第35話・持て余した力の終着点
執務室を出ると、カナタの屋敷のエントランスで、オレンジのミニ丈着物を着たメルが手を振ってくれた。
「お疲れ様です! ……さぞかし難しい、真剣なお話だったんでしょうね。私と奥様が腕によりをかけたあっつあつのおじやで、お嬢様と王子様のお疲れを癒して差し上げましょう」
「助かる。メル、その腕に抱えたワー語の本は……?」
「お勉強ですよ。この屋敷に置いてあるものを、最近いくらか借りるんです。人生どんな場面においても、お勉強は大事ですから。お勉強は未来を切り開く。生きとし生ける者の、あまねく未来を! ……なんて言っちゃ、あはは、大袈裟ですかね」
「いや、大事なことだと思う。奉公で大変なのに、感心なもんだな」
「私もこんな、かわりのいっぱいいる仕事じゃなくて……いつかは王都へ行って、城付きの学者になる夢があります。……皆殺しの事件があったのは知っていますが、それを知っていてなお、ですよ。国立図書館に行ってみたいんです。王都の文化に触れ、学問について他の識者と語り合う時間。私の憧れですよ」
家に帰ると、風呂上りで髪をおろした母さんと、耳の先を濡らした父さんが、俺たちを出迎えた。
「お帰り、アイク王子、ルイ、メル。おじやできとるさかい、食べ? お風呂はその後でええやろ、腹ごなしにな」
「えぇ……、わ、私も良いんですか!?」
「僕らにとってはメルも家族だもんね、当然だよ。……また、随分難しそうなワー語の本を借りてきて。学者になりたいって夢を持っているからかな、メルは俄然輝いているね」
「えっへん、そうです。夢があれば、人はひた走っていけるのです」
メルが掘りごたつで細く柔らかそうな太腿をあたためながら、得意げな顔でおじやを頬張った。俺も頂いた。あつあつで、少し醤油とだしの味がして、野菜や魚介類のうまみが出ていて、何とも言えず頬のほころぶ味だ。
「そう、夢があれば。それが無かった頃の私は、目印を失って彷徨っていた。ただでさえ奉公に出されるような貧しい身、私に未来はあるのかって悩んだりもした。けど奥様や旦那様はよくして下さるし、そのお優しい気持ちに甘えて、仕事の合間に勉強して。今までの人生で、怖かったとき、寂しかったとき、悲しかったとき。私を救ってくれたのは、いつだって本でした。本は私を前向きにしてくれるし、どんなことも恐れない気持ちを育ててくれるんです!」
「……メルと似たような境遇から、城付きの学者になった人物も、私は知っているよ。城の小間使いとして、ほんの少年のころに拾われて……厳しい労働環境の中、テストを受けて国立図書館への入館資格を得、寝る間も惜しんで数々の本を読み、見事城付きの識者となった人物を」
「へえ、そんな感心な人物が、識者の中にいたのかよ」
「……サイコロが好きだったという。理に適った幾何学的なものが、この世の条理に沿って転がるさまが……何より美しいと、私に話しかけてくれた」
もしかしなくてもディランじゃねぇか。アイクにも、相当複雑な気持ちがあるんだな、ディランに対して。城に幽閉されたアイクにとって、家族同然だった人物。その真意を知りたいのもあって、お前はこの里まではるばる旅をしたのか?
「そうですか。……そんな苦労をなさって学者になったのに、悪い人に殺されちゃっただなんて悲しいことですね。……サイコロは、私も好きですよ。見てると、すーっと心が軽くなります。誰にも邪魔されない、誰にも脅かされない、この世の真理によって転がる。そこに善も悪も陰も明も、介入する余地はない。きっと物理の本をひととおり読んだ人間なら、誰でもそう思うんじゃないかなって、私は思いますね。その方の墓前には、好きだったサイコロを置いてあげてください」
「好きすぎてサイコロ賭博に走って、折角潤沢になった収入を、けっこうスッたらしいけどね。……メルの優しい気持ち、……その人は知る由もないのだろうね」
「どういうことですか?」
「……いや、何でもない。私にも、あの人物がいまだに……よくわからないよ」
メルは事情を知らない。ただの手伝いの者に、これ以上を説明する理由はねえ。だが、アイク……お前はやはり、ディランのことを気にかけて……。
「オジヤ、ご馳走様でした。大変素晴らしい一品だった」
「喜んでくれて嬉しいわぁ、アイク王子リクエストの、うどんすきのレシピも書いておいたで。お城でもぜひ食べてぇな」
「有難うございます。料理は大好きなので、知らなかったメニューを前にすると胸が高鳴って……! 王都に帰ったら、ぜひ私のアカウントでお母様に感謝の気持ちを添えて、写真を公開したく思います」
「映え系やって噂は本当やってんね。可愛い王子様やこと」
「おい、公開するには気持ち悪ぃキメラの化け物を倒さなきゃならねえんだぜ、忘れるな」
「わかっているよ……。彼が今頃そんな存在になってしまっていると思うと、なんとも複雑な気分だ」
父さんが夕食後の一杯を傾けている。俺も米で作られたヒスイ酒をお猪口に注いで頂いた。ヒナギク荘で、ミルカにお酌されて以来か。アイクが興味深そうに覗くので、揶揄いもかねて差し出してみた。
「飲むか?」
「へ!? いや、私は未成年で」
「忘れたのか。今日二十歳になっただろう」
「そうだった……」
お前にはさぞかし荷の重い酒だぜ。さて、どんな反応をするかな?
