を手術でもするような正確な手つきで切り開き、さらに細かくメスを動かした。


カシャンッ!


突然扉があき、生臭いにおいが漂ってくる。


「私とマウリッツが昔よくやった遊びですよ。筒の中に何本かの糸を通し、他の糸を切らないように、一番奥にあるものだけを切るのです。ノブの中にそれを使った仕掛けがありました。私だけが入れるように作った仕掛けですね」


ヤン以外は二人とも言葉も出てこない。シモンは医者というのはいったいどういう人種なのかと疑いたい気分だった。ヤンだけが入れるようにしたいなら、他にもいくらでも方法があったはずである。これでは、まるで子供の遊びだった。


「ところで、気付きませんか?」

「え?」


シモンが素っ頓狂な声を上げる。ヤンと一緒にいるとどうも自分が間抜けに思えてくる。


「このドアノブについていた牛皮です。強い力で握られて、無理に引っ張ったのでしょう。内側が金属にこすれて傷んでいる。それから、暗くてよくわからないかもしれませんが、扉が少し部屋の中に向かってへこんでいます」

「まさか・・・侵入しようとしたものがいると」

「間違いないでしょう。が、吸血鬼であればこの程度のへこみ具合ではすみません。その気になれば完全に扉を破壊することもできるはずです。やはり敵には普通の人間もいるということですよ。サスキアさんに一切気づかせずにここまできたとなれば、普通とは言いがたいかもしれませんがね」


三人は口と鼻を手で押さえながら部屋に入った。


「これは、仮に吸血鬼であったとしてもここには入れそうにありませんね。私たちでも耐え難い臭気です。」


眉間に皺を寄せながらシモンが苦情めかしく言う。


「ところが、吸血鬼はこの手の匂いには拒否反応を示しません。彼らの嗅覚は確かに敏感ですが、こういう匂いは気にならないようです。さて・・・」


研究室の中には、ネズミや蝙蝠が解剖され、アルコール付けにされたものが並べられていた。匂いの元は、解剖を行う作業台の上からである。複数の腹を割かれたネズミの死骸があった。


「十三日前からならばまあ仕方ないでしょう。たぶん、伝染性吸血病に感染したネズミです。人間と違って数時間で確実に死んでしまいますがね。ほうっておいたと言うことは、よほど急いでいたのでしょう。で、問題はこれです。あまり長居をするわけにもいかないですから、すぐに持ち出しましょう」


そう言って指し示したのは、ワインを保存するのに使う樽である。酒瓶五本分程度の容量のものだ。その上には一枚の紙が張られているが、シモンにはそれが読めない。


「奇妙な文字ですね。暗号か何かですか?」

「いえ、カイパー博士が考案した速記文字です。医者は患者を診察しながらすばやく記録をとらねばならないので。それに、患者の目前で書いている文章には本人には読んでほしくないものもありますから。不治の病の疑いがある場合とか」

「なるほど、そこまで気を使うものなのですか・・・」


と言い掛けて、シモンは樽を持ち上げながら、サスキアを見た。さすがに気丈な彼女もこの部屋の臭気と風景には耐え難いものがあるようで、入り口からあまり中まで入ってこない。


「なるほど。このメモによれば、どうやらマウリッツは吸血鬼を人為的に不死鬼にする方法を解明したみたいですね。この樽がその成果です」

「では、まさか・・・スタンジェ局長が不死鬼を・・・」

「マウリッツ様はそんなことはしませんっ!」


そう叫んでから、サスキアは自分の出した声の大きさに驚いたようだった。部屋中に反響する。小さくため息をついてから、ヤンは説明した。


「先ほどもお話したとおり、医者は伝染性吸血病患者であっても出来れば救いたいと考えています。理性を失った吸血鬼であればどうしようもありませんが、不死鬼となって理性を取り戻すことができれば、生き続けることもできなくはありません。これに、カイパー博士の研究成果をあわせれば、被害者を出さずに彼らを生かすことができます」


「しかし、日の光は浴びることができませんし、まともに人間として生活することは難しいですよ・・・」

「そうですが、それはまた次の研究になります。私の研究も本来は吸血鬼を倒すことではなく、彼らの筋肉の異常発達を止めることにありますから。そうすれば、彼らの血の飢えも和らげることができます。それから、皮膚炎や痛覚の喪失を治療する方法も探っています・・・と、話はそれましたが、マウリッツが姿を消したのはカイパー博士の失踪の翌日、その頃にはすでに両国の国境付近の村が襲われています。数百名は吸血鬼になっていたとは思われますので、この時点で何名もの不死鬼がいないといけません。一人の不死鬼でせいぜい百名が限界でしょう。行動を制御できるのは。自然に不死鬼が発生する確率を考えると、マウリッツと同じか、何らかの別の方法を敵は発見していていなければなりません・・・!」


言い掛けた瞬間、ヤンは急にその場を飛びのいた。


カンッ!


