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不死騎  作者: 槙原勇一郎
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戦時体制

護国騎士団本部に戻ったウィレムとディックは、庁舎内の様子を確認して立ち尽くした。僅かに残っていた警備要員数十名は全て死体と化していた。事務員や医師たちにに死者がいなかったのは、残業している者がいなかったからである。残っていたのは警備兵と本部に寝泊りしているサスキアとマルガレータ、二人を気遣って気晴らしの機会を作っていたピーテルだけだったのだ。


他には誰もいない中庭でピーテルは発見された。折れた右腕に折れた剣を握り、仰向けに倒れている。体中にフレイルで痛めつけられた傷があり、その姿はあまりに無残であった。しかし、それでもなおピーテルは剣を握り締たままで、すさまじいまでの抵抗の意思がそこから感じられたのである。


「ブルーナっ!おいっ!ブルーナっ!」

「げ、元帥・・・だめでした・・・僕は・・・マルガレータとサスキアさんを・・・」

「馬鹿野郎!無理しやがって・・・」


その場にいた全員が衝撃を受けていた。ここに戻るまでの間に、吸血鬼治療チームの中心人物である二人の拉致がイエケリーヌの狙いであることはおよそわかっていた。間に合わない可能性のほうが高いこともである。だが、ピーテル・ブルーナのこの姿だけは誰も想像していなかった。イエケリーヌにピーテルが挑めば叩きのめされることは誰でもわかる。だが、まったく武術の素養がない、泣き虫とまで言われる童顔の主任主計官が最後まで必死の抵抗を示したことが、その惨状からありありと伺えたのである。


「ファン・バステン元帥っ!」


宮廷から急いで戻ってきたらしいカリスがそこにいた。


「クリステル先生っ!ブルーナをっ!ブルーナを助けてくれっ!」

「わかってます。手足には添え木をっ!担架をもってきてっ!すぐに屋内に運ぶのよっ!」


カリスもすでにおよその事情は知らされていた。サスキアとマルガレータ、自分の妹と親しい部下が拉致されたのである。だが、動揺することなどできなかった。ピーテルの姿がカリスだけでなく、その場にいた全ての人間に、悲嘆にくれるような甘えを許さなかったのである。


「急いでっ!絶対に死なせないっ!ここで彼を救えなかったら、マルガレータに合わせる顔がないっ!」


最近では酒癖の割るがさ目立ちつつも、颯爽とした仕事のできる女医として人気のあるカリスだが、このときの様子には鬼気迫るものがあった。カリス自身は不死鬼軍事件の勃発以来直接診療や治療に参加してはいなかったが、根の部分は医者のままである。


ピーテルはすでに気を失っていた。だが、それでも、折れた剣を離そうとはしなかった。ディックが指を一つ一つ引き剥がして剣を取り上げたが、手の皮膚に血がにじむほどの強い力で握られていた。





ウィレムは護国騎士団本部をディックに任せて、再び宮廷に参内した。宮廷では全ての閣僚がそこに残っていた。なぜか国務府に出ていて難を逃れたカレンまでそこにいる。閣議室の雰囲気はきわめて暗いものだった。ウィレムがここを飛び出してから、四時間程度。その間、閣僚たちはほとんど何もしゃべらず、ただ、矢継ぎ早に入ってくる凶報に青ざめた顔を見合わせるだけであった。


「ファン・バステン元帥。状況はすでに聞いている」


重々しく口を開いたのはジェローンである。僅か数時間前までは同じ閣議室ではルワーズの明るい未来の展望が話題になっていたのに、事態は急激に悪化した。不死鬼軍はついにその名にふさわしい不死鬼の軍隊を得たのである。僅か数百人とはいえ、吸血鬼ではなく理性ある不死鬼、それも自ら望んだ者たちのそれは、十倍の軍隊をもってしても侮れない相手であった。そして、この日の犠牲者の数は、すでに不死鬼軍事件の勃発からの全被害者の数を上回っている。それも、一方的に襲われたのではなく、警備や戦闘体制にあった兵士たちが殺されているのだ。


