現説・泣いた赤鬼
かつて赤鬼と呼ばれ恐れられた柔道家が、妻のために最後の戦いに臨む
昔、柔道界に「赤鬼」と呼ばれる男がいた。
赤鬼はオリンピックをはじめ、数々の大会で勝利を重ね、圧倒的な力と強さを誇った柔道の王者だった。赤髪と鍛え抜かれた巨体、鋭い眼差し。対戦相手からは恐れられ、観客からは熱狂的な歓声を浴びていた。
しかし、そんな赤鬼にも引退の時が訪れた。
競技の舞台を去った彼は、愛する妻とともに静かな生活を始める。これまで支えてくれた妻への感謝を胸に、穏やかな余生を送ることが彼の新たな目標だった。
だが、その蜜月は長く続かなかった。
妻が重い病に倒れたのだ。治療には途方もない費用が必要だった。全財産をつぎ込んでもなお足りない額に、彼は悩み、絶望する日々を過ごした。それでも諦めることなく、彼は方々に支援を求めた。
しかしそんな莫大な額を集めることは難しく、彼は途方に暮れていた。
そんなある日、とある有名格闘家が赤鬼に接触してきた。
「もし俺と試合をして、俺に“わざと”負けるなら、治療費を全額出してやる。」
その条件を聞いた赤鬼の胸に、怒りと屈辱が渦巻いた。
「わざと負けるだと…?」
柔道は、彼のすべてだった。己を鍛え、相手を敬い、正々堂々と勝利をつかむ。それが柔道の精神であり、彼が命を懸けて守ってきた誇りそのものだった。わざと負けるなど、赤鬼の名を捨てるに等しい行為だ。
しかし、病室で眠る妻の姿が頭をよぎる。
これまで、彼の栄光を影で支え続けてくれた彼女。献身的に彼のために生きてくれた彼女を裏切ることはできない――だが、その彼女を救うために、自分が築き上げてきたものを捨ててしまってもよいのだろうか?
彼は苦悩に苛まれた。
試合の日が来た。
観客が埋め尽くした会場。リングに立つ彼の目は鋭く、その佇まいは全盛期の赤鬼そのものだった。
だが、赤鬼の心の中では葛藤が渦巻いていた。
試合が始まると、対戦相手は容赦なく攻めてきた。赤鬼も本能で反撃する。だが、そのたびに妻の顔が浮かび、動きが鈍る。相手はそれを見逃さず、彼を何度も叩きつけた。
会場は歓声に包まれるが、彼の目には何も映っていなかった。最後に彼は、わざと隙を見せ、大技を受けた。観客の歓声が最高潮に達し、試合は幕を閉じた。
病室。
妻が目を覚ますと、夫がベッドのそばに座っていた。
顔には無数の傷跡があり、拳は腫れ上がっていた。それでも、彼は微笑んでこう言った。
「手術は成功したよ。もう大丈夫だ。」
その言葉に、妻は夫の赤鬼としての苦悩と犠牲を理解した。
「どうして…そんな無茶をしてまで…」
彼女が涙ながらにそう尋ねると、彼は、ただ言った。
「君を守るためなら、俺は何度だって同じことをするさ」
その目から大粒の涙が流れた。
妻は彼を抱きしめ、震える声で言う。
「ありがとう、ウィリアム。本当にありがとう…」
その瞬間、かつて「赤鬼」と恐れられた彼の姿はどこにもなかった。そこにいたのは、愛する者のためにすべてを捧げた、ひとりの心優しい男、ウィリアムだった。