14.大宮殿 ⑥
どこか威圧的な空気をあまねく放つ広大な宮殿の中で、そこだけはいつも静謐かつ安穏とした雰囲気が支配的だった。
中央に白布下がった天蓋付きベッドの置かれた、宮殿北西隅に位置する豪華な部屋――。
むろん東壁に掛けられた大型タペストリーや朱色の絨毯ともども、それは部屋の主の趣味に合わせたものなのであろうが、いずれにせよ到底庶民には手の出せない最高級品には相違なかった。何より、室内に焚き染められた馥郁たる伽羅の香りがその豪奢さを倍加している。
加えて部屋西側に開いた大窓の手前にはバラやユリなどおよそ砂漠では見かけぬ多くの花が飾られた机もあり、その鮮やかさたるや一瞬ここが荒野のただ中であることを忘却するくらいだった。
まさにこの一部屋だけで、想像を絶するほどの大金が消費されているのだろう。
下層民が一生で使用する分に軽く当たるくらいの。
「ベルタ、具合はどうだ?」
それゆえベッドの中眠っていたその若い女は、呼び声に目覚めるとともに眼前へスッとワイングラス差し出されても、まるでそれがさも当たり前のように何一つ驚きの相示さなかったのである。
代わりに彼女は、亜麻布の向こうに座す大きくたくましい姿へ向かって、やや熱っぽい瞳を静かに向けただけだったのだから。
「ウム、顔色は大分良くなったな」
先ほどの自分のごとくベッド上に半身起こし、そしてワインをゆっくり味わい始めた女を見ると、ゴルディアスはいかにも満足そうに呟いた。
そしてそのまま、美術品鑑賞のように広げられた白布の向こう、相手の姿態へとじっと視線を注ぐ。
そこにいるのは緑の薄布纏った、まだ若く美しい娘だ。
腰まで届く鮮やかな青髪がまずは目を引くが、むろんそれは特殊な染料で染めた結果に他ならない。加えて赤みがかった茶色の瞳は何とも蠱惑的で、彼女が堅気の人間ではないことを如実なまでに示している。その体型も華奢ながら実にグラマラス、腰はくびれ、胸も大きい。ことほどさように、まさしくその放つ雰囲気は男を魅了してやまない遊女以外の何物でもないといえよう。
「……だから、ただの風邪だって言ったじゃないか。そんな心配する必要ないよ」
「それでも一応養生はせねばな。元々お前は身体が弱いのだから」
「フン、治療中に酒飲んでいる人にだけは言われたくないんだけど」
そうして香とともに微かに隠微感漂わす秘められた空間の中、そのベルタと呼ばれた女が呆れた声で応じた。その口ぶりからも明らかなように、彼女は相当ゴルディアスと近しい関係にあるようだ。
何よりバルディヤに勇名轟かす歴戦の闘士を前にしても、一向に怯んだ姿見せていない。むしろ茶色い瞳は挑発するがごとくで、その率直さをゴルディアスは楽しんでいるのかと思うくらい、それは他の人間では決して現わせない態度だったのである。
「良い酒は身体も精神も快くする。良い女とともに」
……しかしてジグラト・シティの領主が、そうさも楽しげな様でワイングラス高く掲げていたように。
むろん気の強そうなベルタはそれに一厘も応じることなく、心持ち声に彩りを添えてまるで違うことを訊ねるのだった。
「それで、あの子は元気だったの?」
「おっと、何だいきなりアクセルの話か? 自分の病状よりまずあいつのことが気になる、とはな。ならばお前も診てもらえばよかったものを」
「だって、本当に軽い風邪だもの。むしろあの子に移す方が怖いよ」
苦笑交じりのゴルディアスにも、かくて娘はまるで構うことがない。しかも男が来たらそれだけは必ず聞こうと決めていたのは確実な言い方だ。よほどあの少年に思いを馳せていたのだろう。
「なら教えてやるが、相変わらずだよ、あいつは。いつもまっすぐで、医術のことにしか興味がない。施術の報酬だって、毎度同じ薬を要求するばかりで、他には酒も食い物も、女さえも求めやせん。まったく、まだガキなのにどうしてああまで頭固くなっちまったんだか」