陰気なせりふや雰囲気の似合わないジェローンの表情にも陰りがあった。


「我々は油断していた。ヤン・エッシャーの智謀をまるで公国そのものの力のように考え、彼が不在のアメルダムでの警戒を怠っていたのだ」

「陛下、今は悔やんでいる場合ではありません。重傷を負ったピーテル・ブルーナ主任主計官は、かなうはずのない不死鬼を相手に、ぼろぼろになっても剣を手放すことはありませんでした。我々も悲嘆にくれている場合ではありません」


ウィレムの言葉にうつむいていた閣僚たち全員が顔を上げた。ピーテルの人物は皆多少は知っている。少なくとも武勇の人ではないことは明らかにわかる。『文弱の騎士』と言う言葉の見本のような若者が見せた意地は、身分の高い者たちにも衝撃を与えていた。


「ブルーナ主任主計官の容態は?」

「今、クリステル医師が必死の治療を・・・絶対に死なせないと・・・」


全員、息を呑んだ。絶対に死なせないとは、死の危険があるときにしか使わない言葉だ。単に尊い命が失われるだけでなく、公国を代表する人材と目されるピーテルが失われるとすれば、国家にとって大きな損害であった。


そのとき、空気の重い閣議室に実務的な風を吹き込んだ者がいる。


「少し、落ちつきましょう。まず、被害について冷静に把握することです」


こう言ったのはベルト・ファン・レオニーである。シルヴィアでさえ動揺を隠せない状況にあって、この引退予定の政治家は動じていなかった。引退を決意することで、若い頃の理想家としての本性を取り戻し、それに長く政権の首班であった経験を加えた、政治家ベルト・ファン・レオニーの完成形がここにあった。


彼の一言で、閣議室は落ち着きを取り戻した。


「大監獄では全ての囚人は吸血鬼か不死鬼に変えられてしまいました。逃走に成功したのは不死鬼のみです。両者の比率は今現場に残された吸血鬼の死体を数えておりますが、おそらく、八百名は不死鬼となって逃走したものと思われます」


単純に一体の不死鬼に対して十名の騎士で戦力的につりあうとするなら、八千人の部隊が必要となる。だが、この計算ですらおぼつかない。不死鬼の中にはヨハネス・ファン・ビューレンのような武術の達人が他にもいるかもしれない。凶悪犯の中にそうした人物が含まれている可能性もある。また、不死鬼の中の軍師、エドと名乗る男の存在が不気味だった。ヤンの智謀をすでに読んでいたのだ。強力な不死鬼の軍隊に彼の智謀が加われば、数的優位などまったく意味を成さないのではないかと思われた。


「監獄内の職員百名あまりが逃走の前に全員殺害されていました。確認はできていませんが、ほぼ確実に全滅です。また不死鬼たちを包囲した際に九十八名の護国騎士団第三部隊の騎士が戦死しております。護国騎士団本部では二十三名が死亡、五名が重傷、そして三名が行方不明です」

「行方不明が三名・・・マルガレータ・バレンツ主任とサスキア・ウテワール婦長以外に誰が?」

「ロビー・マルダー氏の姿が見えません」

「!」


これは閣議の場にも知らされていないことであった。ロビー・マルダーは対不死鬼軍作戦における重要人物である。


「まさか・・・不死鬼軍に戻ったとでも・・・」

「いえ、それはないでしょう・・・牛血粉の効果を知るサンプルとして連れ去られたのかもしれませんが・・・」


ロビーがまともな生活を送れるようになるのなら、不死鬼軍の指揮官たちに翻意を促せると考えられていた。しかし、凶悪犯を中心として、指揮官ではなく兵士が不死鬼で構成される軍相手となると、この策略の成功はおぼつかない。凶悪犯に特赦を与えると言うのはさすがに司法上難しい話であった。また、ザーンから多くの不死鬼の捕虜と、吸血鬼からの不死鬼化に成功したノップラー副隊長が移送されてくるので、ロビーの重要性は低下しているかもしれない。そのため、この話題はこれ以上議題に上ることはなかった。


