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6. 修道院 ②

 「すまないな、いつも……」


 狭い部屋の中ベッドからは身を起こしたものの、その声ははっきりと分かるくらい憔悴しきっていた。いくらか、液体が注がれた椀を持つ手も震えているようだ。いかに毅然たる態度に変わりがないといえ、そこに往時の精気を完全に認めることは難しい。やはり刻一刻と、彼の命を脅かす病は勢いを増しつつあるのだろう――。

 赤髪の少年は、それゆえベッド傍らの椅子に腰かけたまま、努めて心配な表情を見せまいと明るく応じたのだった。


 「何を言っているんです、具合が悪くなった時はお互い様でしょう。僕だって昔どれだけロイス院長にお世話になったか……」

 「フフ、昔か……。あの頃はお前もよく流行り病にかかったものだな」

 「はい。特にここに来たばかりの時はやたらご迷惑をかけたようで」


 そう述べて、間近からじっともう大分痩せさらばえてしまった恩人の顔を窺う。

 その目に映るのは、ガルドより少し長い程度の、だが同じ色の銀髪。日頃掛けている眼鏡は外してあり、今は素の切れ長で青い瞳がこちらへ向けられている。長衣の中ほっそりした体形や下がり気味の眉が加わることもあり、その眼光はかなり繊細な印象だ。鼻筋もすっとしていて清々しい。

 これで病の影響がなければ、実に知的で穏やかな表情がそこにあるはずだった。


 「ここに来た時……。確かアクセルはまだ12くらいの年だったな。最初はしばらく放心状態がなかなか抜けなかった」

 「はは……もう5年前のことになります」

 「昨日やって来たあの子供たちとちょうど同じくらいか?」


 寝台上の人物、ロイス院長が問うと、少年――アクセルという名なのだろう――はやや間を置いてから思案げに答える。


 「そうですね、兄の方は確かに当時の僕と同じくらい――ただ院長の言うとおり、もちろんあんな元気はとてもなかったですけど」

 「ウム、だがその頼りない子供が今や我がサミュエル修道院きっての名医だ。私も必死に治療を施した甲斐があったというもの」

 「やめてくださいよ、そんな大袈裟な。それより薬を」


 と、突然の慣れない誉め言葉に思わず赤面して、ごまかすように少年は急ぎ話題を変えた。つぶらな瞳まで伏し目がちにするのを見ると、よほど苦手な感がある。


 「――大事な薬なんですから」


 だがそんなまだ若さの残る初々しい反応を見れば、かえって壮年の院長としては優しい笑みを零さずにいられないのだった。


 「ハハ、相変わらず子供だな。しかしこういったお世辞にもそろそろ落ち着いて対応できるようにならないと」

 「分かってますけど、ただ僕が名医だなんて絶対ありえないので」


 慌てぶりはそのまま、そう何気なく零した一言。――しかしその瞬間、それは院長の表情をふと真剣なものへと一変させた。表情は固くなり、身体も気持ち前の方へ迫り出してくる。

 何より院長は続けて静かに、かつ力をこめてのたまったのである。


 「いや、これは決して冗談ではない。お前には確実に医術者としての秀でた才能がある。私でもはるか及ばぬような」

 「え? 何を言って……」

 「これまで様々な医者と会ってきたからな。間違いない」


 そしてその刹那だけ、昔通りの力強さでまぶしく輝く青い瞳――当の少年にとっては懐かしく、また同時になぜか少し哀しくもなる光。


 「ロ、ロイス院長……」

 「……お前の中には何か隠されたものがあるはず。あるいはそれがやがて多くの人々を救うことになるかもしれん。この荒廃した時代にあって――」


 ……しかし、結局は彼の真に迫る言葉もそこまでだった。ふいに途切れさすと、一瞬後ロイスの瞳はまた元の弱々しげなものへ戻ってしまったのだ。しかもやたら疲労感漂う様相で大きく呼吸をしだしながら。

 アクセルが慌てて、再び震え大きくなった院長の身体を支えたのは言うまでもなかった。


 「どうかご無理はなさらずに。今は薬を飲んでゆっくり休んでください」

 「ああ、そうだな……。少し喋り過ぎたようだ」


 そして手を添えて椀の中の液体を飲ませると、そのままロイスの身体をゆっくりベッドへ寝かせていく。


 「これで必ずよくなりますから」


 その声はむろん、隠しようのない親愛と敬慕のこめられたものだった。それも単なる上役用を超えて明らかに強い響きがある。……すなわち、どれだけ少年がこの温厚な人物を慕っているかという如実なまでの証し。


