第26話・どの教科書にも書いていない
あまり眠くない。昨日もあまり眠れなかった。意識が高揚しているのだろうか?
しょうがないので暇つぶしだ。遅くまで頑張っているであろうユーリのために、給湯室で紅茶を淹れ、ボトルにつめた。
あれは今でこそ、出会う人出会う人ににこにこ話しかけるが……昔はお世辞にも、外交的な子とは言い難かった。私が積み木遊びを提案しようが鬼ごっこを提案しようが、平坦な表情を変えずに『本読んでるから』と繰り返すような子だった。そもそもが見た目の真っ白な子。異端者の空気を身体から放つユーリは、私と違い城の職員の子たちと、遊んだりもしなかった。皆が『ユーリ様って変わった子』と噂するのを、私は何度も聞いた。『なんで白いの?』と揶揄い交じりに訊かれ、『知りたかったら、少しは真面目に読書するといい』と嫌味を返し、本を手放さぬユーリの姿も見た。
だからリヒト・フリューゲルに留学すると決まった時、私は心配したものだ。あんな人当たりの悪く他人に興味を示さない子は、絶対に馴染めない。孤独な思いをする。そう確信していた。今では懐かしい話だが。余談だが、ユーリのあの容貌は、リヒト・フリューゲルの仲間達にたいへん好かれたらしい。珍しい物好きの秀才たちには、しごく優秀な異端者は眩しかった。そんな中、少しは我が弟の心も解れたのではないかと、そう推察する。
四階の実験室には、相も変わらず死臭が漂う。ただ、検体にはブルーシートがかけられていて、その姿を目にすることは辛うじて回避できた。ちょうどユーリも休憩中だったらしい。
「兄上? ……どうしてここに」
「紅茶を淹れてきた」
「いいのに。死臭すら怖いくせにさ。……ありがとう。そうして、俺みたいな弟にも、せかせか世話を焼きたがるんだよなぁ、兄上は。小さいころから、うざったくてうざったくて。だけど紅茶は素直に有難い」
「私は元来、世話好きだからね。王子として世話を焼かれるのは、逆に性分としては合わないよ。ユーリとは今も昔も分かり合えないが、仮にも肉親だ。少しでも、君のその頑丈に施錠された心に、踏み込みたいじゃないか」
ユーリがボトルに口をつけて、クォーツ村のアールグレイだね、と言った。無論正解だ。
「最近はそうでもないよ。いい加減、兄上の中の俺をアップデートしたらどうなの。兄上がさ、頑張って殻を破ろうとしてる姿……それを固唾をのんで見守るアリスとルイの、思惑の交差。手の届くところだけでも、こんな面白いドラマが転がっている。鍵を開けた扉から覗いて、役者の一人になれないかと画策しているよ」
「それは嬉しいことだ。十八年間、君がわからないままの私にとっては」
「……今までの父上に似た気配を、兄上に感じる。恐らくこれが、王家の紋章の気配なんだろう」
知識として知っているのか、あの間で起こった出来事を。
「王家の紋章の効果は、例えるとするならば兄上のもとの戦闘能力に、掛け算をするようなものだ。兄上がもがいて掴んだ実力があっての、王家の紋章の恩恵。だから、頑張った甲斐はあったんだよ。今の兄上には、もう俺は到底敵わないんだろうね。複雑な気分」
私も王子として、もう少し知っておくべきだったのか? それともただ単に、ユーリの読書好きが異様なだけか?
「……ルイのことが心配だったのは、さっき言った通り。あれは不可解な命題を俺に投げかけた奴だから。……けど、この紅茶を飲んじゃうと、なぁ。今度は兄上のことが心配になってきて。カフェインと合わさってますます、今夜は眠れそうにもない」
「ああ、夜なのにカフェイン悪かった。ただ君はどうせ徹夜するつもりなんだろう、昔から完徹癖があるからね、君」
「無論。国難にあるところこう言うのもなんだが、魔物を弄くり回すのは決してつまらなくはない。……兄上、俺に何が言える訳でもないし、こういう時何て言えばいいのか、何かが足りてない俺にはわからないんだけど」
ユーリが私の目を見た。いつになく真面目で、かつ奥に光が灯っている。
「兄上が死んだら、俺は悲しい。兄上がルイと無事に帰ってきてくれたら、俺は嬉しい。……それは確かだ。だから兄上の無事を祈ってる。そして信じてる」
「……はは、まだ私がルイの同伴者となれると、決まった訳じゃないんだがね。だが……有難く受け取っておくよ。ユーリが心からそう言ってくれる日が来たというだけで、同じ家の屋根の下に、生まれてきてよかったじゃないか」
「兄上に鬼ごっこを迫られながら、頑なに本を読んでいたあのころ……よく本の中に登場する、愛という言葉が、どうしても理解できなかった。母上が『愛してるよ』と撫でてくれるたびに、疑問はつのった。リヒト・フリューゲルに行ってから、教科書の隅々まで読んで、愛の意味を探したけど、誰もよくわかる解説をつけられない。ひょっとしてミス・リヒト・フリューゲルの中に愛はあるのかと思ったけど、結局空っぽだった。でも今回城に帰ってきてさ。何のことはなく、自分の中にその種があったんだとわかった」
幼い頃、虚ろな目をしていた君とは違う。君は何かを切っ掛けに、大切なものを知ったんだ。
「俺は父上のことも母上のことも兄上のことも、愛する準備はできていたんだ。ただ種の存在に気付かず、植えるのを忘れていただけで。愛してる、兄上。だから絶対に死ぬな。かつ、ルイのことを、絶対に死なせるな。俺から餞別として言えるとすれば、そんなところだ」
「……君に……愛してると言われる日が来た」
なんか涙が出てきてしまった。弟からの愛の告白が嬉しい。ああ、私は私が思っていた以上に、隠れブラコンだったのだろう。幼いころから手を焼いたぶん、ユーリに今まさに愛されていると思うと……!