この日の被害は、これまでの不死鬼軍事件で最大のものであった。戦場でもこれほどの死者は未だ出たことがなかったのである。


「して、元帥としてはこの事態にどう対応すべきとお考えか?」

「私自ら、ザーンに向かい、護国騎士団長代理と共にノールトを制圧します」

「!」

「おそらく、二人を連れ去ったイエケリーヌも、大監獄から逃亡した不死鬼数百名もノールトに戻るはずです」

「し、しかし・・・人質を取られているのでは・・・」

「だからと言って待っていても始まりません。何より、私にはこの事態を解決する智謀はありません。公国軍の全力を持って不死鬼軍に対する必要があります。智謀はヤン・エッシャーにあります。彼の元に最大の戦力を置き、その判断で戦うべきです」


公国元帥自らが、自分の弟の判断で全てを決めるべきだと述べたのである。だが、誰もがそれを正しいことと認めざるをえなかった。今回の失敗は、アメルダムとザーン、二箇所に分かれた対策本部の隙を付かれたのだ。ヤンやシモンの軍勢が護国騎士団本部にあれば、または護国騎士団本部にいるサスキアやマルガレータがザーンにいれば、少なくともこの二人が誘拐されることはなかったはずである。ヤンやシモンならイエケリーヌを撃退することも可能だった。いや、ウィレムが護国騎士団本部にいれば、イエケリーヌごときはどうにかできたはずである。だが、前線とアメルダムとの戦力分断によって、不死鬼に対抗できる人材が明らかに足りない状態だったのだ。


被害の大きさと、ウィレムの発案に漂う悲壮感に閣議室に悲観主義の汚水があふれ出し始めたとき、それを一気にろ過する一言が発せされた。


「ファン・バステン元帥!ルワーズ騎士団の召集を許可するっ!」


突然、ジェローンが声を高めて宣言した。一瞬、ほとんどの者はその言葉の意味を理解できないでいる。


「その戦力をもってヤン・ファン・バステン護国騎士団長代理と共にノールトの制圧することを命ずる!護国騎士団本部に残っていた第三部隊及び騎士団長親衛隊も動員せよっ!」

「そ、それでは、アメルダムががら空きになります!」


ほとんど震える声で異を唱えたのはシルヴィアである。


「宮廷騎士団を出動させる!アメルダムの防御は私自らが指揮を執る!」


これは、不死鬼軍事件を単なる辺境の反乱ではなく、隣国による侵略に匹敵する体制で対応することを意味する。ジェローンは自分の認識を短時間で改めたのである。この事件を契機に公国の政治体制を一新して真の独立公国への道を歩もうと言う考えには変わりはない。だが、そうしたチャンスである前に、公国の存続にかかわる重大な事件であることを思い知ったのである。


ルワーズ騎士団とは、平時には存在しない騎士団である。実際には平時に存在する騎士団は護国騎士団と東西南北に配置された小規模な地方騎士団、海岸線と海上を担当する海上騎士団、そして、宮廷府に所属し、国公ジェローンが直接指揮をとる宮廷騎士団のみである。ルワーズ騎士団とはこれに加え、実際に外国からの脅威を受けた場合のみに編成される主力騎士団で、武術の経験がある貴族や平民の予備役を招集したものである。戦時動員の基準は騎士団としては最大の一万名であった。


四つの地方騎士団は実際には幾つかの州都の城兵をかき集めて編成されるもので、騎士団の名称はついているものの、まとまった一つの戦力として活動しているものではない。時間をかければ一箇所に戦力を集め、本来の意味での騎士団として編成することも出来るが、住民を収容している地方都市の防御を考えると動かすことは出来ない。


不死鬼軍に対応して動かすことの出来る戦力は護国騎士団と宮廷騎士団、そしてルワーズ騎士団の三つだけであった。


「私もザーンに参りますっ!」


さらに突然声を上げたのはカレンであった。


「か、カレン殿!危険ですっ!」


ウィレムが驚愕し反対する。戦場に女性をあえて連れて行くなどと言うことは考えられるものではなかった。


「ザーンには多くの民衆もおります。その中には女性もいることでしょう。私は武術にも軍略にも素養はありませんが、多くの軍勢を率いていくのならば、補給や編成などの事務処理も多大な負担となるはずです。私にも出来ることが必ずあるはず!お願いします!行かせてください」

