さらなる敗北
千名弱の護国騎士団第二部隊はジェラルド・ファン・ハルスに率いられ、ステーン湖北側のフリップ王国国境付近に布陣していた。目的はルワーズ公国内の不死鬼軍の拠点であるゼーラント州州都ノールトとフリップ王国側のレオンス・ド・アズナブールが選挙している辺境伯領との連絡を遮断することである。数日に一回程度の割合で通りかかる操死鬼で編成された輸送部隊を攻撃し、ここ十日ほどはノールトへの人血の補給は行われていない。
もっとも、ノールト城内の吸血鬼はほとんど眠らされているため、人血を必要とするのは九百人に満たない不死鬼たちのみである。備蓄されている分もあるだろうし、すでに牛血粉の製造方法を知るマルガレータ・バレンツとサスキア・ウテワールが拉致された報告も受けているので、この作戦の意義は薄れ始めてはいる。牛血粉の製造体制が出来上がれば、眠らせている吸血鬼を含めた三千ほどの部隊でザーンを強襲することだろう。そのため、後数日で帰還することももう決められてはいた。
数度にわたる輸送部隊へ攻撃については、ほとんど危険はなかった。最初の二回程度は操死鬼のみで編成された部隊だったため、一方的な勝利を収めることができたし、その後も一、二名の不死鬼と多くても百体程度の吸血鬼で編成された護衛部隊がいただけであったため、勇猛な第二部隊の戦力を持ってすれば、被害なしに殲滅することは容易かったのである。その際、不死鬼の指揮官を数名捕虜とし、ザーンに送っている。
その日はこの地方には珍しく大荒れの天気であった。激しい雨が兵士たちの鎧を叩き、雷鳴が轟いていた。だが、操死鬼にとっては天候など関係ない。第二部隊警戒を怠ることはなかった。ただし、操死鬼が物資を運んでくるであろうフリップ王国方面に対してのみである。
第二部隊は三分の一の三百名が周辺に広く分散して街道を監視していた。三交代制で残りの部隊は本陣に待機している。輸送部隊が発見されればその規模に応じて本部から迎撃部隊が出立する手はずになっていた。
戦闘は完全な不意打ちであったわけではない。本陣は街道に程近い小高い丘の上に設営されていた。雨のため発見は遅れたが、ノールト側から三百程度の騎馬が接近していることに気づいた騎士はすぐにジェラルドに報告したのである。ほとんどの騎士たちは、それをザーンからの味方部隊であると勘違いした。大監獄での事件は報告されていたが、不死鬼の騎馬部隊などという発想は浮かんでこなかったのである。
「すぐに兵士をかき集めてくださいっ!対吸血鬼密集防御体制で迎え撃ちますっ!」
ジェラルドの判断は早かった。騎士たちは一瞬驚いたものの、ジェラルドを信頼している。状況は把握できていなくともその指示にはすぐに従った。だが、それでも間に合わなかったのである。
本陣のある丘以外は周囲は平坦な土地であり、かなり遠くまで見渡すことができる。雨のために視界が狭いとは言え、発見された時点から程なく密集防御体制は完成され、騎馬隊を迎え撃てるはずであった。ただの密集防御体制ではなく、ヤン・エッシャーが事前に考案して、ジェラルドによって訓練が繰り返させれていた、対騎馬用の体制で、通常の備えに加えて、鉄の壁の隙間から何本もの長槍が斜めに地面に突き刺され、騎馬の突撃を防ぐものである。それを円形に配置して、内部への侵入を防ぎ、瀉血矢による攻撃で迎撃するのである。不死鬼の操る騎馬であるから、壁の直前で全身をやめるか、周囲を回転しながら攻撃する可能性が考えられるが、その状態から内部の弓兵が瀉血矢を放てばいいの。
だが、この戦術の欠点はどうしても準備に多少の時間がかかることであった。そうであっても、本来なら騎馬が突撃してくる前に円陣を完成させれたはずであったのだが、騎馬隊の速度はジェラルドの予想を大きく上回った。どうにか、前方の壁が完成した時点で僅か百メートルのところまで接近されていたのである。
