9. 大宮殿 ①
喧騒と人いきれにまみれた下界が嘘のように、広々した玄関ホールを抜けると、そこは厳粛なまでの静謐で満ちていた。
見たところ視界に入る何から何まで豪華絢爛だ。
幅広で塵一つない大理石の床は美しく磨かれ、はてしなく続く白壁には巨大な絵画や見事な石像の群れ、そして穹窿天井を堂々飾るきらびやかにして豪勢さすら感じさせるシャンデリア……。まさに贅を尽くしたを地で行く、想像を絶するほどのめくるめく光景である。
そう、他でもない、眼前にあるのはジグラト・シティ最上層に建つ宮殿の、広大な中庭を方形にぐるりと巡る大回廊――すなわち、最高権力者、領主ゴルディアスが居所と定めし場所の一部なのであった。
もちろんその規模および質は、シティの他の、特に第一層の建物群などと比べればもはや抜きん出ているどころの話ではない。まさに冗談抜きで天国と地獄、何より這いつくばるような最下層からはるばる上がって来た者にとっては、その差は尋常ならざるレベルとしか思えないのだ。
ここがとても同じ町に位置するとは想起できぬほどに――。
「クロニカさん、どうかしました?」
と、廊下の真ん中でつかの間辺りをキョロキョロしていた娘は、突然前方からかかってきた声にハッとさせられた。
「あ、いえ、すいませんっ」
そして思わずよく分からないまま謝り頭も下げる。さらにビシッと姿勢正すや、訝しげにこちらを見やる女性へ慌てて向き直っていた。
「す、凄く豪華過ぎるお屋敷で驚いてしまって……。こんな所今まで来たことありません」
「……そう。まあ確かにあなただけじゃなく、ここへ働きに来たメイドはみんなそう言って目を丸くするわね」
対するメイド服まとった女性の答えは、そんな年下の娘を見つめながらの特に大した感慨もなさそうな声音である。言葉通り、さほど珍しい光景というわけではないらしい。その証拠にというべきか、彼女はあくまで事務的な態度を寸分も崩すことがなかったのだから。
「でも今日からここがあなたの住居兼職場なのよ。早いうちに慣れることね」
「はい。早く仕事を覚えて皆さんのお力になりたいです」
「まずは雰囲気を知ることから。特に私たちはジグラト・シティだけでなく色々外部の方々と会うことになるのだから」
こくこくうなずく娘。
「外部……ご領主様とお会いになる人たちですね」
「そうよ。今週も大きな会合が待っている……あなたも来て早々だけど、大変かもしれないわね」
特に同情しているとは感じられぬその言葉に、黒髪の娘はさも驚いたと元々つぶらな眼をさらに大きくした。
「え! もう誰か来られるんですか? 緊張するなあ」
「フフ、とにかく厨房へ案内するわ。そこで今他のメイドたちも働いていると思うけど、みんな新たな仲間が増えて喜ぶはずよ。――ただその前に私はちょっと控えの間で事務員と話があるから、あなたはここで少し待ってなさい」
そう言って、白の頭巾、裾まである丈長の上衣、そしてエプロンといういでたちした40前後の女性は、廊下左側にある扉の方を向いた。何ともきびきびした立ち振る舞いで、さすが領主お傍に仕えるメイドといったところか。
ちなみに待てと指示された相手の方も、もちろんまったく同じ服装だった。
「すぐ戻るから」
「は、はい」
そうして、どこか落ち着かなげな新入りを一人残し、その姿がスタスタ扉の方へ向かって行く……。
単なる控えの間だというのに、そこには見事なまでの一角獣が全面彫刻された、青い扉。
これが玉座の間や領主の部屋だとどうなるのか、嫌でも考えてしまうくらい、その雄姿はまさしく強烈なかましというやつだった。
「フウ……」
――だが、それからわずか数秒後。
メイドの副長だと名乗った女性の気配がなくなると、黒髪の娘は小さく溜息を吐いていた。しかも妙なことに先ほどまでのおどおどした雰囲気が一瞬でかき消えた感さえある。もちろん皆仕事中なのか周囲に人影は一つもない。
まるで無人になったことで着けていた仮面をようやく外せたかのような、それは何とも胡乱な変化だった。
(たく、よくこんな服着て働けるわね)
