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10.大宮殿 ②

 男ははだけた胸元に残された傷跡をゆっくり手でさすると、感嘆交じりに一言呟いた。


 「さすがだな。もう大分痛みが引いてきた」


 そしてベッド上でその上半身起こしリラックスした姿のまま、脇の卓に置かれてあった赤ワイン入りグラスをむんずと掴み、さも美味そうに一息で飲み干してしまう。禿頭かつ厳めしい大男の顔が、その時ばかりは極上の味もたらす満足感に思わずほころんだほどだ。

 さらに気分も合わせて良くなったのは当然のはずで、続けて卓傍らの椅子に座る人物の方へかけた声がいかにもな悠揚さ含みだったのは、あえて説明するまでもないのだった。


 「実にいい酒だぞ。お前もどうだ、一杯?」

 「いえ、僕は……」

 「何だ、酒は苦手か?」

 「苦手というか、これでも一応聖職者なので……」


 と、だが返ってきたのはどうにも心もとなげな答え。むろんそれは場の雰囲気がそうさせているのであろうが、加えて彼の年齢によるものであるのもまた間違いなかった。何せ、まだ齢17の少年なのだ。

 修道士服身に着けた、赤髪の物静かな少年――言うまでもなく、それは先ほどクロニカと別れたばかりのアクセルである。彼はその後執事について廊下を長々と歩き、宮殿北東隅に位置するこの部屋へ至った。そして扉守る二人の屈強な衛兵に顔を(あらた)められるや、すぐ中へと通されている。

 もちろん、医術者たる彼が目の前の屈強な男にわざわざ宮殿へ招かれた理由は、ただ一つ――。


 「ふん、聖なる戒律というやつか? 今時かなりの時代錯誤だな。そんな無駄なもの固く守る奴、正規の教会にももはや滅多におらんぞ。しかもお前は腕のある医者、むしろもっと合理的な精神を持った方が良い」

 「――僕は医者である以前に、神に従う一人の修道士です。そんなことより、まだ治療が終わっていない以上、ゴルディアス様もお酒は当分控えてもらわないと」

 「またそれか。だが酒は百薬の長、これに勝る薬などない。しかもベルナント産の最高級品だからな」


 再びグラスにワインを注ぎながら、男は剛胆に応じる。もちろん医療者の気遣いなど大して耳には入っていないようだ。何よりその良く日に焼けた赤茶に光る肌艶を見れば、一体彼にこれ以上の治療は必要なのかと疑問に思われるほど。

 それくらい常に精悍にして生気みなぎる闘士――それがこのジグラト・シティ治める領主、ゴルディアスという男なのだった。


 そこは真ん中にでんと巨大なベッドが置かれた、何とも豪華極まる部屋。毛羽立ちの良い青の高級絨毯がこれ見よがしに敷かれ、さらにベッド手前にはその上から見事な虎の毛皮も広げられている。まして南側の入口入って左に見えるのはやたら分厚い書が並んだ本棚、奥はまた大陸中から集められた骨董品で実に賑やかな棚である。決して趣味は良くないものの威光はとにかく眩しいくらいだった。

 もちろん同じ住居とはいえこの豪奢さではサミュエル修道院と比較などさすがにできるはずもない。実際素朴な少年がここにどんな感想抱いているのかは定かでないが、何となく居心地悪そうにしているのだけは容易に想像つくのだから――。


 いずれにせよ、さすがは宮殿中でゴルディアスがもっとも心安らぐ場所。何重にも贅を尽くした私室の中で、剛毅なる領主は若い修道士相手にいかにも気を緩くしていたのである。



 「酒は何より一流に限る。それ以外は飲む価値もない」


 そう重ねて豪語する容姿はまさに威圧的の一言だった。

 わずか一代で領主の座奪い取った、今や近隣に名を知られた凄腕の軍事指導者――。

 禿頭で、太く濃い眉。目はぎょろりと大きく、鷲鼻に堂々たる大口。四角い顎はえらも張り、それを支えるのはやたら太い首。しかもこれでさらに分厚い胸板と筋骨隆々の体躯なのだから、どう見ても執務室で静かに政策を練る政治家というより、野に出て軍を率いる戦士の風だ。実際グラスを掴む手も武器を持つのに慣れたように大きくゴツゴツしている。

 すなわちその胸に刻まれた大きな傷を除けば、まさしく頑健そのものの身体というより他ないのだった。


 「――とにかく、今日は安静にしていてください」


 当然のごとく、医者アクセルとしても喫緊(きっきん)の関心はその傷にしかない。それゆえ彼は忠告しがてら体の横に置いていた壜を手に取ると、真面目な面持ちでさっと差し出したのである。それは掌に余裕で収まる、ワイングラスより小さなサイズの代物であった。


 「これをまた朝と晩にしっかり塗っていただければ」

 「おお、特製の軟膏か。こいつがまた良く効く」


 見るなり、満足げな笑み浮かべるゴルディアス。年齢は40後半だというが、町にいる同世代と比べると明らかにまだ若々しい。実際かなりの健啖家(けんたんか)として名を馳せてもいるようだ。酒に目がないのもまことむべなるかな、と言ったところだろうか。


 「まったく、お前が来てからみるみるこの古傷も(うず)くことなどなくなったぞ」

 「軟膏との相性が特によかったのでしょう。もう熱が出ることはありませんか?」

 「ここひと月、まったくない。武術の訓練もようやく再開できたほどだ」

 「……できればもうしばらく休んだほうがよろしいのですが」


 とはいえ相変わらず養生に無頓着な態度でもあるので、さすがにその言はアクセルの眉をはっきりひそめさせる。まさしく大権力者に対してもおべっか使わず真摯に取り組む、プロの医者としての面目躍如といえよう。

 そしてそれに決して目くじら立てないことが、ゴルディアスも相手を十分に認めているという何よりの証しなのだった。


 「お前の言う通りそれが一番なのだろうがな。だが儂の立場上、そうもいかん。そもそも三年前この傷をつけられたこと自体、力がなかった証。今鍛錬を怠るなどありえんのだ」

 

 むろん多少なり、相手の気概へと辟易(へきえき)したようではあったのだが。


 

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