「し・・・しかし・・・」


確かに、ルワーズ騎士団と護国騎士団、それに保安兵団からの要員などをあわせれば、二万近くの軍勢となる。これだけの軍勢を支えるのはザーンだけでは難しい。ピーテル・ブルーナが重傷となった今、そうしたことに対応できる人材は護国騎士団内にはいないのだ。カレンは特別監察官の仕事ぶりから、計数にも通じ、ファン・ハルス家の事業を兄ジェラルドと共に成功させた実績もある。


「ファン・バステン元帥・・・カレン殿に頼もう。躊躇っている時ではない。人手はどう考えても足りない。彼女の力が必要だ」


ジェローンが諭すように言う。彼は覚悟を決めていた。ことが不死鬼の軍隊八百名の誕生となれば、これは完全に戦争であった。臨戦態勢を作らねばならない。すでに今日だけで数百名の被害者が出ているが、もう一桁上になることも覚悟せねばならなかった。


「宮廷書記官!特別辞令を発布するっ!」


いつもどおり、あわただしく書面が用意される。


「国務府臨時事務官カレン・ファン・ハルスを対不死鬼軍連合騎士団特別事務官に任ずる!ウィレム・ファン・バステン元帥の下、全軍の補給と軍政を整えよっ!」


カレンはいずれ国務府の参事官となることが正式に決まっているが、この時点ではまだ臨時事務官の身分である。この特別辞令により『対不死鬼軍連合騎士団』と呼称される軍隊が定義され、彼女のはその事務面を統括する責任者となったのである。


「不死鬼の社会復帰プログラムの実施チームについては、一時的にシルヴィア・ファン・バステンの直轄とする!」


シルヴィアの現在の身分は国務府と司法府の非常勤顧問でしかなく、すでに護国騎士団長夫人ではない。だからと言って、手が空いているわけでもなく、また、妊婦であるので無理はさせられない。他には人がいないための苦肉の策であった。社会復帰プログラムの実施自体が遅れることもいたしかたない。


「司法卿アントン・ファン・フェルメール!社会復帰プログラムには司法府の管轄となる問題も多い!従姉弟殿を補佐せよ!」


司法府の長たる司法卿に司法府の非常勤顧問の補佐をせよと言うのだから、一見おかしな命令ではあるのだが、誰もそのことは口にしない。アントン自身、自分から名乗り出てでもそうしたかったことであった。シルヴィアはすでに次期国務卿に内定しているのだから、この時点で部分的に権力移譲があったとしても問題にはならないのだ。ファン・レオニーも反対しなかった。


ジェローンの宣言が終わったところで、ウィレムが立ち上がった。全員を見渡してから軍務卿として厳かに宣言する。


「ルワーズ騎士団の召集により、不死鬼軍事件は正式に対不死鬼軍戦争となる!ここに公国全土に戦時体制を敷くことを宣言するっ!各府各局の軍務府への協力をお願い申し上げるっ!」


頭を下げたウィレムに対し、閣僚全員がうなずいた。これまで、『不死鬼軍事件』称し、大規模ではあるが一事件として処理され、護国騎士団と保安兵団と言う平時の治安維持に責任を持つ軍隊の担当であったものが、ルワーズ騎士団の召集によって、正式に戦争と認識されることになる。この宣言はすぐに公国全土に伝書鳩を使って通達された。すでに、各都市では周辺住民の城塞都市への収容を行い、非常事態への対応を取ってはいるが、いよいよ戦争であることが正式に認められることで、全ての国民が震撼することとなる。





「おいっ!エリートセンセイ!おいっ!ファン・ビーヘル先生っ!」


そこは、カリスに十日間の謹慎を言い渡されたフレデリック・ファン・ビーヘルの部屋である。すでに十日の謹慎期間は終えているのだが、ファン・ビーヘルは休暇届を出して休んでいた。多忙のため気にしてもられないカリスはそれを受領して、そのまま休ませていたのである。戻ってきたところで頭痛の種が増えるだけと考えたのかもしれない。