ゆえにゴルディアスは自らもワインを楽しみながらいかにも鷹揚に答えてやったが、内容ほどにはさほどの悪感情感じられぬ言葉であった。彼にとっても、やはりあの修道士アクセルはどこか憎めない不思議な存在であるということか。
と、ここでベルタがふいに瞳に悪戯っぽい光輝かせて、何気なく物問うてくる。
「ふうん。じゃ、その感じだとどうやらあの話もまるで進展なかったみたい」
いかにもついでな風でありながら、しかしそれを聞きたくてずっとうずうずしていたのが如実に分かる言い方――何より相手にもその気忙しい内心は一目瞭然だったとみえ、彼は一つうなずくと、諦念こもった微かな笑みでその問いに答えていたのだった。
「やはり聞きたいことはそれだったか。ああ、むろんそっちも相変わらずだ。絶対に首を縦に振ろうとはせん。儂の侍医になれば、何不自由ない暮らしが送れると誰よりも分かっているはずなのに」
「お金じゃないのかな、ああいうタイプは?」
「さあな。今度はもっと違う報酬でも提案してみるか……。あまり物欲が豊富なタイプとも思えんのだが」
渋い顔をしつつもそう宣い、寝衣の上から黒絹のガウン纏った身体を椅子の背もたれへ思いきり預けるゴルディアス。重量級の肉体に肘掛まで付いた上等品の椅子がギシギシ音を上げたが、彼はそれには構わず先を続けた。
「ああいうのが一番対処に困る。攻め手が全く見つからんのだからな」
そしてその体勢のまま、ついにはグラスの中のワインが胃の中へ一息に流しこまれていく。それもまるで水を飲んでいるかのような、全く涼しい顔で。
……王者のごときそんな姿をじっと見つめながら、ベルタが瞳以上に挑発の色乗せて口を開いたのは、それからやや間を置いてのことだった。
「フフ、アクセルは特に他の男とは違う感じがするからね。平和主義の癖して妙に頑固だし。……でもあんたも、絶対諦めることはないんでしょ?」
「当然だ。儂は手に入れたいと思ったものは今まで狙い過たず必ず手中に収めてきた。金も、女も、さらにはこのジグラト・シティでさえも。そしてアクセルはいずれ医術の腕で世界に名を知られる存在となる男。傍に仕えさせればこれほど有用な人間もおるまい。何が何でも、どんな手を使ってでも我が配下としてくれよう」
対するは完全に真正面からその言葉を受け止めての、吠えるがごとく切った大見得。そもそも、彼にとってはベルタの口にした諦める、という言葉自体が禁句だったようである。
「何より、儂の遠大な計画にとってあいつの腕は必ず必要となる。若いこともあり、側近としては申し分ない」
さらに、いよいよ意気盛んになったところを見れば、明らか過ぎるほどに明らかなように。
かくしてベルタは、勇壮な一言とともに虎のごとき視線で自分の背後、遥か西窓の彼方望んだ情夫をじっと見つめていた。言わば野心うんぬんに心奪われたほったらかし状態だが、それにしては大してイラつき覚えることもない。やはり、彼女にとってそれはもはやおなじみ過ぎる平時の光景だったのだ。
抗議の声すら、今さら上げる気持たぬというもの。
……ただしその瞳がどこか冷ややかな、また同時に透徹した謎めいた光宿しているというのもまた事実だった。言うまでもなく、これまでの蠱惑感とはまた別種の輝きだ。はたしてそれが実際何を秘すのかは見当もつかないが、しかし少なくともゴルディアスに同調した証しであるはずもない。
何より、決して自信に満ちた偉大なる領主にうなずき返さなかったのが、そのことを如実なほど物語っていよう――。
「……おっと、長話が過ぎたな。これ以上はお前の体調にも障る。儂はもう戻るとしよう」
それゆえしばしの後、ふとゴルディアスが我に返りようやくベルタの方に向き直っても、彼女は微かな笑み浮かべうなずいたただけで、他には何一つ別れの言葉送ることなかったのである。