11.大宮殿 ③
――と、これまでしていた安静うんぬんの話はもういいのか、そこで男は突如不敵な笑みを零し、声音まで落とした。
「それでどうだ、あの話は?」
当然相手は急な話題の変化に思わず目をしばたたかせる。
「話、ですか? 一体何の……」
「とぼけるな。儂専任の侍医になるというあれだ」
そして酒臭い息もろとも、少年を無粋にじっと見つめる。
「どう考えてもこれ以上ないくらい良い条件だぞ? 金は余るほど稼げるし、この宮殿にも住める。食い物も、酒も、もちろん女も好き放題だ。今の暮らしなど秤にかける意味すらあるまい。……何より、お前の生きがいである医術の勉強をとことんできるようにしてやれる。希望があれば、ここから五大都のどれかへ留学することすら容易なのだからな」
「……」
「むろん今すぐに決めろとは言わん。お前が使命感に満ちた修道士だということは重々承知している。あのボロ小屋に住む同僚たちともしっかり話が必要であろうしな。――だがそれを飲みこんでも、あえて頼む。アクセル、儂はお前に是非とも直属の侍医となって欲しいのだ」
それはまさしく真剣そのものの言葉だ。ましてや群雄の中でも実力抜きん出た巨漢がわずか10代の子供に懇願している。
傍から見れば奇妙な光景とは思われるが、しかし当然少年をかえって委縮させるほど十二分な迫力持っているのは事実なのであった。
かくて一瞬の間が、アクセルの内心を表わさんと絢爛たる部屋の中冷たく流れる。
どこまでも、一人の子供を狩人めいた執念深さで追いつめていくように。
もちろん広い室内には逃げ場など一つとてなく、背後の開け放たれた東窓からは、熱をいや増した陽光がじりじり遠慮なく射しこんでくるだけ。
はたして今日も遥か上方では、雲無き空がひたすら青々しく――。
「……フ、まあいい。今日の所はここまでだ」
しかし生じさせたのと同様、そんな空気をほんの刹那で終わらせたのも、他ならぬゴルディアス自身の一声だった。表情はにわかに柔らかくなり、一瞬垣間見えた狼のごとき剣呑な眼光も同時に幻なみの速さですっと消え失せていく。むろん容貌魁偉なのは相変わらずとしても、そこにいるのはもはや通常モードの都市君主だ。
何より声までもが、常の平静さ取り戻していたのだから。
「すべてはお前が決めることだ。結論を急ぐ必要もない」
「すいません……」
「おい、そうやってすぐ謝るな、自分の弱気をさらすようなものだ。特にこういう交渉事ではそれが命取りともなりかねん……。いずれにせよ、儂の傍に仕えるつもりなら、やはりそれなりの剛胆さは必要だろう。何を言われようとまるで動じぬくらいのな」
そしてそう深々うなずきながら、彼は最後に大きな笑み浮かべていた。明らかに酒の酔いが元ではあったが、しかしむろんそれだけではあるまい。あるいはそれは久々に何一つ謀りごとなき会話をしたがゆえの、ある種の充実感が吐露されたものなのかもしれなかった。
そう、かような邪推を催させるくらい、この尊大なる君主が猜疑心強いのは周知の事実、そもそも彼がこうまでリラックスした姿を他人に見せること自体、実に珍しい現象だったのである。……ただし当のアクセル自身には、さほどそのことに関する意識はなかったようなのだが。
「さて、では例のものを持ってこさせよう。報酬としてな」
こうして治療の時間が終わり、緊張感も大分和らぐと、しばらくしてアクセルの前には鷹揚にのたまうゴルディアスがいた。はだけていた赤の寝衣はすでに元へ戻り胸部も隠してある。こうなるとその様は完全に意気軒高な権勢溢れる実力者だ。
「数も前と同じにしてある」
「いつもありがとうございます。あんな貴重なものを……」
「何を言う。確かに手に入れるのには多少手間取る品だが、ここは砂の道。金さえ払えばいくらでも用意できる」
当然申し訳ない顔となった少年に対しても、やたら自信満々といった態度。要するに彼にとっては、これも自らの権力を誇示する一つの手段に過ぎないということなのかもしれない。もちろんそんな男が刹那アクセルの覚えた逡巡に気づくなど間違ってもありえず、はたして彼はただ豪放に言い放つだけなのであった。
「何度も言うが古傷の治療への礼だ。気にするな」
「はい、ではありがたく頂きます」
「まあそれは良いとして――」
と、だがそこで声音は微妙な変化を帯びる。
そして次いでふと修道士へ示したのは、眉間に皺寄せ、しかも片方の眉も気持ち吊り上げた、なぜか妙にいかつい表情。それはアクセルでも、まだほとんど見たことのないような相だった。知らず彼が再び目をしばたたかせていたのは言うまでもない。
「先日は部下がえらく失礼をしたようだな。改めて謝らせてもらおう。――そして今後こういうことが起こらぬよう、奴らには固く言い聞かせるつもりだ。お前は儂のいわば命の恩人、さらに加えて腕もある。それがつまらんアクシデント程度で死なれたら、あまりに惜しいからな。何より容易に補充がきかん」
「い、いえ、そんな……」
「また、何かもめごとにでも巻きこまれたら、すぐ儂の元へ駆けつけるがよい。護衛なり刺客なり、何でも遣わす。とにかくこの町にいる限り、お前の身の安全は保障しよう」
そうして滔々と述べられたのは、いかにも自信に満ちた大言なのだった。
詰まるところそれが何としても今日伝えたかった話ということか、そこにはまるですでにアクセルを我が物とした感があったが、もちろん本人にはその尊大さへの自覚などかけらも認められない。砂漠に睨みきかす周辺で随一の凄腕ブレイカーは、はたして最後に大きくうなずくことで話はもう終わったと確かに告げるのみだったのだから。
――そう、いずれ覇者となる者の瞳を、かくて猛き意志に黒々と光輝かせて。
「まったく、良い酒だ……」
そして返事しあぐねるアクセルに対し、これでもう話すことはないとゴルディアスの手はさも愛おしげに再び卓上のグラスへ伸ばされていたのだが、その動作が示すのはまさしく前に座す少年の気持ちなど塵ひとつ頓着せぬ、傲慢な心の現れでしかなかったのである。