「早いっ!早すぎるっ!」
ジェラルドの判断が遅かったわけでも、騎士たちの反応が鈍かったわけでもない。これ以上はないスピードで体制を整えようとしても間に合わなかったのである。
不死鬼の騎馬隊の移動速度は異常であった。駿馬のみで編成したとしてもこれほどにはならない。馬の移動速度を超えていた。
正面だけ固めた密集防御は気づいたときには、両側から背後に回りこまれていた。さらに、一部の騎馬は三メートルもある長大な槍と盾の壁を悠々と飛び越えみせた。瞬く間に瀉血矢を持った弓兵隊に切り込まれる。両側から回り込んだ騎馬隊はそのままの勢いで円陣を構成中だった盾兵たちを蹴散らす。数分の間に五百名以上の第二部隊の騎士たちが全滅した。
円陣の中心にいたジェラルドは、周囲の騎士たちを叱咤して、交戦姿勢を崩さなかった。巻き返しは不可能であっても、無様な死に様を見せては、他の部隊の士気まで低下させてしまう。何よりこの部隊の騎士たちは、護国騎士団中最も勇猛な者たちである。ヘンドリック・ファン・オールトの鍛えた男たちが簡単に崩れ立つわけにはいかない。
「弓は捨てろっ!剣を抜いて交戦するのだっ!」
だが、周囲にいた騎士たちは勇敢に交戦しつつも次々と散っていった。誰一人として逃げ出そうとしないのはさすがではあったが、抵抗むなしく次々と切り刻まれていく。不死鬼の側にも被害は出ているが、ごく僅かであった。
ジェラルドは必死に戦った。すでに指揮官としての役割を終えている。自分の周囲には指示に従えるような騎士は残っていなかった。ジェラルドの戦術指揮能力や部下達の士心を得る力はリートフェルトやヤン、シモンにも一目置かれている。一人の騎士としても平凡とは言いがたいレベルではあったが、まともに不死鬼と戦って勝てるかといえばさすがに心もとなかった。まして、武術の経験のある不死鬼であればなおさらである。
ジェラルドはそれでも指揮官と思しき長身の剣士に向かって馬を駆った。
「貴様が頭目かっ!」
ジェラルドは騎乗で用いる長槍を突き出すのではなく、上から振り下ろした。長身の男はプレートアーマーを着込んでいるし、多少傷つけた程度では不死鬼にはダメージにならない。昏倒させることを狙って、切ったり突いたりするよりは、頭部を殴りつけるほうが有効なはずであった。
攻撃は不死鬼の左側に走りこんだジェラルドの騎馬がすれ違う瞬間であった。長身の男は長大な剣を右手に持っている。左側に回り込めば攻撃は遅れるとの計算からであった。
だが、渾身の一撃は不死鬼の頭部には届かなかった。常人には扱うことも難しいであろう長剣を小枝でも振るかのように振り上げ、片手で重い槍の一撃を受けたのである。異常発達した筋力を持ってなせる技ではあるが、これほど的確にやってのけるのは、武術の技量が伴ってのことでなければありえない。
長身の不死鬼はすばやく右手で長槍を掴むと、片手で思いっきり振り上げた。槍を放さなかったジェラルドは軽々と持ち上げられ、反対側に放り出される。さらにその直後、不死鬼の左手からジェラルドの槍が放たれた。鎧を貫き、右わき腹傷つけた槍は逆側に飛び出し、地面にジェラルドを縫い付けた。
「悪くない技量と判断力だが不死騎隊を相手にするには役不足だったな。ヤン・エッシャーに伝えろ。待ったところで状況は好転しないとな。我々は補給の問題は解決したし、内部崩壊ももうありえない」
「たいした自身だな」
必死に虚勢を張って見せはしたものの、声は震えていた。
「シモン・コールハースには、ヨハネスが待っていると伝えよ。楽しみにしているとな」
