特別辞令
「気分はどうだい?」
「ああ、それほど悪くない。脇腹がたまに痛むけどな」
「そうか。緊急だったので、人間には投与したことのない試薬を使った。動物実験では効果がでていたがね。筋力の異常発達を抑制する目的のものだが、どうやら、痛覚の鈍化も同じ原因だったみたいだな」
「結果オーライでいいさ。おかげで意外と人間らしい気分でいられる」
ヤンとロビーの会話である。ロビーは脇腹の骨折が治っていないので、ギブスを当ててまだ寝ていた。最初に捕らえられていた地下牢の中だ。ヤンが診察に向かうのも見つけてついてきたサスキアもいる。
「血の飢えって言うのはいつごろ来るんだい?」
「君の場合、本来吸血鬼であればあるはずの、過剰な新陳代謝はない。だから、一日一回ワイングラスに半分程度の血液を飲んでいれば問題ないだろう。のどが渇くと思ったらすぐに言ってくれ。体調のいい若い騎士から少しずつ血液を分けてもらう。血液は保存が利かないが、カイパー博士が長期保存可能な血液に代わる製剤を開発していたから、そのうちそちらに代えよう」
「味はいいのかい?」
冗談を言う程度の余裕はあるようだった。不死鬼として正気を保った伝染性吸血病患者は正気であるがゆえに、人外の獣と化した自分を嫌悪し、自殺を図るものが大半である。ロビー・マルダーはそうした意味で、強い精神力を持つ男のようだった。
「さあね。原材料は牛血だ。試したら感想を聞かせてもらおう。それから、筋力の異常発達を止める薬はさっき言ったようにまだ試薬だ。効果は長くはない。昨晩は全身五箇所に注射したが、普段はこっちの錠剤を持ち歩いて、二時間に一回は飲むように」
「持ち歩く?」
「ああ、昼間は皮膚へのダメージがあるからやめておいた方がいいだろうが、日が落ちてからなら本部庁舎内は出歩いてもかまわんよ。監視はつけさせてもらうがね。アバラの調子がいい時は少しは歩いた方がいいだろう」
ロビーは驚いた。
「臭気結界があるんじゃないのか?」
「痛覚の鈍化が起きてないのなら、嗅覚の異常発達もないさ。たぶんね。出てみて気分が悪くなったらすぐに戻ってくればいい」
「俺が逃亡するとか思わないのか?監視したところで、俺は亡霊ロビーだぜ。いくらでも逃げ出せるチャンスはある」
「監視は急激な症状の悪化に備えてものさ。逃げ出したりして困るのは君だろう?」
「そりゃあそうだが。」
ロビーはサスキアの方を見ながら言った。
「お嬢さん、あんたは俺が怖くないのかい?俺はこの先生のおかげで正気は保っているが、吸血鬼なんだぜ?それがなくたって、その吸血鬼どもの手先になって、あんたを人質にとったりもした」
「医者も看護婦も患者を恐れたりはしません。ただ、助けたいと思うだけですわ」
「・・・」
サスキアは暖かい笑顔を向けて、昨晩ヤンに言ったのと似たようなことを口にした。
「あなたが私を人質にとったり、不死鬼たちの手先になったのも、敵の策略にかかったからですわ」
「だが・・・そもそもが俺は盗賊だ。犯罪者の治療だの看護だの、恐ろしくはないのかい?」
「犯罪者と言うのも一種の病気かもしれません。体のではなく、心の・・・あるいは人生のと言った方がいいかもしれませんわ?ロビーさん、ご家族は?」
「盗賊に家族なんているかよ。物心気付いたときから一人だ。天涯孤独ってやつさ」
「私も先生も孤児院にいたことがあります。先生は事情があって生まれてすぐに、ファン・バステン家を出た後、お母様が亡くなって孤児となりました。私はあなたと同じく、両親の顔も知りません」
「私はその後再び実家であるファン・バステン家に引き取られたが、サスキアは縁あってクリステル家に引き取られた」
ヤンが口を挟む。サスキアが何を言いたいかはだいたいわかっていた。
「私も先生もそうした幸運なければ、いえ、そもそも、、、私は先生と会っていなければ、どんなふうになっていたかはわかりません。人生にとって、人との出会いは栄養のようなものかもしれません。栄養を取らなければ病気になってしまいます。あなたは今までそれが得られなかっただけ。でも、今はもう、先生も私も、それに護国騎士団の方々もいます。伝染性吸血病だけでなく、あなたの人生の病も、きっと治してみませますわ」
『私が先生と』のところで若干顔を赤らめる。ヤンも少し照れて、軽く咳払いをした。
「・・・すごいことをいう女だな。あんたは・・・」
護国騎士団の連中も敵方の密偵であったロビーのことを敵視していない。罠に嵌って伝染性吸血病に感染させれたという事実を知り、義憤に燃える者ばかりだった。これもウィレムの影響であろうか。『敵』と言う概念が他の騎士団や兵団とは意味を異にするのだ。
「先生・・・」
「なんだい?」
「筋力の異常発達を抑える薬はまだ試薬だっていっていたな?俺を実験台にして、完成させてくれよ。そうすりゃ、伝染性吸血病患者の治療にも貢献できるんだろ?俺のことも治せるようになるだろうし・・・頼む」
