第38話・生まれた瞬間から悪い人なんて
(アイク)
寝室に帰って、布団に身体を預けた。畳の匂いに包まれているはずなのに、あの血の臭いが鮮烈に鼻に焼きついて、もう一時間半はゆうに経った。眠る気になれずに、スマホをいじっていたら、つい先ほどルイから連絡があった。
『傷口に、ほんの僅かだがディランの魔力波に似たものが残っている』
と。なかなか衝撃的な進展だ。であれば、あの影はディランだったのか? いや、しかしルイは、『猫魔導士の特徴を有した魔力波も、同時に残っている』とも言った。ぱっと見複数犯には見えなかったが……、その可能性も示唆されているということか? わからない。私が考えても、私はそもそも魔学について何の知識も有していない。力にはなれないのが、現状だろう。
ディラン、か。その名を聞くと今なお惑う。私が幼いころから、誕生日にはホールケーキを用意してくれたディラン。双六の楽しさを、教えてくれたディラン。ユーリに積極的に本を貸しては、議論の相手をしてやってくれたディラン。またサイコロ賭博場でスッたよと笑いながら、渋々城の仕事にとりかかるディラン。合間にこっそり飴をくれたあのときの優しい笑みは、今も鮮烈に覚えている。
「……王子様、眠れなさそうですね。そりゃそうですよね、怖い事件が起きたんだから」
「メル……」
自身も休み前の支度をし、浴衣姿になったメルが笑った。私に湯呑みを差し出しながら。
「お嬢様から連絡があって、王子様に梅昆布茶を出してほしいと頼まれまして。……私でよかったら、お話相手になりましょうか?」
「……ありがとう」
枕元のランプを消して、障子を開けて、ベランダからヒスイ谷の里の景色を眺めた。星は輝き、提灯はともり、風情のある景観が広がっている。
「……事件そのものも、そうなのだが。……大陸を脅かす一連の事件に、そして今回の連続辻斬り事件にも。……私と親しかった者が、関与している可能性が高くてね」
「そうなのですか。……王子様にとって、大切な方だったんですね」
「ああ。色んなことを知っている知識人で、窓を横切る鳥の名も、手をつないで出かけた散歩の先で見た花や虫の名も、見上げた空に広がる雲の名も、すぐに教えてくれたよ。子供が大好きで、私を高い高いしては、『いつか私より大きくなるんだね』と、切なげに笑っていたのを覚えている」
「そうなんですね」
「……私の弟は、昔は内向的で人見知りな性格だったのだが、あの人は弟を笑わせようと、果敢に挑戦していたよ。普段の威厳なんてどこへやら、変な顔をしてみたり、即席のギャグ漫画を描いてみたり、しまいには大好きなサイコロ賭博でせっかく勝った金で、男児ならぜったい喜びそうなロボットの玩具を買ってきたりして。弟は頑として笑わなかったが、あの人はそれでも、満足そうな顔をしていた。サイコロと子供は、私の生き甲斐だと言っていた。……それなのに」
メルが察したように手を合わせて、おずおずと言った。
「……到着された日、私に仰っていた、サイコロ好きの方って」
「……そうだ。君も新聞か何かで、もう知っているだろう。城の識者を皆殺しにした者の名を」
「……ディラン」
手伝いの少女には、少し荷の重い話をしてしまったか? 反応に困ってしまうだろうか、申し訳ないことだ。……いや、しかし、メルは困った顔をしていないな。この件について真剣に考え、何か私に気付きを与えられることはないかと、本気で悩んでいるような顔つきだ。……そうか、メルは学者を目指す、聡明な少女。私などの想像を、たやすく超えるのだな。
「その動機も、あろうことかただの知的好奇心のようなものだった。そのような軽薄な感情で、あの優しい人が、たやすく凶行へ走る。いや、優しいなんていうのは、私の思い込みなのだろうがね。そう思いたい……だけなのだろうが」
「……王子様、生まれた瞬間から悪い人なんてね。この世界にはそうそういないと思いませんか?」
ポニーテールをほどいたメルの目は真剣だ。月明りの中、淡く光っている。
「私の勝手な想像ですが……、ディランも迷ったかもしれませんよ? 私も学者を志す者だからわかりますが、王子様のお言葉を、少し訂正したく思います。『ただの』知的好奇心ではない。何かを学ぶ者にとって……知的好奇心とは、それほどまでに重い感情なのではないでしょうか?」
「……なるほど、一理ある」
