37.追憶(2) ①
慎重な足取りでやっと地下室から外に出たアクセルは、そこにじめじめした灰色一色の世界を見た。
しとしと降り続く小雨の中、どこまでも静かで、そして見知らぬ異郷めいた、しかしそれは間違いなく自分の生まれ育ったレムリトの村だ。
むろん、朝だというのに誰一人通りを歩く者の姿はなく、耳に届く話し声もない。
まるで遠い記憶の中の霞みつつある光景。
だが、昨日までは疑うまでもなく、ここには人々の営みが確かにあった。それもどこまでも平凡で、温かさに満ちた毎日が。
そう、アクセルにとっては、それが自分の知るほぼ全てだった場所。
かつて産声を上げ、やがて臨終の時も当然迎えるはずだった――。
(もう、誰もいないのか……)
そうしてほどなくすると半ば呆然と村の北端に立ち尽くしながら、無事に逃れた、あるいはけがをしながらも生き残った者がいないかあてもなく周囲を見回す幼い少年の姿があった。彼自身はいまだ昨夜と同じ白の舞衣装姿だ。もちろんまず一番の願いとすれば、そんなこの自分と同じいでたちをした少女が物陰から元気に出てきてくれること。もしそうなったら、それ以上の喜びはないはずだったのだが……。
だが、辺りは冷酷にも、まるで死に絶えたかのようにいつまでもずっと静まり返っているのだった。
雨の音だけを、ただ寂しく滲ませつつ。
(そうだ、東……)
と、そこでふと昨日レイラとかわした会話を思い出す。あの緊迫感に包まれていた時、彼女は言っていた。村を襲った連中は、村人たちを皆東の方へ連れ去ってしまったと。
それも、何やら眠らせるという奇妙な技を使って。
……いずれにせよ、こうも人気が無くては何一つ行動しようがない。
かくてしつこく降る小雨に身を濡らせたまま、アクセルは静かに、声どころか足音さえなるべく立てぬよう、目的地へとようやく歩き出したのだった。
草原はしとどに濡れていた。
元より季節に関係なく雨の降る地だが、空を覆う厚い雲を見る限り今日は特にまだ止みそうもない。下手をしたら、こうして夜になるまでずっと降り続けるのだろう。
その冷たい降下物に、草々がところどころ小さく揺れている。
しかもこの天からの落し物は、アクセルの体力をも地味に奪い取っていた。
何せ、昨日の夜からほとんど何もちゃんとしたもの口にしていないのだ。加えて途轍もない緊張感が終わり見えず続き、かつロウソクだけの薄暗がりの中一睡すら許されていなかった……。
いつしかその呼吸が荒くなっていたとしても、それはあまりに必然のことなのであった。
そうして息を切らせつつ、それでもやっとのことで広い草原の真ん中、自分にとっては馴染の場所へ辿り着いた、その時――。
(アッ)
アクセルの口から、知らず驚きの小さな声が零れていた。
そこからやや坂を下った北の方、草むらのただ中に、二人の人影を見かけたのだ。ともに橙色の外套纏い頭巾も被った、旅人の装い。幸いこちらには背を向けているため、彼のことが気づかれる恐れは今のところない。ただ熱心に、両者ともに下を向いて何かしているようだ。
(まさか、あの髑髏の仲間?)
その姿を認めた途端、つとアクセルの脳裡に嫌な予感が走る。そういえばレイラもあの時、村を襲ったのは三人組だと言っていた。ならば、まだ連中は執念深くこの辺に残っていたということなのか……。
だが。
不思議と、その人影には危険な感じが希薄のような気もする。あくまで雰囲気からだが、少なくとも、血に飢えた怪しい輩とはとても思えない。
――そして何より、アクセルはふと、二人の動作の持つ意味に気づいてしまったのだから。
(祈って、いる……)
そう、それはまさしく祈り。それも、死者への真摯なる弔い。
しかし、こんな場所でそうした行為が行われるなんて……。
その様子につと不穏な感も覚え、もっとよく見ようとアクセルは思わず二、三歩、前へと踏み出していた。
(とっ)
だが、途端ぬかるんだ地面に足元が滑り、僅かながら身体がよろけてしまう。当然、ただでさえ静かな中前方の二人に気づかせるには十分すぎるほどの音がその瞬間した。
「!」
まず振り向いたのは、右にいる方、背の高い人影の方だった。背後から近寄る者をすぐ認め、頭巾の中の瞳が険しく光っている。
……それは明らかに女性の顔だった。紫色の、大きくて切れ長の瞳。よく通った鼻筋、瑞々しい唇。年もまだ若そうだ。
とはいえアクセルを見つめる視線はあくまで揺るがぬ警戒心に満ちている。服装通り旅人なのだろう、この辺では見かけたことのない人物だった。
次いで、やや遅れてその隣のもう一人も身体をこちらへ向ける。紫瞳の女に比べると、かなり小さい背丈をしていた。
そして、少年を見つめるのは、まだ幼い顔……。
長いまつ毛に縁取られた緋色の瞳。小ぶりな鼻。小さな口。赤銅色の肌した、それは間違いなくアクセルと同世代の少女なのであった。
「誰、あんた?」
すると、そんな突然緊迫感漂い出した空気を震わせ、女が口を開く。当然油断のならないという、きつい口ぶりだ。
もっともアクセルとしてはこうもあっさり気づかれてしまっては、もう逃げる意味すらない。何よりいまだ彼女たちの祈り捧げた先が気になることもあり、彼はそこに立ち止まったままゆっくり言葉返すのだった。
「えっと、この近くに住んでいる者ですが……」
「え?」
その返答を耳にした途端、しかし女が目をさらに大きくさせる。
「そうなの……」
続けてにわかに声音まで沈ませると、少年としてもかなり不安な気持ちとなるも、だがそれでも彼は相手が先を話すのをただ待つしかなかった。
「だとすると」
そして訪れた僅かな間を置いて開かれた口。その次の言葉は何だかアクセルには現実のものとは思われなくて――。
「ひょっとしたら、知り合いかもしれないわね、この子」
◇
そう、場所を開けてくれた二人の間から見たそこにあったのは、いつも会っていた少女の、しかしその今や変わり果てた姿。少年と同じ衣装で、だがその表情はどこか苦し気で。
「レ、レイラ……」
「あ、大丈夫?!」
――そして気づくと少年は膝から力なく崩れ落ち、その時とっさに女が支えてくれなければ、間違いなく草の中へ倒れこんでいたはずなのだった。