「わかった。せっかくの申し出だ。だが、何かをするときは事前に必ず説明させてもらう。君が納得したときだけ、新しい試薬を使わせてもらうぞ」
「ああ、わかった」
ロビーの目に涙があふれていた。
ヤンがシルヴィアたちのいる応接室にサスキアと共に入ると、カリスが驚いたような顔をした。ただし、妙にニヤニヤしている。
「あら、逢引?」
「違いますっ!」
二人が赤面しながら声をそろえて叫ぶ。
「ロビー・マルダー氏の様子を見てきただけです」
「へぇ・・・二人でね」
これはシルヴィアである。二人は義姉たちには歯が立たない。
「さて、ヤン。夕方には宮廷に行って、事の顛末を説明しないといけないわ。そろそろ国務卿閣下も公国元帥閣下も痺れを切らしているはずよ。何事が起こったかも把握できなくてね。国公陛下への謁見ではだいぶ絞られるとは思うけど、ちゃんと根回しはしておくから大丈夫」
先刻執事に渡した手紙は、シルヴィアの実家、ファン・フェルメール伯爵家の党首で従兄弟にあたるアントン・ファン・フェルメールの元に届けられた。実を言えば、結婚前までは、シルヴィア自身がファン・フェルメール家の女当主であった。ファン・レオニー家とならぶ公国有数の伯爵家から、武門の誉れがあるとは言え男爵位しか持たないファン・バステン家に押しかけ女房同然に居座った際に、相続権を放棄し従兄弟にゆだねたのである。
今回も従兄弟のアントンは快く宮廷工作を引き受けてくれた。現在司法卿の地位にあるアントンは今でもシルヴィアに忠実であった。
「わかりました。謁見へは私、義姉上、シモンさん、それにクリステル先生もご足労願います。私は中央医局の状況には詳しくないので」
「承知したわ」
謁見室には国公ジェローン・ルワーズ以外に二名の公国最高幹部が臨席していた。文官の最高位にして公国政府の首班たる国務卿ベルト・ファン・レオニー、武官の最高位にして軍務府の長たる公国元帥トーマス・ファン・ピケである。国公を含めた最高首脳部三名が列席している時点でこれは単なる謁見ではないことがわかる。ヤンを含めた謁見者三名に対する二人の閣下の視線は冷たい。
宮廷式部官が謁見者四名の肩書きと名前を読み上げる。
「護国騎士団長夫人にして国務府および司法府の顧問を兼ねるシルヴィア・ファン・バステン!」
礼法に従いシルヴィアが片膝をついて頭を下げる。
「護国騎士団第三部隊副隊長シモン・コールハース!」
「クリステル財団総合診療所所長にして公国中央医局非常勤参事官カリス・クリステル医師!」
二人ともシルヴィアと同じように礼を施す。三名とも公国政府と軍の関係者であるからだ。
「ドルテレヒト州ケテル村で診療所を営むヤン・エッシャー医師!」
ヤンだけは膝は付かず、右手を胸に当て、左足を後ろに伸ばす形の略礼で答えた。公職にないものが謁見の際に行うべき礼である。
「以上四名、本日未明アメルダム市内三箇所において、護国騎士団が実施した強制捜査と戦闘に関する報告に参上したとのことです」
「報告に来たというが、なぜこの者たちが説明するのだ。シモン副隊長、理由を述べよ!そもそもファン・バステン将軍が不在ならば、アメルダムにおける護国騎士団の指揮権は第三部隊長カレル・パルケレンネにあるはず!何故彼はこの場にいないのだ?」
こめかみをピクピクさせながら、ファン・ピケ元帥が質問をした。シモンは一歩前にでて、再び片膝をつき、説明を始めた。
「カレル隊長はファン・ダルファー候の居館における戦闘中に負傷し、現在治療中でございます。命には別状はありませんが重傷ですので、私が代理としてここに参りました」
「それはいいとしても、なぜ、護国騎士団の作戦の報告にこの二名が出てくる?!」
ファン・ピケが言っているのはヤンとカリスのことである。カレルの代理であるシモンと、護国騎士団長夫人であるシルヴィアはともかく、ヤンとカリスは公式には護国騎士団のメンバーではない。
「ファン・バステン将軍はご自分が不在の間、伝染性吸血病を原因とする集団失踪事件の捜査のため、アメルダムにおける第三部隊の指揮権をヤン・エッシャー医師に委託なさいました。本作戦にける騎士団長親衛隊および保安兵団からの支援部隊の出動については、騎士団長夫人の資格を持ってシルヴィア様が承諾されております。」
『騎士団長夫人』と言う肩書きは、単に騎士団長の配偶者と言う私的な意味だけでなく、臨時の場合、騎士団長本人に代わって、作戦行動を承諾するという公的な役割を持つ。
「クリステル医師は公国中央医局の内情に詳しく、本作戦の意義についてご説明いただくためにご同行いただきました」
「ヤン・エッシャーとは何者か!そもそも軍籍にも公国政府の関係者でもない者になぜ指揮権が委託されたのか?!」
「ファン・ピケ元帥。騎士団内の人事権は特別な場合を除き、騎士団長が全権を持っているはず。民間人の登用は異例ではあるが法に反するものではない」
