70.光の塔 ⑦
広場の一隅でぐったりと仰向けに倒れた男の傍に屈みこむや、ロビーがふいに始めたのは、その首元での奇妙な作業だった。そこの部分に浮かび上がった、六つの文字で構成された厳めしい印章――むろん、それはキリクをブレイカーたらしめている、あの<覇印>。彼は何の目的かその黒い文字群にそっと赤い粉つけた人差し指を近づけ、何やら上からこちらも単語らしきもの――ただし解読はとても不可能な――を丁寧に書きつけていったのだ。そう、その文字列は恐らく<覇印>と同様のいまだ未解明の言語から成り立っており、確かに似たような作り、雰囲気を持っているようにも思われ――。
「……何をしているのだ?」
すると、作業中、そんな青年へ背後から降りかかる声があった。
「殺したわけではないのか――」
むろん、それは反乱軍率いる武器商人・ハウドが放ったものだ。もっとも相変わらずその手に反りの大きな曲刀握りつつも、今は先ほどまでとは異なり、白熱した戦闘モードがかなり影を潜めている。しかもそれは敵方含めた他の兵士たちほぼ全ての状態でもあったようで、今や誰一人として武器高く掲げる者など辺りにいなかったのである。
そう、それはまさしく、あからさまなまでの戸惑い示した色。
目の前の光景、ただポカンと見守るしか術ないような。
「ええ、もちろん。オーバー・ブレイクに強烈なダメージ与えたため、気を失っているだけです」
「情けでも示したということか?」
「情け……というより、これが僕たちなりの流儀なので」
そして対するは、続ける作業の手は止めぬまま、振り返りもせずに答える青年。
ふいにどこかから現れ、しかも信じられないことにあの凄腕の剣士見事倒してしまった、深い謎に包まれた飛び道具使うブレイカー――。
そこでハウドは、ふといまだ、彼にちゃんと礼すらしていないことに気づいたのだった。
「――とにかく、君がキリクを倒してくれたおかげで我々は何とか救われた。今さらだが、厚く礼を述べておこう」
「いえ、そんな。それにこれは完全に個人的な理由から僕が勝手にやったこと。別にあなたたちに助力しようとは……」
「だが、いずれにせよ間違いなく君と、そして向こうにいる彼女の仕事は大いなる助けとなった。……たとえそれが反乱軍に与するためのものではなかったとしても。ゆえに当然ながら、報酬ではないが後で礼の品はいくらでも用意しよう」
「お礼なんて……」
そのいかにもにこやかな言にさすがに振り返りながら、だが知らず謙遜してしまうロビー。むろんその一瞬、褒美のうずたかき山に満面の笑みプラス瞳輝かせる相棒の顔がありありと思い浮かんではいたものの、しかし今回のことはまさにハウドたちから請け負ったものではない、そうした彼の認識は微塵も変わることなかったのだ。当然、お礼云々の話はすぐさまうやむやとなり、彼は疾く元の作業へと戻って行く。
「僕たちには、歴とした依頼人がいますので」
そんな、不思議と強い気持ち籠もった言葉後ろに残して。
かくて<覇印>の上に、まるで覆い被せるように記された、五つの赤い文字から成る言葉。それはまた同時にブレイカーの証を大胆に損ねるが如くにも見え、なぜか普通の人間ながら、じっと見つめていたハウドでさえかなり冒涜的に過ぎると感じ取ったほどなのだった。
「……その文字は、一体?」
当然、一音重くして物問う声にも、怪訝な感があからさまに籠もる。
「何、やることは単純そのものです。すなわち、力の消去」
「力の……消去?」
「この字を位置含め正確に記せば、間もなくして<覇印>を完全に消し去ることができるのですから。そして、僕の相棒も今向こうでまさに同じことをやっているはずです」
「!」
だが、対する青年の答えは、その涼やかさにも関わらずそんな反乱軍首領の想像遙かに絶してしまったもの――。何より、彼だけでなく、周りにいた全ての人間が、途端あまりの驚愕にざわめきだしていたのだから。
そう、まさか、オーバー・ブレイクと結んだ神聖にして不可侵たる契約を、その五文字だけであっさり反故にしてしまうとは……。
「そ、そんな、何という……」
しこうして自らも驚きまるで冷めやらぬ中、ハウドは変わらず呆然と呟き続けているというもの。
むろんなおのこと豊かな湧き水のごとく、大いなる問いは次から次へ、勢いよく出てこようともしたのだが――。
だが、男がその疑問をどう表現しようかと考えた、その一瞬の間をついて。
「――なるほど。『喪失の言葉』。ロビーさんたちは、その神聖文字、知っていたんですね」
「!」
……背後からふいにそんな凛としながらも静かな声音が場違いにも二人の会話へ混じってきて、その言葉はすっと、そう、どこまでも自然と、ハウドの発するべき問い遮っていたのであった。
◇
「き、君は、まさか……」
兵たちの中からするりと現われたその姿に、知らずハウドが、いやその隣にいたマルカスまでもが驚きの声上げていた。
「昨夜会いに来た――」
むろんそれが、昨晩無謀にも第一層の酒場訪れそして蜂起を説得だけで止めようとした、あのまだ幼さ残る少年だったからだ。当然服装もその時と同じくあずき色した地味なローブのままで、そう、外見だけなら、とくに変化したところなど一つもない。言ってみれば、元のごく普通の気弱で優しげな少年修道士、というやつである。
だが――。
「どうしたんだ、何だか様子が……?」
ハウドが目敏く勘付いたように、今の少年が持つ雰囲気に何やら不可思議な点があることは、恐らく彼と会ったことがない人間でもすぐ怪訝さ覚えるくらい、妙にはっきりしていたのだった。
「それに、おかしい。あの睡眠薬は二日以上確実に効果があるはずだったというのに」
「……」
「いったい、何が……」
……そして何より、白昼夢でも見ているように知らず呆然と呟き零したマルカスに対し、突然の闖入者、サミュエル会士アクセル・ティコ・プラトーは、どこまでも落ち着いた口ぶりで、そう、まるでよき教え諭すように、遥かに歳古りたその知恵者へつと言葉紡いでいたのだから。
「もちろん、その答えはたった一つ。――すなわちすべてを終わらせるために、そしてすべてを始めるために、そう、僕はやっと目覚め、ここへ来たのです」
――と、刹那青く澄んだ瞳に、儚い、幻めいた光きらきら瞬かせて。




