第31話・二人の単細胞が、生んだ犠牲者
(ユーリ)
「ユーリ、『ユニコーンの角における魔毒物中和の実例集』返しにきたよ」
アリスが最近、一切の遠慮をすることなく俺の部屋を訪れては、暇だからと本を攫っていく。まあ、俺一人にコレクションされているより、興味を持つ人間に読んでもらうほうが本も幸せだと思うし、貸すのをやめようとは思わないけどね。
「……王室に一人残され、愛する彼は意中の女と二人旅。君はさしずめ、その鬱憤でも紛らしているのかな?」
「笑うな、黙れ。君に口を出されることじゃない。クリスマスイブといい、君はお呼びじゃないんだよ。これはアイクと僕と猫ちゃんの問題なんだよ。君は関係ない。興味本位で人の失恋に口を挟むな」
「失恋だとわかっているんじゃないの。うんうん、アリスは思ったより潔いね。本は左から二番目の棚の、上から二段目に仕舞っておいて」
アリスは自分の負け戦に気付いている。それはもう随分前からだけどさ。今頃ルイと兄上が、どんな幸せな時間を過ごしているか気付いている。彼らが発ってから、五日が経つ。居ても立ってもいられない気分なんだろう、君は。終わった恋を捨てられず、残されたかりそめの『王族』の私室で、屈辱に泣き伏したい気持ちなんだろう。
「マジで本だらけの部屋だよね。本と結婚してんのかって位。ベッドの上まで本で溢れてるしさ……。人のこと潔いとか潔くないとかいう前に、自分も舞台に上がって、恋のひとつでもして、部屋に女呼べば?」
「生憎、リヒト・フリューゲルでひととおりの青春は味わったよ。それはもう魅惑的だった。バニーガールパブ男なんて呼んでくるくらいだ、俺の悪評は、きちんと耳にしてるかと思ったけど。キャロルを連れて会ったことも、一度なかったっけ? ルビーマウンテンの君の母校と、中間地点のクォーツ村で交流授業をしたよね」
キャロルは第三十七代ミス・リヒト・フリューゲル。一瞬だけ俺の彼女だった。一緒に過ごしたわずかな時間、学生寮の部屋に瓶を置いて、いっしょに砂糖をまぶしたみぞれのソーダ飴と苺飴を入れて、その輝きをふたりでずっと見ていた。とりとめのないことを話しながら。
「……それは『君の部屋』じゃない。君は戦っているようで戦っていない。『自分の部屋』には、誰一人呼び寄せない。女との部屋へ出かけていきはするけど、そのアバターに実体を伴っていない。女の子といるときの君は、いつだってよく笑う幽霊だ。饒舌な幽霊が街を彷徨っている」
「……アリスは体当たりをしてるよね、いつだって。その胆力は尊敬するよ。正面衝突を恐れない。それによって自分が粉々になることを恐れなかったから、ここまで来れたんだろう。ただ、あと一押しが足りなかったね。我儘で残酷な兄上の意思を、大事にしすぎた」
アリスが埃と本だらけの部屋で、泣きそうな顔をしている。目に入ったとでも誤魔化す余地はあるよ。まあ、それをしないのが君なんだろうけど。
「だって、アイクが望む未来は、僕の望む未来であるべきなんだ。大好きな人の望む未来を、僕がどこまで邪魔していいのか、距離感をはかり違えた。迷ってたんだ。僕を妃にして歩むアイクの人生は、アイクが幸せになれる人生じゃないんだもん。ずっと自分の中の大事なものを見殺しにして、国の生贄になる人生だったんだもん。そんなの、心から望めるわけないじゃん」
「わかるよ、その気持ち。そいつが望む未来なら、そうさせるのが合理的な判断なんだ。そこにそいつへの好意がある限り。でもまあ、思うようにはいかないよね。人間はそういう不合理な構造をしてるんだ。もう戻ってこないことを、喜んでやるべきらしいのに、ちっともそっちに心が動かないんだよね。気がついたら、子供みたいに『つまんないの』とでも呟いてそう」
「……そう。やけに世話を焼くと思ったら、君はどうやら猫派だったんだね」
「いや、俺は犬の方が好きだよ。幼い頃王室で、シベリアンハスキーを飼ってたんだ。レオンって名前でね。もふもふで可愛くて、大きいから当時の俺には頼りがいもあった。最高だよね、犬のお腹に顔を軽くうずめたときの、あのもふもふぽよぽよした感触!」
「……誤魔化してばかりの、つまんない男」
人の魔生物用本棚を興味深そうに物色するその横顔は、どこか青白い。この部屋が若干薄暗いことを抜きにしても、少し心配な色だ。兄上、君の幸せの代償はこれだ。わかっているなら、帰還後この女性を、きちんと納得させてあげてくれるよね? 兄上の優しさゆえに誰より兄上に傷付けられたこの女性を、救ってはくれるんだよね?