激発寸前のファン・ピケを制したのは、その半分の年齢にしか達していない、国公陛下たるジェローム・ルワーズであった。26歳と若い君主ではあるが、すでに近隣諸国では名君として知られる人物である。十年前の戦争と伝染性吸血病の大流行の後に即位し、二年目の十八歳から実質的な親政を開始している。法的にも最高権力を握る人物なのだ。
「この四名が報告者として参った理由はわかった。作戦の強行にいたった経緯を説明してもらおう。ファン・バステン夫人。あなたが一番うまく説明してくれそうだな」
君主の発言にベルト・ファン・レオニー伯爵が節度を保ちつつもいやな顔をする。ファン・レオニーはシルヴィアが苦手なのだ。国務府の会議でも幾度となく、国務卿の判断を覆す決議がシルヴィアの発言をきっかけに行われている。何より、数年前はファン・レオニーの秘書官であり、いろいろと不都合なことも知っている女なのだ。国務卿たる彼にとっても、シルヴィアは恐るべき政敵であった。
「は。御意を賜りまして、ご説明させていただきます。フリップ王国側の国境地域における集団失踪事件についてはすでにお耳に入っているかと存じます」
「うむ」
「夫、ウィレム・ファン・バステンはこれを人為的な伝染性吸血病を利用した陰謀と判断し、その対策を検討しておりました。これは公国中央医局長マウリッツ・スタンジェ医師も同じ意見でございました」
「二人の親交が深いことも存じておる。協力して吸血鬼対策にあたっていたということだな」
国公は理解が早い。シルヴィアの要領の良い説明に適度な相槌を打って、テンポ良く進めさせる。
「はい。ご推察のとおりでございます。スタンジェ医師の分析により、失踪の現場である村に残留していた蝙蝠の糞が、病原たるドルテレヒト蝙蝠のものであることがわかり、人為的な感染事件である可能性が浮上してきました。失踪事件が発生した村々は、ドルテレヒト蝙蝠の住処であるナイメーヘンの森から遠い位置にありましたので。そこで、アメルダムにおける吸血鬼対策をスタンジェ医局長に依頼し、夫はフリップ王国側国境三州での捜査を自ら行うため、拠点となるザーン市に第一第二部隊を率いて出動したのです。その直前、スタンジェ医局長が失踪したため、実弟に当たるヤン・エッシャー医師、事情があって母方の姓を名乗っておりますが、本名ヤン・ファン・バステンに協力を仰ぎ、アメルダムにおける吸血鬼対策の陣頭指揮を依頼したのです」
「なるほど。本日未明の騒ぎは吸血鬼対策に関する作戦行動であったというわけか。では、そこからはヤン・エッシャー医師に説明をしてもらおう。」
ジェロームとシルヴィアの間で会話が始まると、他の公国の幹部はほとんど口を挟めなかった。国公は意図的にそうしているのであり、シルヴィアもそれに倣っている事がわかる。このあたりは、事前の打ち合わせなどなくても、二人には簡単だった。シルヴィアはかつて、まだ十代のころの国公に、政治学と法律学を教授していたこともある。
「御意を承り、兄嫁に代わって話を続けさせていただきます。」
「いや、全体的な事情はわかったが、君が何者かと言うことと、指揮を取り、このような大胆な作戦にいたった経緯を詳細に聞きたい。この事件に関わるところから、話を始めてくれ」
「承知いたしました」
ヤンはカレルとシモンが自分の診療所を尋ねてきたところから、正味二日間の出来事を要領よく説明した。
「何故事前に許可を取らなかった!捜査された三箇所は私の所有する建物、筆頭公爵家たるファン・ダルファー候の邸宅、政府機関たる公国中央医局だぞ。国務卿の裁可なしに捜査するには問題がありすぎる!」
ベルト・ファン・レオニーが叫んだのをジェロームが制した。
「国務卿。作戦前の状況からあなたが所有する屋敷が工作の現場に使われていることがわかっていた。護国騎士団は国内の治安維持に特別な権限を持っておる。あなたが陰謀の関係者であると考えることも可能な状況だった。ファン・ダルファー候についても同様。公国中央医局については、実際に反乱側の密偵が潜んでいた。どれも報告などすれば、反乱側に動きを察知されて強制捜査のタイミングを逸していたかもしれない」
若くして明哲な君主ににらまれ、ファン・レオニー伯は何もいえなくなった。さらに・・・
「ファン・ピケ元帥!私は集団失踪事件についてはそなたから聞いたが、人為的なものである可能性については聞いていなかった。そなたは知っていたのか?!」
倍の年齢であるはずの、ファン・ピケがびくびくしながら返答した。
「ファン・バステン将軍より報告は受けておりましたが、何分、根拠の薄い話に思われましたので、お耳に入れるまでには・・・」
「根拠が薄いといいながら、作戦の結果はそれを証明しておる。これはそなたの判断ミスだっ!その方らにはこの事態に対する対応力があるとは思われない。宮廷書記官!特別辞令を発する!私の言葉筆記し、正式な書面とせよ!」