ヤンがいた場所に、ナイフが飛びタイルの床に跳ね返った。


「なるほど。マウリッツ・スタンジェが安心して逃げるわけだ。あんたみたいな弟弟子がいるんなら、自分が無理をする必要はどこにもない」


いつの間にか、全身黒尽くめの男がサスキアの背後に立ち、ナイフを喉元に突きつけていた。


「吸血鬼の一味か。が、どうやら人間のようだな」


ヤンの言葉に男は意外そうな顔をした。


「ずいぶんと落ち着いているじゃないか。医者ってのは意外と肝が据わっているんだな。だが、こっちには人質がいる。別に攫ったりするつもりもないが、その樽をこっちにもらいたいね」


これはシモンに向かっての言葉である。シモンはちらりとヤンを見た。目が合った瞬間、お互いにうなずく。


シモンはヤンと男の中間の位置に樽をそっと置いた。


「女、重いだろうがそれを持て。外まで運んだら開放してやる。」


そう言って、ナイフを背中に当てて、サスキアを前に歩かせた。サスキアが樽を持ち上げようとした瞬間・・・


カシャンッ!


突然、男の背後のドアが閉じた。男が最初に投げたナイフをヤンが拾い、正確に先ほどとは反対側のドアノブに向かって投げたのである。牛皮を貫通し、中に通された糸を切断することで、扉の仕掛けを作動させたのだ。


「な、何しやがった!くそっ!あかねぇっ!」


男は焦った。事態の急展開についていけず、人質から離れて扉を開けようとしてしまったのだ。


ガンッ!


後ろからシモンが男に体当たりを食らわせた。鉄の扉に全身を激突したのち、瞬く間に羽交い絞めにされる。


「ふむ。予想外の収穫だ。サスキアさんにはずいぶん怖い目にあわせて申し訳ありません」

「いえ。大丈夫です。ヤンさんを信じてましたから」

「私ではなく、私を信用したマウリッツをでしょう?」


ニヤリとしながらヤンは男に近づく。


「さて、こんな臭うところには長居はしたくないんだが、どうせ簡単には出られないし、外からも入ってこれないので時間はたっぷりある。いろいろ聞かせてもらいましょう」


ヤンはシモンと一緒に男をわざわざ解剖用の作業台に寝かせて縛り付けた。ネズミや蝙蝠の死体はそのままで、背中にはべったりと体液がつく。顔の横には腹をかっさばかれた死骸がそのままにある。


「さて、まあ、名前なんて無駄なものは聞かないよ。雇い主の名前もどうせ言わないだろうね」

「何か答えるとでも、お、思ったか?」


引きつった笑みを浮かべながら、余裕を見せようとして失敗し、震える声で言う。どうも吸血鬼まで使って反逆を企てる連中が放ったにしては底の浅い男だ。


「何、言わないならいろいろ考えはあるさ。まず、お前の組織の目的、それから、ヨアヒム・カイパーの消息についてだ」

「知らん・・・!?」


そう言った次の瞬間男の顔がこわばった。ヤンは立ち上がり、ナイフを手にしている。


「殺すなら殺せ!」

「私は医者だ。そんなことはしないよ。だが、しゃべるべきことをしゃべらない口には別の役割がある。どうせ腹が減っているだろう。ご馳走してあげるよ」


そう言って、男の顔のすぐ横にあるドルテレヒト蝙蝠にナイフを突き刺し、持ち上げて見せた。さらに空いている方の手を男の顎に当て、口をあけさせようとする。


「や、やめろっ!ドルテレヒト蝙蝠なんて食ったら吸血鬼になっちまうだろうがっ!や、やめてくれっ!殺された方がましだ・・・」

「なるほど。吸血鬼を使って反乱を企てるような連中でも自分が吸血鬼になるのは嫌か。と言っても、こいつは下っ端もいいところだな。たぶん何も知らないでしょう。ドルテレヒト蝙蝠を食べたところで、感染したりはしないと言うことすら知らないんだから。まあ、腐敗も進んでいるし、激烈な腹痛にはなるでしょうがね」


