5. 修道院 ①
【 二日目 】
黄金色の髪の少女は壁に掛けられた一枚の絵を見上げると、さも興味深そうに口を開いた。
「きれい……。これ、何の絵なの?」
「聖者サミュエルの周りを歓喜のあまり飛び回るツバメたち――。サミュエルの教えに彼らが初めて感銘を受けたというエピソードを描いたものだ」
対してその背後から聞こえてくる野太く男らしい響き。だがそれは同時に穏やかな優しさにも包まれた声音だった。
「ツバメが感動したの? 変なの」
「ハハ、だが実際サミュエルは人だけでなく野に生きる動物たちにも真剣に説教を垂れたと言われている。そしてその最初の<弟子>がツバメだった――それゆえあの鳥は今でも我々を示すシンボルマークとなっているんだ」
「でも彼らだって。中には女の子もいたかもしれないのに」
と、話を交わす二人の傍らから、今度は風のように軽やかな、まだ声変わりする前の少年のひと言が届いてきた。
「ん? そう言われるとそうだな」
その突然の横槍に、野太い声の持ち主――180サムス(センチ)を超える巨漢は虚でも衝かれたものか、妙に呆気に取られた表情となってしまう。
「伝説ではそうなっている以上、特に疑問に思ったこともなかったんだが……」
「毎日男ばかりで暮らしているからだよ。たまには外で女の子たちと遊んできたら?」
少女と同じ金髪の、ただしこちらはかなりボサボサ状態にした少年が語を重ねる。何とも年齢・容姿に追いつかぬ、相当大胆な発言だった。
「ほう、これはまた生意気な」
「だって本当のことでしょ? 修道士なんてだいたい――」
「心配にはおよばん」
だが、そんないかにもこましゃくれた言に余裕の態で応じると、巨漢は口からにっと白い歯まで零した。まさしく悪い大人の感満々だ。
「え?」
「修道士といえども確かに息抜きは大事だからな。そりゃ時々行かんこともない」
そして短く刈りこまれた銀髪の下、糸のように細い眼がいたずらっぽく少年を見下ろす。造作としては大きな鼻、大きな口、そして太い首が特徴的な、見るからにたくましい身体つきの男である。
だがそこにあずき色の粗末な長衣まとっている姿は、どうひいき目に見てもアンバランスとしか言いようがないのだった。
「い、息抜きって、本当にいいの」
「何ごとも節度が大事だ。強欲過ぎるのはもちろん厳禁だが、反対に禁欲にすべてを捧げるのもちがう意味で危険というものだろう。特に欲望の対象をかえって恐ろしく嫌悪してしまうような。そこにはまず博愛という精神が欠けている。思いやりのない教えなど、誰が好んで受け入れようか」
「そうなのかなあ……」
「まあ今はそんなお堅い倫理の話より」
そこで男は自分を見上げるまだあどけない二人へ一つうなずいてみせる。言葉どおりの、それは違う話をこれから開始するという分かりやすい合図であった。
「まだ修道院の案内は始まったばかりだ。何しろここは今日からお前たちがしばらく生活する場。しっかりとどこに何があるか、覚えておけよ」
「あ、はい!」
「お願いします!」
すると返ってきたのは、幼いながらもありありと必死さがこもった、大きな返事――。
その姿はまさに、昨日の昼間細路を決死の覚悟で駆け抜けてきた幼い兄妹に他ならない。ともに金髪、青い眼をした、よく似た顔立ちの二人だ。
彼らは何とか猟兵隊に追いつかれる前にこのサミュエル修道院へ辿り着くや、扉を何度も叩き助けを求めた。すぐ背後からは男たちの怒声がだんだんと近づいてくる。周りは建物ばかりでもう先へ続く道などない――まちがいなく、中に入れなければすぐさま連中の餌食になるのは確実だった。
そして息つく暇もなく、荒々しきスキンヘッドたちが広場にどっと怒気抱え踊りこんでこようかという直前――。
まるで神が示した奇跡のように、目の前の扉は開かれたのだった。
ノースリーブで水色地の服に上からジャケットを羽織り、下は膝丈の黒い筒袴の少年は、改めてこれから自分たちが居候する建物の中を見回した。眼尻のやや吊り上がった、くりくりと人懐っこそうな青瞳が特徴的である。
「ここが修道院の主室ということですね、ガルドさん」
長机が二つ横に並び、玄関側の南壁にくだんの聖者とツバメの絵画、反対側、三つ扉が並んだ壁に背の高い本棚、あとは西の窓際で花差しの乗った小さな卓が立つきりの、さほど広さのない部屋。
そんな室内を見てのふいにかしこまった喋り方に、堂々たる巨漢――ガルドと呼ばれた男はたまらず苦笑を零す。
「何だ突然。さっきの悪ガキぶりはどうした?」
「え、いや、でもやっぱりしばらくお世話になるわけだから……」
「だとしてもそれだとこっちの調子が狂う。そんな固くなるなよ」
「そ、そうですか?」
相手の思わぬ指摘に、少年は思わず目をしばたたかせた。
「でもここ修道院なんでしょ? そういう所は結構礼儀とかに厳しいって聞きますけど……」
「そりゃ場所によるな。金があって、土地も広く、人も多い。そんな一等修道院なら、確かに客だろうと礼儀作法を守るのは絶対だ。もともと修道士自体良家のご子息ご令嬢ばかりという事情もある……。だがあいにくとここは見ての通りの貧乏院。修道士だって大した出自の人間などいない。だから必要最低限の礼節以外、特に気にするな。こっちだって慣れていないんだ。――まあ、生活をともにする以上、院の規則には従ってもらうことになるが」
「もちろん! でも慣れていないって、アクセルさんは貴族なんかよりとても親切で礼儀正しい人だと思うけど?」
「うんっ。私たちにも優しく丁寧に話しかけてくれるよ」
ここで兄に口添えしてきた妹の舌ったらずな言葉に、ガルドは再び苦笑を禁じ得ない。
「まああいつは育ちの良し悪しより、生まれ持っての性格からずっとあんな感じなんだろう。何より誰に対しても優しい対応が変わることはない――まったく気の利かない俺とはまさに正反対だ」
「ちょっと、俺たちそんなこと言ってないよ、ガルドさん!」
「そうだよ、ガルドさんだってとっても優しい!」
「ハハハ、お褒めにあずかり光栄至極」
と、この反応には思わず破顔大笑。
そしてお礼とばかりに太い腕を伸ばすと、自分の胸の下あたりにあるふわふわの長い金髪を撫でてやった。あんず色の上衣と橙色のスカートまとった幼い少女はその下でくすぐったくも嬉しそうな顔となる。
修道士は思いやり深く話を続ける。
「さて、お喋りはここまで。早いとこ案内を終えるぞ。その後はあっちでお前たちの寝床の整理だ。昨日は慌ただしくてろくにできなかったからな」
その声には、まるで実の父親のごとき優しさ、頼もしさがたっぷりとこもっていた。何よりもそれは、ともに安心して笑顔見せる兄妹を見れば明らか過ぎるほどに明らかであろう――。
西側の窓からは小鳥たちのさえずりとともにさわやかな陽光がたわわと射しこんでくる。これからまた日中にかけて温度はぐんぐん上昇していくとはいえ、やはりピオトの月の朝。ひんやりとした空気は室内にまだ清々しいまでに残存していた。
……昨日の騒動はどこへやら、こうして下町の端っこに隠れるように建つサミュエル修道院は、至って穏やかな一日の始まりを迎えていたのである。