 「後は頼んだぞ……」


 やがてそんなアクセルの視線の下、青い顔のロイスは苦しみに耐えるようにしばし目を閉じた。ゆっくりと呼吸を整え、そのままの姿勢で身を襲う悪寒が立ち去るのをじっと待つ。表情もまだ険しいが、むろんいくら気遣わしいとしても、今のところその容態は静かに見守るしか術がない――。

 時だけが淡々と、人間たちを置いて過ぎ去っていくのみ。


 「大丈夫です。必ず元気になりますから」


 ……むろんしばらく経ってからアクセルがそう放った言葉は、もう目をつぶっている相手へというより、自分に対してより強く言い聞かせたものに違いなかった。その証拠に、彼はロイスの荒い息吹へつかの間じっと耳を澄ませるや、続けてふと告白者のごとく一人呟いていたのだから。


 「だからどうか、今回だけは許してください――」

 

 そう、どことなく、寂しく、そして苦しげに。


                  ◇


 「おおアクセル、ちょっといいか」


 空になった椀を手にしてアクセルがロイスの部屋から出るや、せっかちに呼びかけてくる人物があった。


 「聞きたいことがあるんだが」


 少年はそのやや高めで神経質ともいえる声音へ、さっと顔を向ける。

 扉から見て左側、もう一つの扉との間に挟まれた本棚のあたり。

 そこにはきっちりと真ん中で分けた黒髪と黒い眼をした、30前後と思われる男性が立っていた。ややきつい目つきながら、細い眉のそれなりに整った顔立ち――何となく、都会の学者っぽいインテリ感を醸し出している。むろん身にまとっているのはアクセル同様あずき色した地味な長衣だったが。


 「リオースさん」

 「……院長への施薬ご苦労。体調に変わりはないか?」

 「はい、あまり。――ただ少しずつ良い方向へ向かっているようには感じられるのですが」


 アクセルがそう答えると、リオースと呼ばれた男は何とも物問いたげな顔をする。もっともそれがすぐ心変わりしたように数秒後消え去ったのを見ると、どうやら聞きたいことは他に用意してあるらしかった。


 「そうか。急変がないようで何よりだ。……で、話は変わるが」


 その証拠に、ふいに改まったような表情となったのだから。


 「何でしょうか?」

 「あの兄妹についてのことだ」

 「リンツとリルカの?」


 と、訝しげな顔をした少年に、リオースは小さくうなずく。


 「修道院は避難所ともなるという話を聞いてやって来た、それはいいとして――。昨日は猟兵隊に追われていたこともあり話どころではなかったが、しかし落ち着いてからよく聞いてみれば、どうやら両親はゴルディアスに囚われているらしいじゃないか。しかも反乱罪で。これはなかなか由々しき問題だぞ、妹があいつらに石を投げた程度の騒ぎじゃない。何より領主側に知られたら何が起こるか……」

 「……何が言いたいんです?」

 「つまり――」


 はたしてアクセルは相手のそんな妙に言いにくそうな態度から何となく察しがついたようだった。だがそれでも問いかけたのは、やはりあまりそれが自分にとって芳しからぬ意見だとはっきり直観されたからに違いあるまい。

 ――事実、年長の修道士はすっと近寄ると、やおら声を落とし耳打ちするように言ったのだった。


 「いつまでもここに置いておいていいのか? いや、何も今すぐというわけではないが、ただしばらくしてほとぼりが冷めたら……」


 そして眉間に皺寄せたまま、ふと背後へ視線をやる。

 サミュエル修道院主室の東側、白い壁――。

 そこは真ん中に赤茶の扉があり、中へと入れるようになっていた。さらに扉上部に掛けられた木札には、丁寧な『厨房』の二文字。どうやら奥がここの調理場となっているようだ。


 「出て行ってもらうと?」

 「まあ、ありていに言えば……」


 奥歯にものの挟まったような言い方。だが何を言いたいかは手に取るように分かりやすい。彼同様そちらへ目をやりながら、アクセルは理解の印に小さくうなずいた。


 「何を恐れているかは分かります。この無法の町で領主に目をつけられるのはあまりに危険というもの。たとえそれが、我々のような聖職者であっても」

 「では」

 「――しかし」


 だが、同意もそこまでだった。

 次の瞬間、向け返した少年の眼に宿った真摯(しんし)な光――それはリオースが思わずおっと気圧されたほどの、ただならぬ固い決意に染められた輝きだったのだ。


 「彼らにはもう帰る所はありません」

 「う、うむ……」

 「そして寄る辺なき迷える者を救うのが、僕たちの使命だとすれば」


 そこで置かれる、一拍の間。むろん先輩修道士でも下手に口を挟める空気ではない。ただ、立ったまま耳を傾けている。

 何よりそれなりに長い付き合いゆえ、アクセルがよくこんな表情となることは知っていた。

 すなわち、それはかなり真剣にものを考えている時。

 そして――。


 どこまでも強さと優しさを内に包んだその声が、さらに続けて室内に響いた。


 「――たとえ相手が誰であろうと、僕たちには救済という名の行ないを果たす義務があるのです」


 

