15.再会 ①
【 三日目 】
宮殿でいくつかの小さな出来事が起こった、そのあくる日の朝――。
「アクセル、ご客人だ」
修道院の主室で兄妹相手に字の読み書きを教えていたアクセルは、リオースの呼び声によってふいに仕事を中断させられた。とはいえ彼には今朝誰かと会う約束などした覚えはまるでない。そのため一瞬この前のゴロツキ親衛隊がわざわざ今となって報復に来たのかと警戒感鋭くしたものの、しかし肝心の先輩修道士は普段の平静な表情のまま自分を見つめるだけである。
それゆえ彼はむしろますます戸惑ったように問いを発していたのだった。
「僕に? ……えっと、どなたでしょうか?」
「さあな、とにかく若い女性だ。それも、またお前に会いにきたなどと言っている。どこで知り合ったかは知らんが」
対してリオースは妙に勘ぐった言い方で答えてくる。言うまでもなくアクセルが何やら怪しい店にでも通っていると想像したのは間違いない。
何よりこの修道院にはそのよき先例、いや悪例がしかと存在していたのだから。
「……何か勘違いしているみたいですけど」
「そうか? まあとりあえず会ってやれ。やたら気の強い感じだったからな、追い返すといってもあれでは相当難儀する」
「はあ……」
どう考えてもあまり芳しからぬ感情こもったその声に、かくて少年は力入らぬ返事で応じるしかなかった。いずれにせよ冷静なリオースが会っても良いと判断した以上、相手は危険人物、というわけでもないのだろう。
仕方なし、と手にしていた本を机の上に置く。
「アクセルさん、どっか行くの?」
その様子に、ひとまず勉強は小休止かと思った対面席のリンツが声をかけてきた。
「うん、僕にお客さんが来たみたい。すぐ戻って来るから、二人は少し休んでいて」
「あ、ハイ」
「うん」
そうして臨時教師へ二人が揃って素直に返事すると、ふうと息を吐きアクセルは何とも曖昧な気分のまま席を立つ。むろん昨日はゴルディアス相手に治療していたこともあり、決してまだ疲れが取れたわけではない。やはりあの男の持つ迫力にはひりつくが如き凄まじいものがあるのだ。喩えるなら、まさに野心と謀略で染め尽くされた鬼気とでも言うべきか……。
相性もあるが、いまだあれに慣れるなどとてもできない相談だった。
「リオースさん、今行きます」
……もちろんそれでもアクセルはそんなあくびの出そうな疲労感を特にリルカたちの前では何とか押し隠しながら、一拍ほど置いて朝の冷ややかな空気の中、前室へと続く扉にようやく歩き出していたのである。
◇
「何これ、おいしそう!」
「本当だ、それにすげえ綺麗で星みたいだ!」
「フフ、こんなのいくらでもあるから、好きなだけ食べてね」
『ハイ!』
――しかし予想外なことにその突然の来客到来から数分後、修道院内を覆い尽くしたのは幼い子供たちのいかにも嬉しげな声だった。そのあまりの元気なはしゃぎぶりにアクセルは目をパチクリし、リオースに至っては当惑の表情明々と浮かべたほどである。
むろんその主たる原因は、まさしく先ほどアクセルの顔を見るやにっこり眩しい笑み零した赤銅色の肌の娘――クロニカの持ってきた見慣れぬ菓子に他ならない。彼女は挨拶もそこそこ主室へ通されるなりそこでポカンと自分見つめている兄妹を見つけ、さっそく手にしていた袋をこれお土産ねと渡したのだ。その中身を見た途端の二人の喜びぶりとなると前述のごとくまさに喩えようがないほど、やはり彼らにとって、甘そうな上に見目も綺麗な菓子くらい格別興味そそるものはなかったのだろう。まるで温かい家庭における一幕のような、それは実に微笑ましい光景なのであった。
「すいません、こんな貴重なもの……」
すると丁寧というか心配性というか、そんな気の利く送り主に対し再び、ただし今度は兄妹と同じ側の椅子に座したアクセルが心より感謝の声述べる。彼から見てもその机の上置かれた小さく色鮮やかな星形菓子の山は、相当高価な品と理解されていた。
「あら、そこまでかしこまらなくても。これは私の知り合いから安く買った<コンペイトウ>ってやつなんだから。あなたもどう? 結構いけるわよ」
「いえ、僕は……」
「甘いもの大好きって顔にはっきり書いてあるわよ」
「えっ?」
対してツバメの絵の手前、アクセル正面に席を占めるクロニカの口ぶりは妙に悪戯っぽい。しかも微笑混じりのそれはあながち当てずっぽうでもなかったようで、事実少年は思わず図星めいた慌てぶりを示してしまったのだ。
それを見た娘がさらに笑みを大きくしたのは言うまでもなかった。
「フフ、分かりやすい。……でもよくそれでゴルディアスの元に堂々と行けるわね」
「関係ないですよ、それとは」
「大あり。何せあそこは怪物ひしめく伏魔殿そのもの、そもそも素直で真面目な人間が行っていい場所じゃないわ」