フレデリックの寝室の外で窓をたたいていたのは失踪したと言われたロビー・マルダーであった。


「っ!ロ、ロビーっ!」


あわててフレデリックは窓を開けた。すぐにロビーが部屋に舞い降りる。ファン・ビーヘルは爵位は低いが裕福な貴族の若様であり、屋敷は大きいが、彼自身はそれほど贅沢な生活を好んでいないようで、部屋の中は意外と殺風景であった。寝室は本当に寝るためだけにある部屋で、ベッドとその脇に小さな棚があるだけである。


「ふう・・・久々の運動は気持ちがいいもんだが・・・頼んでおいたものは出来たか?」

「ああ・・・何度か動物実験を繰り返していたところだ。今のところ問題ない。高確率で期待した効果は出ている。エッシャー先生の場合もそうだが、この手の薬については動物実験と人間で試した場合とではあんまり差は出ないようだし・・・」

「すぐにその薬をもらえないか?」

「えっ!おい・・・っていうか、抜け出して来て大丈夫なのか?」


ファン・ビーヘルは若干寝ぼけていたかもしれない。ここ数日徹夜続きで秘密の研究を続けていたのだ。


「知らないんだな・・・マルガレータとサスキア、二人のお嬢ちゃんが不死鬼に攫われた。その騒ぎに乗じて出てきたのさ」

「なっ・・・じゃあ、あんたは何をする気なんだっ!?」

「なに、あの二人はな・・・俺を多少なりとも人間らしくするためにずいぶん手を焼いてくれた。それがこんなことになったんだ、手をこまねいているわけにはいかねえさ。使うことになるとは限らないが、いざと言う時のためにあんたの薬がほしいんだ」

「・・・わかった・・・」


ファン・ビーヘルは枕もとの引き出しから錠剤の入ったビンを渡した。


「呑めばすぐに効果が出る。普通の吸血鬼の場合と違って、あんたの場合は体に成分が蓄積しているんだ。エッシャー先生の薬はその効果を抑えているに過ぎない。蓄積され続けた成分は尿になって外に出るが、一定量は体の中に残っているはずだ。この薬を使えば・・・」

「なるほど。やるじゃねぇか。エリート医師の面目躍如だな・・・」

「だが、一度使ったらもう戻れんかもしれんっ!動物実験でもこれを使ったマウスはアンステロドが効かなくなった・・・それでも・・・いいのか?」


言葉の後半につれて声は小さくなった。ロビーの目には抗いがたい力がこめられていた。にらんでいるわけでもないのだが、彼のすることに反対することはできそうもない。この件については誰の言うことも聞くつもりがないことは確かだった。


「さっき言ったとおりよ。できるだけ使わないようにはするさ」

「ああ・・・そうしてくれ・・・」

「それから・・・俺がいなくなたところで、すぐにザーンから何名もの不死鬼が到着するらしい。ルドガーのおっちゃんだけじゃどうにもなんねえだろうよ。医学院の若い姉ちゃんとか、年増の女医とかが来ているが、伝染性吸血病に詳しい奴が足らん。戻るなら今だぜ・・・おいしい場面で戻るんだな」

「ロビー・・・」

「道をはずした人間もよ、タイミング次第じゃヒーローなれることもあるんだぜ。今しかねえだろ?俺もあんたも・・・」


ファン・ビーヘルは最初はバツの悪い表情だったが、ロビーの言葉に意地を張ることをやめた。


「・・・わかった・・・すまない」

「謝る事なんかねえよ。薬、ありがとうな。休みまで取らせて悪かった。じゃ、行くぜ・・・」


ロビーは再び窓から外に出ようとした。飛び降りる瞬間にフレデリックが声をかける。


「ロビー・・・死ぬなよ・・・」

「ああ、できるだけな・・・あばよ・・」


彼の異名どおり、窓から出た瞬間音もなく忽然といなくなった。一体どうやったのかはフレデリックにはわからない。これが亡霊ファントムロビーのアメルダムでの最後の目撃証言となる。




