-Chapter4-
-Chapter4-
悪夢……とは呼びたくないが、適当な言葉が見つからない。
ともかく、身体が布団から離れない朝を迎えた。
ニュースをチェックする間も無く、いつもより時間に追われる朝。
朝食も取らずに家を出る。
職場に着くなりボケっとしていたのだろう。
組織長が私を見て、目を瞑ったまま俯きがてらに、鼻で溜息をつく。
私は契約者のリストを眺めながら……
いや、今日は受け持ったエリアのポスティング活動にしよう。
ポスティング用の商材を紙袋に押し込み、そそくさとオフィスから逃げ出す。
……さて、もう昼だ。あらかた回った所で足も疲れてきた。
私の持つエリアは何ヵ所かあるが、ここらを選んだのには理由があった。
例の如く喫茶店に逃げ込むためだ。
少しだけ歩くことになるが、それ以上に心を静かな場所に置きたかった。
扉を開けるとカランカラン、と少し喧しいドアベル。
「いらっしゃ……あ、千紗ちゃん。」
いつも通り、愛らしい看板娘が迎えてくれる。
この店には私の「指定席」がある。店の一番奥、トイレから一番近い席。
店内を一望でき、カウンターで懸命に働く看板娘を眺めていられる。
腰を下ろすと彼女がお冷を持ってきてくれた。
一応、メニューを取るが、ページをめくる前に紅茶を頼む。
……ああいや、朝を食べ損ねたんだった。
パッと目に付いたサンドイッチのセットにしてもらった。
「……珍しいね?」
朝を逃したことを端的に伝え、注文を通してもらう。
軽くなった紙袋の中身を確認しながらボーッと時間をやり過ごす。
ああ、出来る事ならそのまま、無為な時間であって欲しかった。
ふ、と目線を上げなければよかった。
喫茶「Carroll」にはトイレとは別にもう二つのドアがある。
一つはカウンターの中。きっと食材やら珈琲豆やら茶葉のストックのある場所。
そしてもう一つは、入り口を入って左手、カウンターのすぐ横手にある。
マスターが出てくるのはいつもそのドアだった。
贔屓にしている私にも、中がどうなっているかを知らない。
きっと店におけるプライベートな空間に繋がっているドア。
そこから、マスターと共に――
優木瞳が出てきた。
一気に思考が止まる。
彼女から逃げてきたはずなのに。
いや逃げてきたなんて言い方はしたくないのに。
泳いだ目は私の頭と同期しているようだった。
グルグルと回っては止まりを繰り返す。
……優木瞳は気付かなかった。
彼女の虚ろな目は奥の席なんて見向きもしない。
自分の妙な拘りに救われる日が来るなんて思いもよらなかった。
虚ろな目。……いや、なんだ?
彼女は異様な空気を纏っていた。
とても身重な女性が持つものではない。
話しかけなければ!
そう思わないこともないが、私は自分が可愛くなってしまった。
きっと人から見れば、それはそれは露骨に。肩をすくめてなるべく存在を小さくした。
もちろんのこと、気まずさはあった。
ただそれだけではない。彼女の一挙手一投足に身が凍った。
意味不明な恐怖を感じた。
「……千紗ちゃん?」
一瞬の出来事をどれくらい反芻していたのか。
とっくのとうに彼女は店を出ていたのに。
看板娘は私の注文通りに全ての工程を終え、一式を配膳しに来たのに。
時が吹き飛んだようだった。
「あっ、あ、……ありがとう。」
自分の絞り出した言葉が拙すぎて、ようやっと我に返った。
「あの、さ……リズちゃん。」
自分でも、なぜ彼女に聞こうと思ったのか、わからない。
直前の混乱に思考が麻痺していたのか、喫茶店という特性上噂話に詳しいと思ったのか。
ともかく私の直感と瞬発力はとっさに言葉を打ち出していた。
「リズちゃん、白ウサギ、って知ってる?」
沈黙。
確かに、私はおかしなタイミングで妙な質問をした。
ただ、なんだ……?
沈黙の毛色は「意味不明」や「空気が読めない」という類のそれではなかった。
「な、なんで?千紗ちゃん、なんで……?」
何故だ。何故彼女が狼狽えている?
まさか彼女が白ウサギ?
「何か知ってるなら教えて!お願い。どうしても知りたいの。」
押せ。ともかく押せ。
彼女がそうだとしても、違っても必ず何かを知っている。
「ね、そんなこと、言わないで……」
「リズちゃん。」
私は彼女の名前を呼んだ。
空気を止めるには十二分だった。
きっとこんなに真剣に彼女の名前を呼んだことはない。
ああ、どうしてそんな顔をするの。
愛らしい看板娘は、物悲しそうな表情で私をみる。
ついこの間も似たような顔をみた。
悲痛な訴えが聞こえてきそうな顔。
「……ビル。」
少し間を置いて、彼女は答える。
「駅前第二、マザーハートビル。」
なるほど。そこに白ウサギがいるのか。
腹が減っていたのもある。
サンドイッチはみるみると消えた。
いつもより甘くした紅茶は頭の霧を晴らしてくれた。
……よし、向かってみようじゃないか。
「……千紗ちゃん!
あの、えと……また、来てね。」
彼女が何かを知っていたとしても、素直な言葉は私を想ってのものだと解った。
「ありがとう。行ってみるね!」
心は張り詰めていたが、表情は緩んだ。
彼女に笑顔を投げかけて、店をあとにする。