すぐさま書記官たちが、国公のみが発行できる特別な用紙を取り出し、ペンを構えた。別々の者が発布するものと控えを同時に作成し、後ほど読み比べることで、間違いを防ぐことになっている。
「ファン・ピケ元帥より、吸血鬼事件の解決までの間、護国騎士団に対する命令権を剥奪する!」
決して大きな声ではないが、謁見室には雷光がきらめいたかのように思われた。
「ファン・レオニー国務卿より、吸血鬼事件の解決までの間、公国中央医局への命令権を剥奪する!」
元帥も国務卿も黙ってそれを聞いていた。頭を下げ、肩がわずかに震えている。
「インテグラ王国側国境地域の群盗討伐と、海岸沿いの治水事業の進捗も聞いていない。手間取っているのなら、そちらに集中せよ!この場は下がってよい」
元帥と国務卿、公国の最高幹部たる二人は敬礼をした後でとぼとぼと謁見室を辞去した。
「カリス・クリステル参事官。中央医局の職員であったそのファン・クラッペなる医師はどのような者か?」
頭を下げ、カリスが答える。
「手術と診察の見立ては一流でございました。スタンジェ医局長に比する腕を持っているとの評判もあります。伝染性吸血病や検死に関する研究成果もいくつか挙げており、優秀な医師であったことは疑いありません。しかし、医師としての人格が伴っていないとの評価もございました」
「医師としての人格とは?」
「患者に対する態度が冷たかったり、時に十分な説明をなしに患者に試薬を試すようなことがございました。また、局内では協調性を欠くことも多く、スタンジェ局長の頭痛の種であったようです」
「なるほど。伝染性吸血病に関する研究成果とは?」
カリスは言われて、書簡を取り出して式部官に手渡した。それを受け取って読んだジェロームは一瞬顔をしかめる。
「伝染性吸血病患者の血液からの新薬開発、それも兵士の筋力増大による軍事利用のための・・・確かに医師としての倫理観に問題がありそうな研究課題だな」
「は、スタンジェ医局長はこの論文を読んでファン・クラッペ医師に問題を感じ、中央医局直轄の診療所所長に左遷されたのです。遠縁に当たるファン・ダルファー候の口ぞえがあったため、検死室長として復帰させることになりましたが・・・」
「なるほど。ここでもテオ・ファン・ダルファーが関係してくるのか。彼が首謀者であった可能性も低くはないわけだな」
腕を組んでジェロームは考え始めた。
「医局で自殺を図ったという三人の事務員の身元は?」
「現在詳細に身辺を調査中ですが、一人はファン・ダルファー候の屋敷に出入りしていたことがわかっております。残り二人については、ここ半年以内に新規に入局した者たちです」
「なるほど。ファン・レオニー伯の旧居館に現れた吸血鬼たちの身元は・・・ああ、わからんか」
「は、何分吸血鬼の死体は腐敗が早く、身元特定に役立つようなものは・・・」
「ふむ」
これはヤンとの会話である。
一呼吸置いてから、国公は声を高めて宣言する。
「今回の件、事情からすれば、強攻策も是とせざるを得ない。その方らの越権行為については不問とする!」
さらに、再び宮廷書記官の方を見ながら続ける。
「特別辞令を発布する!」
先ほどと同じように書記官たちがあわただしく用紙を取り出す。
「ケテル村のヤン・エッシャー医師を臨時の公国中央医局長代理に任ずる!その職務は伝染性吸血病対策の関連部署への指揮に限定し、他の件は現状どおり各部署の責任者に委任するものとする。これはマウリッツ・スタンジェ医局長の復帰までの期間の間、有効な人事とする!」
「護国騎士団長ウィレム・ファン・バステンの実弟、ヤン・ファン・バステンを臨時の護国騎士団長代理に任命する!騎士団長がアメルダムに不在のあいだ、護国騎士団本部の責任者として、吸血鬼対策の陣頭指揮を執れ!」
文官と武官の要職の兼任を妨げる法の制限があるための奇妙な辞令であった。記録上は、ヤン・エッシャーとヤン・ファン・バステンは別の人物として扱われるので、これで問題ないのである。あくまで体裁だけの話ではあるが。
「護国騎士団第三部隊副隊長シモン・コールハースを、部隊長カレル・パルケレンネの負傷に伴い、第三部隊隊長代理に任ずる!騎士団長代理を補佐し反乱軍に対応せよ!」
一息置いてからさらに続ける。
「公国中央医局非常勤参事官カリス・クリステル医師を、公国中央医局、伝染性吸血病対策室長に任ずる!ヤン・エッシャー医師と協力して、スタンジェ医局長不在の間、公国中央医局の運営に当たれ!」
三人が頭を下げて、拝命することを宣した。それを見てからジェロームはシルヴィアに向かって話しかける。
「ファン・バステン夫人は護国騎士団長夫人としての役割を引き続き果たしてもらいたい。これは命令ではないので正式な書面とはしない。御身を大切にせよ。あなた一人のものではなかろう?」
ヤンとシモンはぎょっとしたが、カリスは意外な顔をしなかった。