長身の不死鬼、ヨハネス・ファン・ビューレンはそう言うと、周囲には何も言わずにフリップ王国方面へ騎馬を駆った。何の指示も出されていないにもかかわらず、他の不死鬼たちもそれに従う。
ジェラルドは彼らの駆る馬の異常に気づいていた。目がつぶされ、耳もふさがれているのだ。さらに、馬としてはあまりに筋肉量が過大であった。
「不死鬼化した馬か・・・ヤンに可能性は聞いていたが・・・」
そうつぶやいたジェラルドの周りにはすでにその言葉を聞ける部下は一人も残っていなかった。
「ああ・・・シルヴィア、ということでヤンに頭を下げるついでに不死鬼軍と戦ってくる」
ヤンやサスキアとはまた違った意味で、ウィレムは不器用な口調でシルヴィアに出陣を告げた。もちろん、シルヴィアはそのことを元々知っている。カリスの「出陣前にちゃんと話をして安心させるように」と言われてのことなのだが、そんな改まったことは、結婚以来ずっとなかった。
ドンッと、シルヴィアはウィレムの背中を叩いた。
「公国元帥閣下のお子様はあんたに抱かれるのを心待ちにしているわよっ!しっかりやってらっしゃい。ヤンだけに負担を掛けるのも良くないわ。そんな大軍の指揮なんて気詰まりな仕事は彼には似合わないんだから。その辺は兄の仕事よ」
シルヴィアに不安がないわけではない。だが、武人の妻としての心構えは出来ているし、サスキアやカリスとは違って、元々貴族の出自である。戦となれば何があってもおかしくないことは承知しているし、夫が後ろ髪を引かれて戦いに集中できないことなどがないように送り出す責任があると考えている。シルヴィア・ファン・バステンは結婚前からそういう女性であった。
「ああ、ガキのお守りをするために帰ってくるよ」
「ええ、行ってらっしゃい。オムツの替え方ぐらいは覚えておいてほしいわね」
僅かこれだけの会話であった。それで二人には十分なのである。
「ルワーズ騎士団および護国騎士団の精鋭たちよっ!」
護国騎士団本部の屋外練武場総勢二万名に及ぶの兵士が集まっていた。ノールト奪還作戦の主力となるルワーズ騎士団と護国騎士団本部に残っていた第三部隊および騎士団長親衛隊、それに保安兵団や、アメルダム周辺の小規模な兵団から供給された予備兵員たちである。ウィレム・ファン・バステンはすでに公国元帥の地位についており、ルワーズ公国全軍に対して責任を負う身である。本来であれば、自ら戦場で陣頭指揮を執ることなど滅多にない地位ではあり、彼自身の出陣が、不死鬼軍事件の重大さを表していた。
「不死鬼軍は今やその何ふさわしい、不死鬼のみによって構成された部隊を手に入れたっ!たとえ、十倍以上の兵力を誇っていても、苦戦は免れ得ないっ!しかし、無謀な戦いを挑むわけではないっ!必ず勝算を持って、不死鬼軍に挑む!そこは私と、我が弟、ヤン・ファン・バステンが全てをかけて責任を持つっ!怯むことなく、不死鬼に立ち向かうのだっ!満身創痍となりながら最後まで叩き続けたピーテル・ブルーナ主任主計官の姿を思い起こせ!決して最後まで諦めるなっ!」
二万名以上の全員が、公国元帥に向かって、剣を抜き、自分の顔の前に立てて、誓約の礼を取った。ヤン以上に武人としての名声の高い、新任の公国元帥は全ての武人の尊敬を集める男であった。
ルワーズ騎士団の編成作業は僅か半月で完了していた。カレン・ファン・ハルス、ディック・ファン・ブルームバーゲン、カレル・パルケレンネが中心となって行われたが、カレンのみならずディックの意外な手腕が発揮されたがために、予定の三分の二の日数で作業が終えられたのである。さらに公国中央医局の協力を得て、マウリッツ・スタンジェが以前からひそかに開発を進めていたという、対吸血鬼の新装備も配備された。これ以上は望めない体制を築けていることは間違いないのだが、それも安心とはいえないのが不死鬼との戦いであった。