「なんだよ、噛みしめるなよ、気持ち悪い。……愛は手の届くところにあった。小さなスペル入れが、大きな命題の結論に近いものを導き出し、そして新たな命題をも生むんだ。俺はこの世界をなめていた。死ぬまでに、人間たちの生態の一端である『心』について、どれだけ理解を深められるだろう?」
「……腰から下げているスペル入れ……素敵だが、君の趣味にしちゃ可愛いね。汚れ防止か、わざわざシートをかけているのか。事情は知らないが、なにか大切なものなのかな」
「……俺の哲学をひっくり返そうとするものだ」
「そんな壮大なスペル入れなのか。そんな高価そうなものには見えないのに」
「人の人生は、露店のクリスマスグッズで、いとも簡単に変わりうるんだ。何はともあれ、兄上を応援している。兄上とルイが帰ってきた暁には……、もっと二人を愛す。それがどういうことか知りたいんだ。偽りなき笑みを……最近俺は、この手にしかけているんだ。……頑張ってくれ」
「……ああ、承知した。持てる限りの力をもってディランを下し、ルイと共に王都へ凱旋する。それを約束するよ」
「小指まで絡めてほしい」
「勿論だ」
絡めたあと、私はもう眠ろうかと考えた。いや、眠くはないのだが、明日ルイと共に父上の勅命を受けるであろうことを考えれば、早く眠っておいたほうが良いようにも感じる。四階の実験室を去り、七階の寝室に向かえば、今日も残党狩りでブラック労働を強いられていたであろうルイが、勝手に片方のベッドで爆睡している。お化けが怖いんじゃないのか、全く猫は気まぐれなのか、それとも余りの激務に苦しんでいるのか……。
ルイの寝顔は、麗しく無防備だ。唇を奪いそうになるのを理性で抑えたあと……寝相が悪いのか、布団から半分はみ出た身体を見て、なんとなく違和感を得た。部屋着がはだけてわかる、胸になにか布が巻いてある。……怪我をしているのだろうか。大変だな、強者は常に、怪我のリスクに付きまとわれる。それが本望という者もいるが……、もしも彼とヒスイ谷に行けるとするならば、ルイには傷ひとつ付けたくないものだ。ディラン相手に、どうなるかは未知数だが。
床に就き、意外とすぐに眠気はやってきた。なんだかんだで各地を練り歩いたんだ、気も張っていたし、疲れは蓄積されているのだろう。瞼が重くなってくる。……ルイの寝息が、すこし聞こえるな。黙って聞いていると、『あいく』と言った。私の夢を見ているのか?
『あいく。おひめさまだっこ』……。眠気の覚めそうなくらいの妙な寝言だ。いや、身体は疲れているから覚めはしないが……。気付いている、昨日はあんな風に茶化したが、ルイが男色であることには……既に……。同時に私自身も男色であることもまた……既に……。
『なでてくれ、あいく。いっしょにいる、あいく。ずっとはなれない』
……それが君の本心。ますます、ヒスイ谷へ君を護りに行く理由になった。ルイの寝言は、それなりおさまった。瞼が重くなるのを感じながら……許されぬ恋の果てに、ルイとの安寧があればいいのにと、現実離れした願望が胸によぎるのを感じる。二人きりの旅で、私とルイは何を話すだろう? 願わくば、束の間であっても人の目を逃れ、心おきなく愛を囁き合いたい……。そんな時間にしたって、ばちは当たらないだろう。