「……人生初の飲酒は、カシオレと心に決めていたんだがな。だがしかし、ルイとの口移しであれば、癖の強いと評判のヒスイ酒にも果敢に挑戦せねば」
「気持ち悪い理由だな」
「引っ込めないでくれ。一口頂く」
俺からお猪口を奪って、一口含んだあとアイクは噎せた。
「……けほ。……鮮烈な味だ。アルコールの匂いで噎せ返りそう」
「慣れれば水のようなものなんだけどね。初心者にヒスイ酒は、少し一足飛びだね」
「お風呂と、それからお二階にお布団のご準備、できていますよ」
「有難う、メル」
アイクが口直しのお茶を含みながらメルに言った。
「ルイ、アイク王子。今日はうちにお風呂沸いとるけど、明日以降、ヒスイ谷の源泉かけ流しにでも浸かってきたらどうや? 何や結構長い間、里に滞在するゆう話を、カナタから聞いとるで。移動も疲れたやろし、リフレッシュにええんちゃうか」
「そういえば、ヒスイ谷には温泉が湧いていると聞いたことが。私は王都からろくに離れたことがないゆえ、温泉に入ったことはないのです。ぜひ楽しませて頂こうかな」
「待て待て! 母さん、アイクを揶揄うのはやめてやれ」
「何や、ルイ。彼氏なんちゃうん。何を恥じらうことがあるねん」
「どういうことだ、ルイ? 何か恥じらう要素が、温泉にあるのか?」
「馬鹿野郎、ヒスイ谷の源泉かけ流しスーパービュー大露天風呂はな!」
「こ・ん・よ・く! なんですよ、王子様!」
メル、楽しそうな顔で口挟みやがって……!
「こ・ん・よ・く……」
「涎垂らすな、アイク! 他の女の身体に見惚れたら承知しねぇぞ。まあみんなタオル巻いてるんだが」
「星空の下もええし、おひさまの下もおつや。滞在中、楽しむとええよ」
ヒスイ谷に住んでる奴らは入り慣れてるのと、家に引いてる奴も多いから、あんまり頻繁に大浴場には来ないがな。たまにおじいちゃんとかおばあちゃんが浸かってるイメージはあるが。
取り敢えず今日のところは、風呂に入って眠ることにした。長い移動が終わって一息、決戦までは今のところ、少しばかり時間がある。アイクへの誕生日プレゼントを、考えなきゃなんねぇな。……王都ではいくらでもプレゼントを仕入れるあてがあるが、ヒスイ谷みたいな辺境じゃ、なかなかな。
二階の寝室には、畳のいい匂いが溢れかえっている。布団はふかふかで、あたたかい。幼い頃眠っていた、ほとんど布切れのような敷布団によれよれの毛布……みたいな寝床を思い出すと、泣けるくらいの変化だな。俺が命をかけてきた仕事には、これだけの価値があったのか。俺に力があったのは、幸福なことだったのか? 余りそう捉えたことがなかったが、もし俺になんの力もなければ、両親も俺も、今もなおあの頃と似たような暮らしで……結果的に、ヒスイ谷の里長が代替わりする切っ掛けも生まれなかった。俺一人の存在が、ヒスイ谷全体に、意図せず影響を及ぼしている。それは同時に、恐ろしいことでもあるが……、少しくらいは、誇ったって構わねえのかな? 俺の持て余すこの力を。




