1. 真昼の逃走劇 ①
【 一日目 】
「痛え、何しやがる!」
熱く乾いた空気を破裂させるかのように、その時荒々しくドスの効いた怒声が突然響き渡った。
むろん大通りにいた人々を凍りつかせるには十分すぎるほどの凄み――皆すぐさま声の方に目を向け、そして刹那顔色を蒼白に染める。中にはあからさまなまでに目を見開き、何が起きたか恐る恐る探る者すらいた。
「畜生、どこのどいつだっ。隠れてねえで出てきやがれ!」
もちろんそうした辺りの緊迫感など当のスキンヘッドにとっては至極どうでもいいことである。そのギョロつき血走った目は周囲へ遠慮なく向けられ、次いで発されたのは吠えるがごときさらなる叫び。同時に左手は右肩を抑え、怒りからかたくましい身体全体がプルプル震えている。すこぶる剣呑なこの状況から見るに、彼を何やら不測の事態が襲ったことだけはまず間違いないようであった。
「おい、石はあっちから飛んできたぜ!」
するとこちらも怒気含め、同僚らしきもう一人がある方向を指さしながら声を掛けてきた。むろんスキンヘッドと同じく黒服に銀の胸鎧といういでたちだ。長い黒髪を後ろで一つに束ねている。
彼の注進を聞くや、男はもの凄い勢いでそちら、大通りの東側を睨みつけた。額には大きく青筋が浮かび上がり、顔色も完全に真っ赤そのものだ。
それゆえその形相に地獄の悪鬼を彷彿とさせる迫力が混じっていたのも、現状を鑑みれば当然のこととしか思えない――むしろ腰に下げたサーベルを抜かないだけ、まだいくらかマシというものだった。
遠巻きに見つめるうちの何人かに、恐怖のあまり小さく悲鳴を上げさせたとしても。
「許さねえ、絶対に許さねえ!」
……そして一際熱をはらんで三度咆哮が放たれるや、昼下がりの街角は途端狂的なまでの激しさで揺れ動いたのである。
「あ、あいつらだっ。逃げやがったぞ!」
「何だと?!」
――と、10人強の男たちがにわかに大道の真ん中で荒ぶり始めた、その時。
頭にバンダナ巻いた一人が、突如獲物を発見した狩人ばりの大声で皆の注意を引いた。
その視線の先には二軒の店の間、細々した横道への入口がある。幅は狭く、しかもやたら薄暗い。あまり安心して通ること適わぬさびれた細路が奥までずっと続いているようだ。
当然、他の連中の眼もそこへ釘付けとなったのだった。
「俺に石を投げたのはどんな奴だった?」
「ありゃ間違いなくガキだな、チビが二人だったぜ」
「ガキだあ?」
バンダナの報告に、スキンヘッドが思わずすっとんきょうな顔色を垣間見せる。むろん相変わらず怒りの色がそこでは支配的だ。
「畜生、生意気な真似しやがってっ。ますますムカついてきたぜ!」
「へへ、こりゃ大した相手に狙われたもんだな」
そんな仲間に金髪の男が横から軽薄な笑みを寄越してきた。むろん馬鹿にしながらも、上手いことこいつを焚きつけてやろう、という算段であろう。それはいわゆるちょうどいい暇つぶしを見つけた者の低俗なにやけ顔でしかなかった。
対してスキンヘッドの方は予想通りというか単純というか、一層ギョロリと目を剥かせて過剰反応する。ある種実に御しやすい男のようではあった。
「うるせえっ、ガキだろうが何だろうが、俺を馬鹿にしたやつは許しておかねえ! おい、お前らもついてこい!」
そして彼に注進のあった二人、ポニーテールとバンダナへ強く声を掛けると、勢い黒革服の身体は疾く横道へと動き出していた。
「さっさととっ捕まえて、誰に何をしたか思い知らせてやる!」
「オウッ」
「ガキの足だ、すぐ追いつくだろうぜ!」
呼応する二つの声音もすぐ後に続く。
当然ながら、行く手に立っていた何人かの一般人はその迫力に慌てて道を開けた。その際も彼らとなるべく目を合わさぬよう顔を背けたのは言うまでもない。ただでさえ危険極まりない連中、ここで下手に目をつけられたらどんな言いがかりをつけられるか分かったものではないのだ。
そしてそうこうするうちに、一陣の黒い突風のごとく大通りから横道へと猛速度で突入する三人組。町の人々は青い顔でその後ろ姿を呆然と見つめるばかり。まさに嵐が過ぎ去るのを待つ態だった。
もちろん中には、悪名高き<猟兵隊>に先ほど果敢に石を投げつけた猛者の正体を知る者もいたはずだ。それくらい強烈きわまる出来事だったのだから。だがわざわざ連中に告げ口する人間など誰一人存在するはずもなかった。そう、あれはまるで自分たちの積もり重なった思いの代弁。どうしてそんな勇気ある行動をした闘士をむざむざ悪党に売り渡すことなどできようか――。
