60.追憶(3) ⑨
「!」
だが、かくてベルトからそれを引き抜こうとした、その時だった。
「ミコナ……?」
ふいに少女が、懸命に力振り絞ってアクセルの左腕へ手を伸ばしてきたのだ。それも、あまりにも弱々しい、自らの震えすら止められぬような状態で。
そのげに苦しげな顔を見るや、少年が慌ててミコナ止めようとしたのは当然のことだった。
「だから、ダメだよっ。今はとにかく安静に――」
「思い出して」
「……え?」
「あなたも、あれを間違いなく聞いたはずよ……」
対して、なおのこと言葉続けつつ、瞳の色も熱っぽくさせていくミコナ。ただし、それはどこかこれまでの死毒からくるものとは異なるようにも思え、ふとアクセルに耳を傾けるよう強く意識させたのだった。
「あれって、何のことを言っているの?」
「声。……アクセルと契約を結ぶための。それをきっとどこかで――」
「契約……?」
そしてなおもアクセルが困惑していると、とどめとばかりに、ミコナが苦しげな顔のまま静かに告げた。
「多分、あの日の朝。そう、私たちがあなたと初めて出会う前、生まれ故郷の村で……」
「村――レムリト……」
むろん突然そんな懐かしい場所の名前言われても、少年の方には思い当たることなど何もないはずだった。そう、ミコナのどこまでも必死な思いにも関わらず、ますます訳が分からなくなるばかりで。
かくてまるで呆けたように、ただ村の名だけ呟いている……。
――だが。
「あれ?」
つと、その瞬間、彼の脳裡を朧げな記憶が一つだけ、しかし輝くように過って行った。
それは小雨降るレムリト村の情景だ。暗い地下室でまどろみから目覚め出てきたばかり、東の草原へ向かう前。その何とも寒々しい光景のただ中で、少年はふと届いた小さな声へ、つかの間耳澄ましていた。少し前の夢のことか、それは何だか聞いたことのあるような、優しい、でも同時に寂しげな少女の声音だった。いや、実際初めはまだ夢の続きを見ているのかとも思ったのだ。妙に現実感がないこともあり、とても生身の人間のものとは感じられなかったのだから。
幼い、というより、気の弱い、そして内気な少女。
まるで周囲からよく言われていた、自分の性格と同じような――。
(アクセル、あなたに力を与えます)
そう、そしてなぜ今まで完全に忘れていたのかは知らないが、彼女はあの時確かに、どこか見えない所から静かに少年へ話しかけていた。内容の割にどことなく哀しげな、それゆえこちらの胸まで痛むような口調。
……とはいえ少年にはほとんどそれは幻聴も同然で、結局聞き返すことすらしなかったのだが。
(――ただ、まだ若いあなたにはこの力とても制御できません。あまりに強すぎるのです。だから、今はまだ封印しなければ。恐ろしい被害を決して招かないためにも)
こうして、あくまでも遠くから聞こえてくる、囁きにも似た不思議な声。
夢か現か、アクセルはただボウとした頭でそれを黙って耳にしている。
あたかもそうしていれば、声の主はかえってもっと話しかけてくれる、とでも言う風に。
――しかし。
数秒の間の後。
案に相違して。
(……では、また会いましょう、アクセル。そしてその時こそが、まさにあなたが真の力解き放つ時。――それまで、元気でいてね)
声はたったそれだけ最後に楚々と告げると、ふっと、その場ではもう二度と聞こえることなくなる。
ハッとしたアクセルが慌てて周囲見回しても、もちろんあてはまる少女などどこにもいるはずはなく――
ただそこに広がっていたのは、しとどに濡れた雨の中の小さな、そしてもはや誰もいない村。
恐るべき惨劇起こった夜の、そのすぐ後の。
(――やっぱり、幻だったんだ)
……そうしてアクセルは、一人寂寥たる世界の中、ようやく頭がはっきりし出した自分ちゃんと納得させるべく、そう小さく呟いている。
◇
(あれは……)
アクセルは茫然としながらも、心の中で宣う。
それは、今やはっきりと甦った、紛れもない真実の記憶。
降り続く小雨。灰色のどんよりした空。泥濘の上の小さな家々……。
それらの景色も途端同時に、鮮やかなまでに脳裡へと再生されたほどに。
(そんな、それじゃ、僕は――)
だがむろん、たとえそうであったとしても、にわかには全てを信じきることなどとてもできそうにない。特に、あの声の主がまさか――。
そんな真実まさしくありえない、絶対に在りうるはずのない、ことなのだが。
「……思い出してくれた?」
――だが、その時はたしてそんな追憶から醒めたアクセルへと再び問いかけたミコナのその瞳は、苦痛の最中だというのにとても優しい、穏やかな光そっと宿していたのである。
それはまた同時にどこか満足げで、そして寂しげで。
……頑固な少年がやっと、ほんとうのこと理解してくれたとばかりに。
◇
……その後のことは、アクセルの記憶にはほとんど残っていない。
唯一はっきりと想起できたのは、ミコナの最後の、本当に心の底から安心したという穏やかな笑顔。
そしてその、すぐ後
彼の視界は突然眩いばかりの光で一面どこまでも覆われ――。
「な、何だ、これは! 光が!」
向こうの方からは、ザカリエの凄まじく狼狽した大絶叫。
……そうしてしばらくして、それは数秒後かあるいは数時間後のことか、――気づいたら焼け焦げたような黒っぽい地面の上に、彼は身を投げ出すようにして仰向けに一人倒れていたのだった。
どことも知れぬが、ただ遥か頭上には抜けるような青空はてしなく広がる中。
先程まで暗い城にいたのが信じられぬくらい吸いこむ空気はあまりに爽やかで、そして遠くの方では、軽やかに鳥たちも鳴き声合わせ唄い続けている。
森の中に住まう、小さなツグミたちの群れが。
生き生きとしたその存在が、少年にもはっきりと感じ取られたくらい――。
「――これから、トロックが駆けつけてくる。何せ隣の町であの光あいつも見たのはまず間違いないから、もうすぐのはず。……そうしたら、南の山超えた砂漠にある町、ジグラト・シティに住んでいるロイスって修道士を呼んでもらうつもり。医者としても腕利きの彼なら、私やアクセル治療してくれるだろうし」
そして記憶の最後を彩るのは、その時ふと聞こえてきた、温かくて、慈しみ深くて、……また同時に隠しようのない疲労に満ちた声。
優しく彼を見下ろしていたのだろう、声の主は、その姿燦々と照りつける太陽背にして黒く陰らせている。
もちろんここからでは、それゆえ顔をよく見ることができない。
「う……」
……だからもし、彼女がその時泣いていたとしても、少年にはまるで分からず、
「そして何より――ミコナもちゃんと、弔ってくれるだろうから」
――ましてやその言葉放った時彼女がどんな表情していたのかとなると、ただでさえ朦朧としていた今の彼には、確かめる術一つもありはしないのだった。