そして件の扉を見つめたまま、心の内で当のメイドたちが聞いたら激高しそうなことを一人零す。よほどそのひらひらした肌触りが苦手なのだろう、しかめ面とまでは言わないまでも、今すぐ脱いでしまいたいのは目に険を乗せたその表情だけであまりに明白というものだった。
そんな有り様でなぜわざわざこの職に志願したのかは、この際脇に置いておくとして。
その黒のショートカットに同色のアーモンドアイは、しゅっとした眉ともども何とも意志の強さを現わしている。加えて美しく通った鼻筋や少し尖った顎は、まさしく美女と呼ぶにふさわしい風貌だ。だがただ見目が良いだけではなく、赤銅色の肌の身体はなかなか均整よく鍛えられており、それがやけに目立つ存在にもしている女性であった。
――そんな娘が立つのは廊下の真ん中で、そして回廊は彼女を挟んで左右にそれぞれ延々と延びている。むろん床も壁も輝くばかりにきらきらしていて、およそ人の生活する空間とは思えないくらいだ。ちなみに娘から見れば右手が広大な中庭、すなわち彼女は宮殿左方向を向いた状態だった。当然、部屋へと入る扉は長い間隔を置いてどれも左側にしか設えられていない。そしてその中のもっとも玄関ホールに近いのが、控えの間ということだった。
(ああ、こりゃ疲れる……。と、油断だけはしないように)
と、そこでつい大きく伸びまでしそうになったためふと我に返り、しっかり警戒を怠らないよう改めておのれを強く叱咤する。一応メイドのなりはしているのですぐ怪しまれることなどないはずだが、それでもあまりに挙動不審なのはまずい。何よりここは標的の住まう領域、たった一つのミスが全てを台無しにする可能性さえ多々あるのだ。
もちろん仕事上、それだけは何が何でも避けるべき事象だった。
(すぐ戻るって言ってたしね)
そして急ぎ元の緊張した純朴新入りメイドの顔へ戻ろうとする――。
そう、かくて早業並みの擬態へいざ取り掛かろうと意を決めた、しかしちょうどその時。
カチャリ。
――扉の向こう側で、ノブが回される音がした。
続けて寸分も置かず、そのままギイイと青い扉が引き開かれていく。一瞬室内が垣間見え、もちろん中からは人影がしずしずと出てきた。
うかつにも、その早過ぎる登場に知らず慌てる娘。
ひょっとしたら、あくびを我慢している顔がまだ消し切れていなかったかもしれない。そんな気の、いや間の抜けた様を見られたら、さすがに怪しく思われるだろうか。この際それも単なる怠け者扱いで済んでくれればまだ上々といえるのだが。
とにかくせっかく忍びこみに成功したのだから、こんな早くに追い出される事態だけは避けなければ……。
だが。
(やば、もう終わったの! ……て、あれ?)
「あれ」
――意外にもその刹那彼女が目にしたのは、予想していたのとは大分異なる人物なのだった。しかも相手の方も想外の人間が廊下にいたことにかなり驚いたとみえ、怪しげなメイドの心内と同調したような声を洩らしている。
そのままそこに突っ立ち、大きな青瞳で黒髪の娘の顔を穴の開くほど見つめていたのも、思いがけぬ状況への大いなる惑乱ゆえだろう。とにかく二の句がまるで継げないでいた。
「あ、あんたあの時の……」
「え? 僕とお会いしたこと、ありましたか?」
しかもそんな修道士服まとった少年の様子などお構いなしに、相手は口を開いたかと思えばさらに混乱させる声を掛けてくる。加えてその表情はというと、彼を遥かに超えたあからさまな驚愕色。
「あ、あの……」
赤髪の少年――すなわちサミュエル会修道士アクセルが知らず怯えに似た表情見せてしまったのも、今はまったくむべなるかな、という反応なのであった。
◇
「アハハ、ごめんね、私の完全なる人違いだったわ」
「そうでしたか……。僕の方もやはり面識がないと思ったので」
「修道士の方? ここで生活しているのかしら?」
「いえ、そういうわけでは。……ところであなたの方こそ、もしや今日が初めての仕事日なのですか? 大変ですね」
数秒後一人ドタバタしていたクロニカがそれでも何とか平静を取り戻し上手く言い訳するや、アクセルの方もうなずきつつ納得してくれた。おまけにすぐ相手を気遣う気持ちを見せるあたり、彼の性格の良さを如実に証しているといえよう。