「国公陛下のお心遣い、誠に恐縮でございます。まだ、夫にも話していないことですが、親友であるカリス・クリステル医師がついておりますれば、順調にウィレム・ファン・バステンの世継ぎは育っております」
「うむ。何よりだ。それでは四人ともご苦労だった。下がってよい」
シルヴィアの懐妊の件も驚くべきことではあったが、それ以上に国公自らの特別人事は異例ずくめのものであった。ファン・ピケやファン・レオニーが聞いていたらどれかけ反対したかわからない。順当なのはシモンの隊長代理への就任ぐらいのものである。国公自らが民間人へ、正式に護国騎士団長と公国中央医局長と言う要職の代理となることを命じたのである。
カリスの件にしても、非常勤参事官、それも女性に最重要部署の一つである、吸血病対策室を任せるのであるからやはり異例であった。このあたりは、シルヴィアの依頼で動いたアントン・ファン・フェルメールの事前工作が生きている。短時間の間に国公と連絡をとり、こうした人事が下るように働きかけていたのだ。
「ついに肩書きがついちゃったわねぇ。ヤン」
「義姉上、どちらも『臨時の代理』が付いていますよ。ことがすんだらケテル村に帰ります」
「ま、それはいいんだけどね。緊急事態の時以外は田舎にいてくれて一向に構わないって、ウィレムもスタンジェ先生も言っていたわ。あなたほど宮仕えが似合わないのは、カイパー博士ぐらいだって」
「急いで、今後の体制を作らないとなりません。私とクリステル先生はこの足で中央医局に行きましょう。護国騎士団の方は今までとあまりかわりません。シモンさんは先に戻って、カレルさんに報告しておいてください。安心させてあげたい」
ヤンは兄嫁の話を丁重に無視しながら、実務的なことに話を移した。
「承知しました。護国騎士団の方で先にやっておくことはございますか?」
「公国中央医局の伝染性吸血病対策室を護国騎士団本部の庁舎内に移します。ロビー氏の治療にも都合がいいですし、彼をケーススタディにして、治療法を確立できるかもしれない。それに対策本部が二つに分離しているのも面倒ですから」
「承知しました。地下牢の入り口に近いところに部屋を用意しておきます」
シモンは敬礼を施した。正式に護国騎士団長からの命令を受けるときの正式な形である。
「ヤン、それじゃ、中央医局の方で用が終わったら、牡鹿亭まで来て頂戴。お食事にお誘いしている方がいらっしゃるのよ」
「え?この忙しいときにですか?」
「今だから会わないといけない相手なのよ」
明哲なヤンにも良くわからないように話そうとするのは、シルヴィアの悪い癖だった。いや、長くヤンに関わっているものは、この男が珍しく困惑する姿を見て楽しむという悪趣味を持つようになる。
「はあ、わかりました。それでは医局から直接牡鹿亭に向かうようにします」
「そうしてちょうだい。サスキアさんの料理が食べられなくて残念でしょうけど」
ヤンは二人の年長の女性がこの手の話をやめないことがわかっているので、丁重に無視することに決めたようだ。
「ところで、義姉上、懐妊されていたなんてちっと気づきませんでした」
「ま、あれだけ余裕なく思いつめていたら無理もないわね。あなたも叔父さんよ。まあ、三十も近いのに、未だにお兄さんと呼ばれようとするのはずうずうしいけどね」
「あら、奥様。エッシャー先生も医師ですよ。余裕なんかなくたって気付いたっていいようなものですけど」
「と言うよりも、余裕のありなしに関わらず、ヤンが女の体の変化なんかに気付くはずないわね。産科の経験もないでしょうし」
「三十も近いのにちょっと心配な話ですわね。シモンさんみたいに妙な性癖が付いてなければいいけど。サスキアも苦労するわ」
「ク、クリステル先生!何をおっしゃるんですか・・・」
無視したところで、二人の話は止まらない。カリスは産科の経験が豊富である。クリステル財団の総合診療所では、珍しい女医が見てくれると言うので、アメルダム中の女性たちに大好評なのだ。老いも若きも身分の上下にも関わりなく、お産などの際には女同士の方が安心できる。一方で、サスキアがカリスを手伝っていた時には男の患者にも大人気であった。ただし、あまり質のいい患者ではない。女性の医者が診てくれると言うので、妙な期待を持った男たちがなだれ込んできたのだ。女医と看護婦の美人姉妹にそうした邪な欲望を持った男たちがあまりに多く集まってきたので、カリスは産科の専門医になることにした。
マウリッツとの交際が始まってからは、カリスとマウリッツの居館で同居を始める前に露払いをさせたいなどと言う理由で、サスキアをメイドとして送り込んでいる。どうせまともな生活状況ではないと踏んでのことであった。男たちを信頼しているようで、その限界や問題もよく知っていると言うのが、この女医の真価であるかもしれない。