後半はシモンに向かっての言葉である。


「私たちが地下室の扉を開けられるかどうかを確認して、可能ならこの樽を奪えという指示を受けただけだな」


男は力なくうなずいた。


「たぶん、金をつかまされて動いたコソ泥かなんかだろう。相手もずいぶんせこい手を使う。いや、私を甘く見たか、小手調べをしてみただけかな」


相変わらずシモンは感心しきりである。めまぐるしい状況の変化に対応しながら、まったく動じることもない。言葉や態度一つで正体不明の男を追い詰め、わかる程度の情報ははっきりと言わせることもなく引き出してしまった。


「さて、シモンさん、サスキアさん、ここはもう出ましょう。この男は一応収穫です。そろそろ外には騎士団本部から迎えの馬車が来ているはず。人を呼んでこいつを運ばせましょう」

「でも・・・扉がふさがってしまいましたわ・・・」


サスキアの言葉聞いて、シモンはハッとした。扉がふさがっていることに気づいたからではない。


「他に出口があるんですね。ヤンさん」

「そのとおりですよ。マウリッツだって、こんな重い扉、間違ってがっちり閉じてしまったら外に出られません。そういうところは抜け目のない男なんですよ。いや、あんまり悪口はサスキアさんの手前言わない方がいいかな?」


そう言って、作業題の横にある壁に掛けられた牡鹿の頭部の剥製の角を掴んで下に引っ張った。この鹿の剥製だけがこの研究室には不似合いなオブジェだった。鹿の角は根元から下に傾き、壁の一部が突然音を立てて、下に落ち込む。


「外からは開けられないが中からは開けられる出口を作っておく。秘密の研究室を作るなら常套手段です。サスキアさん、申し訳ないが外にいる連中に事情を説明して呼んできてください。たぶん、ここから庭の物置に出ることができると思いますから」

「は、はい!」




程なくして、数名の騎士が現れた。樽と作業台からおろされた男を運び出す。彼らの後ろを歩きながらシモンはヤンに小声で話しかける。


「ところで、ヤンさん。どうして、あのサスキアと言うメイドとスタンジェ局長の関係がわかったんですか?」

「いや、当てずっぽうですよ。と言っても、本来、金で雇われているだけのメイドがあそこまで真剣に秘密を守ったりするなら、主従以外の感情が働いているんじゃないかと思っただけです。マウリッツの好みもだいたいわかりますしね」

「あの・・・ヤンさん・・・誤解されたままなので、はっきりと訂正させていただきたいんですけど」


シモンはぎょっとした。後ろを歩いていたはずのサスキアが急に追いついてきて、横からヤンの顔を覗き込んでいる。


「誤解・・・ですか?」


さすがのヤンも怪訝な表情で聞き返した。


「私とマウリッツ様の関係です。まだ周囲には伝えられてませんが、マウリッツ様はご婚約されております。私の姉、カリス・クリステルとです。私はマウリッツ様の義妹になります」

「ぎ、義妹?」


ヤンともあろう者が阿呆のように鸚鵡返しに聞き返すことしか出来ない。シモンは妙な愉悦を覚えながら、成り行きを見守っている。


「はい。私ははじめからヤンさんが来たら地下室にお通しするように、マウリッツ様から指示されてました。その後は護国騎士団に保護していただくことも」

「じゃあ・・・なんで初めから教えていただけなかったんです?」


わけがわからないと言うふうに、すっかり狼狽している。これはなかなかみられないことだろうとシモンは思い。ニヤニヤし始めた。


「本当にお分かりにならないんですか?」

「ええ・・・さっぱり・・・」


一瞬、サスキアの顔が険しくなるが、すぐに表情を消した。ただ、幾分すねたような口調になった。


「若くして医学界の権威、世に隠れた天才軍師、公国一の知恵者とも呼ばれるお方でも、僅か十数年前の記憶すら呼び戻せないこともおありなのですね。もう、思い出していただかなくても結構ですけど!」


ぷいっ、と顔を背け、さっさと縄梯子を上って外にでてしまった。その後は馬車の中でもまったく口を聞こうとしない。


「ヤンさん・・・本当に覚えておられないのですか?まあ、なんといいますか、知り合いの中央医局の精神科医が言っておりました。何年も人の心理について研究してきたが、女性の気持ちだけはさっぱりわからないってね。理屈ですまないこともあるんですよ。あんまりひねくれてしまうと後が面倒です」


シモンは心配していると言うより興味津々と言った具合で、ヤンにささやく。


「十・・・数年・・・」

「そう、十数年前と言ってましたね。孤児院に入っておられた頃とか・・・幼馴染とかではありませんか?」


「あ・・・あっ・・・あぁぁぁっ!」


急に大きな声を上げて、他の騎士たちを驚かせた。


「サスキア・・・サスキア・ウテワールか・・・、いや、だって、まだ、私が十か十一で、彼女はまだ七歳だったはず・・・。マウリッツの婚約者であるとか言うお姉さんの姓も違うし・・・」