慣例どおり、全ての兵士たちはワインのグラスを片手に持っていた。乾杯の音頭は総司令官ではなく、その補佐役に当たる人物が行うのもやはり慣例であった。今回はディックがそれを勤める。
「酒の一滴は地の一滴!」
「一滴飲むたび一滴屠らん!」
全員がワインを一気飲みし、足元でグラスを叩き割った。
降りつづけていた雷雨が止んのは、すでに夜半であった。ゼーラント州のフリップ王国国境から程近い街道沿いの小さな小屋にヨハネスはある人物を迎えに来ていた。街道を監視するジェラルド率いる護国騎士団第二部隊を強襲した目的はこの人物をノールトに迎えるためであった。
「ファン・ビューレン卿。ご苦労であった。そなたのお陰で私はやっと、ルワーズの大地を踏むことができた。感謝している」
若いわりに暗く、落ち着きすぎた声でそう言ったのは、アルベルト・ルワーズであった。物心ついたときにはすでに名目上のルワーズ公爵にフリップ王国から指名されていた人物である。母親はジェローンの異母姉ファムケであり、父親は現フリップ王国国王シャルル・ド・フリップの兄である。世が世なら、アルベルトはルワーズ公爵のみならず、フリップ国王に即位していた可能性のある人物である。ファムケが嫁いだシャルルの兄は次男であり、シャルルは三男であった。十年前の戦争当時国王であった長男が嫡子なく崩御した際、アルベルトの父はすでに病死しており、成人している一番血縁の近いが王族がシャルルであったための即位であった。
もし、アルベルトの父があと数年生きていれば、シャルルの即位はなく、その後に病死していれば、アルベルトが王位を継承していてもおかしくはなかった。それがこの若者の人格を歪めた人生の始まりである。生まれていたときから与えられていたはずの特権を理不尽に奪われたとずっと思い込んでいたのだ。フリップ王家ではアルベルトを王族として待遇し、形式上は未だにルワーズ公爵位が与えられていた。本来であれば、国王の甥に当たる人物ならもう一つ上の大公位が与えられるのが普通なのだが、大公には領地は与えられない。アルベルトは領地を得られる可能性のあるルワーズ公爵位に固執し、大公位を辞退したのである。
しかし、それも長くは続きそうもない。すでにフリップ王国の辺境伯領においても、ジュリオ・ベルルスコーニの失脚の可能性についてささやかれていた。まだうわさでしかないが、国王の指示を受けた密偵が辺境伯領に潜伏し、野放し状態で制御下に入っていなかった吸血鬼の集団を捕らえ、それに幾度も襲撃を受けていた村人たちとともにアキテーヌに向かったと言う話が聞こえてきたのだ。
もちろん、これは、マウリッツ・スタンジェとカスペル・ファン・ハルスが行ったことである。生き証人である村人と、吸血鬼の死体があれば、『住民が全て吸血鬼化した呪われた地などに軍を進めるな』というベルルスコーニの論法は通用しなくなる。何より、そのタイミングでラウラの法王猊下がアキテーヌに現れると言うのだから、密偵の才覚次第ではベルルスコーニは失脚どころか破門、場合によっては異端審問にかけられかねない状況であった。
そうなれば、アキテーヌから大軍が辺境伯領に派遣されてくる可能性がある。レオンス・ド・アズナブールは強気ではあるが、彼の知にはまともに制御を受け付けない吸血鬼が数千ほどいるだけで、それらを指揮できる不死鬼の指揮官はいないのだ。ベルルスコーニがいなくなれば、シャルル国王と宰相ジュール・ド・エッフェルは兼ねてから主張していたルワーズ公国との柔和政策を実行に移すに違いない。そうなれば、アルベルトはすでに名目上のものだけでしかなかったルワーズ公爵位を失うことになる。