翌朝の護国騎士団本部は奇妙な雰囲気だった。前日に多くの死者が出ている。ファン・ダルファー邸での戦闘の直後のように意気消沈しているわけでもなく、いつものようにオチャらけた態度で悲嘆をごまかしているわけでもない。皆、黙々と自分の仕事に専念していた。どこか鬼気迫る感じすらある。


イエケリーヌは致命的なミスを犯したのである。単にマルガレータとサスキアを攫い、警護兵を殺しただけであれば、あるいは士気は大きく低下し、護国騎士団も中央医局もその機能を果たせなくなっていたかもしれない。だが、最後まで抵抗し続けたピーテル・ブルーナの痛めつけられた姿が、全ての関係者に強烈な義務感を植え付けていた。


『最後まで自分の役割を果たし続ける』


無言のうちに全員が同じ決意を胸にしていたのである。


軍務府ではなく、護国騎士団本部を拠点にしてルワーズ騎士団の編成は始まっていた。ルワーズ騎士団には普段軍務には関係しいていない、武術の稽古を受けている貴族の師弟や平民、傭兵などが含まれる。必ずしも精鋭とは言い難いが、人数だけは多い。対吸血鬼の戦闘経験のない者ばかりなのも不安ではあるが、ディック・ファン・ブルームバーゲンの指揮の元、即席でその訓練を実施することとなった。編成の実務は軍務府首席参事官であるカレルが担当する。アバラの骨折はまだ完治はしていないが、すでにそんなことを言ってられる状況ではなかった。


二万人近くに膨らむ対不死鬼軍連合騎士団の補給計画はカレンの手によって立てられている。本来はピーテルの仕事であった。彼の下には数名の主計官がいたが、優秀で若い上司に頼りきりであった彼らにはこれほどの規模の仕事は荷が重い。だが、やはり、自分たちのリーダーであったピーテルのボロボロの姿が彼らを奮い立たせた。カレンの指揮の元、完璧な補給計画を立て始める。さらにカレンはカレルを手伝って、部隊の編成に関わる事務処理にも協力していた。装備品の確保や支給などの手続きをテキパキと進める。カレンの有能さは目を見張るものであった。




「ブルーナ主任が気が付いたわっ!」


大広間に設置された司令部にカリスが駆け込んできた。対不死鬼軍の戦術立案作業を行っていたウィレムは、すぐに立ち上がった。カリスは昨晩から徹夜で大手術を行っていたのである。その後も、ほとんど付きっきりで看病をしていた。ウィレムは容態を気にしながらも、宮廷から帰ってきた後も仕事に追われ、ピーテルの様子を確認することはできていなかった。


「容態は?」

「命に別状はないわ。幸いにも折れた肋骨が内臓を傷つけたりしてなかったから。ただ・・・左足は膝の骨が完全に砕かれていて・・・足を引きずることには・・・」

「・・・そうか・・・」


ピーテルの病室に、カリス、ウィレム、そしてディックが入ってきた。ピーテルは両手両足にギブスがはめられ、身動きが取れない状態になっている。それ以外にも無数の傷を負っていた。


「元帥・・・すみません・・・二人を・・・守りきれませんでした・・・」


ピーテルは力なくそう言った。自分の武術など騎士としては半人前にもなっていないレベルであることは自覚している。それでも、あの状況では自分が戦って血路を開く以外方法が思いつかなかった。結果は予想されていたがそれでも、そうせざる得ない。おそらく公国一の秀才であるピーテルが下した決断はもっとも彼らしからぬものであった。


「馬鹿野郎!最後までお前は戦い続けたじゃないかっ!お前以外の誰がそこまでできるっ!」


珍しく声を荒げて叫んだのはディックであった。ディックはある意味ではピーテルをパシリに使っていたようなところがある。シモンと共に悪巧みや馬鹿騒ぎに巻き込んで、嫌がるピーテルに『サスキア嬢防衛隊』に入隊させ、その片棒を担がせていた。だが、文弱の代表格と思われたピーテルの闘志に最も心を動かされたのはこの元絵師だったのである。