「私は、あなたがファン・バステン家に引き取られてまもなく、クリステル家に引き取られたんです。そりゃあ、子供の頃ですから、姿形は変わっております。思い出せないのはいたし方ありませんけど・・・」


また、サスキアが横から話に入り込んできた。くちを尖らせたままだが、目は笑っている。シモンがくっくと笑いながらからかうように口を挟んだ。


「いやあ、大いなる知恵者ヤン・エッシャー先生。猿も木から落ちると言う東方の諺がありますが、滅多にないミスが致命的なことだったみたいですな」


ヤンはきょとんとしている。まだわからないのかと見かねてシモンが耳打ちした。


「スタンジェ医局長と恋仲だなんて決め付けられたのが気に食わなかったんですよ」

「え・・・な、なぜですか・・・」


シモンはぎょっとした。頭は切れるのに、こんなに鈍い男だったとは。わざと大きなため息を付いた。誰も知らないことを知り、誰にも解けない問題を解くヤン・エッシャーにも、誰にでも明らかなことを理解できないことがあるらしい。


「ええと・・・サスキアさん・・・いや、思い出してしまうと、改まった言い方をするのもなんか妙な感じだけど・・・マウリッツとのことを妙に勘繰ったのは申し訳ない。その・・・機嫌を直してくれないかな・・・。いや・・・どうして怒らせたかもよくわからないのだけど・・・不快にさせたのなら謝るから・・・」


が、今度はサスキアがクツクツと笑い出してしまった。


「本当に、子供の頃と変わってないのですね。勉強も喧嘩も誰にも負けないし、なんでもよく知っているのに、自分にわからないことがあったときには、まったくごまかすことも出来ないところ。素直と言うか人がいいと言うか・・・。それに他人のことばかりいろいろ勘繰って、自分のことは何にもわかっていないことも。変わってないことに免じて許して差し上げますわ」


今度は馬車の中にいる数名の騎士全員が耐え切れずに笑い出してしまった。


「アメルダムに滞在されている間は身の回りのお世話をさせていただきます。これもマウリッツ様とウィレム様、それにシルヴィア様からのご指示です。医生の方も一人ではちゃんと生活できるかどうか、いつも心配だと手紙でおっしゃってましたから」

「カ、カスペルが?って、どうして彼のことを・・・あ・・・」


どうやら、ヤンは周囲の人間に計られていたことにようやく気付いた。マウリッツ、その奥方になると言うカリス・クリステル、おそらくはウィレムや兄嫁のシルヴィア、カスペルまでが共謀して、ヤンを驚かせようとしたらしい。そういえば、カリス・クリステルと言うサスキアの姉の名には聞き覚えがあった。兄嫁のシルヴィアの親友で、優秀な女医だったはずだ。


「ウィレム様がおっしゃってました。ヤンは何でもよく知っているから、鼻を明かすにはこれぐらいの人数でこっそりやらないと無理だろうって。マウリッツ様が姉との婚約を決めた二月前から皆さん連絡を取り合っておいででしたわ。狼狽する姿を見ることができないのは、皆さん残念でしょうけど」


シモンはもうはばかりもなく爆笑している。なるほど、これほど頭の切れる人物であれば、悪意はなくとも一度ぐらい慌てさせてみたいとは思うだろう。マウリッツのことを四十前で未婚であるなどと言っていたが、医師と言う安定した地位にあるにも関わらず、三十前で結婚していないヤンだって他人のことは言えないのだ。良家の令嬢だの、女優だの敷居の高い娘が言い寄ってきても興味を示さない男に、幼馴染を会わせてみようと言うのは、なかなか粋な方法といえるかもしれない。


何より、シモン自身も、決して鼻にかけることはないにしろ、ヤンの明哲さには若干の苛立ちを感じることはあるので、身内の悪巧みの動機は十分に理解できた。


「よろしくお願いしますわね」


サスキアも多少人の悪い笑みを浮かべている。


「ったく、この非常時に私の周りには下らない陰謀をめぐらす連中ばかりだなんて・・・」

「あら、まじめに陰謀をめぐらすのは敵に回っている方々でしょうし、それに対抗するのはヤン・エッシャーなんですから、他の方はこれくらいがよろしいんじゃありませんか」


頭を抱えるヤンを見て、馬車の中に爆笑が沸き起こった。

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