アルベルトは、頑なに自分の旧領を守ろうとするレオンスを見捨て、ノールトに向かったのである。
「殿下。ノールトにお迎えできますこと、誠に嬉しく存じます。お疲れとは存じますが、今日中に到着せねばなりません。私どもが護衛いたしますので・・・」
抑揚のない声でヨハネスはアルベルトを促した。
こうして、ノールトはアルベルト・ルワーズを君主として迎え、『もう一つのルワーズ公国』の首都となったのである。
そのノールトでは、サスキアの手ほどきを受けたイエケリーヌが初めて作った牛血粉料理が一部の不死鬼たちに振舞われていた。フーゴー、エド、バールーフの他、希望した十数名が食卓に集まった。噂を効いた不死鬼達が争って試食会への参加を希望し、抽選によって選ばれた者だけがその場にあった。妙に高まった期待感がイエケリーヌにプレッシャーを掛ける。
「・・・」
「さあ、みなさん。席についてくださいませ。メニューの半分はイエケリーヌさんがお作りになりました。両が多くて大変なので、半分は私が用意いたしましたが、イエケリーヌさんが今後調理を担当されるためにも、どんどんお食べになってご意見をくださいね」
イエケリーヌが無言なので、代わりにサスキアが話し始める。
「イエケリーヌさんが作ったのは、こちらの牛血粉のチキンソテー風とシチューになります。こちらの牛血粉のゼリーは私が作りました。牛血粉の香りや味は抑えて、普通のデザートとして召し上がれるようにしてみましたわ。さ、お食べくださいな」
サスキアの言葉が終わる前にものすごい勢いで不死鬼立ちは料理を口にかきこみ出した。が・・・
「んっ・・・んぶっ・・・!」
「・・・んなっ・・・!」
あちこちで嘔吐をこらえる声が聞こえる。
「・・・だめだこりゃ・・・」
思わずつぶやいたのはエドである。サスキアの手ほどきがあればこんなことはなかろうと考えていたのだが・・・。
「い、イエケリーヌさん?さっき食べたときはこんな味では・・・」
サスキアはちゃんと事前に味見をしていた。
「いや・・・あの・・・ちょっと味を足してみようかななんて・・・」
「イエケリーヌッ!なぜ余計なことをするっ!ちゃんとサスキア殿の言う事を聞けっ!」
父親であるドースブルフが怒鳴りつけた。ただし、よく見ると本人はそもそもイエケリーヌの作った分には手をつけていない。何故かサスキアの作ったゼリーだけ完食していた。それを見た他の不死鬼たちもゼリーに手を回す。
「で、デザートはお代わりはないのか?」
バールーフが期待感を込めてきく。
「す、すみません。余った材料で作ったものですから・・・」
「そうか・・・」
食卓にため息が漏れた。ガックリした不死鬼たちはゼリーだけを食べて他はすべて残し、その場を去っていった。
「・・・」
「あの・・・イエケリーヌさん。大丈夫。次はみなさんに美味しいと言ってもらえますわ」
「素直に言う事を聞けばいいものを・・・」
イエケリーヌは散々にいわれてへこんでしまった。武術では男を相手にしても遅れをとったことは殆どない。不死鬼となる以前からそうであった。だが、料理などまともに出来そうもないことは父親であるフーゴーもわかっているはずである。これは父親が自分を虐待するために下した命令ではないかとさえ思われた。
サスキアの丁寧でやさしい指導がかえってイエケリーヌのプライドに触れたのである。だからといって、サスキアに当り散らして暴力を振るうことなどもできなかった。そんなことをすれば、フーゴーは自分を許さないだろうし、エドには殺される可能性すらあると感じていたのである。
「も、申し訳ありません・・・」