むろんそのいでたちは相変わらず地味なあずき色のローブに革長靴といったものである。少女っぽいあどけなさ残る面にも何ら変化はない。
クロニカはそんな大人しそうな少年に妙に気安く問いかけていた。
「そうだけど……。よく私が新入りって分かったわね」
「いえ、何というか、喋り方が……」
「え?」
「あまりにここで働いている方々と違ったので」
対して、最終的にやけに言いにくそうにしながらも、アクセルが答える。声音だけでなく、表情までそんな雰囲気なので、実に分かりやすい。その素直極まる対応に、むしろ娘は気分を害するどころか好感さえ抱いてしまったのだった。自然と笑みまで口許へ零させて。
「あら、そう。言われなきゃ全然気づかなかったわ」
「あ、いや、そんなつもりじゃ……」
「フフ、ありがとうってことなの。何せ私こういう凄い所で働くの初めて――」
「アクセル殿!」
すると、その時突然喋っていたクロニカの背後から太い男性の声がした。明らかに二人のいる位置からはやや距離を置いたところで、クロニカはその突発的事態に一瞬ビクッとしてしまったものの、冷静になればどう考えても目の前の少年を呼んだものなのだろう。
その証拠に、彼の方は大して驚いた素振りも見せず、そちらへ向かって丁寧に会釈までしていたのだから。
「……あなたが呼ばれたの?」
「はい、執事さんです。だからもう行かなくては」
そして物問う新人メイドに、いかにも申し訳なさそうに断りを入れる。
ふわふわした赤髪と、ふっくらとした可愛らしい顔立ち。やはりこんな貧乏たらしい修道士服より、もっと似合いそうな可憐ないでたちがいくらでもありそうな風体だ。
そして何よりこの少年は……。
「ではまたお会いできると良いですね」
「え? そ、そうね。また今度……」
「お仕事頑張ってください」
クロニカがそうして昨日の一情景を密かに思い浮かべているなど露知らず、アクセルは光輝くような笑みを残し、最後に小さくお辞儀すると彼女の背後へ歩き去って行った。一瞬ここがどこなのか忘れてしまったほど、それは実にさわやかかつ軽やかな挙措だった。
「あ、ちょっと待って」
対照的に物思いを破られ慌てて振り返ったクロニカの眼が捉えたのは、はたしてもう戻ることなく廊下向こうで手招きしている人物の元へとことこ歩み寄って行く、小さめの背中――。
「クロニカさん?」
そうしてしばしボウっとその場に突っ立っていると、背後から再び棘のある声で呼ばれた。
「あ、すいません!」
むろん誰何するまでもなく声の主は明らかであり、クロニカは当然謝りながら慌てて振り返る。先程少年に対して見せた親しげな風も、あっという間に今は影を潜めていた。
「あなた、どうも妙に落ち着かないところがあるようね? さっきからやたらキョロキョロしたりして」
「いえ、慣れない場所に緊張でもしているのか……」
「とにかくもう行くわよ。今日だけでもやることは多いんだから」
「は、はい!」
そして予想通り、用を済ませたややご機嫌斜めの副長が強い声でそう告げてきてさらにくるり背中向けると、彼女としても今はただ素直に従う以外道はない。
(あの子、何しに来たんだろ……)
……やはりどうしてもさっきの少年修道士のことがしつこく頭から離れず仕方なかったのだが。
何せ、彼の姿はつい昨日見かけたばかり。
細い路地を抜けた先の広場に建つ、粗末なボロ小屋の軒先で。
扉にはツバメのマーク掛けられた。
そこで狂暴なる戦士たちをどうやってか追い払ってしまったのは、何とも謎めいた一人の少年。あれは相棒のロビーですら思わず驚き見せた、不思議きわまる手並み以外の何物でもなかった。
その場面がいまだ強く記憶に刻みこまれているほどに。
(名前、アクセルっていうんだ。あの時猟兵隊と話していた子は)
――それゆえ午後の光の中仕方なしと上司の後をついて行きながらも、黒のショートカットに赤銅色の肌した娘の脳裡には、いつまでも赤い髪揺らすアクセルの笑顔がはっきりと浮かび上がっていたのである。