58.追憶(3) ⑦
「ぐわっ」
まるで虫追い払うように後ろも振り返らずぞんざいな、しかしその強力きわまる腕の一振りに、マリーの身体が軽く後方へ投げ飛ばされた。
ミコナの首絞めるザカリエの背にサラマンダーでがむしゃらに撃ちつけそれ阻止しようとした、その際中のことである。
マリーは背中ごと冷たい床に思いきり叩きつけられ、あまりの衝撃にたまらず苦鳴漏らす。一瞬息が止まって意識が飛んだかと思われたくらい、それはげに凄まじい痛みだった。
「く、くそ……」
知らず次いで放たれたのは、悔しさと焦りで塗れた、自らを憤る小さき声……。
むろんとにかく少しでも早くミコナあいつから解放したかったが、これでは何一つ、そう傷一つ敵につけることすらできない。そうしてその間にも、少女を襲う死毒の猛威はいよいよ勢い増しているはず。早くしなければ、早く立ち上がらなければと、ただ気持ちばかりが鋭く焦慮帯びていく苦境。
――そしてそんな中隙を見せれば容赦なく浮かび上がってくる、もうどうしようもないという虚無的な諦念。
(まだ、まだ大丈夫――)
だがとにかくそれ、諦めだけには決して屈しないと、マリーは無理矢理その感情心のどこかへ追い払い、気持ちも奮い立たせ何とか立ち上がろうとした。
そう、向こうでミコナが今も必死に自らを冒そうとする猛毒と戦っている上は、その選択肢などありえない。
まだ、何か助かる道はあるはず。
いつものように、二人で勝利掴む道はきっと残されているはずなのだから。
――少女に覆いかぶさるようにしている、真っ黒き鎧。
仰向けに倒れながら、そうしてマリーはその威容しかと目に映し……。
◇
眼下には、もはや息も絶え絶えの少女。
見る間に青色いや増してきた、まだあどけなさ残す顔。
すでに細い四肢はぐったりと伸ばされほとんど力入っておらず、そのぼんやり開かれた瞳に映るのも、今は現実ならぬかそけき幻のみか。加えてその呼吸の音もごくかすか。
……そう、そんなたった数秒の一瞥だけでもう戦意どころか生命力あらかた失われてしまっていること如実に分かったくらい、長い灰髪したブレイカー少女の衰弱ぶりはあまりに著しい。
(フン、しょせんこの程度か。他愛もない――)
すなわちザカリエの心の裡でも、おのずとそんな姿見て、歪んだ勝利感充つる呟きが傲慢に零れていたのだった。
眼下の少女には、もう恐れるべき点など何一つない、とばかりに。
(次は、あの女だ)
――そうして男は、もう用済みとばかりにいかにも蔑んだ視線最後にミコナへ放つと、新たな獲物求め自分の背後ゆっくりと振り返っていく。
床の先、白亜の壁のやや手前。
そこにはむろん、先ほど自分が跳ね飛ばしたばかりの、必死で立ち上がろうとしているマリーの姿があった。当然のごとく、深紅のオーバー・ブレイクその手にしたままだ。何より距離を置いても分かる、いまだ闘志みなぎる紫の美しい瞳。
――瞬間、そんな彼女見つめるザカリエの精神に鋭く走っていたのは、得も言われぬ嗜虐心の稲妻だった。
それは彼にとっては実に馴染の、そしてもっとも自分を快くしてくれる快楽サイン。
あるいは唯一最高と言ってもいい行動原理。
それ自体が、もはや完全な至上目的そのものとなっているような。
むろん、ザカリエはそんな最も欲望する大悦楽前にして、今さら少しでも躊躇い見せるような男ではない。むしろ気持ちは数分後の血の光景に逸るばかりで、知らず悠然と脚も前へと踏み出している。
一歩ずつ、一歩ずつ、ゆっくりと。
しょせん手負いのか弱き女だ。あの哀れな少女と同じく、もはや何ら脅威と思われるところなどなかった。何より一度は自分に致死的ともいえる攻撃加えた憎き相手、まさかここまできて手加減などもってのほかであろう……。
「どうした、まだやる気か?」
自然、その挑発する声にも隠せぬ喜びで震えがこもっている。
そう、そもそもこの<死鎧>纏いしザカリエ・ユリスを身の程知らずにも狩ろうとした時点で、彼女たちは取り返しのつかない重罪犯していたのだ。すなわち、今なら十二分に思い知っているだろうが、実力初め様々な点で大きすぎる差があったのは紛れもない事実。特に基礎中の基礎の、ブレイカーとしてのレベルがあまりに違ったのであるから。
そして、そんな愚昧な行為をしてしまった以上、厳重な断罪の執行は必然となる。
目には目を、歯には歯を――あれは確か、古来よりの神聖な法だったか。
そうして間もなく、目の前の女もまさに身をもって自らの愚かさ償うこととなるだろう。すでに捨て置いてきた、あの生意気な少女もろともに。
いまだ往生際悪くも、近づいてくる影にオーバー・ブレイク必死に構えようとする紫瞳の女。だがなかなか手に力入らないのか、照準はなおも定まることがない。ましてや呼吸の音は、恐怖と緊張が一緒くたに合い混じり、はっきりこちらに届くくらい異様なまでに激しい……。
(さあ、楽しませてくれよ。どれだけ私の毒に耐えられるか――)
はたしてじりじりとにじり寄って行きつつ、ザカリエの昏き心内にはその時、そんな犠牲者じっと視線の中に捉えながら爆発するがごとき興奮激しく沸き立っていたのである。