「もうよい。次はちゃんと作れ。凝ったものにする必要はない。それでは、戦闘時の食料にはできん。だがまともに食べられるものでなければ意味はない。そこのところもサスキア殿にはお考えいただきたい」
「私は戦闘にご協力するつもりはございません。しかし、どのみち凝った料理ではたくさんの方にご用意するのは難しいですね。スープや簡単な料理を中心に検討してみましょう。可能ならご自分でも用意できる方がいいでしょうから」
「そんなことまで考えているのか?」
疑問を口にしたのはエドである。
「みなさんのお考えはどうかわかりませんが、私とマルガレータは不死鬼の方でも、ごく普通の日常生活を送れるようになることを目指して研究しておりました。マルガレータは食事や外出をちゃんと楽しめるような生活を送れるように様々な研究をしているのです。つい、余所行きの凝った料理を作ってしまいましたが、ご自分で自炊できるようになることはそうなると大事なことですから」
またも、不死鬼たちは驚かされた。同時に奇妙な感覚に襲われる。自分たちは彼女たちを人質に取っているのだが、その人質は自分たちの意図とは関係なしに、不死鬼を救うための研究をそのまま続けているのだ。自分たちは彼女たちの所属する勢力と敵対しているはずで、彼女たちは一貫して同じ研究を続けているのに、人質にしてみれば、その研究は自分たち不死鬼のためのものであった。
ドースブルフはこの奇妙な状況に困惑しているが、エドには理解できるところがある。なにせ相手はサスキアなのだ。目の前の事柄にこだわらずに本質のみをついてくるのが子供のころからの彼女の性格であった。それはヤンも同じである。だからこそ、自分はヤンにかなわなかったのだと言うこともわかっていた。
サスキアがこのようなことをすることで、不死鬼軍にダメージを与えようとしているわけではないことも十分にわかった。まさしく、これはヤンとサスキアの共通する思想から来る行動なのだ。
『患者を目の前にしたらその力になること以外は余計なことは考えない』
敵か味方かと言うことまで度返しにして、すべての不死鬼を患者として捉えているのだろう。
『患者・・・か・・・』
誰にも聞こえない声でエドは呟いた。十年前、不死鬼となりヤンに発見された時点で、自分はヤンの患者であったのかもしれない。それこそが、エドに不死鬼軍を作らせた原因であった。不死鬼軍編成のアイデアはエドの頭脳から出たものである。自分と同様に自然発生的な不死鬼となったヨハネス・ファン・ビューレンと出会い、ファン・クラッペに接触し、アルベルトやレオンスをスポンサーにして、さらにドースブルフ親子を巻き込んだのもエドであった。それは、自分を殺せなかったヤンに勝つためにしたことである。
だが、ヤンにとっては未だに自分は患者でしかないのであればそもそも戦いとは言えない。今、サスキアは口には出さないが、自分たち全員のことをやはり患者としてしか見ていないことがわかる。
その事自体がエドの心を深く傷つけるのだ。自分はサスキアやヤンを守るナイトになるはずではなかったのか。傭兵を目指していたのは、そうした高潔な戦士となるためであった。それが今は反乱軍で不死鬼と吸血鬼の軍隊を率いている。不死鬼軍の軍師は説明し得ない複雑な感情を抱え続けていたのだった。
結局、もうしばらくの間はイエケリーヌはマルガレータの指導の元に操死鬼を使って牛血粉を大量生産する方法を研究することに専念し、その間にサスキアは不死鬼たちが自分で調理できたり、大鍋で大量に作れるレシピを研究することになった。
不死鬼軍では奇妙なことに、こと食事に関してだけは人質であるマルガレータとサスキアが全権を握らされるような状態になっていたのである。