かくて燦々と照りつける太陽の下、やたら釣り合いの取れぬ危険な追跡行は、今まさに下の町を舞台として一斉に始まろうとしていた。
◇
「リルカ、早く!」
細路に、声を限りにした少年の叫び声が響き渡った。
もちろん確かな答えを期待したものとも思えなかったが、それでもその声は何とか励まそうとする力で溢れている。おそらく無意識に放たれていたのだろう。とにかく自分の手を掴む小さな人影を何が何でも守る、今はそんな気概持たねばならぬ時であった。
「ハアッ、ハアッ……」
だが、背後からは予想以上に荒々しい息遣いが聞こえてくる。心なしか走るスピードも落ちてきた気がする。元よりあまり丈夫とはいえない身体、これからさらなる距離を稼ぐのは難しい可能性すらあった。
――奴らは間違いなく追いかけて来るというのに。
そうやって突如自らを襲う強烈な焦り。その絶大な負の力につい諦めてしまいそうになる。何せ、相手はあの野蛮にして暴虐な猟兵隊だ。敵にすること自体、本来は自殺行為以外の何物でもなかった。
そう、もはや命など放り捨てたも同然の事態が二人をがんじがらめにしている。
(立ち止まるのはまだ駄目だ、あそこに行けば何とか……)
……しかし、それでも少年の足は決して止まらず、後ろの少女を引く手が離れることもなかった。彼にはまだ一つはっきりと希望が残されていたのだ。それを試してみるまでは、諦められるはずもないほどの。
「リルカ、頑張るんだ! 後少し、あと少しだから!」
はたして自然と声に常にはない力がこもっていた。いわゆる生存本能というやつのしわざかもしれなかった。子供ながら、彼はその原始的無意識の導くままに青瞳をきらりまばゆく輝かせる。
何としても、妹とともにこの絶体絶命状況を生き延びる――。
そして絶対に離すまいと、息を激しくしつつも少年は少女の手をさらに強く握りしめた。それはやすやすと奴らのなぶりものになるつもりなど一厘もないという、強烈な意志の現れそのものなのだった。
細く暗い道を、そうして二つの小さな影は手に手を取り合って懸命に駆け抜けて行く。
――昼間だというのに人っ子一人いない、うら寂しい街路のただ中を。
◇
かくて眼前で繰り広げられた緊急事態に、周囲の人々はしばし声を失っていた。もちろんそれははたしてこれから何が起こるのか、おしなべてはっきりわきまえているがゆえのものである。
何せ、怒り狂わせた相手が相手なのだ。
どんな事情があるにせよ、とにかく町を我が物顔で闊歩するあの猟兵隊に手を出すなど無謀そのもの、命がいくつあっても足りない行為。
賞賛の気はあれど、とてもおいそれと真似できるものではない。
むろん通りの端、細道の横合いに立つその黒髪の女性も、子供たちの行方が気がかりなのか、ずっとしげしげと彼らが消えていった方向を見つめていたのだった。あるいはそれは憐憫か同情か、その厳しめの表情が変わることは一厘もなく――。
「どうする?」
と、そんな彼女の隣から声をかけてくる、一人の青年があった。冷静で慌てた様子のまるでない声音。といっても決して冷たいわけではなく、どことなく気遣わしさのある感じだ。
どうやら彼は相棒らしく、彼女はさも当たり前の動きで振り返る。
「どうするって、そりゃ決まってるじゃない」
「……」
「幼い子供を見殺しにするわけ?」
きらり、その黒い瞳に宿る大胆かつ不敵な光。その一言は青年にとっても予想通りの反応だったと見え、特に反論らしきものが返ることもなかった。もっとも代わりにと言うべきか、小さく溜息に似たものは吐いたのだが。
「――そう言うだろうと思った」
「なら話は早い。さあ、そろそろ行くわよ!」
半ば諦め気味の青年に、女性が威勢よく発破をかける。南方系だろうか、赤銅色の肌が目に眩しい。
「まるきり報酬外の仕事だけどね!」
瞬間、何のためらいもなく飛影のごとくその身体が敏捷に動き、すかさず相棒もその背中を追いかけていた。隣にいた何人かの市民が、突然のことに思わず目を丸くする。
三人組が駆け去ってからおよそ三分後、路上に立つ残りの猟兵隊が北の方に視線を向けた僅かな間を突く、あまりに見事なタイミング。連中は彼女らの身体がさっと横道へ吸いこまれていったのにもまったく気づかなかったようだ。
それは偶然でも何でもなく、まさにこういう行動にしごく慣れた者の巧みな身のこなしとしか考えられない――。
すなわちそのすばやさたるや、まるで狩りに挑む二匹の猫を彷彿とさせるものだったのである。