「ああ、ブルーナ、お前は立派に戦った。お前こそ護国騎士団の勇士だ。今は休め。二人は・・・二人は絶対に助けてみせる。それは俺の仕事だ」


ウィレムは力強く言った。ピーテルを安心させるためだけでなく、自分自身に誓いを立てるためであった。




病室を出たウィレムはカリスに話しかける。ディックは病室に残っていた。


「クリステル先生・・・あとはお願いします。貴女はここに残って、伝染性吸血病対策室を指揮していただかなければならない。ここの警備は宮廷騎士団と保安兵団が合同で行うことになりました。彼らに相談できないことがあったら、カレルに話してください。軍務府で都合をつけます」

「わかりました・・・ところで、ファン・バステン元帥」

「は・・・何か?」

「ちゃんと奥様には話してから出陣してくださいね。あまり不安にさせるのは、お腹の子供にもよくありませんわ。たとえ、シルヴィア・ファン・バステンと言えども・・・」

「は、はあ・・・」


ウィレムは気まずい顔をした。正直、シルヴィアと何を話していいのかわからないのだ。ザーンから戻った後も、ほとんど二人にはなっていない。それでかまわないような間柄ではあった。すでに十年近くを夫婦として過ごしてきたのだ。一方で、確かにお腹の子供ことは気になるし、あまり心配させるのは本意ではない。かと言って改めて出陣を前に何を話していいのかもわからないのだ。


とりあえず、ずるずると出陣までの間は、シルヴィアに話す機会は引き伸ばされていったのである。




凶報は事件が発生した日のうちに伝書鳩でザーンに通達された。文書の後半はほとんどウィレムがヤンに宛てた謝罪である。ザーン防衛軍の幹部たちは驚愕した。最初に文書を受け取ったリートフェルトはどうヤンに伝えていいものか迷いシモンに相談するが、シモンもどうしていいかわからない。何より、シモン自身が大きな衝撃を受けていた。ヤン以外ではサスキアとマルガレータをよく知るのは彼だけである。ジェラルドにも相談したいところであったが、彼はノールトとフリップ王国とを結ぶ街道を封鎖する作戦を実施中で、ザーンには不在であった。


結局、報告は夜のワインを片手にしながらの定例会議まで引き延ばされたのである。


「え、エッシャー先生・・・アメルダムより急な報告が・・・」


重苦しい口調でそう言ったのは結局リートフェルトであった。


「リートフェルト隊長・・・私は鈍いと言われることはありますが、さすがに何か悪い報告であることぐらいは今日のお二人の様子を見ていればわかります。そして・・・私にも心当たりはある。ロビー・マルダー治療チームのことではありませんか?」


シモンとリートフェルトは驚いた。そんなことまで予想できていたのか・・・。


「マルガレータ・バレンツ主任研究員とサスキア・ウテワール婦長がイエケリーヌに拉致されました。また、その際、二人を守ろうとして、ピーテル・ブルーナ主任主計官がイエケリーヌと戦い重症を負ったとのことです。その他、護国騎士団本部では死者と重軽傷者が多数でております」

「そうですか・・・」


ヤンは驚いた様子も取り乱すこともなかった。


「まさか・・・予想されていたのですか?」

「可能性としては。ただ、護国騎士団本部にイエケリーヌがたやすく侵入できるとは思ってませんでしたので・・・」

「お二人の拉致と前後して、大監獄が不死鬼に襲撃を受けました。ヨハネス・ファン・ビューレンと、エドと名乗る二人の不死鬼により、囚人たちの大半が不死鬼に変えられ、逃走したとのことです。不死鬼化に同意しなかった囚人は吸血鬼に変えられ、獄卒や監獄の職員は全滅、それ以外にも逃亡を阻止するために包囲した護国騎士団の兵員にも百名近くの死者がでております・・・」

「なるほど・・・それで本部ががら空きになったところをやられたのですね・・・そのように、不死鬼軍の指揮官が協調して作戦を取ることはないとたかをくくっていました・・・だが・・・」