「誤解だよ。俺はルイに、アリスが兄上に抱くような感情は抱いていない。単にいい友達だった。今までにないタイプの友人だったし、少なくともちょっと前までは、俺に猫じゃらしとして、一定の興味を示してくれていたんだ。いや、示していると、そう思い込みたかったのかな、俺は? ……わからないね」
「君は意地でも、『わからない』という言葉を使いたがらない人間かと思っていたけど、そうでもないんだ」
「『わからない』は『わかった』の母なんだ。それを忘れない限り、どのようなテストでもたやすく満点を取れる」
「それは天才の論理でしょ……。普通はわからないまま終わるものだよ。僕はこう見えて真面目なたちだから、諦めずに勉強したけど。それでも投げ出したい課題は数多い」
「……確かに、一理ある。あの単純なはずの猫ちゃんの心が、たやすくわかると驕ってたのかな? 俺は」
「聞かれても。その答えはユーリの中にあるでしょ。僕も、アイクの心を誰よりよくわかってると自負してる。でも、それは驕りかもしれない。答えは僕の中にしかない。で、それが見えたとしても、僕は既に負け確。今頃僕の友人は……優しい猫ちゃんは、女にでもなったのかな」
ルイのその単細胞な優しさが、さらにアリスを混乱させている。今そうして本棚に迷い箸する手が、未来に触れることを恐れている。君は次にはどの本を読むだろう。ケット・シーの伝説でも読み始めるのかな? あの女性の単細胞な美しさのルーツでも、探りに?
「次、これ借りるね。『ヘルハウンドと悠久のヘカテー』」
「古典小説ときたか……。しかもそんな情報量の多いの。いいよ、持っていきな。二十三冊マラソンだよ」
「アイクのあの美しく輝くいとしい笑みを……、一瞬でも忘れられるなら、いくらでも読んでやるよ! ぐす……」
「ああ、兄上は本当にダメな男だよ。俺みたいな人でなしが言うのもなんだけど、美人を泣かせる奴は殴り倒したい」
「ぐす、それ最初に自分で自分を殴り倒すパターンじゃん。あと、僕を美人だと認識してくれてたんだね。てっきりジャガイモか何かに見えてるのかと」
「顔の美醜については、世の中に沿った価値観を持ってると思うよ。君の場合、心に毒が強すぎるきらいがあるから、そう見えない瞬間も存在するけど」
「惚れ薬の話? ふん、懐かしいね。……慰めてくれてありがとう。読み終わったら返しにくるね」
大量の本を大きすぎる手提げ袋に入れて、アリスは笑った。確かに美しい。女性としてタイプじゃないから心は動かされないけど、美しいのはたしかだ。今のうちに兄上から逃げれば、君は傷付くことを回避できる。王室を自らの意思で去って、誰かいい男性を見つければ、君を傷付ける兄上から、きっと護ってもらえる。……その望みを捨ててまで、君は兄上を待つのか。本当に、解せない話だよ。あんな頭の悪くて……当たり前程度にだけ優しくて……多くを考えられない凡庸な男に、そこまでさせられるとはね。
俺も新しいスペル入れを買えば、きっと失望しなくてすむ。こんな可愛い、素朴な、あたたかいスペル入れじゃなくて、もっと凡庸で、高級で、あたりさわりのないスペル入れを買えば。そう、アリスと同じだ。どうして今すぐにそれをしないんだろう? それが合理的でないと知っていながら。
「じゃ、またね。部屋、もう少し明るくした方がいいよ。視力壊滅しないようにね」
アリスが部屋から去って、ふたたび静寂がこの部屋を支配した。ランプの明かりで、国立図書館から借りてきた本にまた目を落とすことにした。部屋の明かりについては、もう遅いよ。どぎついコンタクトレンズを入れている。視力の著しい低下なんて、フリュ友はみんな履修済みさ。ミルカちゃんだって、普段は眼鏡をかけていると聞くしね。
兄上、明日は君の二十歳の誕生日だったか。あの女、ひとりでホールケーキを前に泣き笑いかねないよ。そんなことつゆ知らずといったように、当たり前のように、君は素知らぬ顔で英雄の太刀持ちとなるのかい?




