85.エピローグ 旅立ちの時 ②
ベッド脇の小卓に置かれた黄色い花飾られた瓶を見ると、ロイスがさも興味深げに口を開いた。
「……ほう、美しい。どこで採ってきたユリなのだ?」
「ベルタさんからの贈り物です。自分の部屋に飾ってあった花を、宮殿から立ち去る時少し持ってきていたらしくて」
「なるほど。ゴルディアスの愛人だったという女性だな」
だが、対するアクセルがその送り主の名前も交えて説明すると、一瞬だけ院長の顔が曇る。それを見た途端、少年はまたやってしまったかと思わず自分の浅慮を恥じたほどだ。当然慌てて言い訳がましく喋り出し――。
「あ、でもこの花自体はベルタさんが一番好きで、一層にいる商人から直接買ったもの、別にゴルディアスから貰ったという訳では……」
「何をそんなに慌てているのだ?」
「――え?」
「これは仕事の報酬でも何でもなく、ただ好意で与えられたものだ。たとえ元が何であろうと、その気持ち自体が実にありがたい。何よりこんなに美しく香り豊かな花ならば……」
「あ、そうでしたか……」
とはいえ当の本人は実際のところ気分害するどころかむしろ上機嫌だったようで、かえってアクセルに一瞬後肩透かしさえ喰らわせるに充分なのだった。
もちろんそんな若き修道士は分かりやすいくらい安心した顔見せている。
「それは良かった」
「ただ、そのベルタ殿の行く末がつい気になってしまっただけだ。何しろあのゴルディアスの愛人と呼ばれた方だからな。まさかいきなり乱暴な目に遭うとも思えんが」
「ああ、そのことでしたか」
そしてその一言でようやく相手の真意了解すると、彼は続けてどこか嬉しげに事の顛末告げ始めたのである。
つまりは、最初はベルタを僭主の権勢笠に着た愛人ということで敵視する者数多くいたが、しかし彼女をよく知る人々、特に宮殿のメイドたちが口を揃えてそんなはずはないと証言。さらに加えて反乱に与した英雄の一方とすらいえるクロニカとロビーが力強く、ベルタが自分たちの仕事に必死で協力してくれた功労者と述べたので、結局深刻な事態へはまったく至らなかったことを――。
「なるほど。逆にそれくらい彼女の人格が優れていたということでもあるのだな」
「はい。何よりベルタさんは昔戦争で両親を亡くされた経験を持ち、それで何とか戦だけは止めようとしていたのですから。そしてこれからは、町の復興に全力で協力すると約束していますし」
「……フム、あるいは、ここに来て以来、町自体最も今が活気に溢れているのかもしれん」
――そう、カルを始めとする復興委員会のメンバーは、少しでも家を失った二、三層の人々の負担を軽減しようと、早くも立て続けに様々な施策打ちだそうとしていた。まず、都市を層ごとに分けるとそれだけで身分差が生まれてしまうため、岩山に区画を作ることは廃止。同時に新たな市域は第一層の外に広げて作り出す算段となり、もちろん優先的に旧上層民たちが土地を得られることとなった。そして極めて斬新だったのは、それまでの領主独裁制を改め、民主制を取り入れたこと。これはむろん自由都市ファムの制度を応用したものだが、そうしてなるべく全市民が一つになること目指したのである。またそうすることによって、より自由に商売や職業を選べるようになり、新たな活気ますます生み出し……。
もっとも当然ながら、これらの大胆な政策が実を結ぶのはまだ大分後のこととなるだろう。それまでは、むしろ厳しい試行錯誤の期間とすら言える。決して平坦な道のりでないのは余りに明らかなのだから。――だが、それゆえにこそ、まっさらな地に描く夢が果てしなく大きいのもまた事実。そう、今までにない、自由と平和に溢れた町を荒野のただ中に創るという……。
「さて、ではお前はもう旅立つのだな」
「あ、院長!」
そしてもう話すべきことは全て話したと、ロイスは締めるように大きく一つうなずくと、あの青い瞳でアクセルの面をしっかりと見つめた。相変わらず青白く痩せ細った顔立ちだが、しかし最近は病状も多少軽くなっているのか心持ちその表情は明るい。しかもゆっくりとそのまま半身起こそうとさえしたので、さすがにアクセルが慌ててそれを抑えんとしたのは言うまでもないのだった。
「駄目ですよ、まだそんなに動いては」
「ふふ、大丈夫だ。私の身体のことは私自身が一番よく知っている。――もっとも今日はちゃんと名医の意見を尊重するとしよう。何より長きに渡る旅が始まるゆえ」
「……すいません。ずっと傍にいるべきなのに、自分だけのわがままで」
と、つと申し訳ない顔になった愛弟子に、院長は大らかに声を掛ける。
「気にするな。それにお前はしっかり自分の生きていく道を見つけたのだ。そのためにはくれぐれも身体は大事にするが良い。……あと、自分のしたことをあまり深く後悔し過ぎないように」
「……はい」
加えてロイスの放った一言。それはまず間違いなく今まさにその全身へ覆いかぶさっている罪の意識に他ならず、そして何十年経ったところで少年の心を苛んで止まない記憶となるのも疑いない。
そう、あろうことか、彼は人々の掛け替えのない家や財産、ことごとく地上から消し去ってしまったのだから。むろん、そんな重すぎる科の感覚、恩師たるロイスの言であっても簡単に消し去れるはずなどなく……。
「はは、そう言われて簡単に平常心取り戻せるなら、そもそも最初からそんなに悩むはずもないがな」
院長としても、結局今はそれ以上余計な言葉重ねることはなかったのだった。
◇
「では、もうこれくらいにしておこう。――達者でな。アクセル」
かくてロイスが微笑み顔から再び改まって真面目な面ふと取り戻すと、ついに、窓から射す陽光眩しい中二人の掛け替えのない時間は早くも過ぎ去ってゆき。
「……はい、ロイス院長。それに」
「? 何だ?」
「……本当に、本当に、今までありがとうございました」
――だが師弟にして親子のようなものでもあるそんな二人の別れが、かようにまた会えるともこれが最後だとも言い交わさない、だがそれでいて視線のうちにより何かを真摯に語り合っていた様相だったのは、わざわざ言うまでもなかったのである。