「大好きなサイコロ賭博で得たお金を、たやすく子供のために使える彼もまた、真実だったのではないでしょうか。いえ、あくまで想像なので、本当のところはわかりませんけどね。学者肌の人って、えてして過剰に純真なんですよね。偉い人の書いた本を読んでると、ほんとそんな人ばっかりで嫌になったり。えへへ」
幼さの残るその笑みには、たしかに聡明さが宿っている。そうだ、メルは懐かしい。優しく私たちを導き、勉強を教えてくれた、城付きの識者の皆……今は亡き彼らのような顔つきをしている。きっと彼女なら、彼らの次代を担う、優秀な城のブレーンになれるはずだ。
「自分がサイコロと同じように愛した子供を、裏切ってまで自分の目的に、非情な知的好奇心に殉じるべきか。あの人がそれを悩んだかもしれないと思うと……、なんとなく、切ない気持ちにならざるをえない。いや、それにしても彼を討つことは私の本望、迷いはないのだけどね」
「考え抜いた末に、結果的に世界と対立した。ニュートラルな目線で見ると、そういうことなのかもしれませんね……?」
メルが項垂れて、冷えた指先に白い吐息を当てた。ヒスイ谷の冬の寒さは、あまりに厳しい。ヒートⅠのかかった浴衣を着ていても、なお。
「正しさとは何なのか、本当はこの世の誰も知りません。けれど、お嬢様も王子様も、正しくあろうとする方とお見受けします。そのご意思、尊いものだと思います。でも、それが世界の全てでないことも、また事実なんじゃないかと……本を読んでいると思うことがあるんです。そう、誰が正しいのか……誰も教えてくれない。どこにも書いていない。だから、学者って夢に縋るまで、私も不安でいっぱいだった。貧しい少女にとって、それは寄る辺だった」
「……その通りだ。鋭い指摘だ」
「……でも、だからって、罪のない人を殺したり、人の幸せな生活を奪うことは、許されてはならないこと。それがまかり通る世界になれば、さらなる悲劇を招く。それは望ましいことではないと思います。だから、お嬢様と王子様には、相手と親しかったとか思い出があったとか取っ払って、自分の正義を安心して貫いて頂くことが、私の望みです。さすれば神様が自然と、審判を下して下さるはずです」
首を傾げてメルが笑った。派手さはないが、可憐で素朴な少女だ。思慮深さの伺えるその顔は、ルイほどではないが……なかなかに魅力的だ。いつか城でアカデミックドレスを纏い、化粧をすれば。きっと美しい猫の学者として、城の皆に歓迎されるだろう。
ルイはそれから間もなく、ひどく疲れた顔で帰った。これだけ長時間死体を調べたんだ、それはそうなる。あの神経の太く、心臓が毛で覆われたユーリでさえ、長い時間同志の死体を弄くり回せば疲れた顔をしていた。ルイはまともな心をした人間なんだから、なおのことだろう。
「ああ……もう血の臭いは嫌だ」
「お嬢様、大丈夫ですか? お茶お淹れしましょうか?」
「大丈夫だ。あの臭いを嗅いでからでも、必要な睡眠を取れる程度には精神を鍛えられている。睡眠不足による注意力低下は、死につながる。冒険者をやってきたんだ、慣れてるさ」
言葉少なに布団にくるまって、ルイは黙った。疲れているんだ、そっとしておくのがいい。私の無用な励ましなど邪魔なだけだ。もういい時間だし、私も寝なければ。心の整理はつかないが、彼女のように割り切らなければならない。死んだ猫の娘のことを思うと胸が痛いが、今日のところは眠るんだ。できるだけ、ルイの睡眠を邪魔しないように。
「……アイク」
十数分は経ったかというときに、突然ルイが喋って驚いた。並んで敷かれた布団に寝転んで、ルイがこちらを向いて、不安げに言った。
「……頭を撫でてくれ」
そうか、私は力になれるのか。……そっと布団から手を出して、ルイのしなやかな黒髪に触れた。頭を撫でれば、必然的に猫耳にも手が触れる。つやつやとして、触り心地がいい。ルイが喉を撫でられた飼い猫のような顔をして、こちらを見ている。これで少しでも、君の不安が癒えるのなら……君の心が安らぐのなら……。
「……ありがとう」
「ごろごろ言いそうな顔だな」
「……言ってたかもな。……お休み」
わずかに浮かんだ笑みは、一瞬のものだった。数分後には寝付いたであろうルイの寝息を、ただずっと、天井の木目が作る模様を見つめながら、じっと聞いていた。




