医者
「もう少しだけ、お酒は我慢できませんか?マルコさん・・・」
ヤン・エッシャーは困った顔をしながら、患者の口の中を覗き込んだ。
「先生や・・・酒が呑めなくなったら、わしなんて生きている意味もないよ・・・。戦でかみさんも息子も死んでしまったし、他にたいした楽しみもないんだもの。後生だから酒だけは許しておくれよ・・・」
哀れな声を出している老人はまだ元気そうだった。ステーン湖で鱒漁をして生計を立てている。大して長生きなどしたくないといいながら、一番マメに通ってくる患者なのだ。
「マルコさん。何も一切呑むななんて言ってませんよ。でも、元気に鱒を取り続けて、好きなお酒を長く楽しむためには、量は少し抑えるように気をつけてください。できれば、五日に一日ぐらいは、呑まない日を作るようにしてください。それだけでずいぶん違うんですよ」
ヤンはそう言いながら、手早く処方箋を書いて、横にいる紅顔の医生に手渡した。ヤンは三十前、医生はまだ十代半ばだろう。若さと幼さの違いがわかる好対照である。紅顔の若者は、必要もないに小走りに部屋を出て行った。
「最近は一回漁にでるだけで、わんさか鱒がとれるもんじゃから、毎日出る必要もないんで、三日に一回漁に出る以外は暇なんじゃ。酒を呑むぐらいしか暇のつぶし方も知らんし・・・。なにやら対岸の連中がさっぱり漁に出てこないんじゃよ」
ステーン湖の対岸は外国である。ヤンやマルコの住むケテル村はルワーズ公国、その対岸はフリップ王国の領土である。ステーン湖の漁業権をめぐって何度か争いになったこともあるが、現在はさほど険悪になることはない。国同士はともかく住民にとってはただの隣人だった。
「はい。帰りにカスペルから薬を受け取ってください。ちゃんと飲んでくださいね。気をつけていれば、まだまだ何十年もお酒と美味しい食事が楽しめるんですから」
マルコと呼ばれた老人はしぶしぶと言った感じで、ヤンに薬を忘れずに飲むことと、できれば酒量減らすことを約束して帰っていった。
「カスペル!昼食にしよう!」
カルテを整理して、少し時間がたってからヤンは叫んだ。カスペルとは若い紅顔の医生の名前である。
「・・・・・?」
普段であれば、すぐに飛んで来るのに返事がない。ふと、耳を澄ますと、玄関先から話し声が聞こえた。誰か来客があったようだ。ヤンは玄関に向かった。
「ですから、次の診察は午後からになります。急患でもない限りお通しできません。」
カスペルにしては、ややいらだっている様子で少し声を荒げている。
「我々は診察をしてもらいに来たわけではない。エッシャー先生に重大なご相談があるのだ。診察が始まってはじっくり話すこともできないだろう・・・?」
「どうぞ中にお入りください。ちょうど昼食を取るところですので、よろしかったら御一緒にいかがですか?」
カスペルが話している相手は、初老で身なりのこぎれいな騎士と思しき人物である。なにやら身分の高そうだ。マントを止めているブローチをよく見れば、護国騎士団の紋章が付いていた。後ろには荷物を持った背の高い若い男が一人控えている。騎士の従者であろう。
「エッシャー先生でございますか。私は護国騎士団第三部隊長、カレル・パルケレンネと申します。突然の来訪、誠に恐れ入りますが、国公陛下直々の要件でございますれば御容赦いただきたい」
一町医者、それも若造に対して、慇懃すぎるようにも思われる態度だった。
カスペルはバツの悪そうな顔をしている。カスペルは元々貴族の家の生まれだが、そこを飛び出して、ヤンの診察所に転がり込んできたため、身分の高い人物を毛嫌いしているところがある。今は実家でもカスペルが医術の道を進むことを了承しているのだが、貴族嫌いの性分は変わっていない。
「なるほど。このようなところで立ち話もなんですし、お入りください。カスペル!食事を三人分用意してくれ!」
「いや、我々は結構。済ませておりますので」
「そうですか。私は午後からすぐに診察の予約がありますので、失礼ですが、食べながらにさせていただきます。カスペル!食事は一人分でいいからコーヒーを入れてくれ!」
騎士と従者はヤンに導かれて、屋敷の中に入っていた。
胸中、あまり良い予感はしていない。老騎士の深刻な表情を盗み見ながら、応接間に二人を案内した。「国公陛下直々」などと言われて、楽しい話などあったためしはないのだ。