牡鹿亭はファン・バステン家がよく使う、アメルダムの老舗料理屋である。大身の貴族たちが使う洗練された高級店というわけではなく、一般的な市民であっても、月に一度ぐらいの贅沢として利用できる程度の店である。貴族らしくすることの嫌いなウィレムが会食するときによく使い、マウリッツもカリスとの食事はこの店を使うことが多かった。護国騎士団員たちが事あるごとに飲み騒ぐ歓楽街から程近く、あまりに暴飲暴食がひどくなった夫を見かねたシルヴィアが、居酒屋から襟を引っ張ってこの店に連れ込み、朝まで説教をしたという由緒正しいエピソードもある。
中央医局での仕事は案外早く終わってしまった。これもカリスの力である。カリスは非常勤参事官でしかないが、局内でも絶大な人気があった。看護婦や事務員の女性たちからも憧れのまなざしが注がれ、男性の間でも一目置かれる存在であった。実を言えば、ファン・クラッペ医師がマウリッツとのスキャンダルをリークした際にも、ほとんど好意的な反応しかなかったのである。やはり、局内で絶大な人気と尊敬を集める医局長と、美貌の女性参事官の交際の知らせに皆思わず納得してしまっていた。業を煮やしたファン・クラッペは噂に『公私混同』と言うおまけを付けてさらに広げたが、まったく無駄であった。二人の交際が始まったのは、カリスが参事官に任命された一年以上後であったし、仮に『公私混同』があったとしても、カリスの人望と見識は参事官としてふさわしいものだったので、何の不都合もないと言う意見が大半であったのだ。
そのカリスがいるので、素性の怪しいヤン・エッシャーなる医師が指揮を執ると言われてもそれほど反発はなかったのである。また、中にはヤン・エッシャーがマウリッツ・スタンジェの弟弟子で、若くして十年前の吸血鬼掃討戦で活躍したと言うことを知っている者もいる。何より、カイパー派の医師であれば、それだけでブランドなのであった。実際にはカイパー派の医師と言うのは、カイパー博士本人と、マウリッツ、ヤンの三名しかいない。
カリスと別れ、牡鹿亭に入ったヤンは、先に来ていたシルヴィアをすぐに見つけた。隣には護国騎士団の制服を来てメガネを掛けた若い騎士がいる。若いというよりも幼く見えるが二十四歳で、護国騎士団の財政面を預かる主任主計官ピーテル・ブルーナであった。ヤンとはアメルダムに来てからの一日の間に何度か顔を合わせてはいるが、話したことはなかった。
「早かったわね。そろそろ主賓がお見えになるけれど」
「ええ、クリステル先生のおかげで案外すんなりいきましたよ。各部署の責任者も皆協力的です。明日からは伝染性吸血病対策室が護国騎士団本部に移ります。その辺もクリステル先生がうまくやってくれそうです」
ふと見ると、ピーテル・ブルーナはカチコチに緊張している。物慣れない印象のある童顔の若者ではあるのだが、いったいどうしたことであろうか。
「ブルーナ主任主計官。そんなに緊張しなくてもいいわよ。ここは普通の料理店。誰が来たって普通にしてないと。返って困るわよ」
「は、は、はは、はい!」
「いったいどなたが来るんです?」
「まあ、ちょうどいらっしゃったわよ」
入ってきたのは、ピーテルと同世代に見える若い男性であった。ただし、ピーテルほどは幼くは見えない。これはピーテルが年齢ほどに大人に見えないからなのだが、妙に落ち着いた雰囲気にヤンはなぜか既視感を覚えた。
「やあ、ファン・バステン夫人。お待たせしてしまったかな」
「いえいえ。陛下、今来たばかりでしてよ。まずはせっかくですからワインで乾杯といきましょう」
ヤンは仰天した。目の前の若者は数時間前に謁見したばかりの国公ジェローム・ルワーズその人である。ピーテルがやたらと硬くなっているのもわかる相手だ。
店の者が四人のグラスにワインを注いで回る。が、ピーテルは護国騎士団員には珍しく酒が苦手なため、シルヴィアは妊娠中の身であるため、それを断りオレンジの果汁を注文してそれが注がれた。すぐにテーブルの上一杯に料理が置かれる。話は食事が終わってからとなって、まずは会話以外のことに口を使い始めた。ピーテルはまったく食欲がなさそうで、カタカタ震えながらスープをかき回すだけであった。ヤンは高貴な人物との食事には慣れてはいないが、こうしたことには動じない。シルヴィアなどはこうしている方が自然と言った人物である。
決してガツガツといった印象にはならないのだが、シルヴィアの食欲は旺盛で、男たちよりも二割り増しの量を上品な口に納めて言った。
「子持ちの腹は二段腹と申します」
多少は恥ずかしそうにしているが、サスキアが恥らう姿とはだいぶ違った。
「ま、二人分を食べねばならないのだからね。そちらの方は全然進みませんな?大丈夫ですか?遠慮しなくてもいいのですよ」
「え・・・い、いえ・・・」
「はは、お気になさらないでくださいまし。ところで、ここのお料理はいかがでしたか?」
「ふむ。やはり街場の料理屋の味はいいね。普段食べている上品過ぎる料理には飽き飽きしていたころだ。久々に誘い出していただけたのでうれしかったよ」