 「あっ、アクセルさんだ!」


 と、その時、アクセルたちが視線を向けていた赤茶の扉の方から幼い声がした。

 見れば出入口が開け放たれ、そこから兄妹と、そして付き添いのようにガルドも出てきたところ。巨漢のガルドはともかくとして、その前にいる二人はまさしく喜色満面といった感じだった。


 「リンツにリルカ。案内はもうしてもらったのかい?」

 「はい、色々教えてもらいました!」


 妹のリルカに続けて、兄のリンツが元気よく答える。線はまだ細いが、しかし活力みなぎりいかにもすばしっこそうな少年だ。

 二人はその輝くような笑顔のまま、タタタッとアクセルたちの方へ駆け寄ってきた。肩をすくめながら苦笑を零すガルドをあっさり後ろへ置いてきぼりにして。


 「厨房を見せてもらったよっ」

 「あそこでお料理するのね?」

 「そうさ。リルカたちにもそのうち手伝ってもらうことになるかな?」

 「うん、やる! 頑張るからっ」


 そしてリンツとはまた少し違った、金色の髪に縁取られたかわいらしい笑顔でリルカがアクセルの出した提案に応じる。ふっくらとした頬は赤く染まり、それに小さな手と身体をした、まるでお姫様人形のような少女だった。

 その天真爛漫な姿に知らず若き修道士が笑みを漏らしたのは言うまでもない。


 「フフ、そんな張り切らなくても大丈夫。ゆっくり覚えていけばいい。僕はちょっと出かけるけど、先輩たちの言うことはちゃんと聞くんだよ」

 「うん」

 「ハイっ」

 「それで、あとは何が――」


 そうしてさらにアクセルが訊ねようとした時――。


 「おい、案内係を置いていくなっ」


 リルカたちの後ろから、野太い声が降りかかってきた。腰に両手を当てたポーズで、赤茶扉の前に立つガルドがこちらを見つめている。もっとも言葉とは裏腹に、にこやかな表情だ。


 「まだ前室はちゃんと紹介していないだろうが。お喋りはそれからだ」

 「あ、そうだった」

 「すいません、ガルドさん!」


 それを聞くや、アクセルたちに慌てて会釈して、二人は素直にまた大男の方へ走り去って行った――。



 「元気なものだ」


 ガルドの傍で楽しそうに笑う兄妹を見ながら、リオースが呟いた。どことなく、先ほどよりは険のある表情が消えている。


 「ええ、つかの間とはいえ、嫌なことを忘れてくれたようで何よりです」


 その隣で、やはり静かに応じるアクセル。リオースと同方向を見つめるその瞳は、どこまでも優しく温かい――。

 肩の上あたりまで届く赤い髪。きりりとした眉と、つぶらで長いまつ毛に縁取られた青瞳。頬はまだふっくらとし、小ぶりでスッとした鼻、そして桜色した唇の、丸みを帯びた顔。

 少年というより少女と言っても通用するような瑞々しい顔立ちだった。凛々しさと、同時に可愛らしさも同レベルで住まっている不思議な雰囲気である。とにかく悪名高きジグラト・シティ最下層ではあまり見かけるタイプの人間ではあるまい。話し方も穏やかで、そんな彼が昨日命懸けで逃げこんできた兄妹を何のためらいもなく修道院へかくまってくれたのだ。出会って間もないというのに、幼い二人がもう心から慕っているのも無理はなかった。


 「……まあ、いずれにせよまだ外を出歩くのは危険すぎる。当分ここで預かることにはなるだろうな」

 「はい。その間はもちろん彼らにもちゃんと働いてもらいます。しばらくすれば、立派な戦力となりますよ」

 「うむ」


 そうして胸を張って答える後輩にリオースは静かにうなずき返す。彼としても、本心ではできれば二人を助けたい、そんな思いがひしひしと伝わってくる仕草であった。


 「ただあまり子供の相手をしたことはないんだが……」

 「でもガルドさんは得意のようでしたね。あんなに子供好きだったとは意外でした」

 「人は見かけによらん。ただの熊男ではないということだ。とにかく慣れるまでは、あいつに任せることとしよう――」


 そんな本人の耳に入ったら間違いなく憤慨しそうな感想とともに、結局彼もリンツたちを受け入れると認めていたのだから。


 ……ただし言うまでもなくその声量は、向こうにいるくだんの大男には決して届かない程度の、やや控えめなボリュームなのであった。

 


 

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