ここでヤンは少し何かをためらっている様子であった。だが、思い切って言葉を続ける。


「ノールトの城主であると言うエドという不死鬼が、私の考える男であれば、私の想像を超える軍略などいくらでも出てくることでしょう・・・」

「え?知っているのですか?エドと言う男とのことを?」

「確信はありませんでしたが、今回の作戦の鮮やかさを考えれば可能性はきわめて高い」

「何者ですか?」

「私と、サスキアの幼馴染。孤児院で一緒だった男です。エド・フレイレ。護国騎士団員か傭兵として戦場に立ちたいと子供のころから口にしていました。十年前の戦争の際に、フリップ王国の遠征軍に参加することまでは手紙で知っていました。そして・・・」


まだ、ヤンには躊躇いがある。なにか後ろめたそうな感じであった。そんなヤンをシモンも始めてみた。


「エドは戦場で不死鬼となりました。フリップ王国軍で伝染吸血病が流行した際に感染したのです。戦友が自分の首筋に噛み付き、その男の首を刎ねた後、自分が周囲と違い理性を保ち続けていることに気づいたエドは、自殺の衝動に耐えながら、戦友たちの血をすすり生き延びたのです」


シモンたちは話の不自然さに気づいた。なぜ、ヤンはここまでの話を知っているのだろうか?本人の口から聞く機会がなければ知りえないことばかりである。


「先生は・・・そのエドと会ったのですか?」


思わず口にしたのはシモンである。


「ええ・・・。十年前の吸血鬼掃討戦。私は兄と共にこのあたりまで来ていました。そのとき、彼を発見したのです・・・当時は不死鬼を無害化する方法はありませんでした。本来であれば、私は彼を殺さなければならなかった・・・」

「・・・殺せなかったのですね・・・」

「当時、カイパー博士の研究では牛血粉はできていませんでしたが、人間の血液よりも大量の哺乳類の血液を摂取すれば、それに代えられるということはわかっていました。私は彼にそれを教えて逃がしました。その後の消息はわかりませんが、おそらく、この十年の間にファン・クラッペに出会ったのでしょう。ファン・クラッペはあくまで医者です。彼に戦略や策略を提案していたのは、エドかもしれない・・・」

「手ごわい男なのですね?」

「共に時間をすごしたのは子供のころの一、二年だけですが・・・そのころから、武術と戦略の才能の片鱗は見せていました。私のライバルであったと言ってもいい」


エドと言う男を生かすことで、ヤンはこの不死鬼軍事件の発生を誘発したとも言えた。そして、今まで戦っていたドースブルフやイエケリーヌの吸血鬼軍などは、言うなれば二軍でしかなかったと言うことに、他の二人も気づいた。エド・フレイレとヨハネス・ファン・ビューレン、この二人が指揮する八百名の不死鬼の軍隊を相手にいったいどう戦えばいいのか・・・。


「先生・・・先生は、その男に勝てますか?」


震える声でそう訊いたのはリートフェルトだった。戦う哲学者と呼ばれる思慮深い男も、この件については、良案が浮かびそうもない。ヤンの機知だけが頼みなのだ。これはルワーズ公国全体にとってそうなのである。


「やるしかないでしょう。一方で、相手の首脳部にエドがいるのなら、奇妙なことですが、信頼できるところもある」

「と、いいますと?」

「バレンツ研究員とサスキアの安全です。彼なら二人を虐待したりすることはありません。他の不死鬼、特にイエケリーヌとドースブルフあたりを抑え切れるかどうかが問題ですが、そこには私に思案があります」


リートフェルトとシモンの表情に光が指した。ヤンが「思案がある」と口走るならば、そこに失敗はまずない。たとえ、ヤンに匹敵する知恵者が不死鬼軍にいようと、不敗の知将ヤン・エッシャーと共にある限り、不死鬼軍に対抗することは不可能ではない。


ヤンはやはり二人を驚愕させる作戦を、つい先ほどまでとはまったく違う表情で話し始めた。たとえ、婚約者を人質にとられていようと、ヤンの英知に陰りは現れない。

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