「まあ、子供のころと違ってあまり頻繁に微行をされては、胃弱の侍従長がかわいそうでしてよ」
「まあ、仕方あるまい。侍従長の胃潰瘍はスタンジェ医局長でも手を焼くと言っていたからね。心因性というのかな?」
どうやら、シルヴィアは国公の教師であった時代から幾度となく、宮廷から抜け出すための手引きをしていたようだ。
「さて、食事が済んだところで本題に入ろう。謁見中には話せないこととは何かな?」
ヤンにはもうこの秘密の会談の目的がわかっていた。昨夜の出動の前にヤンがカレルにだけ話した件である。カレルはあの後シルヴィアだけには内密に報告していた。あまりにも大胆な策であるため、何らかの方法で体裁を取り繕う必要があったのだが、そういったことにヤンは頭を使う余裕はなかった。
「こちらは、昨夜、強制捜査に出動する前に、夫、ファン・バステン将軍の名で公国全土に伝書鳩を使って発布した指令書になります」
ジェロームはそれを受け取り内容を読んだ。怒りこそしなかったが顔をしかめる。
「さすがにこれは大胆すぎるな。強制捜査はああしてどうにか法の範囲内に収まるようにこじつけることは出来たが、これはさすがに難しいぞ。独断でここまでの越権行為が行われれば、さすがに私もかばいきれない」
指令書の内容は確かにウィレムが出したとしても越権行為に類する暴挙と言えた。
『公国全土の州卿および自治領主に命ず。
担当領内の城塞都市に全ての周辺地域に住む住民を収容し、
対吸血鬼防御体制を敷いて備えよ。』
護国騎士団には、国家存続に関わる重大な犯罪捜査を行うための特別な権限は与えられているが、公国政府の直轄地を納める州卿および僅かしかいない自治領を納める領主たちに対する命令権などは持ち合わせていない。それでも、吸血鬼への対応であれば、こうした指示を出すことはありうるが、公国元帥の承認すらなしにここまでやっていいものではない。
「はい。独断で行われたのであれば。ですので、独断ではなかったことにしていただきたいのです」
「と言うと?」
「三日前に遡って、密勅を出していただきとう存じます」
密勅とは、国公自らが公国政府には告げずに特定の臣下に対して指令を出すことである。実際に公国の歴史の中で公式に認められた密勅が出されたことはほとんどない。これは法的に存在するものではなく、君主たる国公の権威を示す慣例的な制度で、超法規的な意味を持つ。
「ふむ。閣僚達が反感を覚えることは間違いないだろうな」
「それも承知の上で、まげてお願いいたします。国家と国民とためにございますれば」
「確かに・・・よかろう。だが、結果オーライという形にしてもらわねば困るぞ。この策が必要だった理由は何だ?」
シルヴィアではなく、ヤンを見て問いただした。
「昨夜の作戦でアメルダムからは反乱勢力を追い払うことに成功しました。しかし、彼らの根拠地はアメルダムにはござません。主力はフリップ王国側国境周辺三州か、もしくは国境の向こう側となります。つまり、彼らが本当に反乱をもくろんでいるとすれば、国内を横断してアメルダムまで進軍してくることになります」
「まあ、それはそうだろう。それで?」
「吸血鬼を使った軍隊と言うのは実を言えば、とても扱いにくいものなのです。確かに戦闘力はきわめて高いわけですが、吸血鬼は兵士としてはどうしても従順さに欠けます。何よりも、補給がとても難しいのです」
「なるほど、人血は貯蔵することが難しいし、人口には限りがあるからな。まして、敵地での略奪のように無秩序に村々を襲うと、補給したようでいて、吸血鬼が増えてしまう。返ってやぶ蛇になるということか」
「はい。そういうことになります。おそらく、そのような不安定な形で補給を実施しているわけではないでしょう」
「では、どうするのだ?」
ジェロームの質問に、一瞬ヤンは怯んだ。あまり口にしたくもない推測であるから。
「東方の騎馬民族の戦法に、軍隊の進軍と共に羊などの家畜を同行させるというものがございます。遊牧民の知恵でしょう。占領地においても遊牧を行って、いうなれば補給拠点と一緒に移動し続けるのです」
「それを・・・人間でやると言うことか・・・家畜のように・・・」
ジェロームは拳を握り、それが小刻みに震えている。
「吸血鬼の軍隊を長期に維持し、進軍するならそれしか方法はありません。ですが、この方法にも一つの問題があります」
「何だ?」
「人間は羊ではありません。行く先々で牧草地を見つければ羊は育ちますが、人間にはちゃんとした食料が必要です。結局は通常の軍隊と同じような糧食の準備が必要になるのです」
「つまり、住民が食料と共に城塞都市に収容されることで、彼らは、あまり言いたくはないが、家畜の飼料を失うと言うことか」
「そうです。新たにそれを得ることができなくなれば、そこから行えることは一つだけ、防御を十分に固めた城塞都市を攻撃することだけです」
