17.遺言
かしましくも愉しげな空気が隣室から流れてくる中。
相も変わらずベッドに臥したままのロイスは、ガルドの持ってきた椀に目を止めていた。
隣どころか、ここジグラト・シティの喧騒自体から隔絶されたような、そこは静寂の支配する部屋だ。かなり手狭で、ベッドの他には薬の入った棚が壁際に立つくらい。元々倉庫のようだった場所を、急いで病室にしたということなのだろう。
よって巨漢の修道士が一人入って来ただけで、つとその室内は圧迫感に満ちた空間となってしまったのだった。
「院長、お目覚めですか。お薬の時間です」
そうしてガルドはベッド脇の椅子に静かに身体収めると、しずしずと緑の液体入った椀を差し出す。やや濃いめで、とろりとした舌触りの薬。彼はそれを両手でさも大事そうに落とさぬよう、しっかりと持っていた。
……だがロイスはそうガルドが薬勧めてきても、なぜかいっこうに身体を起こそうとしない。むしろひたすら疲れたように、深く呼吸を繰り返すだけであった。
「いかがしました。体調がすぐれないのですか?」
当然大男は気遣わしげに訊ねる。むろん彼も医術の嗜みあるベテラン、様子の変化にはきわめて敏感だ。左手を椀から離しロイスの額にくっつけようとさえした。
「いや、大丈夫だ。そこまで悪くない」
だが院長は手ぶりとともにそれを遮る。顔色はまだ悪いとはいえ、それはもちろん大分前からのこと。ガルドとしてもそう断られるともう手を引っこめる以外術はなかった。
「おっと、失礼しました。ですが今薬は飲めそうですか?」
「いや、少し待ってくれ。今は胃がむかむかする。これは後で飲んだ方が良かろう」
「そうですか。ではいつでもお飲みになれるよう、ここに置いておきます。いい頃合いになったら、呼び鈴でお呼びください」
「フ、薬くらい一人で飲める。助けには及ばん」
そしてガルドが傍らの小卓へ椀を置くと、苦笑混じりにロイスが零す。そこにはむろん、医療者としての並々ならぬプライドも込められていた。
「……分かりましたが、しかし何かあったら遠慮なく呼んでくださいよ。そのための鈴なんだから」
当然ガルドはガルドで、そんな上司の態度に小言のごとく洩らしていたのだが。
そうして重みのある視線で院長の様子をじっと眺める。
――そう言えばロイスが病に倒れたのは、ちょうど一年前のことだった。それまではむしろほとんど病気にかかったことのなかった身体が、ある日突然異変を兆し始めてきたのだ。最初はそれでも時おり熱が出るくらいだったが、しばらくするとその頻度は段々上がっていくようになる。さらには食欲不振や嘔吐が繰り返し続き、いつしかベッドに寝ていないと生活できない体調は当たり前となっていた。周囲を散歩することなど当然もはや不可能だろう。
かくて今やサミュエル会の三人の修道士が常に病状を見守る日々だが、いつまでたっても決め手となる治療法が見つからず、刻一刻と間違いなく院長の身体は衰弱している。普通ならばそれゆえ皆精神的に参ってもおかしくない毎日ながら、しかしロイスが常に高潔な態度を保っているがため何とか修道院の平常も維持されている――要はそれがここでの嘘偽りない真実、というやつなのであった。
「それにしても近頃は客人が多いようだな」
と、しばし黙想に入っていたガルドは、ふいに述べられた声に瞬間目をしばたたかせた。慌てて振り向くと、ロイスが横になったままこちらを静かに見つめている。その瞳は変わらず弱々しげながら、どこか好奇心も混じったものであった。
「ああ、そうですね。この前は子供二人だったが、今朝は若い女性です。まったく、こんなボロ修道院にいったい何の用事があるんだか」
一つうなずきガルドが答えると、さらに院長は珍しくにこやかな表情となる。
「人それぞれというやつだな。今までは治療を頼む者くらいしか訪れることなかったが」
「まあそっちの方が今も当然ほとんどですがね。六年前にここへ修道院を作って以来、まったく変わらぬ日常ってやつです」
「開設当初か。懐かしい。もちろんその頃はまだアクセルはいなかった」
「あいつが来たのはそれから一年後。その時は本当弱々しい子供に過ぎなかった。リオースなんか、一目でああこれはもう駄目だって判断しちまったみたいですぜ」
あからさまに笑み零し在りし日の回想のたまう巨漢。まさにロイスに釣られて知らず出た表情と言うべきか。
「だがその子供も今や完全に独り立ちできるくらい力をつけたがな」
「リオースは認めたくないでしょうが。だが確かにアクセルの腕には相当なものがある。将来が楽しみです」
そして続けたのは心の底からそう思っているという真摯な言葉だった。見た目通り裏表ない性格しているらしく、その一言にもむろん含む所はひとつもない。
ロイスがフムフムとうなずき返したのも、そんな彼の同意へ大いに満足したからに他ならなかった。
「お前の言う通りだ。アクセルがさらに成長した時、いったいどんな人物になるか……。だが、それゆえ一つだけ、老婆心ながら言っておきたいことがある」
だが、そこでふとロイスは語調を変える。表情自体には特に変わりなかったが、明らかに真剣さ増した口ぶりだ。
ガルドは当然その変化にすぐ気づいていた。
「アクセルに、ですか……。それは一体?」
「これは前々から必ず言わなければならないと思っていたことだ。すなわち、あの子には自分が修道士だという自覚を決して捨ててほしくない。医者としての姿は、所詮その次でしかないのだから。神に全てを捧げた者は、俗世の人間とは異なった道を進む、それが変えられぬ定めなのだ」
「……神に全てを」
「そうだ。たとえ自らを犠牲にしても、人々を救いたいと誓う、それが神の望みだと悟るような」
虚を衝かれたわけでもあるまいがその一言はかなり強烈だったらしく、ガルドは一瞬口ごもる。まごうかたなき清廉な修道士としての顔が、確かにそこには存在した。
「ガルド、お前なら私の言いたいことが分かるな?」
「もちろん。ただそれは今の時世かなり厳しい道のりとなるかもしれませんが。……それで、院長はその言葉をアクセルに聞かせたいということなのですね」
「可能ならばな……。だがそれが適わぬとなった時は、ガルド、お前に託したぞ」
と、ロイスが突然そう瞳の色強くさせ告げると、さすがに大男は慌てざるをえなかった。
「何を仰います! やはりその言葉は院長自身でしかと彼に――」
「もしもの時の場合だ。必ずアクセルに伝えるための」
……だがそう言い終えた途端、いつぞやアクセルと話した時のように、ロイスの青い眼はふいに輝きを失っていく。息も次第に荒くなり、彼にとって、もう長く話すこと自体がかなりの重労働であるのは明白だった。
「ロイス様っ」
「案ずるな、いつものことだ……」
もちろんガルドは慌てて介抱しようとしたが、ロイスは首を振ってそれを拒否する。疲労と、また重い眠気が同時に襲いかかってきた表情だった。
「病というのはまことにやっかいなものだ。とても支配などできん」
そしてサミュエル修道院長はいまだ心配げな顔した部下のガルドを前に、意識が遠のいてしまうその寸前、静かに最後の一言述べたのである。
「少し疲れた。しばらく休ませてくれ……」
と。