そして続けてそこまで相手がビシッと言い切ると、アクセルとしてはもはや呆れるしか反応する術がない。何より今は胸衣とヴァーミリオンのジャケット、下は黒のショートパンツ、さらに赤石のピアスが左耳を飾るという派手ないでたちとはいえ、昨日は思いきりメイド姿をしていたのだからしごく当然である。
「……いいんですか、そんなこと言って。自分の働く職場じゃないですか」
もちろん声にも自然と非難めいたものが含まれたが、しかしハッと気づき慌ててそれを取り繕うとする間もなく、娘はさも涼しげに答えるのだった。
「職場ねえ……、ま、もうクビになったから元、なんだけど」
「え?! だって昨日が仕事初日だったんでしょ、いくらなんでもそれじゃ早過ぎ――」
「色々あったの、トラブルやらアクシデントが」
実際には昨日の夕方副長に捕まる前にこっそり宮殿から抜け出してきたものの、むろんそんなことはおくびにも出さず、クロニカは何かありげに溜息まで吐いていた。純情な少年を騙すにはたったそれだけでもう十二分なくらい、実に見事な演技だった。
「そ、そうですか、結構大変だったんですね……」
「まあね。でもあなたはあなたであそこには良く通っているんでしょ? やっぱ目的はゴルディアスの治療なのかしら?」
「分かりますか? あ、いや、決してそうだと言っているわけではないのですが……」
「守秘義務? でも私も昨日同僚たちに色々話は聞いたから、もう噂はしっかり入っているの。あの男が一人の少年を医師として毎週自室へ招いているらしいって」
何気ない一言ながら、その瞬間クロニカの瞳に宿った鋭い光――さすがアクセルもそれには気づき、一瞬言葉詰まらせる。しかしそれもほんのつかの間のことで、結局思い直したように答えはすぐ返って来た。
「――そこまで知っているなら、別に隠すこともありませんね。確かに僕はゴルディアス様の、まあ言ってみれば現状担当医みたいなものです。あの人には多少具合の悪いところがあるので」
「でも相手はよりにもよってジグラト・シティの領主よ、アクセルはどうしてあいつを治療する羽目になったの?」
一方クロニカは相変わらず大権力者に対して遠慮がない。その口ぶりにかえって少年の方がはらはらしたほどだが、むろん彼は今のところ自分を抑えて話を続けるしかなかった。
「……きっかけはベルタさんという人です」
「ベルタ? 何かどっかで聞いたことあるような――、あっ、それってもしかしてゴルディアスの愛人の名前じゃない?!」
「はい。まあ正式に愛人というのかは分かりませんが、ゴルディアス様が最も愛している方です」
「何でそんな人とあなたが?」
まさしくクロニカは目を見開いて声も大きくさせる。傍にいたリオースが眉間に皺寄せていたのにももちろんまるで気付いていない。よほど会ったことのないタイプということか、そんな彼女を見て、本当に表情豊かな女性だな、とアクセルの感想は至って呑気そのものだった。
「ベルタさんには昔から時々宮殿を抜け出るという癖がありまして、その、たまにあそこの重苦しさが耐え切れなくなるみたいなんです。そんな時ははるか下の第一層まで降りて、そこで昔の仲間たちと派手にお酒を飲んだりしたくなるらしいから」
「へえ、彼女、下町の出身なんだ」
「ええ、領主様が下まで降りた時、偶然見初められたそうです」
「じゃあアクセルもベルタが第一層まで来た際に――」
「そうだ、ベルタ殿は酒場で急に具合が悪くなってしまった。仲間は慌てて医者を探し、そしてふと我が医療に力注ぐサミュエル修道院があることに思い至ったというわけだ」
と、そこで本歌取りのごとくそれまで二人の会話を静聴していたリオースが口を挟んでくる。当然クロニカはアクセルの斜め後ろに立つその男の方へ目を向けた。
「ふうん、なるほど。それでアクセルがベルタを治療し、彼を気に入ったベルタが今度はゴルディアスにこの子を紹介した――経緯は分かったわ」
そのほとんど図々しいともいえる口調にリオースはさらに険のある顔となったが、一応客人であるのは忘れてなかったらしく、声を荒げることはなかった。
ただし代わりにあからさまな怪訝感は示したのだが。
「やけに色々事情を聞きたがるな。だが話を聞いていれば君はどうやら宮殿のメイドを首になったそうじゃないか。そもそもそんな人間がアクセルにいったい何の用があるというのだ? 我々も暇じゃないゆえ、いちいち無駄話に付き合っているわけには――」
「そうそう、そのことなんだけど」
するとクロニカはクロニカでふと思い出したように声を上げ、相手を遮った。その失礼な態度はひとまず置いておくとして、間違いなく、他に大切な、そしてちゃんとした用事があるようだった。
「今日ここに来たのは他でもない、実はアクセルにちょっとした頼みごとがあって――」
再び少年へ向けられた瞳には、明らかに今までと違った真摯な光が瞬いていたのだから。