城塞都市における対吸血鬼集団に対する防御については、十年前にヤンが考案したものをウィレムとマウリッツがさらに改良を加えている。それで万全とは言えなくとも、攻略するにはかなり苦労するはずであった。何より攻城戦では、吸血鬼の戦闘力もそれほど有効には使えない。
「だが、フィリップ王国領土内ではそうはいかないだろう?」
当然の質問である。もちろん、そこからアメルダムに進軍することは困難にはなるが、反乱勢力を温存することは可能となる。
「はい。おそらく彼らの根拠地はフリップ王国側にあると考えております。あちらでは我々と違い有効な対抗策を講じることはできてないでしょうから、国境地域は放置されているはずです。王都側に吸血鬼が進軍でもしてこない限りは、何も手を打たないでしょう」
「で、それに対応するには?」
「マウリッツ・スタンジェが現在ケテル村にいることがわかっています」
「ほう、消息がつかめたのか」
「ケテル村からはステーン湖を越えることでフリップ王国に渡れます」
「つまり、そこは姿を隠したスタンジェ医局長に任せて大丈夫と言うことか」
「はい。方法はわかりませんが、彼は無駄なことはしません」
ジェロームは腕を組んで中空を眺めて少し考えた。
「作戦の意義は理解した。現実的にそれは可能なことか?公国全土の国民の食料はどうする?」
「今は刈り取りのあとです。住民達は十分な食料を有しております。それを持って入城するように伝えてあります」
「だが、持っていない者もいるだろう?」
「そ、それについて!」
突然、調子の外れた声でピーデルが口を挟んだ。
「城砦内に住民達が持ち込んだ食料は、一度公国政府が吸血鬼対策用にプールしていた基金の八割を用いて買い上げ、それを配給いたします」
「八割も使ってしまっては、戦闘のための費用が残らないではないか」
「買い上げた食料の半分は、メディサラ国の商人を通じて、南方のスペルファ国に輸出します。彼の国は今年は大凶作で食料が高騰しております。その利益の一部で今度は海路で東方のラウラ国から大量に食料を購入するのです。こちらは今年は大豊作で、さまざまな食物が値崩れを起こしておりますれば。こう申し上げると、とても時間の掛かることのように思われますが、実際にはそんなことはありません。メディサラ商人との信用取引によって、途中の過程はほとんど省略され、輸出と同時に輸入が行えます。この方式ですと、最終的な収支は対策基金の一割程度の持ち出しですみます」
「ほう・・・」
ジェロームはピーデルの顔をまじまじと見た。一騎士団の主計官にしておくには惜しいと考えたらしい。国際的な貿易網について知悉した上で、算術と商才に長けていなければこんなことは思いつかないであろう。
「名前を聞いておこうか」
「ひ、ピーデル・ブルーナー護国騎士団主任主計官で、で、ございます」
「そのうち、財政府にでも移ってもらいたいね。こういう人材はとても貴重だ」
「ブルーナー主任主計官は武技はからっきしですので、そういう人事は大歓迎でしょう。今回に限ってはしっかり働いてもらわねば困りますが」
シルヴィアが口を挟む。このこともおそらくこの兄嫁思惑には含まれていたことであろう。
「よし、密勅を書く。紙とペンはあるか?」
密勅に形式などない。君主の実筆で指令と署名があればそれでいいのである。ジェロームはその場で勅書を書き上げ、シルヴィアに渡した。
「さて、そろそろ戻らねば。侍従長の胃に穴が開くことだろう。楽しい食事であった。苦労をかけるがよろしく頼むぞ」
「は、承知いたしました」
三人がそろって座ったままの略式の敬礼をする。
「ああ、そうだ、ヤン・エッシャー殿、あなたは十年前からあえてアメルダムで公職に付くことを避けて来たと言うが、今回の件が終わった後もそうするつもりかね?」
「はい。お許しがいただけるならば」
「まあ、スタンジェ局長にも宮仕えの似合う男ではないと言われていたからな。非常時だけ出張ってきてくれればよしとするが、そろそろファン・バステン家には本格的に公国政府の中枢に入ってもらいたい。今日の謁見のとおり、そろそろ老貴族は役に立たなくなってきている。田舎に帰るにしても、働いてもらうことは増えると思うがよろしく頼む」
ヤンの返事も聞かずにジェロームは店を後にした。シルヴィアがポツリと話す。
「これで私も国務卿就任を断れなくなりそうね。ウィレムの公国元帥への昇進もね。」
実はこの夫婦は二人とも国公からの内々の要請を断り続けていたのだ。大貴族達との政争を避けるためであったのだが、すでに実情がそうなることを求めている。ジェロームとしては、ファン・バステン家に加え、マウリッツ・スタンジェなど非貴族の優秀な実務家や、カリス・クリステルに代表される民間の組織で才覚を示した者も政府の中枢に据え、新しい政治機構を作り上げることをずっと望んでいたのである。
だが、それも吸血鬼と不死鬼による反乱軍という、困難な敵を倒してからの話であった。